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それから私は母に言われた材料を集めることにした。
ナスとキュウリは友人からもらっていたので買わずに済んだ。米も常備している。
蓮の葉はホームセンターの園芸コーナーで購入。
柊は友人の実家から少し切ってわけてもらった。
一週間後の土曜日。八月十二日。
あれからずっとカーテンを閉めていた。見られている気がして、怖くて開けられなかったのだ。
先週から大家さんが樹木の手入れをしている。薬を撒くから窓を閉めておいてと言われていた。
晴れているのにずっと窓を閉めているなんて不健康だし、罪悪感が募ってしまうから、良い言い訳が出来て助かった。
これから実家に戻る予定なので母から言われたことを実行しなきゃ。
まずはナスとキュウリをミキサーにかける。
お盆のナスとキュウリといえば、ご先祖さまの霊があの世とこの世を往来するための乗り物だ。
キュウリは精霊馬といい、馬で早く帰ってこられるように、ナスは精霊牛といい、帰りは牛でゆっくり帰れるように、という意味がある。それをミキサーにかけるというのはどういうことなのか……。
そもそもあれは霊なのか?
何度か人間「だった」ものを見てきたことがあるけど、バスマットさんはそういう類いのものではないと感じる。もっと得体の知れない何か……。
そうこう考えているうちに二つの野菜はペーストになった。皿に乗せ準備完了。
久しぶりにカーテンを開けた。
バスマットさんは変わらず同じ場所でこちらを向いていたが、明らかに前より大きくなっていた。今は120cmくらい。小学校低学年の子供くらいの大きさになっていた。
初めて見たときには気づかなかったが、大きくなった今は細部がよくわかる。
目はガラスのようで黒光りし、口はへの字に曲がっている。首がありそうな位置は真っ赤で、ボサボサと生えているものはトゲだった。トゲに覆われた皮膚は黒く、手足は驚くほど細くて、指は鉤爪のように鋭い。
本能的に、私はこの姿を拒絶した。
私は柊の枝を持ち、花瓶に挿した。
それを庭に置くために窓を開ける。
それと同時にバスマットさんはこちらに向かってきた。
早く置かなければ。
ナスとキュウリの皿を地面に置き、柊を入れた花瓶を置いて勢いよく窓を閉めた。
バスマットさんは窓の外、1mほどのところまで来ていた。
全身に悪寒が走り身動きが取れない。バスマットさんは左右に首を傾げ、真っ黒な瞳に私の姿を映した。
ひとつ、深呼吸をした。
荷物を掴み、急いで部屋を出た。
息を切らしつつ、ようやく駅までたどり着いた。後ろを振り返るが何も追いかけてくる気配はない。
実家に戻ると母と叔父がいた。
「柚花、おかえり」
「ただいま。叔父さんもいたんだね」
母の弟、正吉おじさんはお茶をすするとにこやかな顔を向けた。
「やあ、柚ちゃん! 新しい部屋はどう? リフォームしたからきれいでしょ?」
叔父さんは白根荘の大家さんなのだ。
「悪いんだけど、引っ越しさせようと思ってるのよ」
「え! どうかしたの?」
私をそっちのけで二人は会話をし始めた。
「柚花は昔から喉や皮膚が弱いからね。あそこには住ませられないって思ってね」
「そりゃあボロアパートだけど、リフォームもしてだいぶ綺麗になったんだけどなぁ」
さすがに不思議なものがいるから引っ越すなんて言えないよね。
それにしても、母ももしかしたら見えないものを見ることのできる人だったのかもしれない。
八月十五日、またあのアパートに戻る日だ。
姉夫婦とその子供たちも帰ってきていたので母とゆっくり話すことが出来なかったが、母は帰りにあるものを持たせてくれた。
「もしもそいつが消えていなかったら、キュウリとナスのアレをまた作って、これをかけてみて。うちで代々使ってきたものだからね」
そう言うと母は、液体の入った小瓶を渡してきた。
「絶対に中身に触ったらダメよ。もちろん嗅ぐのもダメ」
わかったと伝えてカバンに入れた。
そういえば、ひとつ聞きたいことがあったんだ。
「お母さんはバスマットさんの正体がわかるの?」
「予測はしたけど、あなたが怖がるから今は言えない」
母は私なんかよりも視る力が強い人なのかもしれない。
日が沈む前に自宅に帰ってきた。
カーテンを開けると桜の木の下で小さくなっているバスマットさんを見つけた。
初めて見たときと同じくらいの大きさだった。
消えていなかった。
母の言葉を思い出し、カバンから小瓶を取り出した。
代々使われてきた危険な液体?
これを振りかける……。
うちの家系はもしかしたら、悪魔払いなどの仕事をしてきたのかもしれない。この液体もその道具のひとつなのかも。
窓の外に目を向けた。
柊はそのままの形を保っていたが、皿の中はこの暑さで干からびていた。
私は新たに母からもらったキュウリとナスで例のペーストを作り、砕いた米をまぶし、蓮の葉を敷いた皿の上に盛った。
そして小瓶の蓋を慎重に開ける。
触っても嗅いでもいけないと母は言っていた。とても危険なものなのだろう。液体を垂らす。出来た……。
それを持って窓のところまで行く。
バスマットさんは変わらず桜の下で動かない。
私は窓の鍵に手を掛けた。
開けた瞬間に素早く皿を交換した。
バスマットさんは私に気づき、また近づいてきた。急いで窓を閉める。
バスマットさんは皿の前に着くと、四つん這いになり顔を皿に埋めた。どうやら食べているようだ。
皿の端から端まで食べる姿が気色悪かった。
すると、急にバスマットさんが悶え苦しみ始めた。と思ったらどんどん姿が小さくなり、最後には5cmほどの染みのようなものが地面に残り、そして真夏の暑さで蒸発したように見えた。
「お母さん? バスマットさん消えたよ」
母に報告をした。
「良かったわね。あれ効いたんだ」
私は疑問をぶつけた。
「バスマットさんって何だったんだろう」
「あれが効いたということは、やっぱり虫の霊よ。しかも大量に死んだ毛虫の霊」
「毛虫の霊!?」
母が言うには、バスマットさんは桜の木につく大量の毛虫の霊だという。
私がバスマットさんの姿を説明したときにピンときたらしい。
無縁仏や餓鬼用のお供え物で「水の子」というのがあってね。キュウリとナスを賽の目に切って米をまぶして、蓮の葉に乗せたものなの。
その幼虫バージョンを作ったらどうかなって。ほら、幼虫って口がとっても小さいでしょ。赤ちゃんだし食べやすいようにしてあげなきゃね。
それと、あなた虫の中でも特に毛虫が嫌いだったでしょ? 解決するまでは言わないでおこうと思ったのよ。
と話す母はなんとなく楽しそうだ。
小瓶に入っていたのは桜の木に使う殺虫剤だそうだ。特別な魔術を施した神秘の液体でもなんでもなかった。
叔父は同じ殺虫剤をアパートの庭の桜に撒いてるそうで、母が引っ越しを勧めたのはバスマットさんがいるからではなく、殺虫剤が私の身体に悪影響を及ぼすのを心配してのことだった。
「正吉が桜に殺虫剤を撒いているからいっぱい虫が死んでるわよね」
叔父さんは虫嫌いの私のために虫の駆除をしてくれていたそうだ。
もうひとつの疑問をぶつけてみた。
「お母さんって霊能力とかあるの? うちってそういう家系なの?」
「んなものあるわけないでしょ」
母の言葉に私は目を丸くした。
「そんなものいるわけないわよ。でも娘の言うことは信じるわよ」
なんだ、結局、私しか見えないのか。
でも、私には味方がいることがわかった。
昔から私は孤独ではなかったのかもしれない。
「虫にはやっぱり殺虫剤よ」
母は強し。
終