四つん這いの少年
地獄の底を四つん這いで這いつくばって
1000年が経った。
少年の両手にはべっとりと血がついて、
ひとつひとつ進むたびに
手のあとがぺたぺたと
道しるべのように 底についていった。
地獄の底の、遥か頭上、
そのずっとずうっと上には
天国があるらしいが、
そんなこと少年にはまるで関係がなかった。
どうしても、どうしても
地獄から出たくても 出られなくて
1000年前には泣いたりもしていたけれどもう 何も 目から 出なくなった。
苦しみ や 悲しみ など
こんなにも経験したではないか。
なのにまだ、地獄から出ることができない。
少年はかつて 大罪を犯した
というワケではなかった。
いつの間にか 地獄にいた
というワケである。
何故だろう。
自らやって来たワケではない。
少年は自分なりに
真面目に生きたつもりだった。
大人しく生きたつもりだった。
その愚直な真面目さがたたって、
いじめられて以来、
他人を避けて生きてきた。
何も悪いことはしていないが、
良いこともしなかった。
何も、行動など しなかった。
ただただ消極的に生きてきただけだ。
ただただ消費的に生きてきただけだ。
それなのに、どうして
1000年も地獄にいるのだろう。
自分のなかで暗闇が巣食って
いつの間にか朝日が見えなくなってしまった。
病みたくないはずなのに
闇に向かって生きている。
悪いほうへと視界をうつしてしまう。
良くしたいのに もがく手に救いはなく
空気を掴むような 日々のなかで
どうしたって 背中が 醜くなってしまうのだ。
自分の吐く息が 汚いから
いつの間にか自分の世界が灰色に汚染されてしまった。
手のひらを じっと覗く。
いつの間にか血まみれになってしまったことに 今更気づいた。
後ろを振り返ると
自分の這いつくばってきた手の跡が
ぺたぺたと ついている。
こんなにも 醜く 生きてきたことに
なんだか 初めて 驚いた。
少年は永遠に少年だ。
成長することが 出来ないまま
ただただ同じところをぐるぐる回っていた。
少年は1000年
同じところを回っていたことに
やっと やっと ようやく 気づいた。
ただただ 手のひらを 見ればよかったのだ。
じっと じっと 覗いてみればよかったのだ。
自分の深淵を、自分そのものを。
心の穴から 血がドバドバ吹き出ている。
そういえばと 痛みを思い出す。
少年は千切れた狼のような風貌だった。
いつの間にか少年は 人間の姿ではなくなっていた。
だから四つん這いだったのだ。
今、少年は思い出す。
人間だったことを。
大昔は 確かに人間で 13歳だった。
飛行機を見るのが好きで将来はパイロットになるんだと 6歳のときは言っていた。
好きなものがたくさんあった。
両親のことも好きだった。
嫌いなものは ピーマンと銀杏だった。
生きていた。
いつの間にか 死んでいた。
そう、消極的に生きているうちに
いつの間にか 死んでいたのだ。
真面目さは善ではない。
むしろ少しだけ悪だった。
人の目ばかり気にして
人の目を避けて 生きてきた。
頑張って実直に生きてきたはずなのに
このザマだ。
少年は報わせてくれない神様が大嫌いだ。
天国があるであろう
天空を じっと見上げる。
すこしだけ 涙が出た。
枯れた心にまだ水が残っていることに驚いた。
浅い笑いが 少年の目を澄ましてゆく。
地獄の1000年は
現世ではどのくらいだったろうか。
まだ両親は待っていて くれるのだろうか。
いいやもう遅かったろう。
気づくのには あまりに 遅すぎた。
それでも少年は 見上げるのを やめなかった。
深呼吸をすると 人間の姿に戻っていく。
血まみれの手が 澄んだように 清んでいく。
暗い眼が黒く光った目に変わっていく。
どんなにどんなに 時が過ぎても、
もうすべて間に合わなかったとしても、
人間になることを 諦めたくはなかった。
これからはもう 四つん這いでは歩かない。
血まみれだった 手のひらは
いつの日か 這い上がるために 強くなっていく。
はじめの一歩は 1000年目
遅すぎた時間
無駄にした時間
どんなに無限にあったとしても
今日の ここから 始まっていく。
手のひら透かして 天国が見えた。