ドレス
恨み――。
エリックの声が頭の中で響く。と同時に妹の姿がチラつく。
「……クリスティーヌ」
頭を横に強く振る。
やめよう。妹のことは考えたくない。ましてや今は。
「クリスティーヌ!」
「っ!」
ハッとして目を見開く。目の前にはファントムがいる。
「どうした。何かあったのか」
ファントムは下から覗き込むように私の様子を窺う。
「いえ、何でもありません。少し、疲れていたみたいで」
そうだ。ファントムと一緒にいる時にエリックや、妹のことを考えている暇なんてない。
私は今までの失敗を取り返すように、ファントムの手をとって薄く笑う。
オペラ部の窓からは妙に輝きをもった雷が落ちている。それなのに私の耳には雷の音は全く入ってこない。
「ごめんなさい。心配をかけたみたいで」
「い、いや。何もないならいい」
ファントムは少し顔を赤らめて、後ろへ一歩後退する。
ここでもヒロイン、クリスティーヌとしての力を改めて感じる。やっぱりヒロインが少しでもその気を魅せれば、皆顔を赤らめて狼狽えるもの。
けれど……。あの男、エリックは……。
そこまで考えてまた頭を振る。
「それよりも」
急にファントムから手を離され、思考が巻き戻る。
「クリスティーヌの歌についてだが」
「は、はい」
「歌が格段に良くなっている」
「はい」
巻き戻った思考が、また元の位置まで早送りされる。
褒められた。エリックの言葉の通りだった。「君の歌は評価される」か――。
「まぁ、少し俺の考えていたものとは違っていたがな」
「え?」
「最後の場面はもっと悲しみを含めて歌うかと思っていた。クリスティーヌのイメージとはかけ離れていたけれど、この歌い方もいい。自分の感覚が広がっていく気がする」
ファントムが爽やかに笑う。けれどその笑い方にどこか違和感を覚える。
目の前に霧が立ち込めて、ファントムの姿が歪む。その霧は一瞬にして消えて、ピアノが怪し気に黒光りしているのが見えた。
突然「集合!」と声が音楽室に響き渡る。中央にアマンド部長が手を組んで立っている。攻略キャラではないものの、立っている姿はかなり様になっている。
「次のオペラの衣装が出来たんだ」
アマンド部長はそう言って一人一人に衣装を手渡ししていく。ラウル、ミフロイド、メグ……。それぞれゲーム通りの衣装をもらっている。
「はいよ。王子様はこれね」
やがてファントムの前に衣装が差し出される。ファントムの着ている赤い制服と変わって青を基調とした衣装だ。
この青もまたファントムに合っていてかっこいい。
惚れ惚れとしながらファントムを見つめる。すると私の前にアマンド部長が移動する。
「クリスティーヌ。君の衣装だ」
「ありがとうございます」
アマンド部長の手から私の手へと衣装が渡る。手の中にあるのは黒一色だ。
その鮮やかなまでの黒一色に思わず目を丸くする。
「これは、どういうこと、なんでしょうか」
「どういうこと、とは?」
「これは――クリスティーヌの衣装じゃない」
クリスティーヌの衣装もファントムと同じ。青を基調としたドレスだったはずだ。ファントムよりも少し淡い色のドレスだったはずだ。
こんな真っ黒じゃ、ない。
「うーん。困ったなぁ。情報漏れしてないと思っていたんだけど」
アマンド部長は頬をポリポリと軽く掻く。
「いやぁ。ちょっと前までは海をモチーフにしたドレスにするつもりだったんだ。もう、衣装も出来ていたんだがね」
どうやらアマンド部長は私の言葉を衣装について情報漏洩していたと別の意味で捉えたらしい。まぁ私が既にストーリーを知り得ているから、とは誰も思わないだろうけれど。
「けれどここ最近のクリスティーヌの歌声を聞いて考えが変わったよ。こっちの方がイメージにピッタリだと思ってね」
「……」
「凄く似合うと思うんだ。これを着て、演じて欲しい」
アマンド部長は嬉々として一方的に話したかと思うと、黒のドレスを強く私の胸へと押し付ける。
私は無理やり押し付けられたドレスをマジマジと見る。光沢のある黒で高級感はある。素敵なドレスだ。
もちろん青のドレスの方が良いに越したことはなかったけれど……。
アマンド部長は私にドレスを押し付けた後、数歩横に移動する。
「それで、君には申し訳ないんだけど」
手には淡い青のドレスを持って、とある人物の前に立つ。
「衣装が間に合わなくて。余りのこれを着て欲しいんだ」
「あ、はい」
――妹の前だ――
妹はアマンド部長から青のドレスを受け取っている。波の音があのドレスから聞こえてくる。
余りのドレス? 違う。あれはクリスティーヌの為に。クリスティーヌの為だけに作られたドレスだ。
「……お前なんかが着ていいドレスじゃない」
奥歯を痛くなるほど噛み締める。ギシリと音が鳴った。妙にその音が耳に響く。
「大丈夫か……。クリスティーヌ」
ポン、と肩を叩いたのはクリスティーヌの幼馴染ラウルだ。その後ろにはメグが顔を覗かせている。
さすがはラウル。幼馴染というだけあって、些細な変化にすぐ気付く。メグは女の鋭い観察眼で何かに感づいたといったところだろうか。
さすがにクリスティーヌらしからぬ顔をしていたかも、と軽く咳ばらいをし、にっこりと笑う。
「ううん。何でもないよ。どうして?」
「どうしてって。いつもと雰囲気が違ったから」
「そう?」
そう言われるとラウルは気のせいかと首を傾げたきり、黙ってしまう。けれどメグはラウルのようにいかず、ラウルと入れ替わるように前に歩いて来る。
いつの間にか空が薄暗くなっていた。不穏な空気がメグの周りだけに漂っている。その空気に無抵抗に触れてしまう。
「最近のクリスティーヌ、少し変わったよね」
「そうかな」
「……うん」
メグの目が私を捉えて離さない。疑われている。
バクバクと心臓が音を立てる。あまりの緊張に吐き気がした。目の前にいる裁判官にバレないように軽く深呼吸をする。
大丈夫、と心の内で呟く。大丈夫、大丈夫。まだ決定的な何かを言われてはいない。
私はメグに変わらず笑顔を向ける。
「もしかしたら疲れているのかも。学園に入学してからいろいろあったし。それにオペラで大役を任されることになったしね」
それに愛人との間に出来た妹が急に出てきたし……と口の端から赤紫の毒を吐く。
メグは申し訳なさそうに眉を寄せて「そうだよね。気付けなくてごめん」と謝ってくれる。先程と打って変わっておずおずと後ろに下がっていた。
「ううん、いいの」
私は優しくメグの手を取る。クリスティーヌらしく可愛らしい笑みを浮かべて。
メグの目はすっかりクリスティーヌを信頼していたものに変わっていた。
パンパン、と手を叩く音がふいに聞こえる。アマンド部長が手を叩いた音だ。オペラ部全員の目がアマンド部長に集中する。
「さて、今日はここまで。発表まであと少しだ。各自、練習を積んでいくように」
その言葉にオペラ部全員の首が縦に動く。オペラ部の発表まで残り一週間。全員荷物をまとめ部室を出て行っているのに、緊張感だけが残り増していく。
「クリスティーヌ」とファントムから名前を呼ばれた。
「また、明日」
「はい、また」
ファントムは爽やかな笑みを浮かべながら、ミフロイドを伴って部室を出ていった。ほんの数歩後ろからラウルも部屋から出ていく。
ほんの一瞬レモンの香りの風が横ぎった後、また嫌な緊張感のある空気が辺りに流れる。
「クリスティーヌ。私達も帰ろうよ」
緊張感のある空気を遮り、愛らしい声が聞こえる。メグが私の手を取った。私はしっかりとメグの手を握り、元気よく帰ろうと頷く。
扉へと二人で歩いていく。窓からは星が輝いていて夜空が美しい。けれどその窓の下に夜空とはまた違う青を見つけて、先程までの緊張感が爆発して弾けた。
リトルの手に持っているドレスが月の光に照らされ、輝いていた。




