第十六話 嫉妬の裏の禍
「戦に勝つだけでは名将にあらず。民の苦しみを知れ」
それはいつも、父がとても大切にしている言葉だ。
私と雪は、母に連れられ『南煙港』という
景都の南部にある貧しい地区に、恒例の炊き出しに出かけた。
もちろん数人の、侍従や侍女の春桃や蘇璃もいっしょだ。
今回がいつもと違うのは、私が皇太子殿下の婚約者という事もあり、
陛下の命を受け、近衛武官の衛瑛という護衛の方もご一緒という事。
私達は危険を回避するため、常に面紗をし、
なるべく顔が見えないようにして移動する。
南煙港は、城壁の外れにあり、どこからも見捨てられたような貧民街だ。
汚い子供が衣を引っ張ってきたり、炊き出しの椀をずっとなめていたりと…
それを目にするのが、私はとても嫌いだった。
そこでも雪は楽しそうに、皆に声を掛け炊き出しの粥を配ったり
老人たちの肩を揉んだり…
一緒に遊びながらも、子供たちの髪を結んであげたりしていた。
帰りに泊まる予定の旅舎に到着すると、私達三人は茶堂でお茶をいただく事にする。
「皆さん、とても喜んでいたわね。あなたたちもご苦労様」
そう母が、私と雪に言うので、軽く頭を下げた。
「炊き出しに出かけるのが、私とても好きだわ」
「あら?どうして?雪児」
「母上や姉上と、こうして旅ができるもの」
そう言って雪は、隣に座っている母の腕に甘えてじゃれている。
それもいつもの光景だ。
「媛羅も、今年の炊き出しは特別ね。
民に寄り添う姿を見せる事で、
皇太子殿下とのご婚姻を、一層皆に祝福していただけるもの」
母は、いつも私に配慮してくれた。
でも、こうして一緒に過ごすとよくわかる。
雪にはあって、私にはないものが。
母は雪の頭をなで、皆が喜んでいたのは彼女のおかげだと、にこやかな笑顔を見せていた。
私には、ご苦労様というねぎらいの言葉しかない。
「母上、少し風にあたってきます」
「あら、疲れたの?気を付けてね。今夜は、早めに休みましょう」
私はその足で旅舎の入り口をでて、脇に並べられた椅子の一つに腰を下ろした。
裏路地に面したそこで、深いため息を一つつく。
その時ふと路地の奥の方から、中年の二人の男の話声が聞こえて来た。
「明日の朝馬車で連れて行くだけで、金がもらえるのか?」
「そうだとも。馬車に乗せて城壁近くの廬山の、峠に上がる山道を入って行けばいい」
「皇太子の名前使って呼び出すだなんて、なんだか気が進まないな…」
「しかも呼び出すのは、凌媛羅って言う皇太子の婚約者だそうだ」
「顔が分かるのか?女たちは皆面紗で隠しているぞ」
「頭に翡翠の簪を付けているらしい。
他にはないものらしいから、それでわかるって。
なぁ兄貴、その女殺されちまうのかな」
「物騒なこと言うなよ。まぁ、どっちにしても俺たちは関係ないさ。
言われた通り仕事して、さっさと金だけもらおうぜ」
男たちは、そう言ってお互いの手のひらを、音を立てていき良いよく合わせると、意気揚々と裏戸の方に向かって行く。
私は、声が出ないよう思わず口元に手を添えた。
しばし震えが止まらない。
――殿下の名前で呼び出されて、殺される?
どうして?まさか殿下が私を邪魔で?やはり嫡子の雪がいいとか?
私は、じっと頭の中で考えを巡らせ続けた。
それから一睡もできず、母と雪の隣で夜が明ける。
朝から、鏡の前で楽しそうに身支度をしている雪の顔を見て、ふとある考えが浮かんだ。
「雪?」
「何?姉上」
「雪の簪、とってもかわいいわね。その藤の花の簪」
「これ?これは兄上が、この前の花冠祭で買ってくれたものなの」
「兄上が…これから兄上や雪たちと離れて暮らすかと思うと、私、とてもさみしいわ」
「姉上…」
雪は、そうしょんぼりとした私を、泣きそうな顔になって両手で抱きしめた。
「雪、私の事忘れたりしないでね」
「忘れるはずないわ」
「雪、この簪と雪の簪、姉妹の証に交換してくれない?」
私は頭から、そっと殿下にもらった翡翠の簪を外すと、雪の目の前で見せる。
「でもこれは…私は受け取れません。
だって姉上が煊王殿下から頂戴したものですよね」
「いいの。私は雪に受け取ってほしいの。こんな簪の一つ。
いつでも下さると約束したわ」
「でも…」
「雪のその藤の簪を見て、兄上と雪の事をいつも思い出したいの」
「では、これはあげます。でもその翡翠の簪は、姉上が持っていてください」
何度言っても、雪は殿下から姉上への贈り物だからと、決して受け取ろうとはしなかった。
そこで私はひらめいて、簪が二本ほど入った巾着袋を持ってきて、
その中からお祖母さまにもらった、翡翠の簪を雪の目の前に取り出す。
「雪、これならどうかしら」
「これ…」
「お祖母さまが下さった、雪がずっと欲しがっていた簪よ」
雪はそれを手に取ると、じっと見つめてから小さく頷いた。
「では、私がつけてあげるわね」
そう言って雪の頭に、玉の翡翠が連なって揺れる、飾り簪をそっと刺す。
すると彼女は自分の頭から外した藤の花の簪を、私につけてくれた。
その後もうすぐ出発だと言う時間まで、私たちは朝餉をいただく事にする。
そして食事が終わり部屋に戻ろうとしたら、昨日の裏路地の男の一人が話しかけて来たので、私が対応した。
「凌媛羅さんは?」
そう言って、男は私の頭の簪を確認するようにして見た。
「姉はここにはおりません。何か御用ですか?」
「あの…皇太子殿下が、至急秘密裏にお会いしたいと」
そう言って殿下の物らしき文を見せる。
きっと筆跡が似た、偽の文だろう。
「そう言う事で、迎えに来た別の馬車に、急いで乗っていただけないですかね」
「すぐ出発するのですか?」
「はい。皇太子殿下も急いでいるから、早く来てほしいと」
そう言われて、私は決意の深呼吸をする。
それからその男に踵を返し、急いで部屋へ雪を呼びに行った。
――雪がいなくて福丸の具合が悪く、死にそうだと。
大至急帰ってほしいと、兄上が急ぎで馬車をよこしたと。―――
そうすると雪は顔色が変わり、大慌てで荷物を母と私に託す。
とるものも取らず蘇璃と迎えの馬車に、確認もせず乗りこんだ。
そして昨日のもう一人の男は、雪の翡翠の簪を確認すると、先ほどの男に目配せをし、御者として馬車を出す。
その後、私と母が出発しようとした時、護衛の衛瑛さんが私に話しかけて来た。
――雪はどこへ行ったのかと。
私は、用があり先に別の馬車で帰ったとだけ告げる。
何かを考えていた衛瑛さんは、外にいた二人の別の護衛と慌てて何かを話し合うと、そのうちの一人をすぐに早馬で帰らせた。
「媛羅、行きましょう 」
母が優しい笑顔で、私になんの疑いもなくそう声を掛ける。
――最愛の娘に、二度と会えないかもしれないのに。
母の気持ちを思うと、私の胸は少しだけ苦しく感じた。
でも悪いのは私ではなく雪の方だ。
いつも媚を売るような笑顔を振りまき、作態を弄して寧王にも近づいていた。
あの日の事を、私が何も知らないとでも?
藤の宴の夜、御苑殿の中庭で殿下と雪は話し込んでいた。
その時の殿下の雪を見る眼差し。
滲んで揺れるその深い情誼を帯びた目が、ずっと雪を捉えていた。
殿下は雪に色目を使われても、何も気づいていないのだ。
あの目を見て、殿下の心は惑わされ始めていると感じる。
そう思うと、私のこの選択は間違えていない。…と確信したのだ。
ーーーー皇太子の執務室にてーーーー
「殿下!大変です!」
上訴の確認をしていたら、鋼龍隊の沈嶺が大慌てで執務室に入ってきた。
鋼龍隊は皇太子直轄の精鋭部隊だ。
私の身辺警護だけではなく、機密任務や国境偵察を担う選び抜かれた精鋭達だ。
「なんだ」
「黒襲門の動きがありました。
凌媛羅殿一人を、殿下の名前で廬山に呼び出したそうです」
「それは危険すぎる!彼女の命が危ない」
「お嬢様には、蒼羽隊もついております。
場所は峠へ向かう方角かと」
「わかった。沈嶺、すぐに蒼羽隊に援護を頼んでほしい。
黒襲門の刺客も一網打尽に捉え、なんとしても黒幕を吐かせるのだ」
「はい」
「急いで向かわねば。今媛羅には衛瑛が守りについているな」
私はそれを確認すると、韓昭と一緒にすぐさま剣を持ち、急いで御馬所に急ぐ。
外殿にて、待機していた愛馬玄風に駆け寄り、片足を鞍にかけると勢いよく鞍上に飛び乗った。
「門を開けよ!!道を開けるのだ!」
そう待衛達の怒声が響く中、門扉が開かれ“誰よりも早く凌媛羅のもとに駆け付けねば”と決意新たにした。
十里(5キロ・中国)ほど走っただろうか。
早馬に乗った蒼羽隊の沈昊天が、前方から馬に乗ってやってくるのが目に入る。
私は手綱を引くと、馬の速さを少し落とし始めた。
すぐ後ろを走っていた韓昭が同じように馬の速度を落とし始める。
沈昊天は、勢いを止めないまま私の前まで来ると、
一気に手綱を引き、馬の高い嘶きと共に私の側に寄った。
「殿下!大変です。凌媛羅ではなく、凌雪が連れて行かれました」
それを聞いて、一瞬頭の中が白くなるのを感じる。
「なぜだ!」
「わかりません。衛瑛はずっと凌媛羅についていたのですが、途中から凌雪の姿が見えなくなりおかしいと。
黒襲門が動いているのは確かなのですが、裏にいるのが李昶なら、呼び出したのは寧王なのではないかと!」
「まさか。我々が突き止めた情報では
彼らは凌媛羅を呼び出し、殿下を誘う算段です。寧王の名前は出ていません。
そんなはずはない!」
韓昭が自分で確かめるかのようにして、私に伝えた。
「でも凌雪は、侍女の蘇璃と一緒に、もう廬山峠に向かいました。
護衛は凌家の従者一人のみです。
とりあえず蒼羽隊は、今から凌雪救出に向かってよろしいでしょうか!殿下!」
考えている暇などなかった。
「とりあえず、私は先に廬山に向かう。沈昊天、蒼羽隊に至急周知し援護を頼む」
そう言うと沈昊天が強く頷くのを確認し、すぐに馬の鞍をけり玄風の力の限り走らせた。
―――頼む、凌雪。無事でいてくれ。
これほどまでに、何かを心から祈った事などあっただろうか。
逸る気持ちに、玄風の足が追い付かない。
握る手綱が緊張で汗ばんでくる。
今回、黒襲門が動くことはわかっていた。
大将軍家の夫人の善行は、凌媛羅を狙う格好の良機だ。
そうすれば、皇宮の外で私を確実におびき出せる。
媛羅には、衛瑛を護に付けていた。
蒼羽隊の新鋭はたった一人でさえも、ちょっとやそっとの事で、黒襲門などに負け劣りはしない。
だが、凌雪には今凌家の従者の護衛一人のみしかついていない…
「はっ!」
玄風に鞭を打ち、幾度も声を張り上げ催す。
そして更に十里ほど行った、廬山峠に続く険しい山道を、私は迷わず入って行った。
すると前方に、凌家の物ではない馬車が止まっていて、黒装束の男が3人見える。
一人は叫ぶ侍女蘇璃を、羽交い絞めにして馬車の横に立たせ、残りの男二人が、泣いている凌雪の両手を引っ張りながら、馬車から無理やり引きずり出そうとしているが見えた。
もう少しで、馬車のそばまで行けそうだったその時、両脇の山から一斉に無数の矢が飛んでくる。
この様子では、きっと奴らは数人どころではない。
「殿下!」
韓昭が後ろから叫びながら 馬の上で勢いよく剣を抜く。
私もそのまま剣を抜き、できるだけ矢を裂けようと身を屈めた。
「おまえら!この女を殺すぞ!とまれ!!」
凌雪の側の一人の男が、こちらに向かって大声で叫ぶ。
一瞬の判断の間違いが、凌雪の命を危ぶむことになりかねない。
今度は、両脇から現れた大勢の黒装束が、一斉に私めがけてやってきた。
韓昭が私の右側に援護するため馬で回り込むと、私を守りながら、出来る限りの敵を剣で切り倒していく。
私は雪稜が気になり、一本の矢を左腕に受けた。
「殿下!!」
それを見た韓昭が、私を心配し気が散る。
「私は大丈夫だ!」
そう言い返し、できる限りの力でやり返すが、これ以上この時間が続くと最後まで持ちそうにない。
―――その時だった。
鋼龍隊の沈嶺が、部下の精鋭を連れて一気に後ろから追い上げてきて加勢してくれ始めた。
「お前ら!!これを見ろ!女を殺っちまうぞ!!」
そう叫んだ男は、凌雪の首に一気に剣を突き立てる。
それが目に入り、頭に血が上るのが分かった。
私は自分の事も省みないまま、玄風の腹を鞍で蹴り、態勢を構える。
―――そして何も考えず、一気に凌雪に向かった。
四方八方からくる矢を、もう交わしている余裕もなく、
右手の剣を大きく振りかざすと、そのままそこに突入し、
凌雪を殺めようとしている刺客の胸を、バッサリと切りつける。
すると横にいたもう一人の男が、凌雪を咄嗟に押さえつけながら、
後ろに勢いよく後ずさりした。
「お前が皇太子か!!この女はお前のせいで死ぬ!!」
そう叫んで、刺客は凌雪の首に向かって剣を振り上げている。
私はその横を馬で一気に駆け抜け、その際に一瞬身を屈めた。
そして瞬時に彼女の体を、この力の限りを使い馬上から抱きかかえ、渾身の思いを込めて一気に引き上げる。
―――私は、凌雪を救出し、馬に乗せることに成功したのだ。
後ろを振り返ると蒼羽隊も到着し、韓昭や沈嶺も混乱を極めていた。
後から追いかけるようにして飛んでくる矢から、胸に抱えた凌雪を守るようにして、私は玄風を、奴らから離れた場所まで一気に走らせた。
数里先まで行くと、山の中の緑茂る小さな川の辺に出る。
そこで馬上から降り、側から凌雪が降りるのを手伝ってやった。
さっき矢が刺さったところが、今になって強い痛みを増し、凌雪を抱えた際思わず痛みに声が出る。
「殿下!」
それを見て凌雪が、泣きながら私の傷におろおろしていた。
「これくらい大したことはない。私は大丈夫だ。」
袍の袖口を裂き、腕に一気に力を籠め、折れた矢を抜くと
その痛みは今までの何十倍にもなり、血がかなり出始めた。
「うっ…」
「痛みますか」
凌雪は泣きながら自分の衣の袖も裂き、矢傷の上から、止血の為きつく撒いてくれた。
彼女のうつむいたまつ毛を、上から見つめながら
このような目に合わせて本当にすまないと、悔恨の念が浮かぶ。
「もうよい。泣くな」
――そのように泣かせるほど、恐ろしい目に合わせてしまった…
黒襲門の黒幕を捉えるために、凌雪の命が危ぶまれることなど、決してあってはならない。
「殿下が、死んでしまうのではないかと思いました」
そう言って泣きじゃくる凌雪の、涙を指先でそっと拭ってやる。
鼻と目を真っ赤にして、まるで子供のように泣いている姿に、思わず笑みがこぼれる。
「心配しているのに、なぜ笑うのですか。もしも殿下に何かがあれば…」
今度は、そう言って更に泣きながら怒り出した。
…そのように、泣いてくれるほど心配してくれているのか。
それを見ていたら、なんだか傷の痛みも忘れそうになっていく。
「私は簡単に死にはしない。だから安心しろ」
そう言って凌雪の頭に、そっと掌を添える。
憔悴しきった凌雪を見つめていると、その時ふっと頭の中に単純な疑問がよぎった。
「お前はなぜ、あの馬車でここへ来たのだ」
そう尋ねたら、何かを思い出したかのようなハッとした顔をして、大慌てで玄風に駆け寄り始める。
「一体、どうした」
そう後ろから呼ぶと、彼女から思いもよらない答えが返ってきた。
「福丸が病気なのです!死んでしまいそうなのです!!府に戻らないと」
そう言うと、今度は私の側に引き返してきて懇願した。
「殿下、すぐに私を連れて行ってくれませんか」
「死にそう?」
「殿下。戻りましょう。戻ってください。一生のお願いでございます」
凌雪は焦りだし、初めは頭を下げていたが、返事が遅い私の腕を掴み始めた。
「少し待て。詳しく話してくれないか」
「福丸が留守の間に病気になり、今にも死にそうな体で私を待っているのです。
至急戻るようにと、兄上が南煙港まで馬車を送ってくれて、府に戻る所だったのにこんなことに」
「玄洵が?」
「はい。だから一刻も早く凌府に戻らなければなりません」
「玄洵がそう言ってきたのか?」
「兄上が呼んでいると、姉上に言われました」
そこまで聞いて、頭の中を整理する。
玄洵は業務上、今回の事の全てを知っている。
こんな時に福丸のことで、凌雪を呼び出すはずがない。
しかも福丸は今朝も元気だと、凌孟昊が笑っていたのだから。
「福丸は、大丈夫だと今朝凌孟昊が言っていた。だから安心していい」
「本当ですか?父上が?」
そう言って安堵の目を見開くと、私をじっと見つめ
喜びのあまり、今度は勢いで私の腕の傷口にその手が触れた。
「痛っ…」
私はあまりにも強いその痛みに、思わず顔をしかめ身動きができなくなる。
「殿下…ごめんなさい。大丈夫ですか…」
そんな私を見て、凌雪は焦りだす。
大丈夫ではないが…許せる気がした。
――彼女が何をしても…
「傷口だけは、やめてくれ…」
そう言って手をかざしたら、次に凌雪はこの手を両手でぎゅっと握りしめる。
柔らかな、小さな手だ。
「私が助かったのも、殿下のおかげです。
本当にありがとうございました。
こんな痛い思いまでして…」
…そう言うと何度も頭を下げ大きな目を潤ませながら、私の事を屈託なく見つめてくる。
その目に、咄嗟に気まずい思いがして、こちらから目をそらしてしまった。
この計画を立てたのは私達だ。黒襲門を捉え、黒幕を吐かせるのが目的だった。
それがこんなことを招くなど、想像もしていなかったのだ。
――怖い思いをさせたのに、礼を言われるなんて…。
それから凌雪は、自分の衣の裾の端を丁寧に裂きながら、私の傷口を抑えるそれを何度も取り換え、一生懸命手当てしていた。
「殿下!ご無事でしたか!!」
その時後ろから韓昭の馬が現れる。
ほっとした表情を浮かべた彼だったが、私の傷を見るなり慌てて、馬から飛び降り駆け寄ってきた。
「お傷はどうなったかと、心配しておりました。帰ってすぐ手当てをしましょう」
そう言って私は、韓昭に抱えられて玄風に乗る。
すると次に、迷いなく凌雪を自分の馬に乗せようとした。
「よい。凌雪は、私が玄風で凌府まで送る」
そう韓昭に言うと、彼は傷口が…と言いかけたが
凌雪を、そのまま馬上の私の前に乗せた。
「行くぞ!」
その後、私たちは景都の都に向かって出発し、凌雪を凌府に送り届ける。
府に着くと、母親と凌媛羅はまだ帰宅していなかったが、凌孟昊と玄洵が大慌てで迎え出た。
福丸はやはりとても元気で、凌雪を見るなり、喜んでかけより失禁したほどだ。
皆で笑い、和やかな時が流れていたその時…
思わぬ人物が凌雪を心配して凌府を訪れる。
「これは、寧王殿下!」
凌孟昊がその姿に慌てて声を掛け、玄洵は彼に丁寧に頭を下げた。
始めは寧王の訪問に驚いたが、玄洵が父帝に事の次第を報告に行った際、
偶然そこに居合わせた彼に事情を聞かれ、状況を説明したらしい。
しかし、私の中でまだ“黒襲門の黒幕が寧王ではない”と、疑いが晴れたわけでもなかった。
けれどこの時の寧王の目は、心から凌雪を心配していた。
―――それだけは真実だろう。