The Mirror
「だからあんたは」
「お前もそんなんだから」
今日も怒鳴り声が聞こえる。まただ。また喧嘩だ。
二人の争う声を聞くたびに心臓が凍える。耳を塞ぎたくてたまらないのに、両手は自由には動いてくれない。
私はきっと……愛されていない。そしてこれからも――。
-------
「クリスティーヌ」
聞き慣れた声が聞こえて、体が軽く揺れる。硬く閉ざされた瞼をかすかに開けると、光。そして目の前には『歌学』のキャラクター、メグ。
「おはよう、メグ」
「おはよう、クリスティーヌ。今日は早く起きてくれてよかった」
私はベッドからのっそりと起き上がり、ホッと一息。大丈夫。まだ私は『歌学』の世界にいる。
制服を急いで着る。昨日はドレスだったからか、今日はやけに体が軽い。けれど友達一人いないクラスに行くのだと一瞬で気がつくと、昨日と同じく足が鉛になった。
「途中まで一緒に行こう」
「ええ」
メグはマリア、私はマールス。違うクラス。だけれども一緒に手を取り合って、一緒に自室を出ていく。
二人で廊下を進んでいく。ゆっくり小さく同じ歩幅で笑いながら。可愛い友達と手を取り合って登校。現実にはなかった憧れの世界が今、私の目の前にある。
けれどそれもつかの間、メグが「またね」と笑顔で手を振る。メグの上には女性の絵が描かれた札。マリアの教室。
私も笑みを返す。右手を軽く振って、メグが教室に入るのを見届けてから先程と違い、大股で歩く。
行きたくはないけれど、このまま一人で廊下に立っているのも周りの視線が気になって一刻も早く教室に入りたかった。
目に赤いりんごが入ってくる。マールスの教室だ。そしてそのりんごの下に夜空が見えた。黒いフードを被った、左肩に蛇の刺繍がある男性が絵の下に立っている。昨日、私の隣の席に座った人だ。
なるべく相手を見ないようにしながら、教室の扉に手をかけた。その瞬間――。
「クリスティーヌ」
「!」
名前を呼ばれた。
ゆっくりと男性に顔を向ける。男性の顔は相変わらずフードで隠れて見えない。
「何でしょう」
冷静を装って静かな声音で返事を返す。
「妹がいる、と聞いた」
「ええ」
今まで話をしたことのない赤の他人にも知れ渡っているのか……と女の口の緩さに呆れる。ここまで知れ渡っていると笑いたくなる。そんな気持ちをグッと堪え不気味な男性に口元だけ笑みを浮ばせる。
「妹がいますけど、どうかしましたか」
「気にならないのかと思って、な」
「それはもちろん、気になりますよ。妹ですから」
この男性は一体、何が言いたいのだろう。そもそも、私はこの男性の名前すら知らない。私を取り巻く環境にこの男性が干渉してくる必要性も、意味もないはずだ。
「それは別の意味で、だろう」とボソリと男性は呟く。
「嫌な意味で妹が気になるんじゃないのか」
「……どういう意味ですか」
眉に力を入れる。口元はかろうじて笑みのままだ。
男性の言葉に心が黒く染まっていく。
「あの妹が憎いんだろ」
――!
思わず肩がビクリと動いてしまう。
何だ、この男は。どうして私の心が読めるんだ。クリスティーヌではなく、私自身の心を。
「あなた、誰なの」
聞きたいことはたくさんあるのに、結局一番気になるこの質問一つになってしまう。
男性の被っているフードが微かに揺れる。私の質問に対して、口元が薄く笑みを浮かべるのが見えた。
「……私の名はエリック」
「エリック……」
「私は君を導く者であり、君の味方だ。君が望むのであれば、どんなことでもしよう」
思わず眉をひそめる。
最初にぶつかったときから意味が分からないと思っていたけれど、益々言っていることが不可解だ。
私はこれ以上、この男、エリックを見ないようにして教室の扉に手をかける。だがエリックは私のことなど見えていないのか、見ないようにしているのか、扉に手をかけていてもお構いなしに話し続けている。
「その扉を開けた瞬間、君の味方は増える。私の他に」
私は横目でエリックを軽く見つつ、扉を開ける。
足取りは重いが、今日の扉はやけに軽い。朝独特の優しい光がはるか先の窓から差し込んでくる。
教室に入るとギャーギャーと吠えていた獣たちは皆口を閉じ、一斉に視線が私に集まる。聞こえてくるのはジーという謎の機械音だけ。
何だ……。
その場で足を止めた。周りの目は相変わらず私一点に集中している。
「ねぇ」
女の子二人が近付いて来る。
本当ならこうしてちゃんとクラスメイトに話しかけられたのは始めてだから嬉しいことなのだけど。この凍った雰囲気。私のいない間に何かあったのか……。
「クリスティーヌさん、よね」
「ええ」
聞き慣れない「さん」付けに戸惑いながらも、返事をする。女の子達は互いに顔を見合わせて、もう一歩近付く。
「その、クリスティーヌさんに妹が出来たって聞いて。私達心配して、ね」
「うん」
名前も知らない、昨日まで話したこともない人に心配されても。とは思いつつも苦笑いでやり過ごし、メグの時と同じセリフを吐く。
「私、ずっと一人ぼっちだったから嬉しかったの。妹が出来て」
勝手に内面に踏み込んで欲しくない。けれどクラスメイトとは仲良くなっておきたい。
私にはオペラ部があるけれど。それでもせっかく乙女ゲームの世界に転生したのに、このままこのクラスで一人ぼっち机に向かうだけの生活は嫌だ。
私は二人が離れないように満面の笑みを浮かべる。
だが二人は笑みを浮かべるどころか、顔が渋い。困惑している様子だ。
「……いいと思う」
「え」
「無理しなくていいと思う。いきなり妹なんて受け入れられるはずがない」
徐々に徐々に。確実にコンクリートの顔になっていく。どこまでも平坦で凹凸がない。
騙せない。何故……。
「本当は憎くてたまらない。違うか?」
唐突に低い声が聞こえて目の前が冷たい黒に覆われる。エリックのフードの色と同じまた夜の色。
一筋汗が流れた。
憎い、憎い、憎い。そうは思っていてもこんなに大勢の前で口に出していいのか。ここで「憎い」といったら何か変わるのか。いや、ここはクリスティーヌとして答えるべきだ。私が妹を嫌っているとオペラ部に知れたら、ファントムを攻略するどころではなくなる。
だからここはクリスティーヌとして――。
「縛られなくていい」
「!」
思わずエリックの蛇の刺繍を見つめる。
この男は、私の何を。
「ここにいる者は君の期待通りに動く」
私の何を見たんだ。
耳が警告する。この男の話を聞くな。けれど私の口は耳の言葉など受け入れず、今にも叫びそうだ。
――妹が憎い、と――
前を見つめる。と、白い靄の中からゆっくりと大きな古臭い鏡が現れる。目の前には私の姿が映っている。クリスティーヌの、ではない。醜い本来の私の姿だ。
「私、は……」
声がかすれる。
鏡の中の私は口元だけを歪ませて笑っていた。
「妹が憎い」
言ってしまった、という気持ちと、言えてスッキリとした爽快感が絡み合う。けれど一度出てしまった言葉が次から次へと波になって押し寄せ、罪悪感をあっという間に流していってしまう。
「あんなやつ嫌い。一瞬でも会いたくない、目に入れたくない。いなくなってしまえばいいのに」
鏡の中の私が、ぬるりと笑いながら這い出して来る。そしてクリスティーヌとしての私を蜘蛛の糸で絡めとる。けれど糸は私を斬り裂くわけでも、喰らうわけでもなく、繭の形になって優しく抱きしめる。
心地がいい。その心地よさに甘えてそっと目を閉じる。
「ならば力を貸そう」
あの低い声が聞こえてきて、再び目を開ける。目の前には私を取り囲むクラスメイトと、一匹の蛇がいた。




