第四話 凌家の末娘
その日朝一番に正殿へ行き、皇帝陛下へご挨拶を済ませると、
皇太子である私は侍衛・韓昭を伴い、凌家へ向かった。
「本駕(皇太子専用の馬車)を整えよ!凌将軍の府へ向かう。」
そう皆に声を掛け、素早く馬車に乗り込み、数人の伴を連れ皇宮を出発する。
≪この縁が天命により決まった正統なる縁を結ぶ≫
…という意味である婚礼行事の一つ
『正縁迎禮』。
これが皇太子である私から、凌家への正式な結婚の申し込みとなる。
揺れる駕の中で静かに目を閉じ、改めて自分の運命を受け入れる覚悟をした。
これから春冠祭を迎える都・景都。
都中が、花と香りに包まれるこの良き日。
天黎国の皇太子・李煌が名門・凌家を訪れるという知らせは、既に洛中の耳目を集めていた。
日が高く昇り、街のあちこちで桜がはらはらと舞う。
―その中を白蓮の儀馬車が進む。
馬車の前後には、銅の甲冑をまとった玄麟衛の精鋭たちが随行し、民たちは遠巻きに息をのんだ。
しばらくして車の揺れが止まると、外から韓昭が声を掛けてくる。
「殿下、将軍府へ到着しました。踏み台をご用意いたします。」
「皇太子殿下、凌府におなりーー!」
威厳正しく、高らかに響く従者の声。
その声を合図に、重厚な漆黒の門が左右に開かれ、私は静かに馬車を降りた。
迎えるのは、天黎の大将軍にして凌家の主 凌孟昊。
その傍らには長男玄洵、そして今日の縁談の主とされる長女媛羅が並んで立つ。
「拝謁賜りまして、光栄にございます。どうかお入りくださいませ。」
凌孟昊が頭を下げ、それに私もまた深々と礼を返す。
媛羅は薄桃色の礼装を纏い、美しく微笑んでいた。
「李煌、まことにささやかではございますが、春冠祭を迎えるにあたり、この度『正縁迎禮』のため誠意をお届けに参りました。」
そう述べて差し出したのは、白木に紅梅をあしらった小箱で、中には皇室の宝印を模した、金の細工と香料。
それを受け取る凌孟昊の顔には、覚悟がうかがえる。
その隣の媛羅の表情は喜びに満ちていて、私の胸に小さな安堵が広がった。
そう言えば、娘は二人と聞いていたが、この家のもう一人の娘の姿が見当たらない。
「殿下、こちらへどうぞ。」
凌孟昊に促され、私は中庭を眺めた後正殿の奥へ通される。
どこを見ても大将軍府らしい、立派な屋敷だ。
その時孟昊は小声で、側にいた長男の玄洵に耳打ちした。
「玄洵…雪児はどこへ行った?」
「えっ?おりませぬか?さっきまで福丸を追いかけて…
殿下が来られる前に支度をするようにと。」
「どこにも見当たらないのだ!」
「私が探してきます。」
父親に促され、兄の玄洵は慌てて下の妹を探しに行った。
「福丸とは?」
焦る凌孟昊をなだめるように 私は笑顔で彼に話しかける。
「あ…殿下、お恥ずかしい話をお耳に入れてしまいました。福丸はうちの犬でして」
「犬?」
「三年前生誕祝いに、私が娘に与えた我が家の“飼い犬”でございます。」
「屋敷に犬がいるのですか?私も犬は好きですよ。」
「殿下も?」
「はい。子供の頃、母后がかわいがっていた犬が二匹いて、よく遊んでいました。」
そう言って笑い返していたら、庭の奥の何かに気づいた凌孟昊が、そちらを見せないよう慌てて私の背中を部屋奥に促した。
――その時だ。
「長女媛羅。皇太子殿下に拝謁を賜ります。」
媛羅がその声と共に部屋の入り口で一礼し、
ゆるやかに歩いてきて、私にもう一度頭を下げた。
ここ凌府の正殿で、皆で重々しい例を交わし終えた後、その場で私は席に着く。
しばしの間をおいて彼女は膝を折り、両手を揃えて深く頭を垂れた。
「臣女媛羅。皇太子殿下のご尊顔を賜り、恐悦至極にございます。」
私の視線が、彼女へ向く。
均整の取れた姿、紅に染めた唇、伏せたまつげが形作る影。
まさに、『名門の誉れ』と呼ぶに相応しい美しさだった。
微笑みを浮かべたままの凌媛羅。
その瞳には柔らかな光が宿っていたが、私の胸には言いようのない違和感が残る。
なんだか全てが作られたような、そんな完璧さだった。
そう思っていたら、外からこの家の侍女の大きな声がする。
「お嬢様~~!いましたよ!!福丸が!」
それを耳にして、咄嗟に凌孟昊が話そらそうと必死だ。
「あ…殿下、今鶯の美しい鳴き声が、喜びに満ちているように鳴いておりましたな…。」
「……」
しばし沈黙の間 その外の声に玄洵の声まで混ざってきた。
「雪児!ここにいたのか!!」
「兄上!福丸あんなところに入ってしまいました!」
「福丸ではない!お前だよ!!」
「え?」
「もう殿下がお見えになっているのに!何だ!その顔は!!」
「顔?!」
「お嬢様、お顔に土が!汚れています。」
「さっき納屋の隙間に、顔を突っ込んだからかしら?」
「雪児、服も汚れているぞ。早く用意を!急ぐのだ!」
「蘇璃~福丸持っていて。」
「はい!お嬢様。」
「早く!雪児、こちらに!!」
孟昊はその声がする方に、私が視線をやらないか誤魔化そうと必死だ。
その様子に、思わず小さく“ふっ”と吹いてしまった。
「あれは末娘でして…落ち着きもなく。
私も躾てはいるのですが、なかなか行儀ができませんで…
お恥ずかしいところを、殿下にお聞かせしてしまいました。」
「まぁ、子が元気なのは良い事ではないか。」
そう気を使わないようにと返事をしたが、バツが悪かったのか、この次女が私の前に姿を見せることは、最後までなかった。
凌媛羅は、孟昊と私が和やかに家族の話をしていても口数少なく、恥ずかしいからなのか、視線をあまり合わそうともしない。
ただ時折見せる微笑みは、この縁が嫌なものでない事だけは窺えた。
私は、“緊張しているのだな”と思い、三日後の春冠祭へ「一緒に」と誘ってみる。
意外にもそれは嬉しそうに返事をし、私は彼女と祭りへ出かけることになった。
そこで、思わぬ人と出会う事になるとも知らずに…