第6話「ファーンラント・アルヴァー」
アルヴァーは、交易都市ミラーレから半日ほどの距離に広がる森林地帯でフィールドワークに励んでいた。
「やはり、この森の植生は他とはかなり異なっているようだ」
厚手の紙に、目に付いたシダ科植物群生のスケッチを素早く描いていく。
僅かな時間で仕上がったそれは植物の特徴を良く捉えていた。
最後に文字で周辺環境や色などの情報を追加して、マント裏のポケットに仕舞うと、次の植物を探して移動していく。
そうして手持ちの紙を半分ほど消費した頃、不意に手を止めたかと思うと、ゆっくりと周辺を伺い始めた。
『獣の気配……魔力の流れから魔獣の類ではなさそうだが……確認する必要があるか』
僅かに身を屈めつつ、森の木々の間をすり抜けるように進む。
アルヴァーの身に付けるマントは深い色のブルーに染められているが、木陰に入り込むと驚くほど周囲に溶け込んでいた。
森に流れる僅かな魔力の流れから風向きを読み、風下からゆっくりと近づいていく。
向こうに気配を察知されるギリギリの距離まで詰めると、その場に溶け込むようにしゃがみ込み相手が近づくのを待つ。
すると、ガサガサと下草を掻き分けて複数の小さな気配が近づいて来た。
僅かに体勢を気配の方に向けると、マントの裏地のポケットの一つを探って中のものを取り出し、その時を待った。
そして、ついに茂みから複数の小動物が飛び出してきた。
『あれは、野生種の豚の幼体? 見た事が無い種だ。体毛の模様が独特だな……』
アルヴァーはじっくり観察すると取り出した紙に出来るだけ写実的に書き写していった。
やがて、十分に観察を終えると幼体を驚かせないように、ゆっくりとその場を離れた。
親である成体の気配が近づいて来た為だ。
出来れば成体もこの目で観察したい所だったが、野生生物は子育て中は気性が荒い事が多い。
なるべく自然のままの状態で観察したい学者気質のアルヴァーにとっては危険を冒してまで確認するメリットは少なかった。
獣の親子と十分な距離を取った後は、水袋に口を付けると一休みする事にした。
木の実をハチミツと小麦粉で固めた携帯食を口に含みつつ、周辺の地図を開くと現在位置を確認する。
「ふむ、今は街道脇から5ルート(約2.5km)程入った所だな。ここからだと、さらに北上して川沿いに下った方が早いか……」
さらにスケッチを2枚増やし、そろそろ川と合流するという所で、水の匂いに続き濃厚な魔力の流れを強烈に感じた。
素早く大木の陰に身を潜めると、アルヴァーは魔力感知の為の準備に入った。
高濃度の魔力は存在感が強く逆に流れを感じ取れない為、瞳を閉じ魔力の流れだけを感じられるように集中する。
『……魔力自体は自然のものの様だ、生物のものではない。しかし、何故、これほど近付くまで気付かなかった? ……ん、これは川沿いに放出されている? しかも下流に向かうほど急激に感知出来なくなる……上流に何かあるのか?』
アルヴァーは集中を解き魔力の源を確かめる為に立ち上がった。
森の木々が途切れ河川が見えてくると、高台に移動して周辺を窺った。
川幅は2ミール(約10m)ほどで、この周辺だけ流れが緩やかになり小さな中州が出来ていた。
アルヴァーは、周囲の安全を確認した後、水辺に降りる事にした。
水面に近づくほど魔力は一層強くなったが、大気中に放出されるや急速に霧散しているのを感じる。
より魔力の流れを感じる為、川原を少し掘り起こして慎重に水の流れに繋げると小さなため池を作った。
水の流れに阻害されることなく上流の魔力の流れを強く感じられる仕掛けだ。
グローブを外し指先を慎重に浸けると、瞳を閉じ魔力感知に集中する。
『……下流は急流……これは滝か? それで水と結合した魔力が殆ど失われたのか。肝心の上流だが、……渓流になっているが魔力にムラが多い……これは当たりかもしれん』
急いでマントで指先を拭うと、地図と数枚の紙を取り出し、地図の方に素早く幾つかの印を付け、紙の方には箇条書きで幾つもの考察を書き連ねていく。
やがて取り出した全ての紙を使い切ると、追加の紙を取り出そうとして、残り枚数が少ない事に気付き、地図の余白部分に最後の数行を書きこんだ。
アルヴァーは、水袋に入っていた水を全て飲み込むと、全ての考察をゆっくりと一項目ずつ確認していった。
やがて、数箇所の修正と削除を終えると自分の考えを声に出した。
「まず、魔力の基本として、自然系魔力は結合力が強いという特徴があるが、これは時間経過による要因が大きい。つまり時間を掛けることでより強固な結合力を獲得している事になる。次に液体は特に強い結合力を持つものの、液体としての特性が邪魔をして結合の崩壊も早い、結果、今回のように急激に拡散する訳だが……」
川の水を両手ですくい透明度と魔力を確認する、そして、おもむろに口に含んだ。
「やはり、自分が森の魔力とより一体になった感覚がある。不純物も確認出来ないという事は、この魔力は高純度の魔水由来のものでほぼ間違い無いだろう。純度が高ければ結合も崩壊もし易い。そして希釈されているとはいえ、河川などを介して森林全体に影響を及ぼしている。こちらの魔力感知も影響を受けていたのか……」
そして上流に視線を向けると結論を口にした。
「魔脈がこの奥にある。この森林地帯の生態系に影響を与えている可能性があるが、地質学は専門外なのが悔やまれるな。中央院から誰か派遣してもらうか? しかし、ここを荒らされるのは看過出来ないし、ミラーレ議会に介入されるのも厄介だな……」
暫し思考に耽ったあと、時間を確認する為に太陽の位置を確認した。
『今の時期だと昼5刻(午後2時半)頃だな。もう少し調べたい所だが仕切り直した方がいいだろうな』
アルヴァーは、撤収前に川の水で喉を潤すことにした。
同じ魔水を取り込むことによって、一時的に河川からの強い魔力の影響を受けなくなる事を確認すると、空になった水袋に水を詰め始めた。
水袋が満杯になる直前、強烈な気配を感じた。
アルヴァーは、視線を固定したままで、静かにゆっくり水袋を川から引き上げた。
そして、音を立てない様に慎重に後ずさると、身体を隠せるギリギリの岩陰に身を潜めた。
魔獣が近づいてくる。
『油断していた……この場所は開け過ぎている』
対岸に姿を現した魔獣はゆっくりと水辺に移動している。
ジャウードという魔獣で、四足歩行で後ろ足が逆関節でかなり長く、首と尻尾も長い犬とトカゲを掛け合わせたような外見だ。
魔力感知中は周囲の状況を把握し易いものの不意打ちには弱い。
アルヴァーは、素早く魔力感知で相手の様子を確認する。
『幸い此方には気付いていない……水場として利用するようだが、魔水を体内に取り込まれると厄介だ』
身に着けている蒼いマントの魔力遮断効果と、河川から溢れる魔力が魔獣からアルヴァーを隠蔽している。
しかし、魔獣が河川から魔水の魔力を吸収してしまえば位置がばれる。
アルヴァーは、警戒しながらも素早く装備を確認していく。
腰の後ろに回していたショートソードのサイドベルトの位置を変更し、何時でも抜けるようにする。
次に、腰に付けたスローイングダガーのボックスケースを開けて、ダガーの紐を一本出す。
紐を引けばダガーが引き出され、次のダガーの紐が出てくる仕組みだ。
最後に、腰のベルトに装着している3本の短握杖、ショートグリップワンドの水晶体に触れながら僅かに魔力を流した。
1本が魔力を反発し2本が魔力を吸収した。
アルヴァーは、ショートソードを抜くと、剣身に彫られている2本の魔溝を確認し、水袋をゆっくりと突き刺した。
魔力で強化された剣身は、一度だけ鋭利な切れ味を示し皮製の水袋を易々と切り裂いた。
もう一度、魔溝を確認し鞘に収める。
そして、水袋の切り口から魔力を吸収した2本の短握杖を突っ込んだ。
『もう少し武装を持ってくるべきだったか……、だが準備は整った』
再度の魔力感知で、あえてジャウードが水を飲み終わる瞬間を狙って、アルヴァーは動いた。
水袋から2本の短握杖を素早く引き抜くと、水袋を岩の上を越える様に、こちら側の川原に投げた。
水袋が水辺ギリギリに落ち中身の水を派手にばら撒くと、ジャウードが反応し。向こう岸から驚異的な跳躍力で一気に飛び移って来た。
『掛かった!』
アルヴァーは、素早く岩陰から出て水辺に向かって疾走し、ジャウードとの距離を詰めた。
短握杖は、コブシ2つ分もない長さの魔道具化された魔法発動体だ。
射程は短いものの、予め魔力を先端の水晶体に充填していれば、魔力分の威力の攻撃を一回だけ素早く行使出来る。
射程ギリギリから両手に持った短握杖で、ジャウード目掛け魔道弾を同時に放つ。
狙い通り、1発は足下に、2発目は命中し、上手く体勢を崩す事に成功していた。
牽制にスローイングダガーを投てきすると、右手の短握杖を持ち替えて、水辺でジャウードを待ち構える。
『……ここが正念場か』
右手すぐに川辺、アルヴァーが川上、ジャウードが川下という位置取りで、アルヴァーは短握杖を握り込んでタイミングを計っていた。
ジャウードが後ろ足で2回地面を蹴散らすように踏み込んだ刹那、跳躍した。
アルヴァーは、川に飛び込みながら着地の瞬間を狙って、手持ち最後の魔道弾を撃ち込んだ。
今までと違う魔力の奔流が目くらましになったが、水中で体勢を崩した相手をジャウードが捉えると、長い首と強力な顎から繰り出す鋭い牙で必殺の一撃を繰り出そうとした。
だが、突然、水中が爆発的に膨張し2発分の魔道弾が至近距離でジャウードに命中した。
次の瞬間にアルヴァーが素早く懐に入り込み、魔力で強化されたショートソードでジャウードの首を一閃した。
ジャウードに致命傷は与えたが首を完全には落としていない。
油断せず魔獣の魔力の霧散を確認した。
戦いが終わると流石のアルヴァーも疲労の色が濃かった。
『今回は、魔水の特性に助けられた。短握杖があれ程の短時間で充填出来なければ負けていたかもしれんな』
左手の指に挟んだ2本の短握杖は、両方とも水晶体に亀裂が入っていた。
水中で強引に並列使用した為に破損したようだ。
ショートソードに付いた血糊を川水で濯ぐと、それだけで魔溝が魔力を吸収し使用可能状態になる。
アルヴァーは、最後の短握杖を水中から拾い、水晶体に僅かな魔力を流した。
予想通り魔力が反発するのを感じると、腰のベルトに戻した。
「考察通り、高純度の魔水が短時間で希釈された為、魔力伝導率が高くなっているようだ。短時間で魔力を獲得した液体が媒体となって魔力の均一化を促進した結果だが……」
長考に陥りそうだったアルヴァーだったが、思考を切り替え行動を起こす。
『ジャウードの亡骸には、それなりの価値がある。何より詳しく検分すれば研究も進むが……ここに放置するしかないな』
周辺を見回すと安全な場所に移動し地図を取り出す。
『暗くなる前に森を抜けたいが、警戒しながらとなると難しいか……』
川沿いに下るルートを指でなぞり改めて確認する。
魔獣は魔力を好む習性がある為、遭遇率が高くなる。
1本の短握杖しかない状況では危険だった。
『確実とは言えないが、来たルートを戻るのが安全だろう。問題は水だが……』
ここで、アルヴァーは思考を中断せざるを得なかった。
先ほど倒したジャウードと同じ気配を感じたからだ。
今日、何度目かの魔力感知の集中に入る。
『……対岸の比較的離れた位置に居るが此方に近づいてくる……んっ!?』
唐突にジャウードの気配が消え、同時に魔力が霧散するのを感知する。
『倒された? だが倒した相手は……駄目だ感知出来ない』
魔法攻撃なら魔力感知は出来る。攻撃時に魔力が変質し特殊な波動を発するからだ。
今回は何者かが自身の魔力を隠蔽して物理的に仕留めたのだ。
アルヴァーは地図の空白部分の最後に書き込んだ考察を見つめた。
そこには【結界の綻びの可能性。ファーンラントの結界との酷似】とあった。
『アールヴの集落がこんな所にあるのか? いや他種族の可能性もある……先程の戦闘でこちらの存在を認識された可能性が高いが……』
暫く間、警戒していたが向こうからの接触は無かった。
『妙だが、隠された何かが有るのは間違いないようだ』
アルヴァーは暫し考えた後、対岸へ渡る為に中州へ移動した。
『これからもこの森で活動すれば、相手と接触する可能性が高まる。今なら何らかの痕跡が残っているだろう。……少々危険だが』
浅瀬を選んで川を渡り中州に上陸する寸前、アルヴァーはさらに濡れるのも構わずにしゃがみ込んだ。
中州に踏み込んだ何者かの足跡の痕跡を発見したのだ。
痕跡を消さないように詳しく調べ始めた。
『ここが泥炭状になっているから痕跡を発見できた。間違いなくブーツの痕跡だが、サイズが小さいな』
中洲に上陸すると腹這いに近い体勢でさらに痕跡を辿る。
『足のサイズと歩幅から身長は低い。が、足場が悪いにも関わらず歩幅はほぼ安定している。歩き慣れているか、元々が身軽かだが……』
最後に中州にある大きめの岩の上を確認する。
『岩の上に、ほぼ助走無しで飛び移った形跡がある。子供かと思ったが普通の人間には出来ない動きだ。さらに爪先に体重を乗せる独特の足運び。これ等の特徴から子供ではなく猫妖精の成人の足跡だな』
アルヴァーは、結論に達すると相手側との接触を図る事に決めた。
猫妖精は、比較的最近になって交易都市ミラーレに姿を見せるようになった種族で、成人でも人間の子供程度の身長だ。
隊商を組んで遠方からやって来て、友好的な振る舞いが得意だが警戒心も強く交渉が上手い。
内在魔力は高いが使いこなせる者は少なく、身軽だが腕力には劣るので、傭兵組合からも護衛を多く雇っている。
『猫妖精の魔法技術は高くない筈だ。ミラーレでの取引も主に魔道具の買付けと聞くし、ここには取引に訪れたとすると辻褄は合うか……』
猫妖精の形跡を入念に辿り移動先を探っていく。
『先程の魔獣は、猫妖精の雇った傭兵か取引相手側が倒したか……。この場所は公になっていないだけで、密かにミラーレと交流があると考えるのが自然だろうな』
アルヴァーは、そう考え森の奥へと歩みを進めた。