第十五話 寧王李璿の告白
酉の刻になり、暮れ始めた空に銅羅の音が鳴り響く。
それを合図に、胡弓や笛、琴の音が、静かに宴の始まりを告げた。
宴場の側にある藤棚の花房は、簾のように連なり幾重にも垂れ下がっている。
それが灯籠の明かりを受け、地面に幻想的な影を映し出していた。
中央には朱塗りの大卓がいくつも据えられ、上座には陛下が。
その右側には后妃と貴夫人、そして左側には私煊王と寧王が並んでいた。
そして前面左右に、互いが向かい合うように席が設けられ、皇族の子弟、重臣、そしてその家族たちが、皆思い思いの華やかな衣をまとい、春の色彩を咲かせている。
私の右手前方に、凌家の面々の姿が目に入った。
凌孟昊を筆頭に、夫人、その隣に凌雪の姿もある。
緊張にこわばった凌孟昊や媛羅とは対照的に、凌雪は夫人と和やかに話をしていた。
だが、私の隣に坐す寧王に目をやる様子もなく、こちらを見る気配すらない。
その寧王の様子が気になり、誤魔化すように咳払いを一つしてから、そっと横目で伺う。
ところが彼もまた、凌雪を気にかける風はなく、侍酒の女官に、何やら熱心に問いかけていた。
あれほどご執心と騒がれていたのに――
蘇貴夫人や媛羅の話は、一体何だったのか。
私が首をかしげたその時、宴の始まりを告げる御訓が、陛下の口から下された。
「花は咲き、風は香る。春は万象に命を与えるもの。
この巡りに感謝し、共に喜びを分かち合おうぞ。
朕の願いはただ一つ。民安らかに、国栄えん事を」
陛下は右手に持つ杯を掲げた。
場にいた者たちは一斉に跪拝し、声を揃えて唱える。
「臣等、陛下の万寿無疆のお祈りを申し上げます」
太鼓が高らかに鳴り、各卓に盃が掲げられた。
「皇帝陛下万歳、万歳、万万歳!」
祝辞の声が夜空へと響き、やがてそれは喜びのざわめきへと変わってゆく。
金彩を施した盃が軽く鳴り合う音、侍女がせわしく膳を運んでいく…
そして、ふと舞い落ちる藤の花弁が、音もなく私の肩を滑った。
やがて曲調は、深まりゆく夜に寄り添うように、静かで艶やかに変わっていく。
宴が緩やかに始まると、陛下が宦官にそっと耳打ちをし、凌媛羅を呼びに行かせた。
彼女は自分の側に来た宦官に何かをささやかれ、小さく頷き、静々とこちらの方へ歩いてくる。
私も呼ばれその隣に並んで立つと、父帝が再度立ち上がった。
「朕が言を述べる。耳を傾けよ。
この度の宴、盛なる事実に喜ばしき。
諸君よ、朕より喜びの報せを伝えよう。
皇太子・煊王李煌と凌将軍のご息女・凌媛羅の婚儀をこの秋に執り行う。
天命の縁、民と共に祝したい。杯を掲げよ!」
再び歓声が上がる。
私と媛羅は、深々と皆の前で一礼し皆と共に杯を掲げた。
これで、この婚姻は周知の事実となる。
臣下達がすぐに集まってきて、私に酌をしようと取り囲み、それと同じように凌大将軍の前にも酌の列ができていた。
媛羅も私の隣に坐し、満足そうな微笑みを振りまいている。
さっきの嫌味な態度が、嘘だったかのようではないか。
「殿下、さぁお注ぎしますよ」
「いや、次は私が」
「私も順番を待っていたのだ」
大臣たちが揉め始め、押し合いへし合いするうちに、
誰かの酒が私の袍服へこぼれた。
「あいやぁ!殿下、申し訳ございません」
その中の宰相・程懐謙が慌てて、自分の墨色の長袍の袖で拭こうとする。
「程殿!無礼な!」
今度はそう叫んで、礼部尚書の沈令修が、程宰相を突き飛ばした。
その騒ぎに、もうよい…と呆れながら二人を止める。
似たようないざこざが、凌孟昊の所でも起きているようだ。
この宴は、皇太子の婚姻という慶事の知らせもあってか、例年より盛り上がりを見せる。
やがて、金絲繍の帳がひらりと上がり、舞姫たちが登場した。
藤の花の冠を頂いたその姿は、まるで月の化身のようにしなやかで、誰もが目を奪われた。
それからしばらく、和やかな雰囲気が続いた後、私の頬に小さな雨粒が落ちた。
するとぽつりぽつりと小雨が降り始める。
宴場が屋外だったこともあってか、皆慌てだし、
宦官や女官たちが速やかに膳を運び、近くの御苑殿に皆を誘導した。
その雨に御免こうむりますと、帰路に着く者も多くなり、残ったものは泥酔しているかまだ酌を交わしているかだ。
ふと気が付くと父帝がいない。
そう言えば先ほど、凌孟昊と玄洵に耳打ちしていた。
今朝、寧王と凌雪の縁談を、二人に相談をすると言っていたが…
――この騒ぎに紛れて正殿に言ったのだろうか。
母后と貴夫人は、凌媛羅と凌夫人と。
他の女子達もそれぞれ、広間で菓子をつまみながら、
何やら話し込んでいた。
御苑殿の正面には、柱があり開放的で
そこから映月亭の藤棚が、良く見える。
それを肴に、まだ酒を飲んでいる者を尻目に、私も正殿へ向かおうとしてその場を後にした。
広間を出て回廊を右手に周り奥に進むと、倒れた人の足が見えてぎょっとする。
よく見れば宰相の程懐謙が、酔いつぶれているではないか。
彼は、こう見えて昔は私の教育係だった。
温厚で理知的。誰も逆らえない天黎の知恵袋だ。
長い白髪が、時の流れを感じさせる。
「程宰相、起きてください。お風邪を召されますよ」
そばに膝をつきそっと声を掛けると、寝ころんだままうつろに目を開けた。
「殿下…お学びくださいませ…」
そうつぶやくと、ゆっくりと目を閉じる。
――寝ぼけているのか?
私が彼を、再度揺り起こそうとしたその時だ。
その回廊の奥まったところにある、御苑殿の小さな中庭から、聞き覚えのある声がふと聞こえて来た。
暗がりに少し目を凝らしてみると、軒下に、寧王と凌雪が向かい合って立っている。
思わず身を屈め、その様子をうかがった。
「殿下ぁ…陛下と学びを…」
「静かにしてくれ、程宰相…」
そばに寝転がって、寝ぼけている程宰相の口元を、
咄嗟に手のひらで強くふさぐ。
それから私は、耳を澄ませ二人の会話に聞き入った。
「今日は驚かせて、すまなかった」
「いえ」
「あの時は、あのような事態で、本当の事が言えなくて。
許してくれるだろうか?」
「許すも何も…私は寧王殿下に、とんだご無礼を」
そう言うと凌雪は、寧王に深々と頭を下げた。
「面を上げてくれ」
寧王は、両手を前に組み、頭を下げた凌雪の肩に触れ、その顔を上げるように言う。
「そなたを、騙すつもりなどなかったのだ……」
そう言うと寧王は黙ったまま、凌雪をじっと見つめた。
いつの間にか雨は止み、潤んだ李璿の目が微かに揺れ、雲間から出た月明かりが二人をぼんやりと照らしている。
「お名前を偽られたのは、気にはしていません。ただ…」
その続きを、私は息をのむようにして待った。
凌雪はなかなかその続きを話さない。
「ただ?」
私の心と同じ事を、寧王が凌雪に尋ねた。
すると凌雪は、彼にはっきりと聞いた。
≪なぜ私なのか≫と。
今度は押し黙ってしまった寧王の沈黙に、“早く言えばよいものを”と苛立つ。
暫くして彼は、凌雪から少し視線を外し、消えるような声で答えた。
「初めて、…会った時から、私は…お前を慕っているのだ。 」
それはあまりにも小さな声で、ここには所々しか聞こえない。
私が耳を凝らすと、凌雪も聞き返している。
「私の目には、そなたしか映らぬ」
寧王は、今度はそれを大きな声で凌雪の目を真っ直ぐ見て言った。
月明かりに揺れる凌雪の黒く大きな目が、寧王の顔をじっと見つめている。
やはり…蘇貴夫人の話は本当だった。
私も驚いたが、凌雪もかなり驚いている。
想い合っていたのではないのか?
――ふとそんな疑問が頭をよぎった。
その言葉を伝えると、寧王は顔を真っ赤にし、もう一度何かを言おうとしたけれど、目を潤ませてすぐに踵を返し足早に凌雪の前から逃げるようにして立ち去った。
――そこに呆然と立ち尽くす彼女を残したまま……。
少し迷ったが、私は寝入っている程宰相を置き去りにして静かに立ち上がり、回廊を通り抜け中庭に降りる。
そして、そこに残された凌雪の所まで歩いて行く。
背後から私が来たのに気づき、彼女は一瞬驚いたが、すぐに両手を前に組み私に向かって一礼した。
「今日は、玄洵と一緒ではいのだな」
「兄は、今父と一緒に陛下に呼ばれて正殿へ行っております」
やはりそうなのか。思っていたとおりだ…。
「先ほどは、寧王と何を話していた」
そう尋ねると、私にかしこまり膝を曲げ一礼した。
「以前お会いした時の事を」
「お前は寧王と、知り合いだったのだな」
「いえ、あの…」
「思いもよらなかった」
なぜだかわからないが…
自分に知らないことが合ったと言う、その事実がとても不愉快に感じる。
「私は寧王殿下の事を、程宰相のご子息だと聞いていたのです」
「は?」
「以前、池に落とした香袋を、取っていただいたのですが
お名前を聞いたら、程宰相のご子息だとおっしゃられて。
その後すぐに、程宰相にお会いしたので、伺ったらやはり息子がいると。
池に落ちて、現在熱が出ているのだとお答えになられたのです」
程宰相には息子がいるが、あの池に落ちた理由は確か…
母上の鯉が病気になって数匹死んだので、それをみんなが網ですくっていた時の事だ。
ただ通りがかっただけなのに、母上の手前張り切って自分が引き受けた。
それで誤って池に落ちた。――凌雪の事は一切関係がない。
「私は程宰相には、子供の頃からとてもかわいがっていただいたので。
そのご子息だと思い込み、その後茶会などでも、
何度も気軽に話しかけてしまいました。
…ずっと避けられていたので、てっきり嫌われているのかと」
「だが“そなたしか映らぬ”と、言われたのだな」
「聞いていらっしゃったのですか?」
「聞いていたのではない。聞こえて来たのだ。
別に良いではないか。私でなくとも、誰かに聞こえていた」
「やめてください!噂が広がったらどうしてくれるのですか」
「私は、言いふらしたりせぬ。
噂になったからとて、婚姻するわけでもなかろうに」
そう言い返したら、意外にも凌雪はしょんぼりと下を向いた。
「私は…」
何かを言いかけ下を向いたままの凌雪の顔を、横からそっと覗き込む。
「なんだ。さっきまで気勢盛んだったのに」
私は少しだけ鼻で笑った。
でも凌雪はやっぱり、顔を上げようとしない。
「凌雪?」
「私は…婚姻は母のように、愛する人と添い遂げたいのです」
そう言われて、思わず昼間、凌媛羅が言っていたことが浮かんだ。
――愛し愛される人と結ばれたい。――
女子は、口を揃えてそれを言う。
「寧王が愛する人で、よいではないか」
――凌媛羅や貴夫人が言っていた、お前の愛し愛される人ではないのか?
「私には、まだよくわかりません。
殿下の弟君であることも、今日知りました。
今まで、避けられていたので、そんなにお話もしたことがありません」
「正直、凌孟昊が許すとは到底思えぬ」
「父は、陛下に言われれば仕方がないと言っておりました」
「凌孟昊が?」
「はい。人は、自分が思うようにならないのが、世の常だと。
陛下の採が降りたら、寧王殿下の求婚を、喜んでお受けするようにとの事です」
「まだわからぬではないか。確か陛下は今朝…」
「父は諦めていました。
叔父の凌孟巍が蘇貴夫人に頼まれ、断り切れないと。
従兄に不備があり、蘇貴夫人に助けられたらしいのです。
恩返しをせねば不義になると、父は叔父上に泣きつかれたそうなのです」
私は何も答えぬまま、それを聞いていた。
…これはどう考えても、蘇貴夫人の策略ではないか?
まさか、寧王と凌雪を結ぶために、凌孟巍の息子を陥れた?
「煊王殿下は、どのようなお気持ちで姉を娶られるのですか?」
その時突然凌雪は、想像もしていなかったことを、
私に聞いてきた。
「私は…この天黎の為以外に他意はない」
すぐに気の利いた理由は用意できず、本心を咄嗟に話してしまった。
「そんなお考えもあるのですね」
凌雪はこちらを見ないまま、雲間から見える滲んだ月をぼんやりと眺めている。
彼女はなぜかいつもより大人びて見えて、その月明かりに照らされる横顔は、とても儚げで美しく感じた。
すると微かに凌雪が持っていた、あの花冠の時の香袋の香りがふわりと鼻を掠める。
その香りに包まれて、ぼんやりと彼女を見ていたら、なぜだかわからないが少し鼓動を早く感じた。
「私は、例え周りの全てが、敵しかいないとしても
その方の、唯一の味方でいて差し上げたいのです。
思いやり、誰よりも慈しみ大切にし、私が持つすべてで、その方を守って差し上げたいのです。
そのように心が動く方と、添い遂げたいとずっと思っていました」
それは凌雪の本当の心を、垣間見た瞬間だった。
私はそのような気持ちで、他の誰かの事を考えたことが今までにあっただろうか?
物心がついた頃から、人は皆与えられた人生にその役割があり、その役割を全うするために生きるのだと、教えられてきた。
婚礼も皇太子としての当たり前の役割で、凌媛羅であり景国の公主であり、父帝に言われるがままそれを受け入れる事が、当然だと―――微塵も疑う事はなかった。
民を守ることや、国を担う事を考える事はあっても、たった一人のどこかの誰かを守りたいとか、慈しみたいとか…
ましてや、そのように思える相手など…選ぶ事も、選ぶ権利もないとそう思っていたからだ。
「心が、動く…?」
凌雪の言葉を聞いて、思わずつぶやいた。
すると彼女は、こちらを向いてまっすぐに私を見る。
「国の為とは言わず、姉上を大切にしてください。
始めは決められた縁かもしれませんが、お二人が慈しみあい仲睦まじく過ごせますよう。
きっと姉上の思いに、殿下も心動かされる日が来ることを心から願っております」
そう言って、彼女が一礼した時だ…
「凌雪?ここにいたのですか」
私達の背後から、薬念神医が突然声を掛けて来て驚いた。
聞けば、この宴で父に招かれていたと。
薬念が凌雪に耳打ちすると、何やら彼女は慌てて胸の香袋を確認し、“母親が探している”と言われて、焦って彼と一緒に去って行った。
私はしばらくその場所でぼんやりと、さっきまで凌雪がいた場所に、月明かりが落ちているのを見つめていた。
彼女が言ったように、私も凌媛羅に心が動く日が来るのだろうか。
そして、凌雪が寧王をそんな風に思う日が、いつか来るのだろうか…と。
李璿が凌雪に、思いを打ち明けるところを見てしまった。
――凌雪を恋焦がれる寧王李璿。
彼もまた、そのように自分の全てで凌雪を守りたいと…そう思っているのだろうな。
なんだか複雑な心境は、なぜだ。
私にとって、婚姻にはそのような意味は持ってなかった。
父帝の言う事に、なんの疑念も抱かなかった。
女子の母上は、凌雪のようなお考えを、お持ちなのだろうか?
だから凌媛羅に気を使えと?
それがわからぬまま、辺りは一層静かになり、
私は大きなため息を一つついて回廊に戻った。
そこには凌一家がそろっていて、最後の車に乗るところだった。
その時の凌孟昊と、玄洵の顔は暗く
私には、父帝の答えがすぐにわかってしまった。
―――きっと、意にそぐわぬ結果になってしまったのだと。