六十一学期 その名を呼ぶ者
「……待って! いなくなろうとしないで! 私、まだ……もう少し水野さんと一緒にいたい!」
ピト……と水野さんの足が止まる。彼女は、しばらく後ろを向いたまま黙っていた。しかし、彼女の背中は何処か震えていた。それは、恐怖とか悲しみでは、まだ微かに怒りを感じて震えているようだった。
水野さんは、拳をギュッと握りしめたまま私の方を振り返りもせず、強い声音で私に告げた。
「……どうして、そう言う事を言うんですか……。どうして、そこで諦めさせてくれないんですか……。どうしてなんですか!」
「……」
私は、開きかけていた口を一瞬閉じ込めてしまう。何も言えなくなっていたのだ。しかし、今だにこっちを向いてくれない水野さんに私は、何か言うしか他なく、渋々舌を動かした。
「……どうしてって、そんなの……」
――友達だから。そこまで言うのが凄く緊張する。なんだか、自分は転生してから勇気がなくなった気がする。……いや、転生前からそうか。自分には、こういう時に振り絞るべき勇気が欠落しているのだ。だから、本当は最後までしっかり自分の意見を言うべき所なのに……思ったようにそれを口にできない。
「……それは私達が……」
ようやく、少し自分の意見を言えそうになった所で水野さんが割り込む形で私に言ってきた。
「もし、本当にそう思っているのなら……証明してください」
「え……?」
水野さんは、ゆっくり反転してこちらを見てくれた。私の方を向いてくれたのだ。それから、彼女は潤んだ瞳で見つめてきながら少しあざとげに告げた。
「私の事を……今度からは、名前で言って欲しいです!」
え……? 名前? 少し疑問に思った私だったが、水野さんは続けた。
「……私だって、いつまで経っても水野さんのままでは嫌です! 私だって……私だって名前で呼ばれたい! 貴方に呼んで欲しい!」
……なんだか、凄く必死だった。でも、そうか……。そこまで名前呼びにこだわっていたのか彼女は……。ちょっと恥ずかしいというか……。いや、愛木乃ちゃんの時もそうなんだけど、私って前世も冴えない男だったから、女の子の事を名前で呼ぶってちょっと緊張するというか、いやぁ……だって、こちとら30年程、名前呼びどころか、女の子とろくに関われなかったような人なんだよ? 本当にここ最近になってやっと、女の子と仲良くなれるようになったわけだし……。だから、そのせいで名前で呼ぶのは、凄く緊張する。前世にできた彼女の事も名前とか苗字以前に付き合ってすぐに俺がファイヤーしちゃったし……。けどしかし、これで名前呼びして仲直りができるのなら……。後は、私がほんの少し勇気を出せば……。
私は、息を大きく吸って吐き、水野さんの事を真っ直ぐに見つめた。そして……彼女と目と目を合わせるとその勢いのまま彼女に告げた。
「……みっ、瑞姫ちゃん」
このたった一言で、目の前の少女の顔は少しずつ溶けていくのだった。彼女の張りつめた顔は、温かいストーブの上で溶かされていくカチカチのソフトクリームのように徐々に徐々にその表情を溶いていった。そして、少女の瞳が若干、水分で重たくなった所で彼女は、少し嬉しそうに私に言ったのだ。
「……ようやく、それが聞けた」
少女の顔は、夜の街灯に照らされてとても綺麗に見えた。溢れんばかりの瞳の雫がほんのちょっぴり赤く熱く火照る頬っぺたに落ちてきそうになりつつも、少女はゆっくりと昇る太陽のようにその顔を笑顔に染めた。最後には、あの街灯よりも明るい笑顔を私に見せてくれたのだった。
――可愛い……。
私は、気づくと少女の笑顔の虜になっていた。彼女の笑う顔から目が離せなくなっていたのだった……。
次回『水着を欲しがる者』




