ラベンダー
夜中、急に眼が冴える。目を開けた瞬間、月の黄金色が目に入って来て青のドレスを思い出す。
私はスヤスヤと眠るメグを起こさないよう、冷たい床に静かに足を下ろして体を起こした。そのまま廊下を歩く。
どこへ向かっているのか、自分自身でも分からない。ただ足の赴くまま、廊下を進み外に出る。外に出て澄みきった空気を肺に取り込んでいる間にも、モヤモヤは止まらない。
あのドレスは本来、クリスティーヌの……。私のものになるはずだったのに。
校舎を出て庭に出る。足は普段人のいない裏へまわる。
ゲームの中でも裏庭の紹介は文だけで、草にまみれているということしか分からなかった。けれど……。草はそこまで生い茂ってはなく、辺り一面紫に覆われている。花の香りがツンと強く鼻に付く。
これはラベンダーの花だ。
私は紫の中へと足を踏み入れる。キツイ香りにあてられて足元がふらふらとふらつく。けれど嫌な香りじゃない。むしろ今の私の激しい恨みと相まって心地が良い。
風がブワリと下から吹きあがる。
「!」
下からの風で思わず足がよろけた。
思わずバランスが崩れる。顔から地面に近付いていく。
――マズイ――
ここで惨めに転ぶのか……。けれど誰にも見られないのなら仕方がない。
転ぶその短い間に諦めをつけて、衝撃に備えて強く目を瞑った。
が、その瞬間グイッとくびれに手を差し伸べられ、受け止められる。
「……大丈夫か」
男の声だ。見られていたのか、と恥ずかしくなった。が、すぐに今の私はクリスティーヌだ、この先なんとかなるだろうと考える。
私は足にほんの少し力を込めて踏ん張り、相手を笑みと共に振り返る。
「ありがとうございました」
「いや」
月明かりに照らされた相手の顔を見る。だが、相手の顔は見られなかった。黒いフードによって……。
私を支えたのはエリックだ――。
また風が強く吹く。紫のラベンダーが一斉に揺れた。
「どうしてここに」
私が問いかけるとエリックは急にしゃがみ込んだ。かと思うと、揺れているラベンダーに手を伸ばす。そして花を優しく包み込んだ。
「この場所が好きだからだ」
「あなたにも、好きな場所とかあるのね」
この男、エリックについては分からないことだらけだ。唯一分かるのは『恨み』を抱いている。ただそれだけ。
そんなエリックに何かを好きという感情があったことに、妙に感心してしまう。
「この場所……というよりはラベンダーだな」
「へぇ」
私もエリックの隣にしゃがみ、一緒にラベンダーを眺める。
月の黄金色と、紫。その色合いに癒されて、妹のドレスのことは頭にチラつかなくなっていく。
しばらく無言で二人で花を愛でていると、エリックは急に口を開く。
「そういえばラベンダーの花言葉を知っているか」
「いえ」
「疑いと不信、だ」
「いい花言葉じゃないわね」
エリックはジッと私を見つめ始めた。一体何だろう、とエリックの言葉を待つ。やがて私から再びラベンダーに目を移す。
夜独特の冷たい空気が漂っている。だが肌寒さはない。むしろ調子がいい。このままここでラベンダーをずっと眺めていたい。
エリックはラベンダーから手を引き、立ち上がる。
「もちろんいい意味の花言葉もあるがな。それにしても、疑いと不信、か。――まるで君のようだ」
「え?」
私はエリックを見上げた。エリックの背に月が移っている。エリックの前髪が軽く揺れている。
「疑いと不信。今の君も似たような気持ちを抱いているんじゃないのか」
ハッと思わず目を見開く。
まただ。また、見透かされているような気がする。
グッと眉をしかめた。その反応を見ているにも関わらずエリックは飄々としている。
「何か知っているんですか」と立ち上がりながら問いかける。
本来の『歌学』のストーリーとは違っているのも、私がここに転生した意味も――。
「さぁ、どうかな」
「……」
私の質問の意図が分かっているか、分かっていないのか。エリックの言葉に益々、おでこに皺を寄せていく。
ハァ、と盛大にため息を吐く。それからエリックを見つめた。
「それで、一つ相談があるのだけれど」
「ほぉ」
「オペラ部の話なんだけど」
正直、この悩みを打ち明けるのはどうなのかと迷う。あまり自分の心の深い所に入って来てほしくはない。普通であれば。けれどエリックは私が妹を嫌っているという事も分かっているし。前回といい、何故か打ち明けたい衝動にかられてしまう。
「本来私が着るはずだったドレスを妹が着ることになったの」
紫が視界に入ってくる。その紫が私とエリックの周りを取り囲んでいる。
「それで、クリスティーヌはどうしたいんだ」
「それは」
ああ、そうかと納得してしまう。ここでエリックに聞いたとしても結局どうするかは私次第、か。
結局私はどうしたいんだろう。
頭を回転させる。回転させるのと同時に、心にどす黒いものが込みあがってくる。そしてその黒いものが胃から喉へと急速に這い上がってくる。
「私はあの子にドレスを着させたくはない」
「……」
「――引き裂いてしまいたい」
――!――
そう発した瞬間、ハッとして手で口を覆う。
何てことを言ってしまったんだ。けれどもう言ってしまったことは仕方がない。それに私の好きなファントムが側にいるわけではないからいいか。
私はエリックの反応をジッと確かめる。するとエリックはフードから笑みを浮かべた唇を覗かせる。
「ならば、自分の思うままにすればいい」
「それはドレスを引き裂け、と? 」
エリックは相変わらず笑みを浮かべたまま、無言で頷く。それを見て、ふと疑問が頭に浮かぶ。
「そういえば、最初の頃私に力を貸してくれるといいましたよね」
「ああ」
「もしかしてドレスを引き裂くのも手伝ってくれるんですか」
なんとなくだが、首を縦に振るだろうという確信めいた何かがあった。その何か通り、エリックは「君が望むのなら」と答えてくれる。
簡単に力を貸してくれるとは言ってくれるが、何故協力してくれているのだろうか。この前言った『恨み』に関係があるのだろうか。
辺りがラベンダーに囲われている中、エリックはふと手を差し出す。その行動に私は首を傾げた。
「手を」
自分の手を見つめる。エリックは手を出したまま、待ちぼうけの状態だ。
これは私も手を出せ、ということか……。
私は自分の目線から手を下ろしてエリックに差し出す。と、エリックは私の手の下に手を重ねる。
「それでは行くとするか」
「どこへ」
「音楽室へ」
エリックは華麗に私をエスコートしていく。
夜の闇は暗くなっていく。ふと後ろを振り返ると何故かラベンダーだけはっきりと見てとれた。
参考文献
『持ち歩き!花の事典970種 知りたい花の名前がわかる』
金田初代・金田洋一郎
2018年9月5日
株式会社西東社




