第三十五話 狐火豊祭の夜、ふたりの誓い
殿下はそっと私の手を取ると、壊れた狐火灯篭を手に“一緒に川に流そう”と言った。
兄上は一体どこへ行ったのだろうか。
あれから戻ってこないことが気になり、私は辺りを見渡す。
「どうしたのだ?」
「兄上が戻ってきません」
「そう言えば韓昭と蘇璃はどこへ行ったのだろうか?」
そう言った皇太子殿下に、ふと首を傾げる。
「殿下が、休暇をあげたのでは?」
「休暇?韓昭に休暇などない」
その言葉に、さっきの彼の言い分は何だったのかと不思議に思いながらも、とりあえず私達は、すぐそばの川辺でお祖母様の願いが書かれた灯篭を流すことにした。
殿下が灯篭の骨組みを整えてくれたが、灯りを付ける道具がない事にまた困る。
二人でそう話していたら、先ほどの妖艶な男が音もなく近づいてきて、灯篭の中に手を入れて指をはじくと、他の者とは違う青白い炎がほうっと、灯った。
まるで妖術のようだ。
「凛宸、瑤心お幸せに~」
二人でそれに驚いていたら、また違う誰かの名前で呼びならがら去って行く。
「あの楽師の様な男は、一体お前の何なのだ!?」
殿下が不機嫌な顔で、私にまた詰め寄ってきた。
「白玉廟の、祭りの担当の人では?」
「白玉廟?」
「廟の匂いがしたのです。灯篭に火をつけて歩いているのでしょう」
「適当な事を申すな」
殿下は怒って横を向き、まるで子供のよう。誰もが知る威厳なんてどこにもない。
「ほら、殿下。これを流しましょう。こちらに」
ご機嫌を取るようにして私が声を掛けたら、すぐに近づいてきて、私たちは一緒に灯篭を手に取った。
「≪良縁成就・心契永縁≫凌雪、これは私たちの願い事だな」
そう笑顔で言う殿下に、私も微笑みで応える。
―――きっとこの願いが、叶う事はないだろう…
けれど今、ここから灯篭を見送るこの時だけは、私たちの想いが叶うと信じたい。
闇夜に揺れながら水面を流れていく、沢山の誰かの願い事。一体この中の幾つが、本当に叶うのだろうか。
私達は半刻ほど柳の木の下で、兄上や韓昭さんが戻ってこないか待っていた。
待てど、暮らせど、誰一人帰ってこない。
「誰も戻ってこないではないか。一体皆何をしている。こんな暗いところで、じっとしていては時間がもったいない!」
皇太子殿下はそう言うと、白狐の面を自分の頭にかけて私の手を取り立ち上がる。
「これだと顔がわからないので、韓昭がいなくても安全であろう」
いたずらっぽく微笑んだ後、完全に自分の顔を面で覆うと、私の手を取り、参道の市の方に足を向けた。
市の露店で、殿下は、射的に夢中になる。
その全ての的に、当ててしまい、店の人は、"商品が全部なくなってしまう。"と困りだした。
殿下が"何もいらぬ。"と言っていると、見物人達が周りで"ひどい!商品をやれ!ずるいぞ!"などと、店主を罵りだした。
「皆一体どうしたのだ。私は品はいらぬと言っているではないか」
皆が怒る様を見て、殿下が首を傾げ不思議そうに見つめている。
私は大きくなるその騒ぎに、慌てて殿下の手を掴み、その店から立ち去った。
皇太子殿下はきっと、庶民の祭りにあまり慣れていないのだろう。
沢山の≪はじめて≫の経験が、楽しくて仕方ないと言った感じだ。
その後私が大好きな『きな粉飴』を買い、自分の口に入れていると
“味見がしたい”と言い出した。
身を屈めて面をずらしたので、素早く口の中に入れてあげる。
「このような物は、生まれて初めて食べた」
「私はこれが、子供のころから大好きなのです」
「私よりもか?」
ご自分の気持ちを打ち明けてくれた後の殿下は、こちらが恥ずかしくなるほど、素直に思いを口にした。
きっと今までも"皇太子"だから、何事も思った事ははっきりと言ってきたはずだ。
しかし私への気持ちは、“決して口にしてはいけなかった”ものに違いない。
「いいえ、殿下の方が――もっと好きですよ」
そう言う事で、そのお気持ちに応える事ができるなら、私は幾度も口にできる。
それに殿下は、少しだけ面をずらし、今まで見たこともないような、優しい顔をされて微笑んだ。
そして、また私の手を握り歩き出す。
私は胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
私たちは連れ立って市を巡り、包子や山査子飴を分け合いながら、まるで子供のように笑い合った。
そのすべてが二人だけの思い出になっていく――その事がただ嬉しかった。
最後のお店で殿下が簪を選んでくれて、柳の木の下に一緒に戻る。
「凌雪…これを私が頭に、刺してやろう」
胸元から、先ほど買ってくれた簪を取り出し、殿下は自分の狐の面を外しそのまま首後ろにかけた。
その簪は、まるで初めて会った時を思い出させるような、桜色の花びらに見立てた貝が、散りばめられたかわいらしいものだ。先に赤い石の粒が連ねられ雫のように垂れ下がって光っている。
「これは私が誰かのために、初めて自分で選んだものだ」
そっとそれを私の頭にそっと刺し、≪自分は目利きの才がある≫と自画自賛して笑った。
「ずっと大切にしますね…」
殿下の自画自賛が可愛くて思わず笑ったら、そっと私の頬に手を添え、やわらかく唇を重ねた。
私の鼓動が、今まで感じたこともないような速さで鳴り、頬がとても熱くなるのがわかる。
時が止まったような静寂の中で、ただ優しい風が、柳の葉と私たちの髪をなでていった。
寧王殿下とは、全く違う感覚に戸惑いを隠せない…
すると皇太子殿下は、更に私を両手で強く抱き寄せた。
「今まで抑えていた気持ちが…もう止められないのだ」
「殿下…」
「…もう二度と、誰にも触れさせたくはない……」
その言葉が、帝誕宴の時の私と寧王殿下を見ていたのだと悟らせる。
思わず現実に戻り、その背に手を回すのを躊躇ってしまった。
ゆっくりと離れた皇太子殿下は、私の額に一度、そっと唇を落とすと、掌を両頬に添え顔を覗き込む。
「私が、寧王の事は何とかする」
「でも…」
何かを言おうとした私の口元に、殿下は人差し指を咄嗟に添えた。
「私を信じろ。なのでこれから、絶対によそ見をするな」
その時微笑んだ皇太子殿下には、優しさと決意がにじんでいた。
…私はその背中に、そっと両腕を回す。
広くて強いこの背中に、これからついて行こうと心に決めた。
祭りの音が遠くでいつまでも聞こえていて。
まるで、この世にふたりだけが取り残されたかのように、静かだ。
――何かが変わっていくかもしれない。そんな淡い期待を抱かずにはいられない…。
その後、笛や筝の音が徐々に静かになっていき、祭りの終わりが近づいている事を、知らせていた。
≪これからどうしたものか≫と、二人で考えていたら、白玉廟の参道の方から兄が、右から蘇璃がそして左から韓昭さんが現れた。
「一体お前たちは、今までどこにいっていた?!」
皇太子殿下が、三人に向かってそう言った。
「殿下、ご無事で何よりでございます…」
なぜか呆けたような韓昭さんと、何度も参道を振り返る兄上。
「雪児、灯篭はどこに…」
「兄上、もう灯篭は流しましたよ。どこに行っていたのですか」
「いや、あの参道を何度も行ったり来たりしていたような。そうでないような。
まるで狐につままれたようだ」
「私は…」
蘇璃は真っ赤な顔で、韓昭さんを見つめたかと思うと、照れた様相で目をそらす。
私と殿下は一緒に韓昭さんの方に視線をやるけれど、彼は何度も振り返り、首を傾げていた。
聞けば蘇璃と灯篭を流していて、気づいたら殿下が居なくなり、ずっと今まで探していたと。
蘇璃は、韓昭さんと灯篭を流していたと。
≪でも、その後口づけをしたのです≫と、三人での帰り道にこっそり教えてくれた。
それを聞いて、殿下との事が急に頭に浮かび、思わず兄の方を見る。
気付くと、兄の衣の色が全く変わっているではないか。
「兄上、衣の色が違いませんか?」
「ん?私は、朝からずっとこれだが?」
「そう…だったかしら……?黒字に紺の…」
「いつも軍服だから、普段黒や紺はあまり好まないだろう」
そう聞いて、萌黄色の兄の衣にもう一度触れてみる。
「私は、確かに…覚えがあるのですが…」
「……今日は、狐神のいたずらに皆が巻き込まれたようだな。
玉狐神君は、霧と火を操る化かし神。きっと、我らを試していたのだ」
兄は笑っているけれど、本当に不思議な事の多い一日だった。
あの川辺にいた男の人もだれだったのか。
今日は――私にとって、忘れられないほど特別な日だった…。




