第4話「旧施設と契約書」
最初の印象はまるで病院にでも迷い込んだのかと感じたことだ。
真新しくはないが、掃除が行き届いて綺麗にワックスが塗られている床面を見ると余計にそのような印象を受ける。
ゆっくり中に踏み入ると、背後から赤い光が通路を照らしたようで、振り返れば扉がゆっくりと閉まっていく所で備え付けの回転式の警告灯らしきものが点灯して、まるで注意を促しているように見えた。
実際、今までの扉と違い重厚そうな扉なのに驚くほど何の動作音も聞こえてこなかった。そのためここからでは見えないが通路の奥、これから向かうであろう先からのブザー音に気付けたのだった。
やがて、その扉も閉まりきると奥の方から聞こえてきたブザー音も鳴り止み、しばしの静寂が訪れた。
優希は、そのまま先に進むか、ここから声を出して迎えが来るまで大人しくしているか一瞬迷うことになった。今までの道筋もそうだが、この場所に奇妙な不自然さを感じたからだ。
しかし、まるでそれを見透かしたかのように、
『通路を道なりにお進みください』
と唐突に若い女性の声でアナウンスが聞こえてきて先を促された。
見上げると各所にスピーカーが配置されているのが確認できた。
借りてきた猫のような様子で幾つかの角を曲がると、まるで病院の待合室のような場所が見えてきた。何故、待合室なのかというと、通路より広く取られた空間の右側にプラスチック製だろう数脚の椅子とベンチが壁際に置かれ、その左側にはまるで受付カウンターらしきものが見えたからだ。ただ通路の終わりには本格的な金属探知ゲートのようなものが設置されていて、さながら昔の空港の入国管理のようでもあった。
優希が、思い切ってゲートを潜ると、まるで予定されていたかのように『キンコーン』と音がなってしまい一瞬びくっとして、それから急いで周りを見回したが、そもそも回りに誰も居なかったのでゲートと優希本人以外の反応はなく再び静寂が訪れた。
ただ、ここが目的地だというのは優希にも何となく分かった。
この場所に設置されたカウンターを見ると、奥の空間と厚めの透明アクリル製らしい仕切りで区切られているのが見えた。透明な仕切りには定番の声が聞こえるように放射状の穴が開けられている切抜き部分があり、まるで囚人の面会室を思わせた。カウンターとの間には、手を突っ込むと抜けなくなると思われる狭さで隙間が設けられて、さながら海外の金融機関や宝石、銃などを扱う店のようでもあった。
カウンターの奥を覗いてみたが、向こう側に何があるかが分かりにくいようにパーティションで目隠しがしてあったが、見える範囲でよくわからない物が目に入ってしまった。
よくわからない物といっても、何に使うのか分からない物という意味ではなく、ここにある意味がよくわからない物という意味の方だったが。
それについて考えを巡らせていると、不意にパーティションの奥に人の気配を感じた。
ここでも先に声を掛けるか迷っていると、向こうの方はこちらの存在には気付いていたらしく、やがて姿が見えてきたが相手は思いもかけない格好をしていて、優希は一瞬、声を上げそうになってしまった。
「やあ、申し訳ない、お待たせしてしまいました、入広瀬優希くん。君のことは聞いています。自分は、陸上自衛隊3等陸佐の斉藤です。ここの責任者でもあります」
「は、はあ……」
優希は、間の抜けた声を出すのが精一杯だった、多分、顔にも出ているだろうが、それほど理解が追いついていなかった。つまり、思いもかけない格好とは、迷彩服に身を包んだ自衛官だったからである。そんな人がこんな所に居る意味も自分が何故そんな所にいるのかも、何もかも全く分からなくなってきた。
「驚くのも無理はないので説明から始めましょうか。そうですね、まずはこの場所ですが、今は我々が使用させて貰っています。目的は、……まあ、訓練ですね。ご存知の通りここは鳥居ダムの施設の一部……なんですが、近年のテロ対策としてダムの破壊活動が懸念されています。そして実際の部隊運用のため訓練地としてここが選定されたという訳です。実は陸自の部隊が訓練に使う国有地が近くにありまして、部隊を展開するのにも都合がいい場所でもあります。ダム近接の公園は広さも十分で車両置き場やキャンプにも適していますし、幸いにして利用許可も下りました」
淀みなく話した斉藤3佐は実に誠実そうな人物だった。年齢は30代後半から40代前後だろう、日に焼けた肌と短く整えた髪が如何にも自衛隊員といった感じで姿勢にも緊張感がありつつ、どこか余裕も感じさせるものがあった。
「優希くん、ここまではいいですか?」
「は、はい!」
急に、声を掛けられて優希は慌てて返事をした。つられて背筋も伸びてしまった。
「では続けます。その訓練範囲なんですが、どうしても広瀬村の周辺地、生活道路などを一時的にとはいえ場合によっては封鎖して使用せざるを得ない状況でして、これについては深くお詫びするとともに関係する住民の皆様のご協力をお願いしている状況です」
そう言うと、斉藤3佐は深く頭を下げた。
つられて優希も深々と頭を下げる。
「特に宿泊施設でもある優希くんのご実家には大変なご迷惑をお掛けすることになるかも知れず、こちらとしても大変心苦しく思います。何らかの損失が出た場合の保障も考慮してはおりますが、必ずしもご希望に添えるとは限らないので、万が一そうなった場合は申し訳ないとしか言えない状況です。もちろん、そうならないよう努力はしますが……」
斉藤3佐はカウンターの下を探ると、書類の束と何かのカードを取り出し、
「こちらとしては、広瀬村にお住まいの皆様に何がしかの保障も必要と考え、こちらが出来る範囲での配慮をさせて貰おうと思います。それで、これからが本題ですが、それに当たり幾つかの書類にサインをお願いしなければなりません。広瀬村全体の分については既に取り決めがありますので、今回は優希くん個人に対しての取り決めになります」
そう言うと、カウンターの隙間から書類とペンを差し出してきて、
「私のサインは既に記入してあるので、内容を確認して、私のサインの上の記入欄に氏名と捺印、いま判子を持ち合わせていなければ拇印でも構わないのでお願いします」
追加で朱肉ケースを取り出して記入を促したのだった。
優希は慌てて書類の内容を確認しようと目を走らせ始めた。
「え~と、当該地区における日本国並びに自衛隊法に基づいた部隊が保有する施設または占有施設及び現在占有していると規定されている地域への民間人の移動許可並びに安全確保に関する取り決めについて…………当該地区内(以下「甲」という。)の移動について、甲の移動には、予め決められた手続きに基づいた権限を持つ代表者(以下「乙」という。)の許可を必要とし、乙は自衛隊法に基づいた部隊の特定階級以上(添付資料A)の構成員にその権限を一時的に委任することが…………」
えっ!? これを読んで理解しないといけないんだろうか……慌てて書類と周囲に視線を走らせ、挙動不審になっている優希を見ていた斉藤3佐は、苦笑いを浮かべて、
「一応、きまりなので内容を確認した上でサインをして欲しいのですが、今回は時間もないようなので、こちらの方で簡単に説明しますが……」
「あ、ありがとうございます! それじゃあお願い……」
書類のタイトルからして意味不明だった優希は喜んで返事をしようとしたが、急に後ろから肩を叩かれて、おどろきで思わず硬直してしまった。
「それは私が説明しま~す!」
それはスピーカーから聞こえてきたアナウンスと同じ女性の声だった。