52話
「え、もちろん知ってるよ」
「ほんと~? だって~、私の名前呼んでくれないんだも~ん」
「なんて呼んだらいいか分かんないし」
「じゃあさ、下の名前で呼んでよ!」
「いやいやいや、さすがに無理だよ」
「あ、もしかして知らないんでしょ~?」
笑顔から一転、口を膨らませて怒ったふりをしている。
「……し、知ってるよ」
「あ、これ本当に知らないやつだな」
彼女は探偵のように僕の顔色を窺ってくる。
正直に言うと、下の名前までは知らない。
クラスメイト全員の苗字くらいは覚えているつもりだが、さすがに下の名前を覚えようとも、知りたいとも思っていなかった。
「も~。じゃあ改めて自己紹介するから、しっかり覚えてよね~?」
「そんなことされたら下の名前で呼ばないといけなくなっちゃうじゃん」
「いや、もうそれは決定してるよ」
そんなデメリットしかない要求を了承した覚えはないが、いつの間にか約束が結ばれていたらしい。
「私の名前は……あっ――」
彼女の視線が僕の目から僕の背後に変わった。
「ん?」
気になって後ろを振り返ると、薄汚れた軽トラックから見覚えのある人がおりてきた。
はっきりと顔を確認した瞬間に、恐怖のあまり体中がぶるぶると震え始めた。
それは僕達の担任の先生だった。
彼女は僕の震えた手をぎゅっと握り直した。
そして、顔を近づけて小さな声で言った。
「大丈夫。私に任せて」
先生は大きな足跡を砂浜に刻みながら、どんどんこっちに迫ってくる。
「ねぇ北野くん」
彼女はこんな絶体絶命の状況でもえらく落ち着いていて、相変わらずニコニコしていた。
「私の名前は、久保遥香。これからもよろしくね」
この出会いが僕と遥香との始まりだった。




