第二話 風呂
おじさんが風呂に入る
まぁ、あまり深く考えても仕方ないな。せっかくの土曜日だゆっくり過ごそう。
俺は身支度をして、アパートを出た。
地下鉄を乗り継ぎ、繁華街へと出る。まだ人気は少ないが、夜になれば酔っ払いがあふれるこの場所はハシ町と呼ばれている。正式には枦木町だが地元でその呼び方をする人間はあまりいない。
時間は12時過ぎ。ちょうどいい時間だ。こういう時は風呂に限る。
スマホで近所の浴場を検索すると過去何度か利用したことがある場所が出てきた。若干値が張るがとしてもいい場所だ。
はやる気持ちを抑え、若干速足で目的地に向かった。
「フリーで」
受付をすませ風呂に入る。ここでは担当者が体を流してくれるサービスがあるのでとても助かる。
「失礼します」
と入って来た担当はとても美人の女性だったので、俺はたちまちに恋に落ちた。そして、奇遇にもその女性も俺に好意を寄せたようだった。俺たちは恋人同士になり風呂に浸かった。90分経過したところでやはり恋人としてはやっていくことが難しいことが判明し、俺たちは別れることになった。それでも非常に満足度の高い入浴だった。
風呂に入り、すっきりしたところで腹が減ってきた。適当にランチを取るか。
時間は午後2時。ハシ町も人出が多くなり、家族連れやカップルが目立つようになっていた。混んでいる店は避けたいので、メインの通りから2ブロックほど離れたあたりをうろついてみる。何度か行ったことのある中華屋があったのでそこに入ることにした。
「いらっしゃい」
親父くらいの年の店主が洗い物か何かしているのか、うつむいたままそう言った。
カウンターが8席と、二人掛けのテーブルが3組ほどある。先客はカウンターに5人程いてラーメンなんかを食べていた。珍しくカウンター客には女性も混じっている
「注文は」
カウンター越しに水を置きながら店主が聞いてくる。
「味噌ラーメンひとつ」
「はい」
さて、また適当にスマホでニュースでも……、と思ったところで、目の端に見覚えのある姿がうつった。2つ隣の席に座っている女の顔、どこかで見覚えが……。
とりあえず水を口に含む。胃の奥に不安の種のようなものが落ちていくような感覚を覚えた。
少しだけ頭を傾けて、その女の顔を確認する。やはり間違いない。昨日の夢で、近所の工場倉庫でなにやら取引めいたことをしていた女だ。そして、今日の朝アパートの横を通って行った女でもある。服装もその時と同じ紺のジャケットだ。
何か胸の奥がザワザワしはじめた。恐怖にも似た感情が沸き起こってくる。
昨日の夜、工業団地の方へ向かうあの女を見て、後を着けて何か取引現場を見たところで、背後から殴られて死んだ、という夢を見た。とてもリアルだった。ただ、今朝あの女が工業団地から戻ってくるのも見た。
あの女の後を着けて何かの取引現場を見たのは本当に夢だったのだろうか? でも、その後俺は死んでしまったようだし、夢じゃないのはおかしい。では、現実の続きのような夢を見たのだろうか。そんなことがあるのか?
「お待ちどう」
考え事をしていると、トン、と目の前に味噌ラーメンがおかれた。
思ったよりボリュームが少ない。大盛りでもよかったかもしれないな。
とりあえず、麺をすする。うん、うまい。特段有名でもないが、ラーメン通には一目置かれているこの店を俺は結構気に入っている。
ズルズルズル。
考え事は一旦隅に置いてラーメンを堪能した。
味噌ラーメンを食べ終えると、ちょうど2つ隣の席の女も会計に立つところだった。続くように店を出てその後姿を確認する。昨日の夢のことをはっきりさせるなら話をしてみるのが早そうだが……。
しかし、完全な俺の勘違いや妄想だとしたら、非常に気まずい。ナンパや何かかと勘違いされるのも本意ではない。
「ふぅむ」
あごに手を当てて考える。いやいや、よく考えてみろ。俺のようなおじさんが自分より若い女に声をかけて、その結果無視されたり冷たくあしらわれたりするのは至極当然のことであり、自然の法則にしたがっていると言ってもいい。だから、なんら心配するようなことではない。というか心配する対象が存在しない。世の中、俺のようなおじさんはどんな扱いをされても受け入れるしかないのだ。
「すみません」
俺は、女に追いついて声をかけた。しかし、女は無視して歩いていく。聞こえなかったのだろうか。
「すみません」
懲りずにもう一度呼びかける。すると、訝しげにこちらを振り返った。これまで間近でちゃんと見ていなかったので年齢不詳だったが、俺の感覚ではおそらく20代後半と言ったところか。面長の色白で顎がとがっていて、髪は肩ほどまでありわずかに茶色がかっている。背恰好は165程度のやせ形だ。
「なにか」
「あの、ええっと」
呼びかける前には吹っ切れていたはずだが、やはり対面となるとこれから自分が言う事の滑稽さが際立ち、言葉が出てこない。しかし、思い直す。俺はその辺の独身中年であり、いわばおじさんである。家族もおらねばたいそうな身分でもない、世間体などを気にする必要はないのだ。
「夢に出てきたんです。あなたが」
「はぁ」
想像通りの返答が帰って来た。そして、女は若干体をのけぞらせた。
まぁ、分かる。俺があんたでもそうなると思う。
「あの、何かの勧誘なら」
「あ、いや、違います。」
あわてて取り繕う。そうだ夢の話をして、その真偽を確認すればいいだけだ。
「昨日の夜、西区の三崎芝工業団地にいませんでした?」
「は?」
少し女の目が見開かれた。
「それで、あなたはキャリーケースに大量の現金を入れていて、誰かと取引のようなことをしていた」
俺は何とも言えない気持ちでそう言った。何が目的でこんなことを聞いているのか、自分でもとても不自然に思えた。黙る女を前に俺は続けた。
「何か、そうだ、シガさんという人との取引みたいな。そんな感じで」
「あの、なんの話ですか」
そうだよな、そうだ。普通はそうだ。人の夢の話なんか聞いたところで何になるんだ。
「いや、そういう夢を見たんです。で、だから、そこにあなたが出てきていたから、こんな不思議なこともあるのか、なんて」少ししどろもどろだ。「会ったこともない人が夢に出てきて、翌日見かけるなんて、ほら」
なるほど、今更だがこれは下手なナンパにも思われかねない。前世から続く運命の出会いだ。なんて言うパターンだ。
「で、そのあと、俺は誰かに殴られて死んじゃうって言う夢で」
「あ、あの、怖いんですけど」
それはそうだ。女になったことはないが、客観的に見ておじさんからこういうことを言われたら怖いだろう。俺はとりあえず気になったことは伝えられたので、一定の戦果は得られたものとした。
「すみません、変なこと言って。あの、俺はサカキと言います。俺の事知らないですよね」
「は、はい、知らないです」
恐怖なのかなんなのか、声を少し震わせながら女はそう言った。
「すみません、失礼しました」
名前でも聞こうかと思ったが、そんなことをすればますますナンパみたいなものだ。俺は単に自分の見た夢に引っかかりを感じただけで、何も関係ないことが分かっただけで良いのだ。
「すみません」
俺は再度謝って別の方向へ歩き出した。なんとなくすっきりした気分だ。
スマホで時間を確認すると15時を過ぎたところだった。特に予定もないし、適当にブラブラ散歩でもすることにした。
と言っても俺みたいな人間はなかなか知らない場所にふらっと行くことも難しい。なぜか足は会社の近くまで来てしまっていた。宇太犬川の脇の通りを歩く。この川沿いを行けばアパートまで着くが歩いていける距離ではない。
「ササキ……」
ふいに、この川で死体となって発見された男の名前を思い出した。あの事件はどうなったのだろうか。近所に殺人犯がいるかもしれないと思うと少し怖くなって来た。
とりあえず帰ろう。そしてまた、酒でも飲んで寝よう。明日も休みだし。
俺は、通勤経路で利用している電車に乗り、家路についた。