優しい大人は嘘を吐かない
おそらく僕はこれから先、たくさんの嘘を吐くことになるんだろうけれど、それは決して、僕が悪い子どもだと言うことにはならないと思うし、なるはずがないって信じてる。
嘘にも二種類の嘘があって、ひとつは“誰かを傷つけるために吐く嘘”、もうひとつは……“誰かを傷つけないために吐く嘘”。
僕が吐いていくはずの嘘はきっと後者の嘘で、大切な人——お母さんを傷つけないために、僕はこれから先、たくさんの嘘を吐いていくんだ……。
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お母さんが僕に雄介さんを紹介してきたのは、去年の三月のことだった。
「はじめましてだね」
閑散としたファミレスに響く嫌にはっきりとした声で、僕とお母さんの対面に座った雄介さんは笑いかけてきた。
「といっても、実は一度会ったことがあるんだけど……覚えてるかな?」
「……」
首を振る僕に雄介さんは「そうだよね」と少しだけ残念そうな表情を見せたけれど、すぐに優しそうに見える笑みを形作って、優しく聞こえる声で語りかけてきた。
「——よし、じゃあ自己紹介をしよう。僕は和田雄介。気軽に雄介くん、それか雄介お兄ちゃん、あるいは……いや、やっぱり雄介くんって呼んでほしいかな。そっちの方が友達みたいだろ?」
お母さんが笑った。今度は僕の番。僕はお母さんの顔をそっと窺って、ゆっくりと頷いたのを見て、ぽつりと呟くように言った。
「……大塚幸人、です。……十一歳、です」
まだ声変わりの始まらない声は高くて、まだ子どもだと言うことを突きつけられている気がして嫌いだった僕は、もうそんなに幼くないということを示すために年齢を付け足した。
雄介さんはそんな僕の細やかな抵抗に気づいていないみたいに笑っていた。
「よろしくね、幸人くん」
「……よろしく、お願いします」
それから運ばれてきたハンバーグを食べる僕と、朗らかな笑みを浮かべ続ける雄介さんが話す姿を、お母さんはどこか微笑ましそうに……どこかホッとしたように見ていた。
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お父さんが死んだのは三年前の夏のことだった。交通事故だった。
僕がお父さんと最期に会話したのは、その前日の夜。いつもと変わらない夏の夜、蒸し暑さに耐えかねた僕が台所まで降りていくと、ちょうど仕事から帰ってきたらしいお父さんが冷蔵庫からビールを取り出すところだった。
「おう、お前も飲むか?」
「嫌だよ、そんな苦いの」
「ハハ、なんで苦いって知ってんだよ。さてはお前……俺の飲み残し飲んだことあるな?」
「……いいからお茶取って。喉乾いてんだ、僕」
お父さんは笑いながらお茶をコップに注いで僕に渡してくれた。僕はそれをひと息に飲み干すと、口を拭ってお父さんにコップを返した。
「じゃ、おやすみなさい」
そのまま台所を出て二階に上がろうとした僕をお父さんが呼び止めた。
「そうだ幸人。今度の試合、幸人が先発するんだってな! お母さんに聞いたよ、凄いじゃねえか」
「……別にそんな凄くないって」
その年から入団していた野球チームで任された初めての先発投手。それを自分のことのように嬉しがるお父さんの様子に、僕は気恥ずかしくなって向けていた視線を逸らした。「ピッチャーやってたら絶対回ってくるんだから」
「けどお前、ピッチャーやってないと回ってこないんだろ? 聞いてるぜ、お前の年でピッチャーに選ばれてるの幸人だけなんだってな」
「まぁ、そうだけど……」
「ならやっぱ凄えよ。応援、行くからな」
「……うん」
そして僕は逸らした視線を一度もまたお父さんに向けることなく台所を出て階段を駆け上がった。
朝起きる頃にはお父さんはもう仕事に出掛けていて、僕はお母さんに急かされながら朝ごはんを食べて学校に行った。
いつもと変わらない朝。いつもと変わらない学校。そんないつもと変わらない日常が終わったのは、三時間目のこと。
算数の問題がわからなくてうんうん唸っていると、突然教室に教頭先生がやって来て、こそこそと廊下で先生と何かを話し始めて、それから先生は僕を手招きで呼んで、
「大塚さん」
と、いつもは優しく響く先生の声が、なんだかやけに厳しく聞こえた。何か怒られるんじゃないか、そう身構えていた僕に、先生は教室の中に聞こえないくらい小さな声で告げてきた。
「今から先生と一緒に病院に行きましょう」
「……え? なんで?」
先生は何も答えてくれなかった。ただじっと難しい顔をして僕のことを見ているだけだった。「ねえ、どうして?」
そうしてよくわからないままに先生の車に乗せられた僕は、よくわからないままにどこかの病院に連れて行かれて、よくわからないままに泣きじゃくるお母さんに抱きしめられた。
「ゆきとぉ……、ゆきとぉ……!」
「……お母さん」
本当のことを言うと、僕はこの時まで、大人は泣かないもんだと思っていた。いつも笑顔で僕たちを導いてくれるような、優しくて完璧な存在なんだって。
でも違った。大人だって泣くんだ。ただ僕たち子どもよりもたくさん生きてるから、悲しみに慣れちゃってるだけで、本当に悲しいことがあると人目を憚らずに泣くんだ。
そのことに気がついたのと同時だったと思う。看護師さんがやって来て、僕はお父さんが死んじゃったことを知った。
——死。
言葉だけはよく知っていて、冗談で使ったことだってあったはずなのに、僕はその言葉の待つ意味の十分の一もわかっていなかったんだ。
会いたくても、もう会えない。
聞きたくても、もう聞こえない。
触れたくても、もう触れられない。
触れてほしくても、もう触れてはくれない。
それが……人が死ぬということだった。
後になって考えれば考えるほど、僕は後悔した。今日と同じ明日がいつまでも続いていくんだと信じていた自分の未熟さを……。子どもだったからって言うのは、何の言い訳にもならないんだ。
でも、そのときの僕が考えていたことは全く別のことだった。
「……泣かないで、お母さん」
「う、うう……」
お母さんは泣き続けた。痛いくらいに強く僕の身体を抱きしめて、ずっと泣き続けた。何かしなきゃいけないと思った。でもどうしたらお母さんが泣き止んでくれるのかなんてわかるはずもなかった。だから僕はぎゅっとお母さんの身体を抱きしめ返して、そっと言葉をかけ続けた。「……泣かないで、お母さん」
……お父さんが死んだ悲しみと、お母さんが泣いた悲しみ。どっちが辛いかなんて決められないけれど、ただ、そのときの僕には、お母さんが迷子の子どものように思えて、しっかり支えてあげなきゃ、しっかり守っていかなきゃって……そう思ったんだ……。
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「いい球投げるなー幸人くん」
「まあね。これでも地区の選抜に選ばれてるからさ」
雄介さんと出会って一年。雄介さんは僕に何でもしてくれた。映画に連れて行ってくれたし、キャッチボールもしてくれた。プロ野球の試合にも連れて行ってくれた。新しいグローブも、新しいゲームだって買ってくれた。
『お母さんには内緒だよ』
いつもそんなふうに笑って嘯く雄介さんのことを、僕は少しずつ信頼していった。
そして薄々、僕は気がついていた。
……いや、本当は初めからわかっていたんだ。
きっと雄介さんが……新しいお父さんになるんだってことに。
「雅也さんは」と、キャッチボールを続けながら雄介さんが話し始めた。「雅也さんは学生の頃からの憧れでね。ずっと尊敬していたんだ」
「尊敬って……お父さんはそんな人じゃなかったでしょ。いつもふざけてて、冗談ばっかりで、ホント、尊敬できるところなんかあったんだか、っと」
「はは、確かにそういう一面もある人だったよ」
僕が投げたボールを受け取った雄介さんは懐かしそうに笑った。
「でもね、それでみんなを明るくしてくれたんだ。計算だったのか天然だったのかわからないけど、とにかくそれは誰もができることじゃなくて……うん、本当に凄い人だったよ」
「……ふーん、そういうもんなんだ」
「そういうもんなんだよ」
キャッチボールを終えたあと、僕たちはスポーツドリンクを買ってベンチで飲んだ。
時間が静かに流れる。
夕日が眩しいくらいに輝いていた。
「ねえ、幸人くん……」
ふいに聞こえた声に視線を向けると、合ったのは真剣な眼差し。
心臓がどきりと跳ねる。
「大事な話があるんだ」
「……なに?」
「……僕は」
雄介さんは少しだけ言い淀んで、それでも真っ直ぐな言葉で伝えてくる。
「僕は美里さんと結婚したい」
「……」
「美里さんと結婚して、きみのお父さんになりたいんだ」
「……」
準備は、してきたはずだった。
いつか、この時のために、心の準備は。
でも。
だけど。
「……ちょっとだけ、考え……させてよ……」
「……うん、わかった」
やっぱり、僕にはまだ答えがなくて。
静かに頷いてくれた雄介さんの気持ちを感じながら、僕は夕日に視線を移した。
沈んでいく太陽。薄れていく眩しい光。時間だけが何の悩みもなく過ぎていく。
……わかっているんだ。本当は。
お母さんのためにも、雄介さんのためにも……僕のためにも。
それがいちばん良い選択だって。
でも。
ただ、上手く言葉にできなくて。
自分の心なのに、わからないんだ。
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それから夏が過ぎて、秋が来て、冬になった。
声変わりが終わって、背も伸び始めた。幼かったあの頃とは、もう何もかも違う。
でも変わらないものもあって。
眠れない夜、僕はベランダに出た。冷たい風。冷たい冬の匂いが、特別な思い出の蓋を開ける——。
お父さんは星を見るのが好きで、よく僕を天体観測に誘ってくれた。
大抵はベランダから。でもたまに有名な星見スポットまで連れて行ってくれることもあって。そんな場所——明かりのない場所から見る夜空は深く吸い込まれそうで、最初は凄く怖かった。でもお父さんが隣にいてくれたから、段々と好きになっていって、いつからか僕は心の底から楽しみにしていた。
だけどその日はちょっとだけ違って。
「いいか、幸人」
星を見るために芝生に寝転んでいたお父さんは僕の名前を呼んだ。真面目な声だった。
「お母さんは怒るだろうけどな。ほんとはな、勉強なんかできなくてもいいんだ。世の中には勉強よりも大事なことなんていくらでもあるからな。でもな……嘘だけは吐くんじゃないぞ」
「……うん」
僕はその日、友達と遊びたくて塾をサボっていた。時間になってもやって来ない僕を心配した塾からお父さんとお母さんの職場に電話があったらしい。
「別にサボったことを悪く言ってるんじゃねえ。友達と遊ぶ方がずっと大事に決まってる。ただ単にサボりたくなることだってあるだろうしな。だけど——」
そう言うと、お父さんは僕の方に顔を向けて、暗闇なのにわかるくらい強く僕の目を見て、
「……心配したんだからな」
「……うん」
怒られると思った。サボったことを純粋に。
でもお母さんもお父さんも、僕を怒鳴りつけたりしなかった。
お母さんはギュッと僕のことを抱きしめて「良かった……」って何度も言って、お父さんは黙って僕を天体観測に連れてきて、こんなふうに優しく諭してくれた。
気がついたら僕は泣いていた。でも悲しいと言うよりかは、嬉しいと思って泣いていた気がする。お父さんやお母さんみたいな大人になりたいって、そう思ったんだ。
「またサボりたくなったら、今度は正直に言えよ。俺やお母さんが話しつけてやるからさ。大丈夫、嘘なんか吐かねえよ。なんたって、優しい大人は嘘を吐かないもんだからな」
くしゃりと乱暴に、けれど優しく頭を撫でてくれたお父さん。大きくて、温かい手。もっとずっと先まで、当たり前に導いてくれるものだと思っていた。
でもお父さんはもういない。
心の中にも、いちゃいけないんだとも思う。
だって。
雄介さんをお父さんと呼ぶと決めたから。
お父さんという言葉を口に出すたびにお父さんのことを思い出していたら、僕はきっと……嘘吐きじゃいられなくなるから。
『優しい大人は嘘を吐かないもんだからな』
そんなふうにお父さんは言ったけれど、それは嘘だと思う。
きっと、優しい大人の方が嘘を吐く。
だって、そうしないと、綺麗事だけじゃ、いつか誰かを傷つけてしまうから。
だから、誰かを傷つけないために。
——優しい大人は嘘を吐くんだ。
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冬の夕暮れは早くて、雄介さんとキャッチボールを終えた帰り道はもうすっかり夜が辺りに満ちていた。
「ただいま」
「おかえり幸人。ちょっと待っててね、もうすぐご飯できるから」
出迎えてくれたお母さんは忙しそうに家事をこなしていた。仕事で疲れてるはずなのに、僕のために栄養が考えられた食事を作ってくれている。
僕はその背中に向かって言葉を掛けた。
「……いいよ、別に。雄介さんなら」
「——? いいよって、何のことよ?」
「だから、するんでしょ、結婚」
お母さんはハッとしたように僕を見た。揺れた瞳が焦点を取り戻す前に、僕は早口で続ける。
「大丈夫だよ。僕はもう大人だし、雄介さんなら……雄介さんならお父さんだって許してくれるよ」
そう言った僕の目は無意識に遺影へと向けられた。変わらない笑顔がそこにはあって、なんだかよくわからない感情に襲われて、僕はすぐにお母さんに視線を戻した。
お母さんは真剣な瞳で僕を見ていて、
「……ありがとう、幸人」
「ちょっ、やめてよ」
ぎゅっと抱きしめられる。
「ありがとね、幸人……」
「だから……」
もうお母さんに抱きつかれて嬉しがるような、安心するような歳じゃない。でもなぜだろう? 透明な涙が流れるんだ。
どうして? 僕はただ、お母さんに幸せになって欲しいだけで、僕が泣くようなことなんて、何一つないはずで……。
……ああ、そういうことか。
きっと、誰かを傷つけないために嘘を吐くと、自分が傷つくんだ。
ギュッと抱きしめられる温かさを感じながら、僕は瞼を閉じた。
ああ……おそらく、僕はこれから先、たくさんの嘘を吐くことになるんだろうけれど、それは決して、僕が悪い子どもだと言うことにはならないと思うし、なるはずがないって信じてる。
嘘にも二種類の嘘があって、ひとつは“誰かを傷つけるために吐く嘘”、もうひとつは……“誰かを傷つけないために吐く嘘”。
僕が吐いていくはずの嘘はきっと後者の嘘で、大切な人——お母さんを傷つけないために、僕はこれから先、たくさんの嘘を吐いていくんだ……。
(了)