第十八話 寧王の婚姻の裁可
あの日凌府に凌雪を送り届け、正殿に通された私は、凌孟昊と玄洵に事の全てを説明する。
そして王府に戻ろうとした時、奥の部屋から、凌家の祖母の鍼治療をしていた、薬念神医と遭遇した。
神医は、私の血に染まった腕にすぐに気づき、
“煊王府でこの後至急手当てをする”と申し出てくれる。
その後、凌孟昊が用意してくれた馬車に乗り、神医が王府にやって来た。
「矢が当たった場所が、まだ腕で良かったですね」
そう言って神医は、私に横になるように指示する。
そして持っていた薬箱に、所狭しと並べられた沢山の小さな薬の瓶の中から、三個ほどの組み合わせを選んだ。
それを清潔な油紙の上に、匙で適量を出し、
まず少量の水で溶いてから、次に丁寧に筆で傷口に塗り込んでいく。
腕に微かなしびれのようなものは感じるが、不思議と痛みを感じない。
首から左肘にかけて、丁寧に鍼を打ち
その後手首に綿布をそっとかけ、脈を測る。
「殿下、少々心悸不寧(心臓がざわつき、不安や興奮で落ち着かない状態)で、ございます。私が煎じる薬を、今日はお飲みになって眠ってください」
私は神医に言われた通り、手渡された薬を侍従に渡し、それをすぐに煎じるよう命じる。
その後運ばれてきた煎じ薬を、私は苦さを堪えて一気に飲み干した。
「…苦い」
あまりにも苦すぎてそう渋い顔をしたら、≪良薬は口に苦しなのです≫と言って、神医は優しい顔で微笑んだ。
次に、彼は横たわった私の心臓の上に、あたたかい手のひらを添える。
その掌から放たれるぬくもりが、なぜかとても安心するような感覚を覚えた。
とても心地が良くて、まるで心が解きほぐされるような感じだ…
「心を手当てしますね」
「心を?」
“不思議な言い方をするものだ”と、じっとそんな彼を見る。
恵仁堂を任せてはいるが、こんな風にゆっくりと話をしたことなどなかった。
ずっと見ていると、なぜだか見覚えがあるような気がする。
…まるで遠い昔、夢の中で会ったことがあるような――そんなおぼろげな感覚が胸をよぎった。
「薬念神医…」
そう呼ぶと、彼はにこりと微笑んで首を少し傾げた。
「人を愛するという事は、どういう事なのかわかるか。」
――その顔を見ていると、思わず口をついて出た。
…なぜか神医なら応えてくれそうな気がしたからだ。
まるで、昔から知っている友のように…
彼は言葉を選びながら、口を開いた。
「そうですね。愛というのは、自分ではどうすることも出来ないお気持ちの事でございます。
全ての事から守りたいと思ったり…会いたい、触れたいと思ったり。その方を、慈しみ思いやる事でしょうか」
「自分では、どうすることもできない気持ち…」
「殿下の場合は、凌媛羅でしょう?」
神医はそう言ったが、自分の頭にふと疑問が浮かぶ。
私が媛羅に、そのような気持ちがあるのだろうか?
「もし、媛羅にそう思う気持ちが無ければ?」
私は思わず、聞き返してしまった。
すると神医は表情を全く変えず、話を続けた。
「もし今は思わないとしても、運命に逆らってはなりません。誰も幸せにはならないのですから。
特に殿下は…何事も簡単には許されないご身分でしょう。お立場もあります」
「寧王は許されるのに」
言った後、子供のようなことを口走ったと後悔した。
神医は、心を見透かすかのようにじっと私の目を見た後、何もかも知っている。…と言ったような顔で微笑んだ。
それでさらに気恥ずかしくなり、思わず彼から目をそらす。
周りは皆、口を揃えて何事も許されないと言う。
幾度も、繰り返し呪文のように聞かされてきた。
私もそんな事は、頭でわかっている。百も承知だ。
だから婚姻も父上の意に従っている。
―――でもなぜだろう。
「凌媛羅」が私の婚姻相手だと言われるたびに
気持ちの奥に何か釈然としない、自分にも腑に落ちない何かが渦巻いている…
神医はだまったまま、そっと私の身体の鍼を抜き始めた。
それから腕の傷にきつく布帛を巻くと、治療は終わったから早く休めと、そう告げて帰って行った。
翌朝、目が覚めると腕の傷が嘘のように良くなっていた。
傷口は確かにまだあるが、痛みはすっかり取れていた。
飲んだ煎じ薬も効いたのか、久しぶりにぐっすりと深い眠りについたようだ。
起きると頭がはっきりとしていて、昨日の出来事も遠い昔のように感じた。
気持ちが晴れやかで、まるで心の雲が取り払われたように感じる。
悶々と悩んでいたことも嘘のようだ。
彼が神医だと呼ばれている理由が、わかるような気がした。
それから皇宮の正殿で朝議が一通り終わり「何か他にある者は?」と尋ねた父帝に、昨日の事を報告しようと、一歩前に踏み出したその時。
先に口火を切ったのは陛下の方だった。
「寧王李璿、前へ」
そう言われて寧王が両手を前に組み、陛下の正面に進み深く一礼した。
「はい。陛下」
「皆の者、この度この寧王と大将軍凌孟昊の次女凌雪との婚姻を、認める事とする」
その言葉に、その場がざわめく。
そこには、父親の顔をした陛下の姿があった。
私は、斜め後ろ横にいた凌孟昊に視線を送る。
彼は真っ直ぐに陛下を見つめたまま、微動だにしていない。
昨日あの事件の後、凌雪を凌府に送り届けた際、
このままだと娘たちの命が危ないと、かなり憂慮していた。
今までの調べから、黒幕は恐らく慶淵王李昶で、
そちら側についている貴婦人と寧王の事を考えると、
凌雪は嫁がせるのが一番安全なのではないかと、そう考えたのか。
「ありがたく、陛下の勅旨を お受けいたします」
そう言って、寧王はもう一度深々と頭を下げた。
「大将軍、これからは煊王と寧王を頼んだぞ」
そう言った父帝に、凌孟昊は前に手を組み一礼する。
私の方には一度も視線を向ける事はなく、表情は硬いままだ。
父帝の決断に、私からは何も言えず、
朝議が終わりその場は解散となった。
その後すぐに私が凌孟昊に話しかけようとしたら、寧王に先を越される。
「凌大将軍」
「寧王殿下」
お互いに向かい合い挨拶を交わすと、凌大将軍はすぐに本題に入った。
「この度は、ふつつかな娘でございますが
これからも末永く、どうぞよろしくお願いします」
「陛下も決めかねる、難しい縁だと聞いておりました。
凌雪を任せてくださり、感謝申し上げます」
そう言って深々と頭を下げた寧王に、凌孟昊は面を上げるように慌てる。
「寧王殿下、将軍としてではなく凌雪の父として
昨日お約束くださったことを胸に、娘を託します。なので、どうか…」
「ご安心ください。私の全てを掛けて凌雪をお守りいたします」
そう言った寧王に、凌孟昊は少し目を滲ませ頭もう一度を下げた。
そして寧王は私の方に軽く頭を下げると、その場から立ち去って行く。
二人の会話から、昨日凌府に来ていた寧王と話が付いたのだと、察しはついた。
――それが、凌孟昊の決断だという事も。
あのようなことがあれば、それも仕方がない…
私はそれ以上何も言わず、凌孟昊に小さく頭を下げると
袍の袖を翻し、執務室に足を向けた。
―――それから昼までずっと執務室にこもる。
太府寺(皇室の財産・物資・会計を管理)を取り仕切っている高袁正から、何度精査しても合わぬ所があると言われて、帳簿を確認していた。
すると昼餉の時間だと侍従が知らせに来る。
忙しいのでここで取る、と伝え帳簿の続きを見ていると、
ふと外から蘇貴夫人の、高らかな笑い声が聞こえてきた。
そばに居た韓昭がそれに反応をして、窓に手をかけ外の様子をうかがっていたが、私を気にしながら、気まずそうに戻ってくる。
それと同時に昼餉が届き、書案(執務机)の横の円台に侍女が食事を並べた。
「殿下、いただかないのですか?」
「区切りが良いところまで」
帳簿から目を離さずそう言うと、韓昭は笑い声が聞こえる度に、窓の外へ視線をやった。
「気が散る韓昭。一体なんなのだ」
私は、帳簿から目を離さぬまま彼にそう尋ねる。
「殿下はご覧にならない方が良いかと…」
「なぜだ。貴婦人がいるだけだろう」
「それだけでは…」
韓昭の、奥歯に物が挟まるような言い方が気になり、勢いよく椅子から立ち上がると窓に近寄り外を見てみた。
見れば映月亭で蘇貴夫人と寧王が、凌雪と用膳(食事)をしていた。
「早速蘇貴夫人に、呼ばれたようですね」
韓昭が私に耳元で言った。
―――昨日はあんな目に遭い、大層泣いていたのに。
貴夫人に話を合わせ、にこやかに頷く凌雪の変わり身の早さに呆れ、
側に立っている韓昭を押し飛ばし、すぐに着席した。
「殿下も昼餉をいただきましょう」
そう彼に勧められて、一度は昼餉に視線を送ったものの
「いらぬ」と答えて部屋を出る。
あの笑顔を見ると、昨日の自分があのように必死で助けたことは
一体何だったのだろうかと、ふと腹立たしく思う。
…その苛立ちの原因が、この時の私にはまだわかっていなかった。
それから、母后のいる后宮に出向きお声を掛けた。
「どうしたのです。何かあったのですか?浮かない顔をして」
后宮の奥静かなる庭園にて、母后はひと時を過ごしていた。
その緑多き場所は、日差しが美しい。
色鮮やかな鳥が、良く遊びに来ている場所で、
幼き頃、私はよくここで遊んでいた。
侍女に通され、母后の目の前に座すと、
私の顔色を見て、心配した母自ら丁寧にお茶を淹れてくれた。
その茶器をそっと口に運ぶ。
「母上。お元気でしたか」
「私は見ての通り。あなたの方が、元気がないわね。
昨日矢傷を負ったと聞いているけれど、体は大丈夫なの?」
「はい。ほんのかすり傷です」
「なら良いのだけど…。無理はしないでね。大事な体なのだから」
そう言って私の方を、いとおしそうな目で見つめた。
「煌、婚礼の準備は進んでいるの?」
私を元気づけようとしたのか、母はにこやかにそう尋ねてくる。
「私は、何もすることはありません。周りが全て、お膳立てしてくれますから」
そう言って笑ったら、母は神妙な顔つきになり、
そばに居た侍女を払った。
しばし二人だけの語らい。
いつぶりだろうか…
「凌大将軍のお嬢さんとは、うまくいっている?」
母は、私に確かめるように尋ねた。
「うまくいくもなにも。この婚礼は国のため。民のため。
それ以上もそれ以下もありません」
それを聞いて母は小さなため息を一つつき、正面から私を見据える。
「煌。確かにあなたは、この国を背負うと言う大事な責を担って生まれて来ました。でもね、これから人生を共に歩んでいく妻を、ないがしろにしてはなりませんよ」
黙ったまま耳を傾けている私に、母は続けた。
「あなたが皇帝になれば、その重責はますます大きくなりもっと皆の力が必要となるのです。それは妃も例外ではありません」
「正室も娶ります。陛下が蕭烈微をとおっしゃっていました。安心してください。そうすれば、隣国との関係を強固にもしますし…」
そう言いかけた時、母は私の言葉を遮るようにして手を握る。
「煌、あなたの事を心から大切に思ってもらってこそが、妃なのです」
「母上…」
「あなたの立場は、常に敵と隣り合わせ。
昨日の味方が、今日は敵になるのかもしれないのですよ。
妃には、誰よりもあなたの味方でいてもらわなければなりません」
「味方?」
「女子は、愛し愛されてこそ身も心も捧げてくれるのです。
例え陛下の決めた婚姻だとしても、これから凌媛羅を大切にし
母が言うように、もっと彼女に気を配るのです」
「愛し愛されてこそ…?」
「彼女は賢い女子です。きっとあなたの役に立ってくれるでしょう。
一番身近な妃を、絶対に敵に回してはなりません。それは蕭烈微も同じです」
「母上、私は婚姻で味方を作らねばならないのですか。そのために愛せと?」
「煌…?」
「今朝、陛下が寧王に婚姻の裁可を下されたのをご存知ですか。
相手は大将軍の娘凌雪です」
「寧王に凌雪を?」
「はい。でも寧王の婚姻の理由をご存知ですか」
「陛下が煌と同じ凌将軍の娘を、寧王に娶らせるなんて…」
「寧王が、凌雪を慕っていると懇願したからです」
「凌雪を慕っている?」
「寧王は、凌家と縁を結ぶことが、どういう意味を持つのか
理解したうえで、凌雪を望んだのです。
寧王が凌雪に言っていました。『私の目にはそなたしか映らぬ』と…
私は、そのような気持ちを凌媛羅に思えません」
「煌…」
「私には、この婚姻が疑問に思えてきました」
自分でそう言い放った時、心の中の小さな波紋が大きくなっていくのが分かった。
――私は凌媛羅を、愛するなどできない。
そう母に言うと、勢いよく立ち上がり
引き留める母后に踵をかえし、韓昭を伴って執務室に戻った。
そしてもう一度窓の外に視線をやると、人影が無くなっている。
私は深く息を吐き、黙って席についた。
「殿下、少し何か召し上がりましょう」
そう言って韓昭が、下げられていた昼餉の代わりに水菓子を頼み、それが茶と一緒に運ばれてきた。
――「心を手当てしますね」
あの時の薬念神医の手の温もりが、今も僅かに残っているようで胸の奥に不思議なざわめきが広がる。
彼に治療してもらい、今朝はせっかく良い気分だったのに。
なぜだか、寧王の婚姻話に気をかき乱されている。
「殿下…」
そんな私を韓昭が心配そうに見つめていた。
ずっとそばにいる彼は、いつも私の心が見えるかのような物言いをする。
自分にさえも、よくわからないのに…
この気持ちが何なのか。
気づくのにそう時間はかからなかった。