第十七話 凌孟昊の決意
丁度母の蘇貴婦人と、御苑亭に咲き誇るつつじを愛で茶を飲みつつ、
時を過ごしていた時だった。
「蘇貴夫人、慶淵王殿下からの文が参っております。何か手違いが起きたようで」
そう言って母の従者杜衛が、叔父慶淵王からの急ぎの文を母に手渡しに来る。
叔父上からと聞いて、一体何が書いてあるのかと気がかりになり、私は母に見せるように言った。
その文には、“黒襲門が今日皇太子と凌媛羅を、始末する手はずであったが、手違いで凌媛羅ではなく凌雪と入れ替わってしまい、彼女の命の保証ができない”と…書かれてある。
「一体、これはどういう事ですか」
私は咄嗟に顔色を変え、母にそれを突き付けた。
横にいた杜衛に、私の剣を用意し馬をすぐ出す様指示する。
そして勢いよく立ち上がると、その様子を見た母が、慌てて私の手からその文を取り上げた。
再びそれに目を通すと、すぐに私の腕を掴んで言う。
「璿や、今行ってはなりません」
「母上。でも凌雪が」
「あなたが行けば、“なぜこの事を知っているのか”と疑いがかかるでしょう。
そこには皇太子もいるのだから!
この計画が慶淵王の物だと言う事も、露呈してしまうのですよ!」
「手を離してください。叔父上は、“しばらく凌家の者には手を出さない”と言っておりました。なのに、なぜ凌媛羅を囮にしたりして、兄上を呼び出したのですか」
母は一瞬の沈黙の後、重い口を開く。
「私が早く煊王を始末するように、慶淵王に頼んだのです」
それを聞いて、私は驚きが隠せない。
…なぜ母上が?
「なぜです。母上はどこまで慶淵王の計画に、絡んでいるのですか。
そこまでして兄上が邪魔なのですか。だからと言って凌媛羅まで」
「あなたにこの国を、担ってほしい意外に何があるのですか」
そう強く言い母は目を潤ませ、正面から私の目を見据えると、私を絶対に行かせまいと掴んだ腕を更に両手で強く掴んだ。
「私に、皇太子の座を奪えというのですか?」
「私は、あの女の息子がゆくゆくは皇帝になるなんて、我慢ならないのです」
――そんな理由で兄上を?そのせいで凌雪が危険な目に…
「私は、凌雪に何かあれば、母上を一生許しません」
私は、母の手を勢いよく振りほどくと、踵を返し足早に皇宮から出ようとした。
するとふと門の手前で、神妙な顔で慌てて正殿に向かう凌玄珣を見かけ、思わず声を掛ける。
「凌玄珣」
引き留めると、彼はこちらに振り返り両手を組み一礼した。
「寧王殿下」
「どこに行くのだ」
「大事が起き、陛下にお取次ぎを」
「一体何があった」
素知らぬ顔でそう尋ねると、凌玄珣は私の顔をじっと見つめる。
「殿下…凌雪が…」
そうつぶやいた彼の顔は悲壮感であふれ、珍しく動揺が隠せない。
事の次第を知ってはいたが、こちらから言うわけにもいかず…
今知ったかのようにして、彼に詳しい事情を聴いた。
叔父上の文と違い、詳しい凌玄珣の話を聞いていると、なぜ凌雪が凌媛羅と入れ替わったのかそこに疑問が浮かぶ。
まさか、凌媛羅が気づいて仕組んだ?
――そこまでずる賢くもあるまいが…
拭いきれない疑いを抱えたまま、私はその足で寧王府へ戻った。
それから部屋に戻ると、“様子を見てくるように”と隠密の雲肇を、峠に行かせる。
彼が戻ってくるまで、気が気ではなかった。
母の言う通り、私が行けば叔父上の計画が露呈する。
いや、それどころか首謀者が私だという事にもなりかねない。
しかし、何もできず凌雪の無事を祈るしかできない自分が、心の底から情けなく感じた。
私は部屋を右往左往し落ち着かない時をすごす。
―――頼む。どうか兄も凌雪も生きていてほしい。
ただじっと待っているだけの時刻は、まるで拷問のようだった。
雲肇が戻ってきたのは亥刻の半ば(夜9時半ごろ)。
≪煊王が助けに向かい、蒼羽隊や、鋼龍隊が黒襲門を撃退し、凌雪を救い凌府へ向かった≫と。
それを聞き、安堵の気持ちが押し寄せてくると同時に、凌雪の無事な姿を一目でも見たいと思った。
何か口実はないかと、考えを巡らせる。
凌玄珣から話を聞いていたので、心配していたことにして、母に先日もらった最高等級の貴重な霊芝を、凌雪のために届けることにした。
私はすぐに身支度を整え、馬車を凌府へ向かわせる。
そこには無事に帰宅していた凌雪と、兄煊王李煌の姿もすでにあった。
…二人とも無事で安心する。
どうやら一通り、大将軍に説明もついたようだ。
兄上が凌府を後にした後、凌孟昊と凌玄珣に書斎に通される。
きちんと整理された書斎。
部屋は沈香の香りで満ちており、隣国の珍しい金の装飾が施された剣が二本ほど、飾り棚に飾られている。
凌親子は私に丁寧にあいさつをし、一礼した。
「殿下。まさか今日お見えになるとは思わず。
大したおもてなしもご用意しておりません。お許しを」
「そのようなことは期待しておらぬ。先ほど皇宮で凌玄珣に出会い、事の次第を聞いた。
あまりの驚きに、じっとしていられなかったのだ」
私がそう言うと“確かに”といった顔で、凌玄珣が深々と一礼した。
「なぜ凌雪が、かようなことに巻き込まれたのだ」
その疑問はずっと頭の中で、消えないままだ。
聞けば夫人と凌媛羅は、まだ凌府に帰宅してないらしい。
「まだ調査中ですが、雪によると誰かが≪玄洵が先に早く帰るように。≫と、言ってきたと。
馬車が用意されていたそうです。ただ誰が雪に伝えたか、本人が言わぬので」
「私はそのような事はしておりません」
それを聞いた玄洵が、凌孟昊と私に毅然とした態度で否定した。
凌兄妹は、景都でも有名な仲の良い兄妹だ。
凌玄珣が車を用意するなら、それ相応の護衛もつける。
やはり、凌媛羅か?
凌雪は、凌媛羅を庇っているのか。
――もし姉の媛羅が伝えたとしたら、つじつまが合う。
まさか自分が襲われると何かの拍子に知って、凌雪を身代わりにした?――
そんな事を考えていたら凌孟昊が、私に思わぬことを言い出した。
「寧王殿下。雪とのご縁談でございますが。もしも娶っていただけましたら、このような事がまた起きた時、迷わず雪を助けていただけますでしょうか」
その目は、これが“叔父上の策略ではないか”と気づいている目だった。
「父上」
凌玄珣も、意外な父の言葉に驚きを隠せない。
「今日は、媛羅を助けに向かわれた皇太子殿下に、偶然にも雪が、助けていただきました。
しかし皇室に嫁がせるという事は、私の手を離れるいとおしき我が娘たちに、このような危険がいつ起きても不思議ではないという事。
雪は、寧王殿下が必ず守ってくださると。そうそれがしに、お約束していただきたいのです」
――凌孟昊は知っている。
父帝の弟 慶淵王李昶が、謀反の気持ちを抱いている事。
そして母上が、李昶側の人間であること。
ゆえに皇宮に不穏な事態が起きたときは、私に身を呈してでも雪を守ってほしいと…
万が一兄と対峙することがあれば、お互いが剣を抜く。
私が倒れれば、その約束を守れるかどうかはわからない。
――それをするな、と…
凌孟昊は私に言っている。
「私の、この命を懸け必ずや、凌孟昊大将軍の願いを、しかと聞き遂げるとここにお約束します」
そう言って胸の前に手を組み一礼すると、凌孟昊は何も言わず、私に深々と礼を返した。
―――彼は、遠回しに兄を裏切るなと…そう私に言っているのだ。
それから、とりあえず持ってきた霊芝を見舞いだと言って渡すと、せっかくだから凌雪の顔を見て行けと言われ、部屋の前へ案内される。
廊下からの満月が、特に大きく明るく見えたのが印象的な夜だった。
凌雪が既に休もうとしているのではないかと、気が引けたのだが、侍女の蘇璃がどうしても…と、部屋の中へそそくさと呼びに行ったので彼女の部屋の前で待つことに。
するとすぐに、しっかりとした木組みの扉がゆっくりと開き、凌雪が中から出て来た。
少し疲れた顔が月明かりに照らされ、私を見つめる目だけが、まるで濡れているかのように黒く光っていた。
「凌雪、どこか怪我はないか。恐ろしかっただろう…」
「はい。大変ご心配を、おかけしました」
そう言って、彼女は私に一礼した。
「なぜ、このようなことに…」
「私が悪いのです。私が…」
そう言って、今にも泣きだしそうな目で私を見た。
「お前は何も悪くないではないか」
その目から零れ落ちた大粒の涙を、思わず指先でぬぐった。
その涙を見た時に、思わず彼女を抱きしめてしまいそうになる。
――それほど凌雪が、心配だった。
あの映月亭の時と変わらず、大きな黒い目が、涙で見る見るうちに潤んでゆく。
「煊王殿下にお怪我をさせてしまいました」
「兄上に?」
「飛んできた矢に、腕を刺されてしまって」
先ほど見た兄上は、気丈そうだったがやはり怪我を負っていたのか?
矢が刺さった…そう聞いてそれが胸や頭でなくてよかったと安堵した。
その時、ふと母上の言葉を思い出す。
なぜ、あのような恐ろしい考えに至ってしまったのだろうか。
少なくとも命を奪う事を考えるような、そんな人ではなかったはずだ。
「私の兄上は強いので大丈夫だ。
私は、兄上に剣術や弓で一度も勝ったことがないのだよ。兄には戦神が付いているのだ」
そう言って笑いかけたら、凌雪はほっとしたような顔になって不安が解けた顔を見せる。
「今日は疲れただろう。早く休んで元気にならねば」
「はい。殿下も、今日はご心配をおかけしました」
そう言って、叱られた子供の様にしょんぼりとした凌雪に微笑み返し、私はその場を後にした。
次の日の朝早く陛下に呼ばれ、正殿に出向くと、凌孟昊から早朝文が届いたと聞かされる。
≪かねてから打診されていた、寧王と娘雪の婚姻を陛下の裁可でどうか決めていただきたい≫という物だった。
少し遅れて母も呼ばれ、今日私と凌雪の婚姻を朝議で話すと伝えられる。
そして勅使を今朝、凌府にやったので、昼にでも凌雪を呼ぶようにと。
隣に立ち、満面の笑顔で喜ぶ母と違い、私はなぜだか素直に喜べなかった。
――昨日の騒動は叔父上の計略だ。
凌孟昊は気づいている。
だからこそ、まるで凌雪を娶るために、卑怯な手を使ったような気がして。
そんな胸の奥に痞えが、私には残っていたのだった。