第十三話 寧王李璿の母
皇宮の正殿で朝議が終わり、皆が散らばり始めた頃、
その入り口にいた宦官に、私は声を掛けた。
皇太子以外の者が全員退出したのを見計らい、私は皇帝陛下李乾徳に、
お目通りを希望する。
「蘇貴夫人、どうぞ中へ。陛下がお待ちしております」
丁寧に頭を下げ、私はしずしずと中に入り、陛下の御前で深々と一礼した。
正面に皇帝陛下が座位され、その少し離れたところに皇太子煊王李煌殿下。
背筋を真っ直ぐに伸ばして立っている。
「どうしたのだ?蘇貴夫人。こんな時刻に珍しいではないか」
「陛下。寧王李璿の事で大切なお話があり、急いで参った次第でございます」
「璿の事で?」
その名前に皇太子の片眉も、小さくピクリと動いたのを感じる。
私はもう一度深々と頭を下げ、そのまま次の言葉をつづけた。
「わが息子、寧王李璿。
この度婚姻を承りたく、陛下のお許しを頂戴できないかと。
母直々に、お願いに参った次第でございます」
陛下も皇太子もしばし沈黙する。
皇太子と同じ凌家から、娘を娶るとなれば、
陛下はどのような顔をなさるだろうか…
もうお耳には入っているはず。
少しすると、陛下が小さく咳払いし、
その後、心を整理するかのように背筋を伸ばされた。
――そしてその真っ直ぐな視線が、正面から私に向けられる。
「実は、その話が朕の耳に入っていないわけではない」
「はい」
「”大将軍の娘雪を、寧王に。”という事で良いのか?」
「さようでございます」
陛下は私の返事に、小さなため息を一つついた。
「そなたも知っての通り、この煊王李煌も大将軍の長女と婚姻する運びとなった。
しかし同じ家から、二人も皇室に嫁がせるとなれば凌孟昊も悩むだろう。
どうしても”凌家の娘でなくてはならない”理由を申してみよ」
それは…我が息子璿が、初めて自らの願いを申し出て来たからだ。
あの子には幼き頃から、ずっと我慢を強いている。
私自身、親の利のため陛下の側室となったものの、
その愛は常に正妃に向けられていた。
『愛は無情なり、ゆえに道は成る』
父にそう教えられてきたけれど、心ではずっと違うと感じていた。
愛し愛される者がいるからこそ、人は強くもなれるし、欲も出る。
いつも何かを諦めたような、あの子のまなざしが
始めて、あのように輝いているのを見た。
…母になら分かる。
茶会や宴で誰と顔を合わせても、あまり口を利いてはいなかったが、
あの目はずっと、凌家の娘を追っていた。
「煊王殿下と御長女のご縁談は、百も承知でございます。
しかし、凌家との縁談を考えておりましたのは、
こちら、寧王李璿の方が先でございました」
「何だと?」
咄嗟に陛下は、隣にいる皇太子と顔を見合わせた。
二人ともあまりの驚きに、声も出ない。
「以前より寧王李璿は、凌家の娘凌雪を大変お慕いしておりました」
私から次々に語られる事実に、陛下も皇太子も黙って耳を傾けている。
「煊王殿下と凌家の縁談が出たおり、お話ししようか迷いましたが、
お相手が違うとわかり、まだ心温めておりました」
「しかし…」
その時何か言おうとした陛下を、遮るようにして、私は話を進めた。
「陛下。凌家は、我が国の権力の要。大層ご心配されるのもわかります。
でも、こう考えてはいかがでしょう。
大将軍の揺ぎ無き忠誠は、陛下もご存じのはずでございます。
どちらかではなく
我が息子達が、共に手を取り合いこの天黎の国を守っていけるようにと。
璿だけではなく煊王殿下にとっても、大将軍は義理の父となります。
きっと二人を良き方へ導いてくれるであろうと、私は信じているのです」
――慶淵王殿下は、この縁談に大反対していた。
なぜなら皇太子と大将軍を両方潰し、
その後、璿を皇太子の座に据えるつもりだからだ。
もし寧王が凌家と姻戚になれば、大将軍が後見人になり、
自分の出る幕がなくなってしまう。
でもそんな事より、今の私には璿の心方が大事だのだ。
正妃と何事も比べられ、何一つ勝らない私だが
あの子にだけは、皇太子に負けて欲しくはないと思っていた。
いつも苦渋の決断をしてきた。
常に、この手を突き放した。
獅子が子を谷に落とすように、強さを願って…
しかしあの子の目が、徐々に輝きを失い、
いつの頃からか…
皇太子の前で、全てを諦めたかのような振る舞いをするようになる。
私は、そんな璿に心を痛めるようになっていた。
そしてある時ふと、璿が隠している凌雪への思いに気づく。
何とか彼女を娶る方法はないかと、策をめぐらせ
財務に携わる凌孟巍の息子を、裏から手をまわし無実の罪で陥れた。
そして助けるふりをして、兄凌孟昊を説得するように頼んだのだ。
「煊王は、いずれ隣国から正室を迎えられましょう。
璿には、そのような力はございません。
今まで何も望まず、陛下の元、皇太子の元、恙無くやってきたのです。
あの子のささやかな願いを、どうかどうか陛下が叶えてやってくださいませ」
そこに跪きながら懇願する私を見て、陛下は面を上げるように言う。
それから大きなため息をつき、静かに何度か頷いた…
――まるで、己の決断を心の内だけで下したかのように。
「寧王が凌雪を好いていたとは…」
そうつぶやいた陛下の側で、皇太子は身動き一つせず
その目に鈍い光を放ちながら、私をじっと見つめていた。
後宮に戻ると今度は慶淵王殿下から文が届いていて
夢錦樓で待っていると書いてある。すぐ来るようにと…
あの地下は、慶淵王符とつながっている為
外から見れば見つかっても、”私だけがお忍びで訪れた”で済むのだ。
私は侍女に変装し、馬車に乗って外へ出た。
夢錦樓に着くと「夢蝶の間」に通される。
部屋に入ると慶淵王李昶が待っていて、警戒し外を確認して慌てて扉を閉めた。
被っていた冪をそっと外し 円卓の上に置くと
その前に腰を下ろす。
慶淵王殿下は私と向かい合わせになり、座って小声で話し始めた。
「一体どうなっているのだ」
「何のことです」
「寧王のことだよ。これでは積み上げてきた策が、全て霧散するではないか」
そう言って荒く息を吐くと、まるでこちらを拒否するかのように、腕組みをした。
「皇太子が正室を迎えるまでには、全て終わらせようと思っていたのに。
凌孟昊を、こちらの味方につけてどうするのだ!!
皇太子が正室を迎えて、景国と手を汲んだらもう手出しできなくなるのだぞ」
「良いではないですか?それまでに皇太子だけを狙えばよいのです」
「皇太子だけを…?」
「目障りなのは皇太子だけ。凌将軍は璿の味方になってもらいます」
「だが、凌孟昊がいる間は、寧王に権力は渡らないぞ」
「それでよいのです。いずれ全てが、璿のものになれば」
「私はどうなるのだ!兄上の陰でずっと我慢してきたのだ。
凌孟昊も一緒に潰してこそ、 本当の権力がこの手に入る。
本当にこの国を動かすのは寧王ではない!!私だ!!」
「慶淵王殿下」
低い声で突然名前だけを呼ばれ、李昶は右眉を小さく動かした。
少し警戒してなんだと耳を寄せる。
「父親なら、あの子の本当の幸せを願うべきではございませんか」
寧王李璿。
―――私の息子は、陛下のお子ではない。この慶淵王李昶の息子だ。
側室として後宮に入って数年後。
正妃に皇太子が誕生し
まさに皇宮は、咲き乱れる花に包まれたような幸福に、皆が舞い上がっていた。
ゆえに陛下のお渡りは途絶え、私は書を書いたり、刺繍をしたりしながら、
日々をやり過ごしていた。
次にお会いした時、面白いお話をして笑わせてあげよう。
美味しいお茶を用意して、心慰めよう。
そんな思いを張り巡らせながら、ただ静かに時は過ぎる。
ある日陛下が、後宮にふらりと立ち寄られた。
――元気でいたか?何をしていたのだ?
一番に、そう尋ねられると思っていた。
しかし口を開いた陛下の口からは、皇太子の話ばかり。
やれ自分に笑いかけただの、夜泣きが多いらしいだの、初めて言葉を発したなど…
最後まで、私の事はお尋ねにならず
立ち去る際に、皇后から託った、手作りの菓子を大層美味だと手渡した。
私はあまりにも侘しくて、むなしくて
後宮に入って初めて、紫宸殿の裏手にある御霊の廟に行き、声を出して泣いた。
その時、偶然にも居合わせた慶淵王殿下に驚いて
私は思わず顔を隠す。
彼は、そんな私を見て声も掛けなかった。
きっと彼なりの配慮だったのだと、今なら分かる。
彼はただ静かに、祖先の御霊に線香を備えると
礼をして出ていった。
それからも、宴や茶会で顔を合わせる事はあっても
言葉を交わすことなど一度もなかった。
ある日私は、尊信寺に子授け祈願に出かける事になる。
それは“目立つことなく少人数で”という事で
最小限の荷物と従者だけを連れた旅だった。
無事お参りが終わり、旅半ばという頃の事。
高貴な馬車という事もあり、金目の物を狙った山賊に襲われ
私と護衛の二人だけが生き残る。
――いよいよ駄目かと思ったその時…
洛華の街に視察に行っていた、慶淵王殿下に出くわした。
彼は、山賊に護衛と二人で立ち向かい、私たちを助けてくれたが、
今度は、私が足を怪我して、歩くことができない。
慶淵王は護衛の者に馬を貸し、助けを呼んでくるよう伝えると
私をすぐそばの薪小屋に、抱きかかえ連れて行ってくれた。
「すぐに迎えが来ます。ここからの距離なら二刻ほどかと」
そう言って微笑んだ彼に安堵し、私は、炎でゆらゆらと揺れる薪を見つめた。
最初は恐怖で、何も話せなかったが
彼も、言葉を発する事はなかった。
日が暮れはじめ
空腹のせいか、私が腹の音を立てると
彼は笑って胸元から、丁寧に包んだ月餅を取り出した。
「母上に渡そうと思っていたのですが」
彼はそう言って笑うと、それを私に分け与えてくれる。
「貴夫人とは、あまりお話をしたことはありませんね」
「はい。皇宮の決まりなので」
陛下の王妃や側室には、何人たりとも触れることはできない。
たとえ兄弟だったとしても、彼とは会話することさえも、ほとんどなかった。
「知っていましたか?あなたは私の正室になるはずだったのですよ」
そう言って、照れながら笑った慶淵王に、私は驚きを隠せない。
「でもきっと、私より兄上に娶られた方が、はるかに幸せだった」
今の私の事を、知ってか知らずか…
彼は今いる場所が、最高の場所だと笑顔で話し続ける。
それを聞いて、私の目から涙がぽろぽろとこぼれだし、止まらなくなった。
「愛されないことが、幸せなのでしょうか?」
そう尋ねると 彼は驚きのあまり目を見開いた。
薪の明かりで、彼の目もゆらゆらと揺れ
僅かに滲んでいたように思う。
「私は、もしかしたら元のご縁の方が、幸せだったのではないでしょうか」
それから、今の灰色の日々や自分の心を明かした。
すると彼は、先帝が皇宮に“何かの時のための抜け道”を、作ってくれている事を教えてくれる。
そこから外に抜け出す方法や、舞や音楽を楽しむことや、
観劇を楽しんだりするこの場所の事や…
――私の心が生き返る方法を教えてくれたのだ。
それから私たちは、いつの間にか陛下の目を盗んで会うようになり
ここで結ばれ、璿が生まれた。
あの寺参りにも、ある意味ご利益があったのだなと
後にそう思ったりもしたものだ。
璿が生まれ、我が子とはこうも可愛らしく
玉のようで、命にも代えられる存在だったのかと。
そう思わずにはいられなかった。
寧王が自分の子であることは慶淵王殿下も知っている。
だからこそ、自分が権力を握るだけでなく
息子を帝位につかせたいのも彼の本心だ。
それは、重々わかっている。
「寧王の本当の幸せ…?」
「私の苦しみと同じ苦しみを、あの子に味会わせたくはないのです。」
「蘇綺瑛…」
彼は、私を久しぶりに名で呼んだ。
「あの子は、凌雪に恋慕しているのですよ。母ゆえにわかるのです」
―――そう。母だからこそ。
私は、璿の恋心をかなえてやりたいと思うのだ…。
「まぁよい。ならとりあえず皇太子とまずは姉の方から始末する」
そう言って大きなため息をついた慶淵王は、目の前の茶器を手に取ると
勢いよく飲み干した。
しかし慶淵王の野望は深く、このような事で揺らぐものではなかった。
そのせいで、璿があのような決断をせねばならぬほど、追い詰められることになろうとは
この時私でさえ、全くが付いていなかった。