バルコニーの男
ショートショートです。暇つぶしにちょうどいい長さです。最後まで読んでいただけたら幸いです。
ある休日。
外は雨が降っており、湿気の関係かベランダ窓が白くなっていた。
ぼくが飼い猫用の水をバルコニーに捨てるため
ベランダ窓をかららと開けると男が片膝をついてしゃがんでいた。
三階のバルコニーである。
外側からよじのぼってこなければ、そこに存在しえない場所である。
ぼくがぎょっとして固まっていると男は言った。
「寒いので中に入れてください」
男は30代なかばで、濃い色の作業用ジャンパーを着ていた。
作業員が少し肌寒い日に外で作業する時などにする格好によく似ていた。
そして顔の下半分には無精ひげが陸上競技場のようにきれいに生えていた。
ふつうに考えると家宅侵入罪。警戒すべき事案だ。
だが、ぼくにはなぜかその男が凶悪な人間には見えなかった。
その時ぼくの頭の中では、
自分には人を見る目があるとか、
目をみれば悪い人間かそうでないかを判断する能力があるとか
根拠のない自信がふくらんできていた。
もし悪い人であったとしても、
何か事情があってここにいるのではないか。
優しく接してあげたら、
世の中にはこんな優しい人もいるんだと
むこうも紳士的に接してくれるのではないか。
そんな想像がぐるぐる頭の中でまわっていた。
つまり、わかりやすく言うと、
突然の異常事態にぼくは混乱していた。
ぼくは男を要求通りに部屋に入れてやり、
そばにあった白いタオルを渡した。
男はタオルを受け取り、自分のあごのあたりにそっと当て水分を拭き取った。
そして低くよく通る声で言った。
「願いを一つだけかなえてやろう。何がいい」
★ ★ ★
男が言うには、自分はランプの精であるという。
ひさしぶりにランプから出てきたら、この国であった。
雨が降っていて寒かったので最初に出会った男の服をうばった、と。
ぼくは、さっきよりも混乱していた。
この男の言っていることは本当なのだろうか。
本当だとしたら、願い事を考えなくてはならない。
嘘を言っていて、
ランプの精などではなくただの人間だとしたら…
それは怖い。
目的は金か?
なぜ三階のバルコニーにいた?
自分に危害をくわえる意思があるのか?
スマホが手元にない。どこにあったっけ?
答え。
目的はわからないから考えるだけ無駄。
玄関にカギがかかっている以上、侵入するとしたら窓しかない。
しかし全ての窓にカギがかかっているため、
とりあえずバルコニーに侵入したのではないか。
そしていま現在、男はおとなしく突っ立っている。
室内に侵入して金品を奪うのが目的であるならば、すでに行動を起こしているはずだ。
あるいは「金をよこせ」など、目的達成のための言葉を発しているはずである。
なのに彼が最初に言ったことは
「願いを一つだけかなえてやろう」
だって?
明らかに間違っている。
何かもっと複雑な、一般人には想像もできないような計画的犯罪に、
ぼくを巻き込もうというのだろうか。
いやいやあり得ない。
あり得たとしても、そっちの方向であれこれ思いを巡らすのは時間の無駄というもの。何かしらことが起きてから対処しよう。
以上をもって僕は、この男が本物のランプの精であると考えることにした。
願いごとを言えば叶うはずである。
問題は、何を願うかであった。
過去に見聞きした事例にこんなのがあった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
うっかりそう発言してしまったために、
「待ってくれ」という願いをきいたということにされてしまったのだ。
そして、ランプの精は消えてしまったというオチだ。
そんなミスをおかしてはならない。
こんな事は、たぶん生涯で一度きりなのだ。
「100億円を目の前に出してくれ」
とか、
「俺を総理大臣にしてくれ」
など、大金や地位を求めるものも要注意だ。
普通に暮らしてきた人間が、急に大金を手にすると、たいていは不幸な結末を迎えるという。
最終的に自殺するか、大きな借金を作り以前よりも貧乏な状態におちいってしまうと聞いたことがある。
そして、高すぎる地位を得ても人は幸せにはなれない。
例えば総理大臣という役職にしたってそうだ。
決して王様のような絶対的な権力者ではない。
言ってみれば雇われ店長のようなものだが、その責任は重い。
多忙とストレスが原因で退職する者も少なくないのである。
自分にとって最も有益な願いは何か。
僕は考えに考え抜き、答えを出した。
「キッチンの換気扇を掃除してください」
彼はその願いを、ものの三分ほどで叶えてくれた。
彼は、本物のランプの精であった。
★ ★ ★
「バカだよ兄貴は」
久しぶりに会った弟にその話をしたら、ため息まじりにそう言われた。
しかしぼくは、後悔していない。
人生をまるまる変えてしまうような願いや、その場で考えた突拍子もない事は言うべきではなかった。
弟は、生ビールをぐいと飲み干して言った。
「俺は三つだった」
「え?」
「だから、アイツは最初、俺のとこに来て、三つ願いを叶えるって言ったんだ」
「……な、なん…だと?」
「だから俺は三つ言った。換気扇の掃除、すべての歯の治療、そんで兄貴のところへ行って一つ願いを叶えてやってくれ、ってね」
ぼくは驚きのあまり、しばらく動けなかった。
そして、自分の願いを後悔した。
歯にしとけばよかったな…。
(了)
読んでいただき、ありがとうございます!