第十話 恵仁堂で会った人
福丸はとても元気になった。
あれからまだ、皇宮の人はうちに出入りしていたので
その理由は、靈麗の薬草の他はない。
そう思った私は、お礼にと蘇璃が作った桂花糕と、裏の畑で収穫できた野菜を沢山持参し、朝一番で靈麗の居を訪ねる。
「こんなに沢山いただけるのですか?」
彼は籠いっぱいに入った野菜を見て、優しく笑った。
「これは家でとれた野菜です。みんなが作ってくれていて、
本当においしいのですよ」
「私は、大層良い事をしたみたいですね」
それに笑顔で、“はい!”と返事をしたら
靈麗は同じように笑い返し、籠ごと野菜を受け取ってくれた。
「それからこれは、蘇璃が作ってくれた桂花糕なのですが」
手作りのお菓子も、丁寧に包まれたものをそっと手渡す。
「これも本当においしいのです。都一、いえ天黎一の桂花糕です」
彼は、“この量を良く一人で運んできた”と少し目を丸くし、籠の野菜を指先で再度確認した。
「雪さん。これから私は、恵仁堂へ行かねばなりません」
「恵仁堂へ?」
「今日は数日に一度の診療の日なのです」
靈麗は、小さな咳払いを一つすると、野菜籠の方をみる。
「私は一人暮らしなので、こんなにたくさんの野菜を、全て食べきることはできません。
ここで、ご提案なのですが。
これから恵仁堂に持って行き、皆に分けてもよろしいでしょうか?」
「みんなにですか?」
「はい。食事もろくに取れず、福丸のように体調を悪くしている者も沢山いるのです。
もしこの野菜を持って行くことができれば、
そのような者が何日か食べられます」
「そんな…」
「いけませんか?」
「いえ、これでは足りないのではと。
家に戻って、もっとたくさん持ってきますので、待っていてください」
「あ、いえ。そこまでしてもらわなくても」
靈麗は、戸口から飛び出そうとした私を、慌てて引き留めた。
「ではこうしましょう。
この野菜とお菓子を持って、雪さんも今日恵仁堂へ行きませんか?」
「私が行っても、よいのですか?」
「人手が少し足りないので、手伝ってもらえると助かります。
この前、治療を手伝ってくれた時、大変手際が良いと思ったので」
そう言って微笑んだ靈麗に、断る理由もなく。
その日私は彼と一緒に恵仁堂のお手伝いに行くことになった。
恵仁堂に着くと、靈麗を求め、皆がすぐに駆け寄ってくる。
私は荷物を置いて、野菜やお菓子を食事係の人に手渡した。
彼らはとても喜んでくれて、服が汚れないようにと前掛けを付けてくれる。
恵仁堂の建物は柱はしっかりしているが、一部の部屋以外は屋根もない。
敷地に並べられた縁台には、怪我をした人が数人寝かされていた。
屋根のある場所には、麻布で囲われた靈麗が診察する部屋と、その隣には、いくつか小さな寝台が並べられた部屋がある。
そこにも風が入りにくいよう、麻布で囲われていた。
そしてその手前には屋根こそあるものの、広い床板が広がる場所があり、そこでは具合の悪そうな人たちや沢山の子供たちが食事をしている。
今は季節的に暖かくなってきているけれど、真冬はどうなるのかと心を痛めた。
靈麗の元にはたくさんの患者の列ができ、皆順番を待っている。
――きっと彼は休憩など、ほとんど取れないであろう程に。
私は始め、勝手がわからず戸惑った。
でも、みんなが優しく教えてくれるのですぐに慣れてきて、小さな子供と一緒に蘇璃の桂花糕を食べたり、食事が困難な人に粥を与えたりして忙しく過ごす。
寝台の部屋では、薬草係の人が煎じた薬を、一人一人に合わせて飲ませていくのを手伝った。
その時ふと、部屋の麻布がひらりと開き、見覚えのある顔がこちらを覗いていることに気づく。
「あれは、韓昭さんでは?」
確かに、兄の友達の韓昭さんで間違いない。
驚いてすぐに後を追いかけ部屋から出てみると、彼は慌てて、そこから立ち去ろうとしていた。
「韓昭さん!」
思わず名前を叫び、その後ろから右腕を掴むと、彼は驚いて振り返る。
「もしかして、ここにいるという事は、お怪我でもされたのですか??」
私の勢いに少し後ずさりして、彼は小さく首を横に振った。
正面から私にあちこち確認されて、とてもバツが悪そうにしている。
「雪さんこそ、なぜここに?玄洵は知っているのですか?」
戸惑いながら聞いてくる。
「私は、今朝から薬念先生のお手伝いで、ここにいるのです」
そう言うと韓昭さんは、あたりを見渡し靈麗の姿を確認した。
「お怪我はされていないのですね。
いつも危ない目に合っているのではと、心配していたのです。
この前の花冠祭の時も…」
「え、あ…いえ」
「兄がいつもお世話になっております。ご挨拶が遅れまして」
そう深々と頭を下げたら、釣られるようにして彼も頭を深々と下げた。
「今日はなぜこちらに?特殊部隊の仕事は…」
兄から聞かされていたから、そう尋ねようとした時だ。
彼は小さな咳払いを一つして、ちらっと後ろを振り返る。
するとそこには、皇太子殿下が腕を組み立っていた。
私はその姿を見つけて、慌てて深々と一礼する。
全く予想していなかった人との、この場所での遭遇に動揺が隠せない。
兄にいつも言われている。
”皇室の方々に無礼や不義があってはならない”と。
殿下は、近寄ってくるわけでもなく離れていくわけでもなく、腕組みをしたまま、咄嗟に私から目をそらした。
これから姻戚になるのに、愛想もない。
「ご心配無用です。今日私は、皇太子殿下の付き添いでここに来たまで」
「付き添いですか?」
「恵仁堂は殿下が草案し、立ち上げた施療院なのですよ」
「皇太子殿下が?」
「なので月に二度は、視察に。偶然雪さんを見かけたので、私もつい声を掛けました」
韓昭さんはそう言ったけれど、声など掛けられていない。
どちらかと言えば、“私に見つかり逃げようとした”といった感じだ。
「今来られたのですか?」
「いえ、一刻ほど前から」
そうすました顔で言っているが、ここ一刻ほど二人が目に入った事などなかった。
どこかにいたという事だろうか?
視察というならば この忙しさもわかるはず。
手伝ったりしないのか…
そう思ったが、“皇太子殿下がそのような事をするはずがない”と思い直した。
「雪さん!お願い!」
その時、突然食事係の人に呼ばれて、夕餉の粥を作ってほしいと頼まれる。
私は韓昭さんに“では”と言って背を向けようとした。
その時、再び彼に腕を掴まれ引き留められる。
「殿下にご挨拶は?」
「え?さっきしましたけど?」
兄に言われているように一礼したし、ここから頭も下げた。
姉の婚約者だからって他にも何かすることがあるのかと、ふと頭を傾げる。
こっちに近寄りもしないし、愛想もない…
それに私も、今とても忙しい。
ここで偶然会っただけなのに、なぜ私がそこまで。
他にご挨拶とは??
兄にいつも叱られているが、無礼な事はしていないはず。
それに、粥を作るという大事な仕事が待っているのだから。
「雪さん?」
「ここで、失礼します」
そう思い直すともう一度軽く頭を下げて、そそくさとその場を立ち去った。
煮炊き部屋に行くと銀童が“私を待っていた”と言い、かまどに並んだ鍋元に呼んだ。
そこにはコメや粟や、ひえや野菜くずで作られた粥が入った、五つの土鍋が並べられていて、温かな湯気を昇らせている。
銀童は孤児で、恵仁堂ができた時にきて、ここで育った15歳くらいの男の子。
大人顔負けで、患者のお世話をしているしっかり者だ。
彼に”鍋が吹かないように混ぜながら、五つとも管理するように”と言われ気持ちを引き締めた。
一つ一つの鍋を順番にかき混ぜて回り、火の強さを加減したりして忙しい。
煤で顔を真っ黒にしながら、私は一人一生懸命、みんなの大事な食事を管理していた。
するとそこに皇太子殿下が入ってきて、
私は思わず杓子を持ったまま頭を下げ一礼する。
こんな時に、正直面倒だと思った。
でも兄にきつく言われているから、やはり礼だけは欠かせない。
適当に一礼して、すぐに鍋をかき混ぜていたら、
殿下は私の隣に無言で立ち尽くした。
五つの土鍋を移動しなくてはならないのに、
横にいられると邪魔で仕方ない。
「何か用でございますか?」
「え?」
「用がないなら、粥を混ぜてくださるとうれしいです」
そう言って殿下に杓子を渡すと、驚いた顔で私を見つめた。
それから彼は恐る恐る、一番右端にある土鍋に杓子を付け、そっとかき混ぜ始める。
私がその足元にある火を確認しようとしゃがんだら、今度は驚いて一歩後ずさりした。
私は気にもとめず、彼の隣の鍋を丁寧に混ぜる。
特に話もなく無言のままでいたら、殿下の方から話しかけて来た。
「なぜ 恵仁堂にいるのだ」
その堅苦しい物言いに、心の中ではおどけた感じで真似て繰り返してみる。
――なぜ恵仁堂にいるのだ。
これは良く、父上にお説教をされている時、心の中ですることだ。
時に声に出すと、ひどく叱られた。
“なぜいるのか”と問われれば、こちらが聞きたいくらいだと思った。
「靈麗に誘われたので」
「靈麗?薬念と知り合いか?」
「知り合いも何も…」
何と答えようか迷っていたら、先に殿下が口を開く。
「ここでの仕事は、嫌ではないか?」
思いもしなかった言葉に、思わず言い返す。
「嫌ではないです。むしろ楽しいのです」
「楽しい?」
「父も来ているみたいですよ?兄も皆の世話をしているそうです」
兄の事は知らないが、おまけでそれらしく言ってみた。
「凌家が皆で…」
「手伝うとみんなすごく喜んでくれて。
怪我や病気が国で治療出来て、こんなにいい事はないと言っています」
「……」
「こんな場所があるのは、皆本当に助かっているみたいで“感謝している”と」
「そうか…それなら良かっ…」
「薬念翁に」
「……」
「あっちの左端の鍋も、お願いしますね」
そう頼んだら、それとは違う私の隣の鍋をかき混ぜ始めた。
だからずっと隣に立っている。こっちは動きにくくて仕方がない。
二人とも無言で鍋をかき混ぜていたら、
しばらくして殿下がまた、話しかけてきた。
「媛羅は、この前視察に連れてきたら、この場所はとても嫌がっていた」
「姉上が?」
その名前に私はすぐに反応した。
今、嫌がっていたって言われていた様な…?
「いや、彼女を見ていると高貴な家の娘は、皆こういう仕事は嫌なのかと思っていたのだ。
隅の方にずっと座ったまま、面紗も外そうとしなかった…。
子供が近寄ると避けていたし」
「それは…
もしかしたら姉上は、嫌だったのではなく、慣れていなかっただけなのでは…」
「お前は、慣れているのか?顔中煤だらけにし て…。
それに凌家は皆で手伝っているのだろう」
そう言われてふと、かまどの灰がゆらゆらと飛んでいるのが目に入る。
改めて“慣れているのか”と聞かれ、今日初めてだとは言えなくなった。
言われている通りにしていれば、こんな事簡単にできる。
それにみんなが喜んでくれるから、とてもやりがいのある仕事だ。
どう返事をしようか。下手に応えれば、皇太子殿下が姉上を誤解しそうだし…
そう思った時だった。
診療を終えた靈麗が入ってきて、殿下に深く一礼した。
「いつもありがとうございます。煊王殿下」
「あ、いや。ここでは、薬念の技術がかなり役立っているようだぞ」
殿下は持っていた杓子を咄嗟に私に押し付け、咳払いを一つして胸元を整えている。
靈麗は土鍋を覗き込むと、私によくできていると褒めてくれた。
立ち込める湯気と、ほのかな粥の匂いに包まれた部屋は、西日がゆるく差し込んでいる。
「殿下、私たちは時間が来たので、これにて失礼します」
靈麗は私の腕を掴み、足早に煮炊き部屋を出ようとした。
そんな私達をじっと見つめている殿下に、なぜだか少し後ろ髪が引かれる。
姉の婚約者であり、この国を担う人。
その威厳の元に誰もがひれ伏す。
近寄りがたく孤高の人だと…皇太子殿下の事は、ずっとそう思っていた。
あの花冠祭の日に会った人が、姉の婚約者で皇太子殿下だと知るまでは。
でもあの日会ったあの人は、私にとって皇太子殿下ではなく花冠祭の人だ。
だからなのかわからないけれど…
こうして話していると、不思議とみんなが話すような冷たさは感じないし、近寄りがたさも感じない。
むしろ表には出さない、目の奥の優しさのようなものを感じる。
でも、もう私には関係ない。
皇太子殿下は姉の婚約者だ。
それは紛れもない事実なのだ。
二人には幸せになってもらいたい。
それも紛れもない事実なのだから。
「凌雪?」
靈麗にそう呼ばれて、はっとする。
「荷物を片付けて帰りましょう。私が凌府に送っていきますから」
彼がそう続けたその時だ。
「薬念神医、構わぬ。凌府へなら私が送って行こう」
殿下の思わぬ提案に、私も靈麗も驚きが隠せない。
「ちょうど凌孟昊に、急ぎの大事な話があるのだ」
「でも…」
私が戸惑って靈麗を見ていると、殿下は両腕の着物の裾を翻し、私達より先に外に出た。
靈麗は優しい眼差しで私を見つめ微笑み返す。
「では凌雪、気を付けて帰るのですよ」
「靈麗…」
「でも一つ約束をしてほしいのです」
「約束?」
「凌雪から決して、殿下に触れてはなりません」
触れる?殿下に?
おかしなことを言うものだと、そう思ったが一応彼に頷いた。
“高貴な方だから”という事かと理解する。
「その時、絶対にその香袋の香りを漂わせてはなりませんよ」
「え?」
「その香り袋には危ない薬効の物があり、殿下には禁忌があるので危険です。だから気を付けてくださいね」
そう真剣に言われて思わず首を縦に振る。
その後香り袋を出すように言われ彼に手渡すと、
それを自分が持っていた皮袋の中に包み口をきつく締めた。
春冠祭の時、香ってしまったのは大丈夫だったのか不安になったが、靈麗に言われた通りにそれを胸の奥にしまう。
「この二つの約束は、絶対に守ってくださいね…」
心配そうな靈麗にもう一度強く頷くと、私は、皇太子殿下と韓昭さんと一緒に馬車に乗り、恵仁堂を後にした。