第三十七話 心を癒す石
楽しみにしていた狐火豊祭。私は原因不明の高熱と発疹で寝込んでしまう。
回復の兆しがようやく見え始めたある日、お祖母様の鍼治療にあわせて、薬念神医が病状を見に来てくれた。
「あの煎じ薬が効いたという事は、やはり三日疹だったようですね。もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございました。薬念神医のお薬のおかげでございます」
熱が出たと知り、次の日すぐに春桃に煎じ薬を託けてくれたのだ。
「大層皇太子殿下が、媛羅さんを大変心配されていました」
「皇太子殿下が?」
「薬は殿下からですよ」
そう言って神医はにっこりと微笑んだ。
殿下が私の心配を?
「それから、殿下のお怪我はほぼ回復されました」
「え?あれから?」
「先日使った、薬が合っていたようです。驚異的な回復力で」
「数日前にお会いしたときは、まだ輪椅から立つこともできなかったはずなのに」
「私も驚きました。でも、早くお怪我が治れば婚姻の日取りも早められますね」
そう言えば皇后陛下が”李煌の準備が進まぬため、婚姻は来年になるかもしれぬ。”と言っていた。
しかし皇太子殿下を見ていると、私との婚姻が嫌なのではないかと感じている。あの狩りの日、皆の前では私を慕っているとおっしゃっていた。でも二人きりでいるとき、殿下の顔から笑みが消える。
私のことを慕っている――そう感じた瞬間は、ただの一度もなかった。
殿下の視線の先には、いつも雪がいた。気づかぬふりは、もうできそうにない。
碧霞山荘に一緒にいた時も、考え事をしていたりため息をつくことも多く、私の事を慕っていると感じたことは、一度もなかった。
それでも廬山峠の一件以来、私も妹を陥れるのはただの妬みだったと思い直したし、殿下を失わないためにも、見え透いた”嘘”に付き合っていこうと思っていた。
だってその嘘は、私にとっては有利なものだったから…。
――いつかは嘘が本当になるかもしれない。そう信じて。
この間、慶淵王から持ち掛けられた話。
それは凌雪を皇室に近づけない事。慶淵王は、寧王殿下と雪の婚姻が、どうやら気に入らないらしい。
始めは父の事も絡んでいるのかと思っていたが、夢錦楼でお会いした時、私の話を聞いてくださって、皇太子殿下への想いも聞いてくださった。
私だって、本当に殿下をお慕いしているのだ。
けれど、皇太子殿下の心の中には――いつだって雪がいた。そう感じない瞬間は、なかった。
あの帝誕宴。
上月堂の花火の夜。
寧王殿下が雪に口づけた場面は…私が寧王殿下を焚きつけたものだ。
“雪が婚姻に対し不安になっている。寧王殿下で本当に良いのか迷っている”と。女心を不安にさせてはいけないと彼を煽った。
それをわざと皇太子殿下が目にするように、皇后陛下も巻き込んだ。
“もっと親しくなれるよう、花火の時殿下と二人きりになりたい。”と。
皇太子殿下の私への態度に、手を焼いていた皇后陛下は、二つ返事で手を貸してくれる。
でも二人を見た瞬間の皇太子殿下の横顔は、何とも言えない苦痛に歪み、すぐに目をそらした背中からは大きな憂いが滲んでいた。
その瞬間、はっきりとわかってしまったのだ。
―――皇太子殿下のお心には、雪がいるのだと。
その時、雪に殿下を奪われるなど、絶対に嫌だと心から思った。
慶淵王の提案は、雪を陥れ、投獄させるというもの。
命は奪わない。ただ――皇室に嫁ぐ道を、永久に閉ざす。
だから私はそれに乗った。情報を提供することで協力すると返事をした。
「皇太子殿下は、お怪我で婚姻が延びて、安堵していたのではありませんか?」
考え事をしていたからか、私は思わず神医にそう話してしまう。
「そんな事はありませんよ。お怪我が治られて、媛羅さんとの婚姻を伸ばさずに済むと」
「皇太子殿下が?」
「媛羅さん」
薬念神医は、側にそっと膝まずき優しく微笑んだ。
その笑顔はあまりにも神々しく、私の罪がなぜかとても後ろめたく思う。
その罪とは…腹の底から、黒く濁った泥水が、自分の中を這い上がってくるような、抑える事ができない醜い感情の塊の事だ。
「誰も陛下の勅旨に逆らえません。それは皇太子殿下もわかっていらっしゃる。誰がどんな思いを抱いていようとも、あなたが皇太子殿下と婚姻するのです」
「どんな思いを抱いていようと?」
そう聞き返すと、彼は黙って頷いた。
「それから、凌雪も寧王殿下と婚姻する。これは、定められていて誰にも変えることはできないのです。陛下の命なのですから」
そう力強く言われ、一瞬その通りだと納得した。
しかし、今のままの殿下を、雪を恨むことなく受け入れられるだろうか。
雪の事だけを、恋い慕う皇太子殿下を…
その時薬念神医が、薬箱から小さな巾着を取り出した。
そこから取り出された、連なった葡萄色の石の腕輪。それをそっと私に握らせる。
――石はなぜか温かく感じ、ささくれだった心を溶かすようだ。
「これを、常に手首に嵌めておいてください」
「この石を?」
「私は神医と呼ばれるだけに、神に連なる身。信じる者には、癒しが降りますよ」
冗談のようにそう言って笑った薬念医師に、私も思わずつられて笑う。
「この石は、どんなことがあろうともあなたを守ってくれます。体の傷は薬で治せても、心の傷は治せないでしょう?心には癒しが必要なのです」
「癒し?」
「人の心とは不思議なものです。ほら、≪信じる者は救われる≫と言うでしょう?邪気を払う為に香をたいたり、縁結びの紐を結ったり」
「あぁ…」
「この石は、あなたの心を守ります。ですから、絶対に肌身離さず身に着けておいてください」
そう言いながら、絹糸で連なった葡萄色の石の腕輪を、私の左手に静かに嵌めてくれた。
彼に言われると、本当に私を守ってくれそうな気がするから不思議だ。
「綺麗…」
「どんな時も絶対に外さぬように」
神医の事をこの時は何も疑いもせず、自分の心を保つため、藁にもすがりたかった私はそれを快く受け入れる。
――これは、私の心を癒してくれる「お守り」。
そう信じて、私は左手にそれを嵌めた。




