第二十四話 皇太子の仮面
皇帝陛下の生誕を祝う帝誕宴。
その宴も終盤に差し掛かり、来訪者たちがそれぞれ最後の挨拶を交わし始め、最後に凌孟昊が陛下に声を掛けに来た。
賑やかな音を立てていた筝や胡弓の音も、いつの間にか緩やかな曲に変わっている。
「陛下、それでは我が凌家もこれにて」
「うむ。今後ともよろしく頼むぞ。凌大将軍は天黎にはなくてはならない存在だ。今度はそなたの娘たちと共に、我が国家を支えてくれ」
そう言った陛下に、凌孟昊は固く前に手を組み、深々とお辞儀をする。
―――今日の宴は本当に疲れた。
久々の慶事という事もあったが、皇太子の仮面がこうも心身俱疲(身も心も疲れ切る)であろうとは、初めての事ではあるまいか。
あの霽月堂での一件以来、気持ちを切り替えるよう自分でも努力をし、母后の言う通りに、媛羅に気を使うようにもしている。
特に公の場では”媛羅に恥をかかせてはならない”と母に厳しく言われ、今日だって何度も腕を絡められたが、振り払う事もせず…
作り笑顔で、頬が痛くなったぞ。
早く王府に戻って、心の鎧を下ろしたい…そればかりを考えていた。
「煊王、寧王はどこへ行った?」
不意に陛下が、そばに居た私に尋ねて来る。
言われて辺りを見渡したが、その姿が見あたらない。
凌孟昊が、凌雪を連れ帰るのに彼らを探しているようだ。
蘇貴夫人は”凌雪が酒に酔ったため、寧王とどこかで休んでいるはずだ”と。
あの時凌雪は、賑やかなこの宴場で、ただ一人だけぽつりと座っていた。
寧王は婚姻を祝う臣下に囲まれ、その対応に追われていたからだ。
”媛羅の様に寧王の側に、行けばよいものを”と思い、気になって何度も視線がそっちに行く。それでも、彼女は凌家の席にずっと残ったまま…
浮かぬ顔で、一人で何か考え事をしているように見えた。
そのうち取り巻きを撒いた寧王が、凌雪の側に落ち着く。
初めは二人で和やかに話していたが、しばらくして凌雪が泣き始めた。
“一体何が起きているのだ”とそっちに気を取られて見ていたら、凌玄珣が寧王のそばに行き、一緒に凌雪を支えた。
今度はそれを見た凌孟昊が今度は凌雪に向かって、ここまで届く声で小言を言っていた。
≪駄目だろう!いつも父が言っているではないか!≫と…
それを寧王がなだめ、彼女を連れてどこかへ消える。
ずっとそっちが気にはなっていたが、貴人が”凌雪が酒に酔ったようだ”と言っていて腑に落ちた。
――まったく。飲めないのに凌雪は、なぜあのように酒を飲んだのだ?
私には、怒っていた凌孟昊の気持ちが痛いほどわかる気がした。
それから陛下が御苑殿にいるのでは?と、宦官に探しに行かせたが、どこにも見あたらないと言って戻ってきた。
「それなら、映月亭かしら?」
貴夫人は呑気に、そばにある果物に手を伸ばしながら嬉しそうに微笑む。
寧王と凌雪が一緒で、とても機嫌が良さそうだ。
父帝が≪では映月亭を探せ≫と、宦官に指示すると、その隣にいた母后が私に向かって思わぬことを言った。
「煊王」
「はい」
私はその呼びかけに、咄嗟に頭を下げる。
「媛羅と映月堂を、見てきなさい」
なぜ私が?と首を傾げたら、母は媛羅を見てこちらに何度も目配せした。
―――要するに今度は、媛羅と映月堂に行けと…そう言うのだな。
母上は、私に一体どれほどの気をこの女に使わせるのだ。――そう思ったが、後の小言も面倒くさいのでそれを飲み込み、凌媛羅にすぐ手を差し出す。
映月堂は宮中池のほとりにあり、月が映る雅な場所だ。
周りは木立が並び、少し目隠しにもなるので、何かあれば寧王が良く過ごす好きな場所でもあった。
唯一あの場所が良く見えるのが、私の執務室だ。
おかげでこの間、蘇貴夫人が凌雪を呼んでいて、見たくもないものを見た。
媛羅は少し赤らめた頬で、私に腕を絡めて来る。
歩きながら、手持無沙汰でふと、隣にいた彼女の方に視線をやってみた。
こうしてまじまじと、顔を見る事もなかった気がするからだ。
陛下が選んだだけあって、色も白く器量は良い方だ。
早くから蕙選も通過したようで賢く、家柄も凌家という事で申し分ない娘だろう。
…しかし最初から私は、なぜか好感を持てなかった。
直観というのだろうか…母上は慕うように言うが、こればかりはどうしようもない。
月明かりが照らす小道を、映月亭に向かって二人並んで歩く。
さわりと風が葉を揺らす心地の良い音と、遠くから聞こえる微かな音楽が耳を掠め、少し酔った体を優しくすり抜けていった。
その時ふと、媛羅が私に尋ねてくる。
「殿下、私は…おそばに居てもよろしいのでしょうか」
≪よろしいも何も決められたことなのだから、嫌でも仕方ないではないか≫
いつもの自分ならそう返しているであろう。
でも脳裏に母上の顔が、また浮かぶ。
「媛羅以外。おらぬではないか」
…真顔でそう言うのがやっとだ。
「うれしい。殿下、お慕いしております」
媛羅はにっこりと笑って、更に強く腕を絡めて来る。
――この茶番は一体いつまで続くのか。
私がため息を一つついたら、彼女がふと顔を上げたので≪酔いが回ってきたようだ≫と嘘をついた。
それから目の前に映月亭の池が見え始め、ぴたりとくっついてくる媛羅が、歩きにくいのを我慢しながら、私は池のほとりの東屋まで歩いて行く。
藤棚はすっかり緑だけになっていて、もう別の景色に変わっていた。
目の前に東屋の下に、寄り添い並んで座る寧王と凌雪が見える。
私が声を掛けようとしたら、媛羅が咄嗟にそれを止めた。
「殿下」
「なんだ」
「待ってください。静かに!」
急に真剣な顔になり、耳を凝らす媛羅に思わず息をのむ。
「一体何なのだ…」
そう言いかけたら、ふと寧王の声が聞こえて来た。
―――凌雪がいたから、今の私がある。
あの言葉とその笑顔に、私は心掴まれた。
私にとってお前は唯一無二の存在だ。
この先もし、父上に側室を娶るように言われたとしても、出来る限り断るようにする。―――と…
「素敵…」
そう言って頬を赤らめる隣の媛羅に、≪ばかばかしい!≫と一蹴し一歩前に踏み出したその時、天空に大輪の花火が上がった。
それは陛下の生誕を祝う宴の、最期を知らせる花火で、連続でいくつも上がる華の様な花火の美しさに、しばし目を奪われる。
「綺麗。殿下と見られて、とてもうれしいです」
そうつぶやく媛羅を見て、隣にいるのが凌雪だったら…
そんな事がふと浮かんで、東屋の方の二人を見た。
その時寧王が、花火に手を伸ばした凌雪の頬にそっと手を添え、静かに自分の方に向かせると、その影が重なる。
――それはまるで一枚の絵の様に、私の頭に記憶された。―――
今目の前に広がる光景は、私の決意の結果が見せたものだ。
けれどなぜだかわからないが、怒りとも悲しみとも何とも言えないようなドロドロした感情が、堰を切ったように込み上げてくるのを感じる。
どうすることもできない苛立ちに、生まれて初めて自分が皇太子であることを恨んだ。
でも今の私には、それを寧王にぶつける事も、あの場所から凌雪をさらう事もできないのだ。
そしてあの寧王のように、彼女に触れる事さえもできない…
「わぁ…」
小さな声で叫んだ、隣にいる媛羅にハッとする。
そして意を決したように、私は二人がいる東屋に勢いよく近づいて行った。
「おいお前たち!凌将軍が帰ると言っているぞ!早く支度をしろ!!」
今は、そう口にするのが精いっぱいだ。
これ以上口を開けば、何もかもさらけ出してしまいそうになる。
私の声で振り返った二人に、咄嗟に踵を返し、私は足早に来た道を戻る。
「行くぞ、媛羅」
「雪、早く来てね。お父様、待っているわよ」
そう凌雪に声を掛けた媛羅が、追い付こうと転びそうになりながら、必死に私を追いかけて来た。
「待ってください」
そう息を切らせているので、立ち止まり手を出してやった。
すると喜んで私の手をとり、とても上機嫌になる。
「殿下と、お手をつなげるなんて」
なんだか私と媛羅が、とても滑稽に思える。
情けないほどに…
母上が望んでいる事は、こんな事なのか?
「殿下も、お手を繋ぎたいと思ってくださり感激です」
別にこちらは手をつなぎたいわけでも何でもなく、早く引っ張って宴場に戻りたかった以外に何もない。
今見た光景を、全て記憶の中から消し去りたかった。
胸がえぐられるようなこの感覚…
凌雪が、私の心に深く浸潤していてこの痛みを与えている事に、軽い戸惑いを覚える。
寧王は彼女の事を、≪唯一無二の存在だ≫と言った。
でもあの寧王の言葉を聞いて、――私だって同じ思いを凌雪に抱いているのにと…
それから父帝の所に戻ると、上機嫌な媛羅を見て母后もとても満足そうだった。
「花火は見たかしら?とても綺麗だったでしょう」
そう言って媛羅の機嫌を取る母に、少し呆れた。
凌媛羅よりも、私に少しは気を使えないものかと。
そう思った時「煊王もご苦労でした」と一言ねぎらわれ―私の心の声が聞こえたのか―と驚く。
そこに少し遅れて、寧王と凌雪が戻ってきた。
私は視線を合わせず、二人が陛下に挨拶するのを聞いていた。
それを見る貴人もとても嬉しそうで
そこにいた誰もが、皆喜びに満ち溢れていた。
―――そう、私以外は。
母が言うように、凌雪もこれで良いのだろう。
≪女子は愛し愛されて幸せ≫なのだから。
ここでは私だけが、蚊帳の外なのだ。
しかし意外にも、凌雪も浮かない顔で馬車に乗り込んでゆく。
宴の初めより元気がないではないか。
その後媛羅が私に≪私たちに見られて、照れているのですわ≫とそう耳打ちをして
同じく馬車に乗った。
私は凌家の馬車を見送り、陛下に挨拶を済ませると
王府に戻ろうと支度をし、皇宮を後にした。
緩やかに揺れる馬車の中で、私を気にした韓昭が遠慮がちに話しかけて来る。
「殿下」
「なんだ」
「春冠祭の事をご記憶されていますか?」
「刺客に襲われた事か」
「違いますよ。凌雪さんと初めて会った時の事です。」
―――あの日は確か、ごった返した人の中で赤い糸を媛羅が取りに行くと言って、舞の中に入って行き、ずっと待たされていた。
その時お互いに赤い糸が絡まり、凌雪の頭の糸を私が取ってやった。
「まるで遠い昔の事のようだ…」
「あの糸には伝説があると、ご存知ですか」
「伝説?」
「あの赤い糸は、≪愛の神縁結び瑤心の糸」と言われていて、絡まり合った二人は、将来必ずや結ばれるのです」
「それで媛羅は、舞の中に入ってまで糸を取りに行ったのか」
「でも意外と知られていないのですが、その糸は“愛の女神瑤心”が結ばなければ意味がないと」
「どういう意味だ」
「今は赤い糸を市で買ったり、舞でもらったりして意中の相手に渡すのですが、瑤心が結んだ糸でなければ本当は叶わないそうです」
「その瑤心とやらは、どのようにして結ぶのだ?」
女子が好きそうな話を、韓昭が熱心に伝えて来るので、思わず真剣に聞いているふりをしてもつい笑ってしまう。
韓昭はこういった話が、割と好きだ。
「偶然絡まった糸にしか、意味がないのだとか」
「偶然絡まった糸?」
「殿下と凌雪さんの様に、いつの間にか知らぬ間に、お互いが糸で繋がっている場合だけだそうですよ。それを≪瑤心が結んだ糸≫というのだそうです」
―――本当に結んでくれるのなら結んでほしいものだ―。
そう思ったが、口には出さなかった。
韓昭が、元気がない私を慰めようとしているのだと感じる。
私は黙ったまま彼に微笑み返し、馬車の窓にかかる布をそっと避け、外を見た。
あの日待っていた桜の花びらは、今すっかりと葉桜になり、外には初夏の匂いも漂い始めている。
霽月堂以来韓昭は、私の気持ちを全て悟ったようで、前ほど凌雪の事をあえて言って来なくなった。
きっと私の立場も、理解しているからであろう。
私が決して、凌雪の方を向けない事も分かっているからだ。
「来週には狩りがありますね。青空の下外の空気を吸えば、殿下も良い気分転換になると思います」
「そうだな」
この時の私は薬念神医が言っていたように、この気持ちが自分ではどうすることができないものだとは、想像もできていなかった。
だから、自分で変えられると。
皇太子である自分を、きっと貫けると。そう思っていた。
――そう、この狩りの日に事が動き出すまでは…




