第一話 俺はサカキ
おじさんの同世界転生生活。
俺はサカキ。サカキ トモヒコ。漢字では坂木具彦。名字はともかく名前の漢字を説明するのは毎回苦労する。見た目はどこにでもいる普通の独身中年男性だ。
43歳、身長173センチ、体重85キロ。まぁ、少し太り気味かもしれないが気にはしていない。
これまで特に変わり映えのしない普通の人生を歩んできた。地方の中核都市に生まれ普通に小中高大学と学生生活を送り、そのまま地元企業に就職して会社員をしている。ごく普通の人生だった、少なくとも今日までは。
「すみません」
会社帰り、自宅近くの地下鉄の駅を出たところで後ろから声が聞こえた。女の声だ。周りには誰もいないから俺に向けられたのは間違いないだろう。足を止めて振り向く。
「すみません」
同じ言葉が繰り返される。声の主は知らない女だった。年は30歳くらいか、水色のシャツに黒いパンツ。肩からカバンを下げている。
「はい」
とりあえず応答する。
「あの、匿ってくれませんか。追われていて」
なんだ新手の詐欺か。
「すみません、そういうのやってないんで」
「本当なんです、助けてください」
女は訴えるような目で俺を見て頭を下げた。
「警察に行ってください」
俺はそう言って向き直り歩き出した。あまり聞いたことのない詐欺の導入部分だが、最近色んな手法があるというし、家にでも連れて行ったら男がやって来て金を要求する、いわゆる美人局的なやつだろう。我ながらクレバーな判断だ。
少し歩いたところで、俺の右横をさっきの女が走り抜けていった。白いスニーカーが夜道に光る。
「おや……?」
思わず口に出し、立ち止まり、あごに手を当てる。そして考えを巡らせる。走って行ったのは俺の帰り道と同じ方向だ。
数十秒後に、俺の横を男が二人走り抜けた。ナイロン生地のこすれる音が遠ざかっていく。
本当に追われていたのか? としても、俺には関係がない。気にすることではない。いやいや、これすらも俺を陥れるための算段なのかもしれない。関わらずに家に帰ろう。
帰り道にあるコンビニで缶ビールとつまみを買い、たっぷり30分歩いて住み慣れたいつものアパートについた。いつものようにビールを飲んでスマホを見ながら寝よう。そう決めていた。
「――って!」
102号室のドアの前に立ったところで、アパートの裏の川の方からなにやら声が聞こえた。さっきの女の声のようだった。走ってここまで来ていたのか。
「たすけて!」
助けを呼ぶ声が聞こえた。何が起こっているのかすぐには把握できなかったが、追われていた女が助けを求めているだろうことは、想像に難くなかった。
「ふぅむ」
と、息を吐き、自分に聞こえるように声を出して、あごに手を当てる。助けに行くべきだろうか、しかし、本当に助けるべき相手なのか分からない。実はあの女が極悪人でそれを捕まえに来た正義漢の二人なのかもしれない。そう『捕まりたくない、助けて』そういう意味かもしれない
ドアノブに手を掛けて、少し逡巡する。本当に助けを求めていたとしたらどうだ。助けるべきではないか? いや、答えはノーだ。もし、本当に助けを求めているとしよう、だからと言って俺が助けるかどうかは別だ。他の人間が助けても構わない。俺である必要性がない。それに、助けに行ったところで返り討ちに合うかもしれない、そんなリスクは他人に任せよう。ふふふ、スマートな判断に我ながら感心する。
「だれか!」
と女の声がするが、誰も来る様子はない。それもそうだ。駅から徒歩30分、川沿いの年季の入った安アパート。住人はほとんどが夜の仕事をしていて、8部屋あるうちこの時間に人がいることは少ない。川の向こうは工業団地でこの時間はほぼ無人だ。隣近所も雑居ビルが多く、やはり人の気配はない。こんなところまできて助けを呼ぶのは魚のいない海で釣り糸を垂らすようなものだ。
ガチャ
俺はドアを開けて部屋に入った。電気をつけてゆっくり息を吐きだす。
声の位置からしてこの部屋の裏側にいるようだ。アパートとその裏を流れる川の間は緩やかな斜面になっているが、おそらくその中腹あたりにいるのだろう。
そうだ、助けに行くことはできないとしても、俺が警察を呼ぶことはできる。それくらいならしてもいいかもしれない。
とりあえず缶ビールを開けて一口飲む。飲みなれた苦みと炭酸がのどを刺激する。うまい。
さて、警察に……やはり面倒だな。やめよう。警察に連絡することで厄介なことが降りかかる可能性もある。例えば、ほら、捕らえられたやつに逆恨みされるとか。
しばらくスマホでニュースを見て、350ミリの缶をあおったところで、外の気配がなくなったように思えた。画面の時計を見る。2024年4月18日 23:30。女がどうなったのかは知らないが、外は落ち着いたようだ、もう寝よう。
と思ったところで、今更ながらに一つの可能性に行きついた。
「まずい、か?」
無意識に声に出す。何か凶悪な(例えば誘拐や殺人のような)犯罪がこの部屋の裏手で行われていたとしよう、その場合、この明かりのついている部屋というのはどんな意味を成すか。
そうだ、目撃者だ。
いや、見てはいないのだから事実としては俺は目撃者ではないが、相手方からすると目撃していたと思われても不思議ではない。その場合、犯人は何をするかというと……
と、不穏な展開が予想されたところで、大きな音を立てて窓ガラスが割れた。
「うおおっ」
細かな破片が寝ころんでいた足に降りかかった。窓の外に人影が見える。
「運が悪かったな」
人影は紺色のナイロン生地のジャージのような服を着たやせ型の男で、銃のようなものをこちらに向けた。
待て待て、この現代日本で銃がこんなカジュアルに出てくるのはおかしいだろ。
恐怖が俺を飲み込んだ。助けを呼ぼうとするが息が漏れるばかりで声が出ず、少しでも逃げればいいという事はわかるのに、手足は自分のものではなくなったかのように動かない。
「やめなさい」
やせ型の男の後ろから追われていた女の声が聞こえた。何が起きているんだ。
「こんなことをして、どうなるか」
と、女が言うと、もう一人その女を捕まえている男が口を挟んだ。
「あんたが気にすることじゃない。ササキが死ぬだけです」
ササキが死ぬ? いや、俺はサカキだが。どういうことなんだ。
何が起きているか分からず、逃げることも声を出すこともできずにいると、男の持っている銃がゆっくりとこちらを向いた。
「やめてくれ」
搾りだした声が相手に届く前に銃から何かが発射され、俺の額を貫いた。どうやら俺は死ぬようだ。
目の前が真っ暗になった。
※
朝、目を覚ますと、いつものアパートだった。
なんだ夢だったか、よかった、窓の方を見るがもちろん割れていない。額に手を当てるもやはり何も異常はない。
スマホを見る。2024年4月19日 07:00。いつも通りの起床時間だ。
身支度をして、会社に向かう。
なにかいつもと違うような……。
どことなく見慣れた風景に違和感を覚えるが、その正体が分からない。そんなもやもやを抱えたまま会社に着くと後輩の崎宮がいつもより高めのテンションで話しかけてきた。
「サカキさん、聞きました?」
「なにを」
「事件ですよ、事件」
崎宮は興奮した様子で抽象的なことを俺に伝えてくる。もう少し具体的に話してくれ。
「死体が上がったんです。うちの会社の前の川から」
「死体? 物騒な話だな」
会社の前の車道の先に河川敷がありそこに流れるのが宇太犬川という川だ。川の幅自体は40m弱の2級河川になる。
「しかも他殺体のようですよ。これはなんかヤバそうな感じ」
人が死んでいるというのに、何か少し嬉しそうなのはなぜなのか。
「サカキさん、事情聴取とか来るんですかね」
「さぁな」
会社の前の川から死体が上がったところで、特に俺の仕事に影響があるわけでもない。外回りの準備を済ませると会社を出た。
得意先を二、三社回るとちょうど昼になったので、近場にあった定食屋に入る。ランチのトンカツ定食を頼んで待っている間にスマホでニュースを見る。ちょうど崎宮が言っていた会社近くの死体に付いて記事が上がっていた。
『宇太犬川で男性の遺体発見』
そんな見出しだ。とりあえずタップすると記事の内容が表示された。
内容を読み進める。4月19日早朝、宇太犬川で男性の遺体が浮いてるのを近所の住人が発見、通報したらしい。男性は頭部に傷があり、他殺と思われる。氏名はササキ トモハルさん……。
「ササキ?」
昨夜の夢が頭をかすめる。記事にはご丁寧に被害者の写真まで載っていた。その辺にいそうな中年男性だ。俺と同年代だろうか、顔は細く若干頬がこけていてあごに髭を蓄えている。若干吊り上がった眼が特徴的だ。
スマホの画面を睨んでいるとトンカツ定食が運ばれてきた。箸を口に運びながらスマホで他のニュースのヘッドラインを見ていると、気になる記事が目に留まった。
『波知鳥新聞社の記者、佐竹信之さん行方不明』
波知鳥新聞社は新聞社と名はつくものの紙の新聞は発行しておらず、もっぱら地方のニュースやイベントを配信するWEBメディアだ。このニュースも波知鳥新聞社から配信されている。記事の中身はタイトルそのままで、1か月ほど前から波知鳥新聞の記者が一人行方不明になっているというものだった。
「佐竹が……」
高校の時の友人の一人だ。名字の関係で学籍番号が近く住んでいる場所も似通っていたため、何かと一緒に行動することが多かった。波知鳥新聞で働いているとは聞いていたが、行方不明とはただ事ではないな。とりあえず記事をブックマークしておいた。
昼飯をすませ、また得意先を回ってから午後3時ごろに会社に戻った。伺った1社から見積もりと資料作成を頼まれたので、社内での事務仕事を定時過ぎまでやることになった。
「お疲れ様です」
会社を出たのは19時を回っていた。地下鉄に揺られ最寄り駅まで40分。そこからまた30分歩いてアパートにたどり着く。晩飯は途中で買ったコンビニ弁当とチューハイにした。
腹が膨れたので煙草を吸いたくなった。ただ、部屋の中は自主的に禁煙という事になっているので、アパートの外に出て吸わなければならない。タバコを加えて外に出ると春の心地よい風が顔に当たる。
火をつけて煙を吸い込む。うまい。
煙草が半分程度灰になったころ、アパートの脇の道を人影が通り過ぎて行った。道の先には宇太犬川にかかる橋があり、その先に工業団地になっている。この時間そっち方面に向かう人は少ない。ましてや、
ガラガラガラ。
旅行用のキャリーケースを引きずっているのはかなり珍しい。とはいえ普段なら何もしないのだが、なぜか今日はその人影が気になった。タバコを吸い終わると、暗めの服に着替えその人物の後を着けることにした。なに、もし気づかれても散歩しているとでもいえば良い。
50メートルほど距離を取って後を着ける。人影は橋を渡りきって、工業団地の中に入っていく。そして、一つの小さな建物の前で止まった。ちょっとした体育館のような建物。正面に横開きの大きな扉があるが開け放されている。若干壁や扉が錆びついていて、おそらく近くの会社の倉庫のようなものと思われた。
人影はその建物に入っていった。あのキャリーケースには何が入っているんだろうか。こんな時間に何をするのだろうか。俺は建物の入り口のそばまで行き、壁にピタリと背を着ける。中にはもう一人誰かがいるようだった。
扉の陰に隠れながら顔を半分のぞかせて中の様子を見る。電灯が点けられていて中にいる人物を確認することができた。キャリーケースを運んでいたのは女で紺のジャケットとパンツのいでたちは会社帰りのOLを思わせた。その向かいにはスーツ姿の男が立っている。
何かの取引なのか。
OLがキャリーケースを開けると中に現金が詰まっていた。いわゆる札束だ。初めて見た。男が中身を確認している。これは、何かの取引に間違いない。
まずいものを見てしまったかもしれないな、帰ろう。と思ったところで、後頭部に強い衝撃を受けた。視界が揺れて目の前が暗くなる。
「怪しいやつがいましたぜ」
「なんだと」
「ここで覗いてました」
頭の上で声が飛び交うが、先ほどの衝撃の余韻なのかあまり耳に入ってこない。手足も動かず、地面に倒れたまま眼だけ動かした。茶髪の男がこちらを見下ろしている。
「シガさん、どうします」
「お前やりすぎたんじゃないか」
鼻血が出ていることが分かった。そして、ゆっくりと視界が狭くなり意識が薄れていった。体は全く動かない。
俺は死んだ。
※
朝、目を覚ますと、いつものアパートだった。
なんだまた夢だったか、よかった。
スマホを見る。2024年4月20日 09:00。週末はいつも遅めに起きることにしている。
とりあえず一服するために、煙草をくわえて外に出る。天気は快晴。いい週末だ。
煙草に火をつけて煙を吸い込む。うまい。さて、今日は何をするかな……。
と、今日の予定を考えていると、ガラガラガラという音がした。誰かが旅行で使うキャリーケースを引きずっている音だ。そちらの方を見やると、紺のジャケットとパンツ姿の女がキャリーケースを引きずって川の方から歩いてきていた。アパートの横を通り過ぎる際にこちらを見たが、また何もなかったかのように歩いて行った。
「おかしいな」
思わず口に出していた。
「俺は昨日、いつ寝たんだっけ」