表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/100

第四十一話 皇太子殿下の婚姻・後半 媛羅との婚儀

朝になって目覚めると、隣に凌雪(りょうせつ)がいないことに気づき、慌てて寝台から身を起こす。


その時、まだ夜が明けたばかりのひんやりとした空気が、ふいに扉から流れてきて、見ると、彼女が水を(たた)えた桶を持ち部屋に入ってきた。


呆然と寝台に座っていると足元にその桶を置き、凌雪は、跪いたまま私を見上げて微笑んだ。


見れば、きちんと身支度もしてありはだけた白絹の寝衣の自分が、少し恥ずかしく感じる。


「…早起きなのだな」


そう言って私は、小さな咳払いを一つした。

すると凌雪は、両手で私の頬を触り「寝すぎ殿(どの)(お寝坊さん)ですね」と笑う。


その手があまりにも冷たくて、思わず掴んでしまった。


「冷たいではないか」


「すみません。ご本堂のお掃除を手伝っていたので」


凌雪は、私に手を掴まれたまま、すまなさそうにつぶやく。


「違う、私はお前に怒ったのではない。なぜその手がこんなに冷たいのかと、心配したのだ」


私は、彼女の手を自分の両手で包み、息を吹きかけ温めてやった。


「なぜ、掃除など」


「私に、過分の福を与えてくださったので」


「過分の福?」


「皇太子殿下のお心が、一日でも独り占めできたのですから。もしかしたら、ご先祖様のご加護かと。ですからお礼も兼ねて」


そう言って笑った目の前の凌雪を、引き寄せ抱きしめる。

こうしていると、自分の全てが満たされていくようだ…


私の心など、一日とは言わず凌雪なら一生独り占めなのに…。


このままずっと一緒に居たいけれど、別れは刻一刻と近づいてきていた。


それから彼女は「身支度をお手伝いしますね」と言って、目の前の桶で絞った、濡れた潔布(けっぷ)をそっと手渡してくる。


それで顔を拭き、目が覚め切ったところで衣を着替えた。

備え付けられた妝台(しょうだい)(鏡)の前に座ると、凌雪が後ろに立ち、丁寧に私の黒髪を梳いてくれた。


「殿下の髪は、艶やかで美しいですね」


そう言って鏡越しに微笑んでいるのが見える。


私の髪の前と横を慣れた手つきで結い上げると、束髪金簪(そくはつきんしん)でしっかりと固定した。

そこから続く長い後ろ髪は、彼女の手によって、この背に美しく流れ落ちる。


「手慣れたものだな」


「時々、兄上の髪も結うので」


それを聞いて、凌玄珣(りょうげんじゅん)の事が少し羨ましく感じる。

――兄妹なら離れることもなくずっといられて、髪も結ってもらえるのか、と。


黙っていると、凌雪が、からかうように笑った。


「今兄上が、うらやましいと思われましたか?」


見透かされたと思い、気恥ずかしくなった私は、振り向き、立ったままの凌雪を思わずそのまま抱きしめた。


…彼女のぬくもりは、心が満たされるような温かさだ…。


静まり返った部屋で今、私の耳には凌雪の鼓動だけが響いている。


笑っていても、その心が泣いているのはわかっていた。

どんなに楽しく過ごしていても、それは全て別れへの布石(ふせき)でしかないのだから。


「凌雪…いつか私は、必ずやお前を迎えに行く」


切実な思いは、自然と口をついて出た。

私は、凌雪のその胸に顔を埋めたまま、彼女を抱きしめるこの腕に力を込める。

座ったままの私の肩に、彼女は静かに手を添えた。


 ―――凌雪は何も言わなかった。


それから朝餉(あさげ)や菓子などを一緒に取り、紫陽花の中庭を愛で、凌雪の願う通り二人で沢山笑ったが、別れの時間は瞬く間にやって来た。


昨日婚儀を行った祭壇の前が、まだそのままになっていて、目に入る鮮やかな赤い部屋で、私は蘇嬢(そじょう)にもらった小箱を胸から取り出す。


「凌雪。これをお前に贈ろう」


その箱を開けて、翡翠の指輪を取り出すと、私は彼女の左手を取りその薬指にそっと嵌めた。


「ずっと付けていなくても良い。けれど大切に持っていてほしい。これは母上が、私が生まれた時に特別に作らせたものだ。これを私だと思って…」


彼女は小さく頷くと胸元から紺色の小袋を差し出す。


「これは?」


「この小袋には、私の髪を紐で結んで入れてあります。もし受け取っていただけるのなら、ずっと持っていて欲しいのです」


髪は、身体の一部であり、親から授かった大切なものだ。

魂や運命と繋がる象徴ともされている。

少しだけ切って髪を渡すことは、心を託すと言う意味があり、命がけの愛情や忠義を示した。


凌雪の思いに胸が詰まり、言葉が出てこない。


それを受け取り、私は最後に彼女をこの両腕で抱きしめる。

出来る事なら、このままどこかに連れ去ってしまいたい。


でもそれは、今の私達が決して踏み越えてはならない、運命の綾だ。



「お嬢様、お迎えが来ました」


蘇璃が呼びに来て、その隣で韓昭が切ない目で立ってこちらを見ている。

きっと私の顔には、今までのどんな時より愁苦(しゅうく)(憂いと苦しみ)が漂っていただろう。


凌雪はその声に私からゆっくりと離れ、部屋を出る時こちらに振り返り私に向かって、深々と一礼し微笑んだ。


「皇太子殿下。私の願いは、殿下が幸せであることだけです。

どうか、ご自分の未来を信じて歩んでください」


その言葉で、この握りしめた両手に思わず力が込められる。


凌雪の覚悟と同じ覚悟を、私もしなければならないのだ。


蘇璃と立ち去る彼女の後姿を、韓昭と、回廊から見えなくなるまで見送った。


――それから私は母上の祖廟に参り、一刻が過ぎた頃。

蘇芸霞(そうんか)が寄こした馬車に乗り、一度夢華楼(むかろう)へ戻る。


蘇芸霞に礼を言い、今度は煊王府(けんおうふ)へ韓昭と自分の馬車で戻った。


部屋で凌雪の事を考えながら項垂れていると、蘇嬢が入ってきて、わざとらしく「妓楼に忘れ物をしていた」と、大声で話しかけてくる。

今度は蘇嬢に言われるがまま客間に行き、王府を尋ねて来た蘇芸霞から、『龍紋金牌(りゅうもんきんぱい)』を受け取った。


蘇嬢の計画は、完璧だった。


しかし心にどんよりと残るこの拭いきれない感情のせいで、凌雪に思いを告げる前よりも、一層苦しくなった気がする。


それから二週間、私は何をして過ごしていたのかあまり記憶が無い。

何度も凌雪からもらった、紺色の小袋を手に取って見ては、ため息ばかりをついていた。


いよいよ明日が、凌媛羅(りょうえんら)を迎える『納側礼』だと言うその日、私は宗廟(そうびょう)へ先祖に挨拶にいき、その足で皇帝・皇后への挨拶に向かう。


皇宮へ向かう()(皇太子の馬車)の中から見る天黎(てんれい)の街は、あちこちが提灯で飾られていて、民が慶事を心待ちにしている様子が伺えた。


婚礼を祝した、慶礼市(けいれいいち)が開かれ、織物や菓子に加え縁起物も多く並んでいる。


「殿下、皇帝陛下と皇后陛下にご挨拶された後 装束合わせがあるそうです」


「あぁ…わかった」


「それから、その後、煊王府に戻られたあと、沐浴があるそうなので、蘇嬢が早く戻るようにと」


「あぁ…」


「そのあと禅僧が来て…」


「あぁ…」



「殿下、聞かれているのですか」


「…わかった」


心ここに在らずとは、この事だ。


「殿下、本当によろしいのですか」


「あぁ…そうか」


「殿下!!」


韓昭は眉間にしわを寄せ、思わず大きな声を出した。


「なんだ。驚いたな」


「私は、出過ぎた真似をしたかと、後悔しているのです」


「出過ぎた真似?」


「殿下のお気持ちを知り、どうしても凌雪さんと幸せになってほしくて…」


「……」


「しかし…あの時、引き止めるべきだったのかと、今も自分を責めております」


――韓昭も、苦しんでいる。


あれから韓昭は、凌玄珣(りょうげんじゅん)から凌雪の様子を聞いて、私に報告してきた。


それによると、彼女は神医の所で、本格的に医学を学び始めたらしい。

そして“明るく、元気に過ごしている”と…

凌孟昊(りょうもうこう)に急かされて、寧王との婚儀の為の蕙選(けいせん)にも無事通過したそうだ。


それを聞いて、“私だけがこのままではいけない”と、そう思った。

きっと凌雪は、ちゃんと前を向いたのだ。――私の為に。


「韓昭。明日は朝が早い。よろしく頼む」


私も、腹を括らなければならない。

たとえ心が置き去りでも――この国の未来は、私の肩にあるのだから…



そして凌媛羅との婚儀当日。


納側礼(のうそくれい)は、東宮(とうぐう)長樂殿(ちょうらくでん)、特設婚礼の間にて執り行われた。


紅絹(こうけん)(とばり)が風に揺れ、柱には金糸の龍凰(りゅうおう)が縫い込まれた布が巻かれ、床には赤絨毯が真っ直ぐと壇へと続く。

壇上には、天地と宗廟を祀る香炉と供物が並び、天帝への敬意が示されていた。


壇の両側には儀式の進行に従う役人と、司礼官が整列し、背後には楽師たちが控えている。

筝や琴の音が、静かに空間を満たしていた。


私は龍紋(りゅうもん)鳳凰(ほうおう)が織られた礼服を纏い、面紗を付けた凌媛羅と並ぶ。

連理帯(れんりたい)を持ちゆっくりと堂内へ歩みを進め、司令官の声に合わせ三例を行った。


「天地に礼をー!」

「高堂に礼をー!」

「夫婦相対にして礼をー!」


―――その声に合わせ、決まり切った動作。

そして何も心が動かない儀式。

…横には、真顔で並んだ臣下たち…


その中の慶淵王と、ふと目が合う。

そして媛羅の父、凌孟昊(りょうもうこう)。二人とも神妙な顔だ。


凌孟昊は今どのような気持ちで、この婚儀を見ているのだろう。

凌雪と私の事を知りながら、媛羅を送り出すその心の内はいかほどか…



媛羅が拝礼すると、揺れる蓋頭(がいとう)の下から紅の紐が覗いた。

(けつ)(ひも)――二人で縁を結ぶ象徴として、互いの手首に結ばれている。

交盞(こうはい)の杯が宮女から差し出され、二人が静かに酒を交わすと、礼は滞りなく終わった。




――その後、出席者だけで簡単な宴が行われ、和やかな時間が過ぎていく。

当たり障りのない無難な会話と、ありきたりな賛辞で、私は腹がいっぱいになった。


宴が終わると、紅傘をさしかけた女官に導かれて、媛羅は寝所へと送られる。


夜になり、しきたりの通り、私は寝所がある部屋へと向かった。


「入るぞ」


紅燭が揺れる寝所には、婚礼の飾りが整えられている。

私は赤い紗が垂れた寝台に腰を下ろし、寝台に座る面紗の媛羅を見据えた。


「皇太子殿下、どうぞよろしくお願いいたします」


そう言って、彼女は私に赤い盃の酒をそっと差し出す。

私はその酒盃を手に取ると、側にある台の上へすぐに戻した。


「殿下?」


面紗の下から、少し顔を上げた媛羅は私を見る。


その時私の目は、わずかに揺れた…

そして、自分の気持ちを口にせねばならぬと心を決める。


「凌媛羅」


「はい」


「……今宵は、ここで過ごすことはできぬ」


「……」


凌媛羅は、言葉を失った…

私が口にした事が、きっと

思いもよらぬものであったのだろう。


私には、その面紗の下の表情が、想像もつかなかった。


「殿下…それはなぜなのですか」


震えながら尋ねる凌媛羅に、私は静かに言葉を重ねる。


「この婚儀は、(まつりごと)のため。そなたに非はない」


「だからこそ、(わたくし)もお役目を果たそうとしているのです。何が、殿下をそうさせるのですか」


「今私はどうしても、そなたに心を寄せる事が出来ぬ」


「それは…(せつ)をお慕いされているから…ですか?まさか…本当に雪の事を?」


凌媛羅は、私にすがるようにし両手で私の胸を掴んだ。


その名前が出て、凌媛羅にでさえも、気づかれていたことを悟る。

黙っていると、凌媛羅は畳みかけるように言葉を続けた。


「雪には、寧王殿下がいらっしゃるではありませんか。

何があろうとも、皇太子殿下のおそばに居る事など叶わないでしょう。

雪は寧王殿下のものなのですから!」


「そのような事は私だって、承知しておる!」


私の胸を掴みながら取り乱す媛羅の手首を、思わず大声で振り払ってしまった。


勢いで面紗が外れた媛羅が、涙を滲ませ私を睨みつけている。


「殿下…」


「私も今日は婚儀で疲れた。対面は守るゆえ、ゆっくりここで休め」


「…私は今までずっと…我慢しておりました。

殿下の雪への思いに気づきながらも、この日が来れば報われるのだと。酷いではありませんか!ずっと耐えて来た私の気持ちはどうなるのですか!」


媛羅は憤り、目の前に落ちた面紗をその手で取ると、それを私の足元へ叩きつけた。


「耐えてきたのは、私も同じなのだ!」


そう言って、勢いよく立ち上がり背を向ける。

これ以上ここに居ても仕方がない。


「私が殿下をお慕いしていると知りながら、このような仕打ちをされるとは。私に何の罪があると言うのですか。私は殿下の為に尽くす所存でございますのに…」


そう言って泣き出した媛羅に、私はもう一度、振り返った。


「……私だって、わかっている。

わかっていながら、どうしても今日は、そなたの手を取ることができないのだ」


私は媛羅に背を向けると、そのまま殿(でん)を後にした。


扉が閉まる音の後に、思わず唇を結ぶ。


「殿下…これからどちらへ」


扉の外で待っていた韓昭が、心配そうな表情(かお)で駆け寄ってきた。


「東宮内の月観閣(げっかんかく)へ行く」


そこは、執務室の傍の庭園に面した、離れだ。

一人になりたい時、昔から良くそこへ行った。


「今日はそちらでお休みに?」


「韓昭、少し一緒に酒を飲まないか」


韓昭は酒がかなり強い。

でも護衛の為、私の前で酒を飲んだことは一度もなかった。

そう言った私に、彼は微笑んだけれど小さく首を横に振る。


「おそばにはおります。殿下はどうぞ」


そう言ってくれた韓昭に、頷くと私達は、一緒に月観閣へ向かう。


―――今宵は満月。


初めは韓昭が、ずっと酌をしてくれていた。


「お前は本当に、忠義だな。腹から笑う事などあるのか」


溢れそうな盃をそっと口に運びながら、彼にそう尋ねてみる。


「殿下とご一緒しているときが、楽しいです」


相変わらず品行方正を絵にかいたような男だ。


それに微笑むと、次の酒からは、盃に自分で注いだ。

今宵は本当に、月が美しい。

一月前、凌雪(りょうせつ)と見た狐火豊祭(こびほうさい)の日の月も、沁みるほど美しかった。


今日まで、あっという間だった気がする。


(とばり)を下ろさず、月を愛でながら飲む酒は、今の苦しい心を、浄化してくれる気がした。


「韓昭、私はなぜ煊王李煌(けんおうりこう)なのだろうか」


「皇太子殿下として、この国を守るためではありませんか」


「そんなの…寧王にでも任せておけば良いのだ」


「酔われていますね。冗談はもうその辺りでおやめになっては」


韓昭が止めるのもわからなくはない。

自分で酒の酌をし始めた頃から、回ってきたのが分かった。


凌媛羅にも悪い事をした…。でも今の私には、これ以上は無理だ。

出来る事は全てした…


しかし昼間も散々酌をされて飲んだけれど、まだ飲み足りない気がする。

今宵は飲みたかった。飲んで、全てを忘れたら良いと思った。


目覚めたら、あの狐火豊祭の日に戻っていたら良いのに。


―――凌雪に会いたい。会いたくてたまらない。


お前はもう、前を向いていると聞いたけれど

私だけが、まだ同じ場所に、心が置いてきぼりのままだなのだ…。

――凌雪。

「半分冗談で、半分本気だ…」

更に酒が回ってきた…


頭ではわかっていても、今は心が追い付いて行かぬ。

自分が皇太子であることに…。


「凌雪は、私の事などもう忘れて…」


「忘れていませんよ。…殿下、夜は冷えます。

あちらでお休みになりましょう」


韓昭が優しくそう言っている声が、だんだんと小さくなっていく。


彼がこの手から(さかずき)を取り上げたその瞬間、卓に伏して私は眠ってしまった。


あの優しい瞳も、柔らかな唇も、今となっては、全て泡沫(うたかた)の夢だ…。

だけど私はまだ、その夢の中で生きている。

――――凌雪と共に。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ