第一話 間違えられた司命簿葉
「燁煊!燁煊はおるか!!」
天界には不似合いな、けたたましい声が幾千年ぶりに響き渡った。
その声と同時に司命神・雲淵が衣の裾を手で必死に掴み、転がるようにして入ってくる。
老齢を感じさせる長い白髭と、少しばかり猫背になったその姿には、普段の温厚さとは裏腹の焦りが滲んでいた。
「なんです老師…騒がしすぎます…」
私は彼の方を見ないまま、小さなため息を一つ。
書き物の手を止めることなく、平静を装った。
「燁煊!!澄ましている場合では、ないのだ!大変な事になってしまった!」
大声で、なんと騒々しいのだ…
耳を塞いでも聞こえそうなその声が、神殿中に響く。
私はその言葉に、白銀に近い淡い金色の長い髪を背に払い、穏やかな光を帯びた瞳をゆっくりと仕方なく老師の方に向けた。
「まぁ落ちついて、お茶でも飲んでください…」
「そんな悠長な事は、言ってられぬ!」
そう言いながらも老師は、自らを落ち着かせようと
側にあった小さな湯飲みのお茶を、がぶがぶと飲み干した。
そして空になった器を、荒々しく元の場所に置く。
大袈裟なほどの慌てぶりに“一体何が起きたのです”…と言いかけたその時。
「瑤心と凛宸の司命簿葉が、他の人間のモノと入れ替わったらしい!
今頃になって神仙たちが、報告してきたのだ」
老師は持っていた杖を放り、両手で頭をかきむしりながら、思わぬことを大声で叫んだ。
瑤心と凛宸は昨日既に、歴業の修行の為”人間界”へ、出立してしまっている。
二人はここ天界で、上神仙という立場だ。
なので、上神に昇格するために、歴業という修行をこなさなければならない。
それは神になる為、欠かせない修行の一つだった。
ここ司命殿では、人間界の人々の一生涯を司命簿葉に書き記す。
神殿の中央にあり、黄金色に輝く司命簿樹に芽吹く司命簿葉には、人間一人一人の一生涯が全て記されていて、何人たりとも、それを書き換えることはできない。
「二人は誰の司命簿葉と、入れ替わったのですか?」
私は狼狽をさとられぬよう、老師に落ち着いた声で尋ねた。
私が慌てれば、老師が更に動揺しかねないからだ。
「それぞれ、隣に置いてあった人間の葉と入れ替わったようだ。
…私が、平凡な商人の兄妹の葉に、二人をしておいたのに!」
彼が慌てているのには、訳があった。
上神仙は、決してこの歴業での失敗が許されない。
上神仙が司命簿葉に書かれた人生を、何かの手違いで全うできない場合、歴業による修行は失敗とみなされる。
――そうなれば、神に昇格できないだけでなく
彼らのように”上神仙の最終歴業”では、原神(神の魂)は灰になり消滅してしまうからだ。
そんな事になってしまったら、天界の誰もが悲しみ嘆く。
私は表向き光の中から誕生したと言われ、両親がいないことになっている。
ゆえに、偏見を持つものも少なからずいた。
未熟な神仙に、心無い言葉を掛けられたこともある。
それでも凛宸と瑤心の二人は、いつも私を大切にし、優しくしてくれた。
辛い天界での修行の間は、お互いを励まし合い、楽しく穏やかな時間を幾千年も共有してきたのだ。
私にとっては、かけがえのない宝の様な存在の友だった。
そんな二人が消滅するなんて、命を失う事のように辛い。
凛宸の父・蒼炎は戦律神で、三界の秩序を守ってきた名将だ。
凛宸の血筋は重く、次代の要となる存在であった。
凛宸はこの歴業が終われば、その後を継ぎ次の戦律神になる。
彼は戦神仙という立場で、二千年前から蒼炎と地界戦に出向き、闘いの全てを学び習得してきた。
瑤心の母は、天界の花と香りを司る芳華女神・璃華、父は愛と調和の律を司る心律神・珩遠。
その血を受け継ぐ瑤心は、天界で誰よりも深く慈愛に満ちている。
柔らかな笑顔が誰をも魅了する、愛と縁結びの上神仙だ。
瑤心がいなくなると、人間界の愛が消える。
皆憎しみ合い、殺し合い、自分さえも愛せなくなる地獄が生まれる。
そんな二人を、皆絶対に失うわけにはいかないのだ。
きっと神仙たちはその一心で、彼らの司命簿葉を記しただろう…
「老師、二人は人間界で、知り合うのですか?」
「知り合うだけでなく、よりによって、二人が関わり合う人生になってしまった」
「……」
「詳細は司命簿葉を引き裂かぬ限り、知ることはできぬが…」
老師は肩を落とし、深いため息をつく。
葉を記した者は、内容をなんとなくしか覚えてないらしい。
葉は詩の形で記されるゆえ、そうでなくても難しいのだ。
「司命簿葉を裂いたら、その者は雷刑ではないか。そんなものをこの年で受けたら、私は死んでしまう!!」
「私が、中を見てみましょうか…」
「もしそれをお前にさせようものなら、どっちみち私が天帝に殺されるではないか」
それは天帝が、私の真の父であるからだった。
息子の私は、後に次の天帝となりこの三界すべてを治める。
そして、司命神老師だけがただ一人、その事実を知っていた。
定めとは言え、神々をまとめると言う重責を担う為
私の人生全てが、その先に繋がるような生き方をしてきた。
慈しむ心、ねぎらう心、許す心…全ての者に必要な【愛】を全て学ぶ為に。
そんな私を、ずっと見守って来たのが司命神老師・雲淵だ。
「そう言えば、“凛宸が瑤心の姉になる人を、娶ると記した”…と聞いたような?」
突然、老師が思い出したかのように言った。
「瑤心の姉を?」
「しかし瑤心は、普通の人間とは違う。
凛宸が知り合って、葉に逆らい“姉より瑤心に思いを”となると…」
「まさか。司命簿葉の通りに、事が運ばないなどあるのですか」
「愛の女神と同行し、歴業を失敗した神仙は五万といるのだ。
上神仙も、何人もいるほどだぞ。
なんせ瑤心は”愛を司る”ゆえ、歴業に出る時に男達は皆兄弟の設定にする。
…というのが、天界の暗黙の了解になっていたのだ…」
「もし凛宸が、姉より瑤心を娶るとなれば…」
「そんな事、絶対阻止せねばならぬ。
葉に書かれた通り姉と婚姻しなければ、凛宸の歴業は失敗に終わるだろう。
そして凛宸が消滅したら、魔界が攻めて来て天界が大変な事になるのだ!」
「大丈夫ですよ。二人は無事に歴業を終えて帰ってきます。
瑤心と凛宸なら、きっと成し遂げる。そう信じましょう。
——けれど、人になった凛宸が瑤心の原神に抗えるでしょうか…。それに、一抹の不安が残ります…」
「そこなのだ、燁煊…」
「老師、私が人間界に降り瑤心と凛宸を見守るのは、いかがでしょう」
「馬鹿な!もうお前は神なのだ。
人間界への歴業は、天罰として与えられる“挫折必須の大困難な人生”のみ。
死刑も同然の苦歴業しかない」
「だから歴業ではなく、このまま神として人間界に行くつもりです」
「神として?そうすれば下界では、今の姿のまま周りと違って全く年も取らない。河原で見世物になってしまうぞ」
「……」
「おまけに人間界では神力が使えない。人間の”決まった”一生に神さえも、介入できないからな。
一瞬でも使えば、誅仙台(天界で最も恐ろしい処刑の場)の傍の塔に閉じ込められるのだ。
そんな事になれば天帝が、お前を許さぬ」
私がそんな身勝手な行動をすれば、天帝である父は皆の手前、許すわけには行かない。
その威厳も失ってしまうからだ。
それに、それだけでは、済まされないかもしれない。
もしかしたら誅仙台でそのまま処刑という事もありえる…
私の存在は抹消され、墓標に名前も刻まれないのだ。
そうなれば、生まれた証さえ全て無くなってしまう…。
「老師、ご安心ください。私は決して神の力は使いません。
凛宸と瑤心が無事歴業を終えられるよう、少しの間彼らを見守りたいだけなのです。
私の大切な友ではありませんか…」
そう言った私に、老師は小さなため息を一つつく。
―それでも納得が行かない。といったように、何度か首を横に振った。
”二人の為に、私が見守りに行こう。”
その決意は、揺るがない。
凛宸と瑤心を無事天界へ戻せるのなら、私はどんな事も怖くはなかった。
その後何とか老師を説得し、私は人間界へ降りる。
忘川の水を飲み全ての記憶を消し、歴業に向かった凛宸と瑤心。
そんな二人と違い、私には全ての記憶があり事情が分かっていた。
それがきっと役に立つであろう。
――二人の運命を、無事司命簿葉の通りに導くことに…
そう思っていた私は、まだ知らなかった。
この歴業が、今まで友だった私達三人の、運命を狂わせることになるだなんて…。
――ただ、二人を守る事だけしか、この時の私の頭にはなく…