II・始動
その青年は、霧にぼやけて、たった一人でいるかのようだった。
けれど、実はそうではない。けれどそれはまた後に語ろう。
青年は、名を慈月といった。その目は途方に暮れている。
それもそのはず……――
だって、彼はもともとこの世界の住人ではないのだから。
慈月の姿は、ワイシャツにジーンズという、近代文明の象徴かのようなラフな姿。
どう考えても、この世界に不釣合いである。
手には絵筆と、パレット。
……どう考えても、勇者や、賢者や、魔法使いという姿には見えない。
大体、彼だってこの現状を理解していない。
慈月がここに立ち、この世界に紛れ込んだのは、ほんの数分前のことだ。
「……なんで俺はここにいるんだ?」
「決まってるじゃないか、君がこの世界を描いていたからだよ」
ケタケタと笑うのは、不思議の国のアリスにでも出てきそうな白いウサギ。そういえば、確かに慈月はさっきまで
向き合っていたキャンパスに、白いウサギは描いていた……が……。
「あらゆる意味で、訳がわからないんだが」
「まあ、そのうちわかるさ」
ピョコン、と彼の肩に飛び乗って、ウサギが鼻をひくひくさせた。どう考えても、生きたウサギである。
けど、ウサギって臆病じゃなかったか?
彼は、幼い頃飼っていたウサギのシロを思い出す。慈月は最初、臆病なシロに構うあまり、手を噛まれた記憶がある。
「…お前は一体誰なんだよ」
「僕?心外だな。君がキャンパスに描いたあの白いウサギさ。もう忘れちゃったの?」
「は?」
「だぁーかぁーらぁー!物分りが悪いなあ、まったく。説明するの面倒くさいんだから、一発でわかってよね」
耳をふるふると動かしながら、ウサギは目を細めた。その仕草に、ますます混乱する慈月。
「……だから、なんで俺はここにいるんだ?というか、どこなんだよ、ここ」
改めて、辺りを見回す。といっても、左半分はウサギが肩に乗っていたので、向けなかったが。
そこは、慈月が確認する限り、荒涼とした草原であった。時折樹がなよなよと生えている他、虫以外に生物の気配はない。
「ここは………」
彼の表情の変化を見て、「やっと分かった?」とウサギは満足げに呟いた。
そう、やっと分かった。
けど、信じられない。……慈月は無意識のうちに、生唾を飲む。
ここは、さっきまで自分が描いていた絵の一部だ。
さっきまで、彼は部屋に閉じこもり、パレットに色を作っていた。
作っていたのは、深い緑色。
慈月はこの夏休み、コンクールに向けての絵を描こうと一念発起したのである。
もっとも、彼は絵について素人であったわけではない。むしろ得意に値し、美術の成績だってずっと5を取り続けてきた。
けれど、正式なコンクールに向けて絵を描くのは初めてである。
しかも、動機は教師から勧められ、ポスターに「大賞は賞金50万円」と書かれていた……という不純な代物。
小説家を目指す慈月は、その賞金で自分専用のパソコンと、ずっと狙っていた本を手に入れようともくろみ、
丁度草稿を仕上げた小説を絵に描いてみよう、と思ったのだ。
その小説は、失われた都に眠る歌姫を捜し求めるという、ファンタジーな冒険小説。
『紳士、淑女の皆様方……』という、彼のお決まりの書き出しから始まるものだ。
そして、まずは冒険小説に欠かせない荒れた草原を描こうかなぁ……と思い、緑色を作って、ついでに
白いウサギも描いてみよう、と思いつきで下書きにウサギの輪郭を鉛筆でささっと加えた。
それからキャンパスに出来た緑色を塗り、気づけば頭の中に思い描いていた草原に自分はいる。
「……俺はごく普通の高校2年生で、まだ夏休みの宿題とか終わってなくて、
午後から友達と遊びに行く約束をしてるんだけど」
「そんなこと知らないよ。僕に言われたってどうしようもないでしょ?」
「………(まあ、その通りだが)」
……だけど、結局俺が聞きたいことの答えはわかってないぞ。
大体、なんで俺はここにいるんだよ!
と、半ば吠えるように拳を握り締める。
だって、ありえない。
夏休み中に、不純な動機で描き始めた絵の中に自分が迷い込んでいるなんて、そんな小説みたいな展開は、
人生に出てくる台本じゃないんだ。いや、むしろ出てくるな。帰ってくれ、台本。
今まで読んできた小説には、そういった主人公がたくさんいたけれど、所詮それは作り話だし、と思ってきたのが
現状だ。いや、それは慈月限定ではなく、小説を読む人は皆そう思っているだろう。
が、実際にこうしてその「主人公」みたいな状況に置かれると、まず頭が真っ白になる。そして焦る。
それでもって、どうでもいいような考えばかりが頭をぐるぐる回るのだ。
「まったく、イツキは子供なんだから」
ウサギが「はぁーあ」とわざとらしく溜め息をつくのを尻目に、慈月はこの世界を凝視していた。
だって、彼が書いていた小説は、とんでもない冒険物語なのだから。
ある意味世界観をぶち壊してみた。