第三十三話 狐火豊祭の始まり
初夏の風がさわやかに流れ始めた頃、まだ夜の冷気を残す山あいに、神聖なる白玉廟の狐火豊祭の日が訪れる。
狐火に見立てられる、野に置かれた灯篭。
山中にひっそり佇む白玉廟の白木を基調とした、古いながらも美しく清らかな社は、村の人がいかに手入れをし、大切にしているのかが窺えた。
そこには“玉狐神君”と呼ばれる白狐の神が祭られていて、廟の前には神使の白狐像が両脇に控えている。
参道の両脇には露店が並び、串団子や山査子飴、白狐を意匠した饅頭など目で見るのも楽しいものばかりだ。
香ばしい炭の匂いや蜜の甘さも重なり、通りは沢山の人で溢れていた。
私は寧王殿下とお祭りに行く約束をしていたのだけれど、≪高熱が出て、寝込んでいる≫と使いが来たので、いつものように兄と蘇璃と、早めに出かける事にした。
「殿下はこんな時期に、お風邪をめされたのか?」
「詳しい事はわかりませんが、朝晩は冷えますからね」
そう尋ねた兄に私が答えると、蘇璃が横から≪おかげでお二人と、ご一緒できて私は楽しみです。≫と言って笑った。
兄は今日珍しく後ろ髪も流し、衣も黒地に金糸が胸元を彩る華やかな物を身につけている。
「兄上、今日の装いは珍しいですね」
「朝お祖母様が、新しい衣を作ったから着てほしいと」
「お祖母様が?」
「普段は軍服が多いので、“たまには”と言って」
「濃い色が素敵です。よく似合いますよ」
「お祖母様孝行かな」
兄は、そう言って少し照れたように笑った。
「そう言えば、私もお祖母様に、狐火灯篭を流してきてくれと頼まれました」
私はお祖母様から預かった、願い事が書かれた紙を巾着から出し広げてみる。
中には≪良縁成就・心契永縁≫と、書いてあった。
兄上と蘇璃はそれを一緒に覗き込み、首を傾げている。
「これ、お祖母様が書いたのか?身体健康・無病息災とかではなく?」
「私は大奥様の事だから、家内安全・不老長寿かと」
兄と蘇璃は、二人で狐につままれたような顔をしている。
「わかった。雪児や媛羅のことではないだろうか?今年は婚姻が決まったから」
兄がそう言うと、皆で納得し≪では、灯篭は最後に≫という事になった。
私達はまず山間の白玉廟に行き、お参りを済ませる。
この山間は、皇室の碧霞山荘に近い。
そんな事を話しながら、苔むした石段を下りていたら、参道に並ぶ露店が目に入る。
その中にある、かわいい白狐のお面を手に取り、それを三人で買う事にした。
このお面をつけるのは、数年ぶりだ。童心に返ったようで、とてもうきうきする。
それから、包子を食べたり、麺を食べたり、山査子飴、きな粉飴、白狐餅、狐寿司など三人でどれだけ食べたかわからない。
本当に楽しくて、久しぶりに心から笑った。
こんな風に、心が穏やかな日はいつぶりだろうか。
これが毎日なら、どんなにいいかとそう思う…
日も暮れてきて、幻想的な狐火灯篭が野山を彩り白玉廟で、祈りの儀式が始まる。
笛や筝の音が、厳かに響き渡り、小さな鈴の音の合間に白狐に扮した巫女が、玉狐神君に祈りを捧げ始めた。
兄が”灯篭を流しに行こう”と言ったその時だ。
「蘇璃」
背後から侍女の蘇璃の名を呼ばれ、三人で振り返ると韓昭さんが立っている。
「韓昭、まさか一人ではないだろう?」
兄が驚き辺りを見回しているが、今日は非番で一人だそうだ。
狐火豊祭なので、≪皇太子殿下に休んでいい≫と言われ一年ぶりの休暇を得たと。
兄が一緒に行こうと誘うと、≪蘇璃と行きたい≫ときっぱりと断られ、蘇璃もびっくりしていたが、まんざらでもなさそうだ。
二人はどこか照れた様子で手を振りながら、私達と別れて行ってしまった。
「兄上、韓昭さんはどのような、お方なのですか」
「まじめすぎるほどまじめで、冗談が通じないこともあるが、誰よりも殿下に忠義のある素晴らしい男だよ。優しくて涙もろいところもあるし、人情もある」
「そうなのですね。良かった。それなら蘇璃を安心して託せます」
この時、韓昭さんがおかしい事など、私と兄は全く気付かず…
ただ久しぶりの休暇を、蘇璃と満喫できれば良いな。とそう思っていた。
~その時皇太子は~
狐火豊祭の当日。
凌媛羅は数日前から高熱と発疹が出て、碧霞山荘にも来ず韓昭は、≪安心して祭りに行ける≫と浮足立っていた。
私は怪我のせいで公務もなく、一生分の休暇を取ったような日々を過ごしていたが、あの白狐に会った翌日、不思議な事に足がすっかりと良くなり、歩けるようになる。
初めは韓昭と蘇嬢にしか言えず、数日後に往診に来た薬念神医に思い切って尋ねると
≪前回使った、骨に良い薬が驚異の効き目だったのかも≫と言っていた。
「薬念神医は、凄いですね」
「御医とは比べ物にならぬ」
韓昭は、薬念を尊敬し≪自分が怪我をしたら必ず神医に見てもらう≫と何度も言っている。
私と韓昭は、その日昼間はゆっくりと過ごし、祭りは日が暮れてから行こうと決めた。
狐火豊祭に出かけると、花冠祭りの賑わいを思い出す。
それほど人も多く賑わっていたが、あの時と違うのは皆白狐のお面をかぶり、狐火を見立てた提灯を手にしている事だ。
その指向が、普段目にするものではないからか、とても新鮮に感じる。
「殿下、私達もお面をつけて歩いてみますか?」
≪私は遠慮する。≫と断ったが、いつもより浮かれた韓昭は二つ買ってしまった。
「仕方がないので受け取ったが、このような面は子供の時でさえつけた事がないぞ」
「今日は、誰も殿下だと気づかないように、ついでなのでつけてみては。男も女子供も、皆つけていますよ」
周りを見ると、韓昭の言う通りだ。
皆楽し気に、一年に一度の余興を、家族や大切な人たちと堪能している。
それでも、私は面をつける事を躊躇した。
その後、豊穣の神をまつっていると言う玉狐神君の廟に参る。
廟前では巫女の舞いが始まり、大勢の人が集まっていた。
「韓昭さん」
その時、凌雪の侍女の蘇璃が私達に声を掛けて来る。
「蘇璃。一人なのか?凌雪さんは一緒ではないのか?」
私も韓昭も周りを見渡し、凌雪の姿を探した。
「今日は私一人なのです。大奥様のお使いもあって」
そう言って、手に≪永年長寿・不老不死≫と書かれた、流し灯篭を持っている。あの凌孟昊の母親が書きそうなことだ、と心の中で思わず笑った。
「私一人なので、一緒に川に流しに行ってもらえませんか?」
「いや、私は…殿下もいらっしゃるし」
「私は構わぬ。祭りに来たと言うだけで、特に何をするわけでもないのだから」
「皇太子殿下も、そう言ってくださっているではないですか」
蘇璃はそう言うと、私に丁寧にお辞儀をしてにっこりと笑った。
この時、なぜかいつもの蘇璃とは違うようなそんな感覚を覚える。
今日は一人だからなのだろうか?と、あまり気にも留めず、私達は蘇璃に案内されるまま、川べりに向かった。
蘇璃が灯篭を流しながら、川に落ちそうになり、韓昭が思わずそれを後ろから抱き留めている。
私はその少し後ろにある柳の木の下に座り、その光景をぼんやりと見ていた。
なんだかあの二人、この間の霽月堂から良い雰囲気ではないか?
私の気のせいか?
韓昭も年頃だし、そろそろ嫁を娶ってもおかしくない。
でもまた≪凌家の人間か≫となると、それもどうなのだ。
『良いではないか』
その時、ふとどこからか声が聞こえた。
祭りの音にかき消され、気のせいかと思った時だ。
柳の木の向こうから、小さな鈴の音がちりんちりんと聞こえてきて、思わずそちらの方に視線をやる。
何も変わったことはなさそうなのだが、その音が妙に気になって私は立ち上がり、確認することにした。
『凛宸、こっちだ』
その声と同時に鈴の音が少しずつ大きくなっていく。
すると目の前に、凌雪が見た事もない男と、川辺で流し灯篭を持ったまま話をしていた。
“ここに凌雪がいるではないか”と、蘇璃に声を掛けようと振り向くと、思ったより遠くに韓昭と蘇璃がいる。
男は、白地の衣に縦に赤色と金色の刺繍が施された、派手な衣を着ていて、普通の仕事をしているような感じではない。いわゆる楽師のような浮ついた感じで、凌雪の顔に指先で触れたりしている。
私は思わず、後ろの韓昭と蘇璃を見た。
二人はそれに気づきもせず、にこやかに灯篭を流している。
―――もし蘇璃が行けば、引き留められるのではないか。
そう思っていたら、目の前で男が凌雪の耳元に、唇が付くかつかないかのような近さで、にこやかに話しかけているのが目に入った。
≪なぜ凌雪は一人なのだ。寧王はどこに行った?≫
私は寧王が体調を崩している事を知らなかったので、てっきり凌雪は狐火豊祭に寧王と来ているとばかり思っていた。
私は意を決し白狐の面をかぶると、そっと凌雪のそばまで後ろから近づいていき、その手を取り走り出す。
それに驚いた凌雪は、流すはずであろう灯篭を慌てて手に持ち、私に引きずられるようにして、転びそうになりながら何とかついてきた。




