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The Phantom of the Opera

 扉を開けて教室に入る。


「「おはようクリスティーヌさん」」

「ええ、おはよう」


 女の子二人の挨拶に笑みを作って返す。そして深いため息を吐きながら席へと向かう。また、女の子達と少し離れた席に座った。

 その途端、一層派手な音を立てて黒いフードのエリックが扉から入ってくる。いつものように私の隣に座った。

 さすがに毎度のことなので私も慣れてしまっている。


 私はチラリとエリックを盗み見た後、前を見てまたため息を吐いてしまう。


「……何か困っているようだな」

「!」


 突然の低い声にバッと隣を凝視する。声の主はエリックだ。


 フードが微かに揺れて黒い前髪のみが見える。同じ黒なのにファントムとはまた違った黒だ。ファントムの穏やかな黒と違って、荒々しく洞窟の闇を思い出させるような黒。


「私は君の味方だ」

「味方……」


 そういえばあの時、「妹が憎い」と言う前もその言葉をエリックから聞いた。もしかしたら、何かあるのか……。


 私はジッと蛇の刺繍を見つめる。


 正直に歌が上達しないと言っていいのか。もし言ったとして何になる。この前は妹の件だったけれど、今回はオペラ。専門的な話だ。言って解決案が出るのか。


 胸がバクバクと音を鳴らす。


 解決案が出ないとしても言ってしまいたい。悩んでいると。楽になりたい。

 ――解き放ちたい――


「実はオペラ部の練習が上手く行かなくて」

「……」

「歌に心がこもっていないと言われました」


 言ってしまった……。けれども、後悔はない。むしろこの先、どうなるのか考えると胸が躍ってしまう。


 エリックは軽く顎に手を当てる。


「確か町娘が王子に恋するが報われないという脚本だな」

「え!? あ、はい」


 どうしてオペラ部の内情を知っているのかという疑問が一瞬頭に浮かぶが、この男が醸し出すミステリアスな雰囲気で口に出せなくなってしまう。


 エリックは顎から手を放し、こちらを向きながら頬杖をつく。


「『エヴゲーニイ・オネーギン』を知っているか」


「いえ」と短く答える。急に何を言い出すのだろうと首を傾げながら耳を傾ける。


「おそらくオペラ部のやろうとしている脚本は『エヴゲーニイ・オネーギン』からとっている。ロシアの文学でオペラも有名だ」


 『エヴゲーニイ・オネーギン』? ロシアのオペラ? そんな話、『歌学』になかったしファンブックにもなかった。


 そんな私の混乱と動揺を横目で見ているにも関わらず、エリックは話し続ける。


「内気な文学少女タナーチャは青年オネーギンに恋文を出すも軽くあしらわれ、さらに青年オネーギンはタナーチャの妹オーリガを誘惑する……」


 妹、という単語が出て思わずおでこに皺を寄せた。が、私個人の話とは関係ないと心の中で首を振る。


「オネーギンと妹の恋人のレーンスキイは決闘し、レーンスキイを殺す。数年後、オネーギンはパーティーで成長したタナーチャに再開し、一目惚れをして求愛するも拒絶される話だ」

「……皮肉ね」


 昔求愛された相手に今度は求愛し、しかも振られる……。自分の気持ちと相まってタナーチャの気持ちを考えてしまう。タナーチャは余程気分が良かったのではないだろうか。オネーギンを魅了した妹にも、そしてオネーギンにも苦しみを味合わせることが出来たのだから。

 ――けれど。


「それとこの劇とは無関係のように思えるけれど」

「……」


 エリックは顔だけを後ろに向ける。エリックの視線の先には窓。その窓から日差しが真四角になって入ってくる。


「町娘が王子に恋するも報われず、海に身を投げる」

「……」

「町娘の心にあるのは果たして悲しみだけなのか」

「え?」


 真四角の光が徐々に広がって、長方形になっていく。その長方形の光にエリックが包まれていく。


 エリックは日差しから目を背け、もう一度顔をこちらに向けた。

 口には出さないが、目で「答えろ」と促される。その目線を受け止め、考える。


 町娘にあった気持ち。悲しみ……だけではないのかもしれない。結局身分だけしか見なかった王子への恨み。そんな相手に恋をしてしまった自分への悔しさ。そして何より、王子やその周りへの――。


「……復讐心」

「読み手にとっては『エヴゲーニイ・オネーギン』と似ているだろ」

「そう、ね」


 今度は私も机に頬杖をついて、エリックを見る。自然と顔が近付くが、別にドキドキはしない。どちらかというとドキドキというより何か起きるのではないかというハラハラ。そして妙な安心感。味方だ、と言われたからだろうか。


「でも、大抵の人はそこまで考えないと思うけれど」


「いや」とエリックが即答する。


「だからこそだ。悲しみ以外の歌い方をするのも表現だと思うが。それに……クリスティーヌ。この歌い方なら心がこもる」


 確かに。これなら私自身の感情で歌うから心がこもるだろう。けれど。これはクリスティーヌの歌い方ではない。


 私はジッと疑うようにエリックを睨む。が、エリックはそんな私の視線を気にせず喋り続ける。


「大丈夫だ」

「……」

「君の歌は評価される」


 私は視線をエリックの目から外さないまま、グイッと顔を近づける。

 相変わらずフードで顔は隠れていて分からないが、笑っているような気配がする。その様子が妙に癪に障った。


 今の私はヒロイン、クリスティーヌと同じ外見をしている。照れる、ならまだしも、余裕さえ感じる笑みとは。この男は一体何を考えて私に近付いているんだろう。


「それは前回と同じ、ですか。前回の私の味方が増えるという話、と」

「……さあな」

「あなたは一体何を考えているんですか」


 エリックはしばらく黙る。

 長く伸びた光は、エリックの横にそれてしまっている。左肩の蛇の刺繍だけに光が当たっている。妙な構図だ。


 エリックはフッと息を吐き、そして吸い込む。


「君と同じだ」

「同じ?」

「ああ。ある人物への――恨み、だ」


参考文献

『ドナルド・キーンのオペラへようこそ! われらが人生の歓び』 ドナルド・キーン  2019年4月10日 (株)文藝春秋

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