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第四十三話 寧王殿下との婚儀


二か月後、姉媛羅(えんら)が婚姻して初めての茶会が、皇后陛下主催の元映月亭にて行われた。


映月閣(えいげつかく)に並んだ映月亭(えいげつてい)は、すっかりと新緑に囲まれ、初夏のさわやかな風が吹き抜ける心地よい季節になる。


皇后陛下は姉の為、母と私、蘇貴夫人や、茶の名人と言われた宰相の夫人、慶淵王の正室・沈貴夫人(しんきふじん)を招待していた。


皇后陛下はゆるりと杯を置くと、品のある笑みをたたえながら静かに口を開く。


「本日は、こうして皆様をお招きできましたこと、誠にうれしく存じます。こちらは、皇太子殿下の側室の凌家の令嬢・媛羅でございます。…どうぞお見知りおきくださいませ。

凌家は代々忠義に厚く、軍門を支えて来た由緒正しい家柄。殿下の将来を、支えるに相応(ふさわ)しき方と存じます。」


皇后の言葉に、夫人たちはそれぞれに微笑みを湛え黙礼する。

そして次に母と私が皆に一礼し、姉も優雅に一礼した。


茶会は和やかに始まり、皆それぞれ近況を話したりして、楽しい時間が過ぎていく。

会も半ばとなったころ、宰相夫人が、蘇貴夫人に寧王殿下の事を尋ねた。


「蘇貴夫人、凌夫人。寧王殿下の婚儀の日取りも決まられたとか。誠におめでとうございます」


その言葉に、隣に座っている母も一礼した。


寧王殿下との婚儀は、皇太子殿下と姉上の婚儀のあと、すぐに日取りが決められる。


父が言うには、「皇太子殿下の上奏文」を懸念された陛下が、皇太子殿下が正室を迎える前に、寧王殿下と私の婚儀を済ませたいと申されたからだ。


――あと三か月もすれば、私は寧王殿下の正式な正室となる。


「私も、本当に楽しみにしておりますの。凌雪はかわいらしいし、娘ができるのですもの」


そう言った蘇貴夫人に、母は合わせるようにして微笑んだ。


実は、母は私と皇太子殿下の事を知っている。


父が、数日様子がおかしい私の事を、心配のあまり母に相談してしまったらしい。

皇太子殿下と姉上の婚儀の夜、母は私の部屋へ来た。


あれは父に謝られ、泣きながら部屋に戻った日だ。


母は静かに部屋の扉を閉めると、穏やかな笑みを浮かべ、寝台の私の隣に腰を下ろす。


雪児(せつじ)


そう名前を呼び、優しく私を抱きしめてくれた。


「お父様も、心苦しい決断なのです…」


「わかっています」


「辛かったわね。何もしてあげられなくて…」


「私が悪いのです。何も知らずに、ただ自分の気持ちばかり考えていました」


そう言って涙をこぼした私に、母は胸から繍帕(しゅうば)を出しそっと拭ってくれる。


「人を愛するのに、悪い事など何もないのです。誰も悪くないのですよ。煊王(けんおう)殿下も、媛羅も、雪児も」


「母上…」


「ただそばに居るだけが愛ではなく、その幸せを願う事も、守ることも愛なのよ。形は違っても、皇太子殿下の為にできる事をしてあげましょう」


「皇太子殿下の為に…?」


「この時代の女子は、常に理不尽に晒されているわ。でもね、雪児。耐えるより、受け入れることが、己の幸せに繋がることもあるのですよ」


「受け入れる事…?」


「皇太子殿下が、ずっとお元気でいらっしゃることを願いましょう。そしていつしか、この国を支えられる立派な聖君になられることを願って…」


どれほど未練があろうと、泣いてばかりではいられない。

皇太子殿下の為に、自分にできることを探して

生きていかねば…。

――――母の言葉が、私の心に沁みていく…。




「…凌雪は、とても良い妃になりそうだ」


その時、蘇貴婦人のその言葉にハッとする。


すると沈貴婦人が、団扇(うちわ)を仰ぎながら皇后陛下に微笑んだ。


「これは、慶事が続きますね。側妃に皇孫がお生まれになれば、それもまた慶事になるかと」


その話を聞いて、宰相夫人が姉上に尋ねられた。


「側妃?皇太子殿下は、婚儀以来交宿(こうしゅく)を拒まれているとか。一体どうなされたのでしょうか」


「あら、それは本当?皇后陛下はご存知でしたの?」


蘇貴夫人が、その話を聞き皇后陛下に茶化す様に尋ねられる。

皇后陛下は、ちらりと姉上を横目で見ると小さなため息を一つついた。


「宮女の間では、専らの噂になっているそうよ。皇太子殿下は、それが不得手なのだと。」


「いやだ、はしたない。宰相夫人。」


そう言って宰相夫人と蘇貴夫人が笑っているのを、姉上は遮るように毅然として答えた。


「殿下は御公務が立て込んでおり、お忙しいのです。ですから日を決めず宿幸(しゅくこう)(部屋に来ること)されております。勝手な噂は慎んでいただきたい。」


そう言うと、なぜか私の方を睨みつけた。


「はしたないですよ…側夫人…。」

皇后陛下が隣の姉上を窘め、そっと手で静止する。


「ふふ……皇太子殿下は、新婚の熱も冷めやらぬようですね。」


姉上の言葉を受けて、宰相夫人は一応謝っているつもりらしいが、私はこんな話、耳をふさぎたくなる。皇太子殿下のそのような話は、冗談でも聞きたくなかった。


今は姉上の夫だと言う現実が、私の心にのしかかってくる…。

そう思うと、胸が張り裂けそうだ。

でも、それは仕方がない。

私が何を言おうと、決して変えられるものではないのだから…受け入れるしかないのだ。


「子なら寧王の方が、先かもしれぬ。」


蘇貴夫人が、微笑みながら横目で宰相夫人を見た。


「寧王殿下は、凌雪を溺愛していると(もっぱ)らの噂ですからね。蘇貴夫人も当てられているのでは?」


(せん)は凌雪に夢中で、何も見えておらぬ。私も聞いているのが恥ずかしいほどだ。」


蘇貴夫人は始終機嫌よく、寧王殿下の話を皆にして聞かせた。

宰相夫人も、宮中の噂話がとても楽しそうだ。


すると皇后陛下が、私に気を使い優しくお声を掛けてくれる。

もしかしたら、私の顔に気持ちが出ていたのかもしれない…。


「凌雪、嫁ぐ前にこのような話を聞かせてしまい、申し訳なかった」


「いえ…」


「宰相夫人も、蘇貴夫人も控えてほしい」


それに小さく頭を下げた宰相夫人は、私にも頭を下げにっこりと笑った。蘇貴夫人は、私にだけ小さく頭を下げ微笑む。


私はこの茶会で、姉上と寧王殿下への罪悪感で、押しつぶされそうな気持になっていた。

そして…皇太子殿下と姉上を、心から祝福できない自分にも…気が付いた…。




その後茶会は滞りなく終わり、姉上が、最後に母と私の所に挨拶にくる。


「母上、(せつ)、今日は来てくださり、感謝します」


「媛羅、元気にしているの?大変な事とかはない?」


母は心配そうに、姉に尋ねた。


「皇太子殿下に、ご寵愛を受けているので仕方がないのですが…隙を見つけてはお渡りに来られるので、それが少々疲れてしまって…」


そう言ってにっこりと微笑み、私の方を見る。


「でも、私はとても幸せです。皇太子殿下も、寧王殿下と凌雪の婚儀が早まってとてもお喜びになっていたのよ?(せつ)もきっと寧王殿下と幸せになれるわ」


姉上は綺麗になった。

この時も、金糸の刺繍が施された薄紅の衣裳を纏い、鳳凰の金簪を高く挿している。

その姿は華やかでありながら慎ましく、まさに皇太子の側妃にふさわしい気品を纏っていた。

誰よりも幸せそうに微笑まれ、私達を見送ってくれる…


皇太子殿下は、いつまでも煮え切らない私と違って、もうちゃんと前に進まれているのだ。

皇太子としてのお役目を立派に果たされて、姉上の事を大事にしている…。


私の事などもしかしたら、婚姻前の、一時の気の迷いだったのかもしれない。


けれど…ほんのわずかな日々だったとしても、私の中では特別だった。その日々のことも、皇太子殿下のことも。


決して忘れる事ができない、幸せな日々だった。


―――――それから三か月。

私の時間はあっという間に過ぎ、寧王殿下との婚儀の日を迎える。

場所は寧王府の正殿で行われた。


私が身にまとうのは、立派な緋紅繍羅(ひこうしゅうら)だ。

絹織りの上質な布には、鳳凰と牡丹が金糸で精密に刺繍され、一つ一つがまるで生きているかのように浮き上がっていた。


裾には雲を模した文様が波のように重なり、歩くたびに静かに揺れている。


帯には深緑の地に金糸が施され、天界と人界の契りを象徴する八宝紋が結ばれていた。

手元には、婚儀の誓いを象徴とする、『紅糸』が巻かれている。

これは未来の夫と心を結ぶ象徴として、衣の袖にしっかりと結ばれているものだ。


私は父と母に挨拶を済ませ、兄にも頭を下げる。

兄は涙ぐんでいたが、私もそれを見て、思わず泣いてしまった。


蘇璃は福丸を抱いて泣いていたが、とぼけた顔の福丸に思わず笑みがこぼれる。


―――朝霞の中、凌府の門が静かに開かれた。

赤絹の帳を垂らした花嫁馬車が、軋む音も儚く、緩やかに庭を進み出る。


門前には、両親と兄や凌家の者たちが一列に並び、私の門出を見守っていた。

私は紅の面紗をつけ、馬車へと乗り込む。


馬が軽く嘶いて、飾り紐に結ばれた赤い鈴が涼やかに一つ鳴り、花嫁馬車は凌府を出て石畳を静かに転がっていった。


父が私の名をさけぶ声が耳に届き、思わず後ろを振り向いたけれど、涙をこらえ、私は寧王府へと向かう。


寧王府の門の外には、紅と金の幕が高々と掲げられ、綾雲の様にたなびいていた。

通りには朱傘を掲げた小姓たちがずらりと並び、静かに頭を下げて、花嫁の輿を待っている。


到着すると、寧王殿下が正装で王府の正門にたち、金糸で龍紋を施された深紅の礼服に身を包んでいるのが見えた。


表情は穏やかだが、とても緊張しているように見える。


輿が止まり、寧王府の侍女たちが慎重に私の手を取り輿から下ろすと、寧王殿下は一歩進み深く頭を下げた。


「凌家のご息女を、寧王府へお迎えいたします。」


彼の声が響いた瞬間、周囲の者たちはいっせいに跪き、歓声を上げる代わりに、喜びを表す拍手を三度手のひらで打ち鳴らす。


来賓客には、宰相、丞相、李家の王族、公主、貴族夫人たちが名を連ね、そこには、皇太子殿下のお姿も見えた。


赤絨毯が敷かれた庭の先には、仮設の婚礼壇が設えられていて、壇上には赤い絹布が垂らされ、金香炉から立ち上る白い煙が、まるで天に祝詞を捧げるように揺れていた。


私がゆっくりと歩みを進めると、『紅糸』で結ばれた寧王殿下の手が、やがて壇上でこの手に重なり合う。


―――その瞬間、太鼓が三度なり、司令官が声を張った。


一拝天地(いちはいてんち)――!!」

私達は、ゆっくりと身を折り、天と地に礼を捧げる。


再拝高堂(さいはいこうどう)--!!」

夫婦交盞(ふうふこうさん),結髪為誓(けっぱついせい)―――!!」


赤い盃に満たされた香酒を、口につけ静かに交換し合う。

最後に盃が伏せられた時、婚礼の儀は粛々と終わりを迎えた。


皆に祝福され、拍手も歓声も華やかな中で、ふと私の面紗の下の視線が、皇太子殿下へ流れる。


久しぶりに見る殿下の顔は、少しお痩せになったように見えた。


姉上が、「御公務が忙しい」と言っていた。

和やかに列席者と話をしていたが、その後の宴でも、最後まで私に話しかけてくることはなく、目も合わされなかった。


夜が更け、婚礼の余韻もやわらぎ始めた頃、寧王府の寝殿(しんでん)には、紅絹の(とばり)が静かに揺れていた。

高炉から立ち昇る沈香(じんこう)の香りが、皇太子殿下との二人だけの婚儀の日を思い起こさせる。

私は面紗をつけたまま、寝台に座り寧王殿下を待っていた。


緊張と、諦めと、そして悲しみとも失望ともとれる憂いと…

なんとも往生際の悪い気持ちが、自分でも嫌になる。



――その時、静かに扉が開き、寧王殿下が部屋の中に入って来た。

そして私の隣に座ると、深く肩で息をされる。


「遅くなりすまない…。沢山飲まされてしまった…。」


「大丈夫ですか?」

そう声を掛けると、すぐに私の方に向き合い、そっと手を握った。


「指先が冷たいではないか。緊張しているのか。」


そう言って、私の手に息を吹きかけて温めてくれる。

それを見て、あの日の朝「私の手が冷たい」と言って、温めてくれた皇太子殿下と重なった。

そのお姿を思い出し、思わず涙がこみあげる。


寧王殿下は両手で私の面紗を取ると、潤んだ眼の私を見て切ない顔をした。

「凌雪…一体どうしたのだ…」

「殿下…」

優しく顔を覗き込む殿下に、申し訳ない気持ちと罪の気持ちでいっぱいになる。


「両親と離れて、さみしいのか…?」


「……」


「少ししたら、福丸を引き取っても良いぞ。ん?」

見当違いな慰めに、凌府を出る時に見た福丸が思い出され、思わず笑みがこぼれた。


この人は、こんなにも優しくて、こんなにも私を大事に思ってくれているのに…。


「凌雪、私の妻になってくれてありがとう。一生大事にする…」


そう言って、そっと頬に伸ばした手を引き寄せ優しく唇を重ねる。


それから、側にある台の上の盃を手に取り私に手渡すと、それを交盃し、側にある膳の箸を私に持たせた。


「これは…?」


「宴では、あまり食べられなかっただろう?お前も、腹がすいてないか?」


そう言えば、緊張のあまり喉を通らなかった。

殿下は、そこにある婚礼の膳の、料理の意味を一つ一つ教えてくれて、菓子などは、蘇璃の桂花糕(けいかこう)も用意してくれていた。


「これは、もしかして蘇璃の桂花糕ですか?」


「気が付いたか?凌玄珣(りょうげんじゅん)が、お前はこれが一番好きだとそう言っていたから、蘇璃に頼んで、こっそり作ってもらったのだ。」


そう得意げな殿下を見て、私は目の奥が、じんわりと温かくなるのを感じる。


――この時、ふと蘇璃の名前が出て今朝の事を思い出した。

蘇璃が朝一番に、私の部屋に来て、小さな薬の瓶を渡す。

これは何かと聞いたら、市井で手に入れた「豚の血」が入っていると。


初めは、なんのことかよくわからなかったが、寧王殿下に「皇太子殿下との事を、知られないために使うのだ」と、とても心配していた。


今夜、私は寧王殿下にこの身を預けなければならない。

…それは、絶対に避けて通れない事だ。

薄絹の帳が揺れる度、緊張で、鼓動がどんどん速くなっていく。


寝台で震えていたら、寧王殿下が膳の前から移動してきて、隣に静かに腰を下ろした。


凌雪(りょうせつ)…」


「はい。寧王殿下…」


殿下は、掌で私の頬にそっと触れ、その揺れるその潤んだ目が、私を正面から見つめている…。


「もし怖ければ、今夜は眠るだけでも良い。凌雪に無理はさせぬ…」

―――それは意外な殿下の言葉だった。

あんな薬瓶まで用意している私と違って、殿下は本当に私の事を思いやって下さっているのだ。


皇太子殿下への未練が経ち切れず、忘れないと誓ったものの「忘れたい」と思う苦しくてたまらない自分もいる。

私は、皇太子殿下が思っているよりも、ずっと自分勝手な女だ…。


会いたくても届かず、添い遂げる事も決してできないけれど、皇太子殿下だけを心からお慕いしています。


けれど…煊王李煌(けんおうりこう)殿下…どうか私の事をお許しください。

この気持ちに逆らい「寧王殿下の正妃」として生きていく…私の事を…


「…怖くは…ありません」


私は小さく首を振った。そして正面から寧王殿下を見つめる。


次の瞬間、その大きな手で、ゆっくりと引き寄せられた身体。


彼の潤んだ瞳が、すぐそばで一つ瞬きをし、そっと深く重ねられた寧王殿下の唇。


まるで待ち続けた約束を果たすかのように、丁寧で優しい、そんな口づけだった。


燭台の揺らぎの中、そのままゆっくりと寝台に押し倒される。

衣擦れの音に一つ一つほどかれる衣が、まるで自分の心が寧王殿下に開かれていくような、そんな風に感じた。


――寧王殿下は、とても優しかった。

そして全てが、私への大切な想いに溢れていた…


昨日の夜、母に言われる。

≪これから寧王殿下にお仕えすることが、正室の務めであり、妻の務めだ≫と。


私は…こうして寧王李璿(ねいおうりせん)の正室になった。


(せつ)…」

寧王殿下にそっと抱き寄せられ、彼は最後に優しく私の額に唇を落とす。


「はい…」


「私はそなたを、心から愛している…。心から、そなただけを…」


微笑んだ寧王殿下に小さく頷き、それから私たちは、深い眠りに落ちた。



―――次の日の朝、明るい日差しに満たされた神殿で目が覚めると、ぐっすりと眠っている殿下に抱き着くようにしてくっついていた。


「う…ん。重いぞ、(せつ)…」


その苦しそうな、寝起きの声に気づくと、殿下の上に半身が乗っている。


慌てて体を起こそうとしたら、目を閉じたままの殿下は口元で微笑まれ、そのまま勢いよく私を抱きしめた。


「殿下。申し訳ありません。私ったら…」


ゆっくりと目を開けた寧王殿下は、私を見て本当に幸せそうな顔をする。


「良いのだ、気にするな。…本当に、私の妻になったのだな、凌雪…」


そう言って微笑みながら、幸せそうに再び私を抱き寄せる。

その鼓動に包まれながら、私はこれが『妻』として生きていく事なのだと、そう思った。


…こうして、私と寧王李璿殿下との結婚生活は始まったのである。






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