第一話 間違えられた司命簿葉
——―命が、尽きる。
呼吸の奥が、熱く焼けただれていた。
鮮血が喉に逆流し、視界が赤黒く染まっていく。
だというのに、どこか、心だけが妙に静かだった。
―――……これで、終わりなのか―――
凛宸は、倒れ伏した地の上で、冷えゆく空を見上げる。
人間界に降りて幾年。
皇太子煊王李煌として血と土に塗れた日々も、剣の重みにも、ようやく慣れた頃だった。
宿命の修行「歴業」──それが、こんなにも理不尽なものだとは。
その中に、かすかに雪の香りがあった。
懐かしく、痛いほど恋しかった。
――……瑤心ーー
呼びかける声に応える術は、もうなかった。
ただその名だけが、最期まで、凛宸の胸に在った。
その時、天界では、ひとつの葉が、静かに震えおちる。
司命簿葉――人の一生を記す、命の葉。
そこには、確かに“この死”が記されていた。
誰もが疑わず、それをそのまま定めとして彼に与えた。
けれどその葉は、本来凛宸のものであってはならなかった。
ほんの一枚の取り違い。
だが、その過ちが導いた“正しい死”は、
本当の運命を、音もなく狂わせていく。
それはまだ、誰も知らない──
天と地と心を砕く、千年の恋のはじまりだった。
天界には不似合いな、けたたましい声が幾千年ぶりに響き渡った。
「燁煊!燁煊はおるか!!」
その声と同時に司命神・雲淵が着物の裾を手で必死に掴み、転がるようにして入ってくる。
老齢を感じさせる長い白髭と、少しばかり猫背になったその姿には、普段の温厚さとは裏腹の焦りが滲んでいた。
「なんです老師…騒がしい…」
私は顔を上げないまま小さなため息を一つ。
それでも持っていた筆は止めなかった。
「燁煊!!澄ましている場合ではないぞ!!」
なんと騒がしいのだ…
その言葉に、白銀に近い淡い金色の長い髪を背に払い、穏やかな光を帯びた瞳をゆっくりと老師の方に向ける。
「まぁお茶でも、飲んでください。」
「そんな悠長な場合ではない!」
そう言いながらも老師は、自分を落ち着かせようと
側にあった小さな湯飲みのお茶を、がぶがぶと飲み干した。
そして空になった器を、荒々しく元の場所に置く。
大袈裟なほどの慌てぶりに“一体何が起きたのだ”…と言いかけたその時。
「瑤心と凛宸の司命簿葉を、他の人間のモノと間違えたらしい。
今頃になって神仙たちが、報告してきたのだ!!」
老師は持っていた杖を放り、両手で頭をかきむしりながら大声で叫んだ。
瑤心と凛宸は昨日既に、暦業の修行の為”人間界”へ、出立してしまっている。
二人はここ天界で、上神仙という立場だった。
上神に昇格するために、歴業という修行をこなさなければならない。
それは、神になる為、欠かせない修行の一つだ。
ここ司命殿では、人間界の人々の一生涯を司命簿葉に書き記す。
神殿の中央にあり、黄金色に輝く司命簿樹に芽吹く司命簿葉には
人間一人一人の一生涯が全て記されていて、何人たりともそれを書き換えることはできない。
「二人は誰の司命簿葉と、入れ替わったのですか?」
私は、狼狽をさとられぬよう、老師に落ち着いた声で尋ねた。
「それぞれ隣に置いてあった、他の人間の物と入れ替わったようだ。
…私が、平凡な商人の兄妹にしておいたのに。」
彼が慌てているのには訳があった。
上神仙は、決してこの歴業での失敗が許されない。
上神仙が司命簿葉に書かれた人生を、何かの手違いで全うできない場合、歴業は失敗とみなされる。
――そうなれば、神に昇格できないだけでなく
彼らのように”上神仙の最終歴業”では、原神(神の魂)は灰になり消滅してしまうからだ。
そんな事になってしまったら、天界の誰もが悲しみ嘆く。
私は表向き、光の中から誕生したと言われ、両親がいないことになっていた。
ゆえに、偏見を持つものも少なからずいた。
未熟な神仙に、心無い言葉を掛けられたこともある。
それでも凛宸と瑤心の二人は、いつも私を大切にしてくれた。
辛い修行の間はお互いを励まし合い、楽しく穏やかな時間を幾千年も共有してきたのだ。
私にとっては、宝の様な存在の友だ。
そんな二人が消滅するなんて、命を失う事のように辛い。
凛宸の父・蒼炎は戦律神で、三界の秩序を守ってきた名将だ。
凛宸の血筋は重く、次代の要となる存在であった。
凛宸はこの歴業が終われば、その後を継ぎ次の戦律神になる。
彼は戦神仙という立場で、二千年前から蒼炎と地界戦に出向き、闘いの全てを学び習得してきた。
瑤心の母は、天界の花と香りを司る芳華女神・璃華、父は愛と調和の律を司る心律神・珩遠。
その血を受け継ぐ瑤心は、天界で誰よりも深く慈愛に満ちている。
柔らかな笑顔が誰をも魅了する、愛と縁結びの上神仙だ。
瑤心がいなくなると、人間界の愛が消える。
憎しみ合い、殺し合い、自分さえも愛せなくなる地獄が生まれる。
そんな二人を絶対に失うわけにはいかないのだ。
誰もがその一心で、彼らの司命簿葉を記しただろう…
「老師、二人は人間界で知り合うのですか?」
「知り合いはするが、よりによって関わり合う人生になってしまった。」
「……」
「詳細は司命簿葉を引き裂かぬ限り、知ることはできぬ…」
老師は肩を落とし、深いため息をつく。
記した者は、内容をなんとなくしか覚えてないらしい。
「葉を裂いたら雷刑ではないか。そんなものをこの年で受けたら、私は死んでしまう!!」
「私が中を見てみましょうか…。」
「もしそれをお前にさせようものなら、私が天帝に殺されるではないか。」
それは天帝が、私の真の父であるからだ。
息子の私は、後に天帝となりこの三界すべてを治める。
そして、その事実を司命神老師だけがただ一人、知っていた。
定めとは言え、神々をまとめると言う重責を担う為
私の人生全てが、その先に繋がるような生き方をしてきた。
慈しむ心、ねぎらう心、許す心…全ての者に必要な【愛】を全て学ぶ為に。
そんな私を、ずっと見守って来たのが司命神老師・雲淵だ。
「そう言えば“凛宸が瑤心の姉になる人を、娶ると記した”…と聞いたような?」
突然、老師が思い出したかのように言った。
「瑤心の姉を?」
「しかし瑤心は普通の人間とは違う。
凛宸が知り合って、葉に逆らい“姉より瑤心に思いを”となると…」
「まさか。司命簿葉の通りに、事が運ばないなどあるのですか。」
「それで歴業を失敗した神仙は五万といるのだ。
上神仙も、何人もいるほどだぞ。
なんせ瑤心は”愛を司る”ゆえ、歴業に出る時に男達は皆兄弟の設定にする。
…というのが暗黙の了解になっていたのだ…。」
「もし凛宸が、姉より瑤心をとなれば…」
「そんな事絶対阻止せねばならぬ。
葉に書かれた通り姉と婚姻しなければ、凛宸の歴業は失敗に終わるだろう。
そして凛宸が消滅したら、魔界が攻めて来て天界が大変な事に。」
「大丈夫ですよ。二人は無事に歴業を終えて帰ってきます。
瑤心と凛宸なら、きっと成し遂げる。そう信じましょう。
——けれど、人になった凛宸が瑤心の原神に抗えるでしょうか…。それに一抹の不安が残る。」
「燁煊…」
「老師、私が人間界に降り瑤心と凛宸を見守るのは、いかがでしょう。」
「馬鹿な!もうお前は神なのだ。
人間界への歴業は、天罰として与えられる“挫折必須の大困難な人生”のみ。
死刑も同然の苦歴業しかない。」
「だから歴業ではなく、このまま神として人間界に行くつもりです。」
「神として?そうすれば下界では、今の姿のまま周りと違って全く年も取らない。河原で見世物になってしまうぞ。」
「……」
「おまけに人間界では神力が使えない。人間の”決まった”一生に神は介入できないからな。
一瞬でも使えば、誅仙台(天界で最も恐ろしい処刑の場)の傍の塔に閉じ込められるのだ。
そんな事になれば天帝が、お前を許さぬ。」
私がそんな身勝手な行動をすれば、天帝である父はその威厳も失うだろう。
それだけでは、済まされないかもしれない。
もしかしたら誅仙台でそのまま処刑という事もありえる…
私の存在は抹消され、墓標に名前も刻まれないのだ。
そうなれば、生まれた証さえ全て無くなってしまう…。
「老師、ご安心ください。私は決して神の力を使いません。
凛宸と瑤心が無事歴業を終えられるよう、少しの間彼らを見守りたいだけなのです。
私の大切な友ではありませんか…」
そう言った私に、老師は小さなため息を一つつく。
―それでも納得が行かない。といったように、何度か首を横に振った。
”二人の為に私が行こう。”
その決意は、揺るがない。
凛宸と瑤心を無事天界へ戻せるのなら、私はどんな事も怖くはなかった。
その後何とか老師を説得し、私は人間界へ降りる。
忘川の水を飲み全ての記憶を消し、歴業に向かった凛宸と瑤心。
二人と違い僕には全ての記憶があり、私は全ての事情が分かっていた。
それがきっと役に立つであろう。
――二人の運命を、無事導くことに…
そう思っていた私は、まだ知らなかった。
この歴業が、今まで友だった私達三人の、運命を狂わせることになるとは。
――ただ、二人を守る事だけしか、この時の私の頭にはなくて…