十死零生の空へ
十月のマバラカットは、まだ長い雨季の途上にあった。道へ覆いかぶさるマニラヤシが、アーチ状に伸ばした葉をたえず濡れ光らせている。
帝国海軍大尉の関行男は、不意にペンを置いて、士官宿舎の窓から外の景色に目をやった。広大な飛行場の向こうに、アラヤットの稜線が蒼くかすんで見える。
あれは、西条にある八堂山に少し似ているかもしれないな。
なつかしい郷里の山を思い浮かべる。
最近ふとした瞬間に、子どものころの記憶がよみがえることが多くなった。
――いけないな、こういうことでは。
苦笑して、ふたたび便箋に目を落とす。
手紙は実家の母親と、鎌倉に住む義父母、それに今年五月に籍を入れたばかりの満里子へ宛てたものだった。
関は、今年で二十三歳。
海軍兵学校を卒業したあと、霞ヶ浦で飛行教官となり、やがて台南海軍航空隊へ転属となった。ここフィリピンのマバラカットへやって来たのは、わずか三週間ほどまえの、先月二十五日のことである。
日本へ想いを馳せると、やはり家に残してきた新妻のことが思い起こされる。横浜まで見送りにきたときの、涙をこらえたあの気丈な笑顔が今でも胸に焼きついて離れない。
満里子どのへ――
手紙の文章はそこで止まっていた。どうしてもその先へつづく言葉が出てこない。
ドアがノックされた。
「関隊長、司令代行がお呼びです。至急本部のほうまで来てください」
顔なじみの若い予備士官からそう声をかけられ、関はあわてて書きかけの便箋を裏返した。
「わかった。すぐに行く」
今時分、なんの用だろう。爆戦の訓練の件かな?
関は手ぬぐいで首まわりの汗を拭くと、海軍士官服のボタンをきっちり掛けなおした。
第二〇一海軍航空隊は、帝国海軍に属する戦闘機部隊である。その本部は、マバラカット飛行場のそばにある古い洋館を接収したものだった。
数台の電信機がならぶ通信室を過ぎると、司令室へつづく両びらきのドアがある。
一歩なかへ入り、直立不動の姿勢をとった。
「三〇一飛、関、参りましたっ」
室内には四人の幕僚たちが顔をそろえていた。関は、中央にいる玉井浅一中佐のまえに進み出て、敬礼をした。
「お呼びでしょうか?」
「ああ、休憩中のところ済まないね」
玉井がゆっくりと書類から顔をあげた。
その目が少し泳いだのを、関は見逃さなかった。
嫌な予感がした。
「じつは頼みたいことがあるのだ。君も承知のとおり、戦局は日々悪化の一途をたどっている。この状況を打開するために、捷一号作戦が発令されたことは知っているだろう。そこで我が二〇一空としては、連合艦隊を支援するために特別攻撃隊を編成することとなった」
ひと呼吸おいてから玉井は、関の表情をうかがうようにして言った。
「ついては君に、その指揮を執ってもらいたいのだが」
関は心のなかであっと叫んだ。
それで俺を呼んだのか――。
特攻隊の噂は彼も耳にしていた。二百五十キロ爆弾をくくりつけた零戦で、敵に体当たりするのだ。米軍の大艦隊がレイテ島へ迫っている今、そんな作戦もありえるだろうとは考えていた。しかしまさか自分に白羽の矢が立つなんて……。
少し考える時間をいただけませんか。
そう言おうとしたが、それを察したかのように玉井がたたみかけた。
「君が行ってくれると非常に助かるのだ。じつは猪口参謀とも話し合ったのだが、最初はやはり海軍兵学校の出身者を行かせるのが筋だろうということになってな」
隣にすわる先任参謀の猪口力平大佐がうなずく。彼は先ほどから、射るような目で関の顔を凝視していた。玉井がつづける。
「これは今後の戦局を左右する重大な決断なのだ。すでに甲種飛行十期生のなかから志願者を募ってある。時局は切迫している。我々は明日にも飛び立たねばならんのだ」
すがるような目で関を見た。
「頼む、日本の命運が我々の双肩に掛かっている。関よ、必死必中、カミカゼの魁となってくれっ」
もはや返答を先延ばしにすることは許されない雰囲気だった。
関は静かに応えた。
「わかりました。やらせていただきます」
本部の建物を出ると、外はもうだいぶ薄暗くなっていた。
関は地につかない足取りで兵舎への道をたどった。うまく気持ちの整理がつけられなかった。戦局の悪化はもちろん承知している。特攻の是非がさかんに論じられていることもよく知っていた。しかし自分はついこのあいだフィリピンへ赴任したばかりである。まだ実戦を行っていないどころか、右も左もよくわからない。
それに自分は艦爆乗りだ。これまで急降下爆撃の訓練を、繰り返し何度も行ってきた。それがなぜ今さら体当たりなのだ? そんなことをせずとも、自分なら五百キロ爆弾を積んだ爆撃機でじゅうぶん敵を沈められる自信がある。何度だって、何度だって沈めてみせるものを……。
自分の部屋へ戻ったが、なにもする気が起きない。しかたなく関はまた便箋に向かった。
この心境でなにを書けばいい?
が、不思議なことに今度は文章がすらすらと出てきた。
満里子どのへ――
突然ですが、本日、私は帝国のために、一命をもって君恩に報いる覚悟を決めたところです。
おまえには夫らしいことを何もしてやれず、本当に済まないと思っています。
この先は鎌倉のご両親に尽くし、武人の妻として恥ずかしくないよう生きてもらえればと思います。
明日には散りゆくこの身ですが、せめて御国から武運を祈っていてください。
追伸、恵美ちゃんにもしっかりやるように。
――行男
便箋を二つ折りにしたところで、ドアがノックされた。
「あの、関さん、ぼくです」
入ってきたのは、いつも親しくしている整備兵の永井一朗だった。
「本部へ呼ばれたそうですけど、なにかあったんですか?」
「うん、ちょっとな」
関はつとめて明るい声を出した。
「特攻の隊長に指名されてしまったよ。明日にでも飛び立たねばならん。もうこうなったらしようがないな、俺もとうとう年貢の納めどきさ」
「……そんな」
永井は表情を曇らせ、自分のつま先へ視線を落とした。
「あなたのような優秀なパイロットをそんなふうに使うなんて……この戦争も、いよいよどうなるかわかりませんね」
「おいおい、だれかに聞かれたらどうする」
関は苦笑して言った。
「このさきどうなるかなんて、だれにもわかりゃしないよ。いつの間にか始まって、気づいたときにはもう後へ引けない泥沼にはまり込んでいる。戦争ってのはそういうもんさ。勝つと信じてるやつもいれば、とっくに覚悟を決めちまったやつもいる。勝とうが負けようが、一度おっ始めちまったらもう行き着くところまで行くしかないんだ」
窓を開き、暗い空をぼんやり見あげる。
めずらしく雲の切れ間に夕星が瞬いていた。
「教官として、たくさんの教え子を空へ送り出してきた。飛び立ったまま戻らなかったやつも一人や二人じゃない。俺はもう疲れたよ。早く自分の番がまわってこないかって、じつはそればかり考えてたんだ」
鎌倉の空は晴れているかな?
一瞬、満里子の顔が夕星と重なり、しだいに闇のなかへ薄れていった。
――息災でな。
心のなかでそうつぶやいて、関は振り返った。
「輜重のトラックから酒を失敬してあるんだが、永井くん、悪いけど少し付き合ってくれないか」
永井は顔をあげてうなずいた。
「はい、とことんお付き合いします」
関の零戦が、米護衛空母セント・ローの甲板へ突っ込んだとき、妻の満里子は、鎌倉にある実家の庭でコマツナの茎を折っていた。よく晴れた水曜日の、昼少しまえだった。
「……あら?」
恵美は、急にしゃがみ込んだ姉を見て首をかしげた。
「お姉さま、どうかしたの?」
のぞき込んだ姉の目から涙がこぼれているのを見て、彼女は息を飲んだ。
「まあ、泣いているのねっ」
満里子は頬を濡らしたまま顔をあげて、不思議そうにつぶやいた。
「あれ、おかしいな……。どうしてかしら、後から後から涙があふれて止まらない」
「目を怪我したのかも。お母さまを呼んでくるわ」
「あ、待って、大丈夫――」
あわてて腰をあげた。
「ほら、もう泣いてなんかいないわ」
手の甲で涙を拭い、赤い目で微笑んでみせる。
「泣き止んだから、ね、大丈夫でしょう?」
「……本当に?」
「恵美さんは、私の言うことが信じられないのね。本当よ」
恵美はまだ怪訝な顔をしていたが、頭のうえをカモメが猛スピードで横切ったので、つられて視線をあげた。
秋の長雨も終わり、鎌倉の空は高く澄んでいた。
潮の香りに混じって、畑を焼く香ばしいにおいがする。
大きく息を吸い込んで、恵美がぽつりと言った。
「お義兄さまは、お元気でいらっしゃるかしら」
海のある方角へ向かって目を細める。
満里子は妹の肩にそっと手を置いて、一緒に空を見あげた。
「元気でやってるわ。台湾はまだそんなに危険じゃないって、お父さまもおっしゃっていらしたし」
彼女はまだ関がフィリピンへ転属となったことを知らない。台湾行きの艇を見送ってから、まだ二ヶ月と経っていないのだ。恵美が明るい声で言った。
「あの仏頂づらの怖いお顔だもの、敵に狙われても弾のほうで避けていってしまうでしょうね」
「まあ、この子ったら」
「でも、お正月には帰ってくるのでしょう?」
「そうね、たぶん帰ると思うわ」
「お土産と汚れものの山を抱えて?」
「うふふ、きっとそうね。行男さんから知らせがきたら、まっ先に恵美さんに教えてあげるから、それまで待っていて」
満里子のもとに関からの手紙が届いたのは、それから三日後のことである。
翌年の八月十四日、日本がポツダム宣言を受諾して――戦争は終わった。
※ 史実を参考に、創作を加えてあります。