一期一会
年が明け、ほとんど全員の進路が確定する時期になった。この学校からの進路はもちろん魔術師への就職が王道だった。希望者は、一定以上の成績を収めてさえいれば(そうでない者は追加で課される試験にパスすれば)、春休みまでに簡単な面接を済ませるだけで魔術師になれた。現存する魔術師は多くないし、そもそも現状ではこの学校が魔術師になるための唯一の窓口だったからだ。この学校の課程をこなせるということ自体が、魔術師の資格があるという何よりの証明だったのである。
ニーアとアイリスは二人とも、迷わず魔術師となる道を選んだ。二人はもともと優秀なほうなので、成績面は文句なしにクリアしており、すぐに面接を受けることができた。ただ一つ気がかりなのは、勤務地が自分で選べないという点だった。
「アイリス、面接、なに聞かれた?」
「魔術師になりたい上っ面の理由と、魔術師としての自身の特性、それから勤務地と部署は自由に選べないけどいいかっていう意思確認」
「部署はともかく、勤務地が選べないのは困りものね……近いところだと嬉しいんだけど」
「へー、ニーア、私と離れ離れになるのが寂しいんだ」アイリスが意地悪く言った。
「そ、そんなことないわよ」ニーアが慌てて強がった。
しかし無情にも、ニーアの勤務地は東北、アイリスは九州と、本当に見事に別れてしまった。二人とも心底がっかりしたが、なぜかそのことを相手に悟られまいと平然を装った。
「勤務地、残念だったねー。ニーア、寂しい?」
「べつに」ニーアがつっけんどんに答えた。
「嘘ばっかりー。もう自由に話せなくなるって、勤務地発表の前からあんなに心配してたじゃん。やっぱりニーアは――」
「べつにあなたと話せなくなっても平気だって、言ってるでしょ! そんなこと言うならもう話しかけないで! 私も話しかけないから!」
離れ離れになることが確定してショックを受けていたところに、アイリスのからかいがその気持ちを刺激して、ニーアの感情が爆発した。
「あっそうですか。気の済むまでどうぞ」
アイリスも悪気はなかった。ニーアをからかうことでショックを紛らわしていないとやっていられなかったのだ。ニーアが声を荒げたのでちょっと反省したが、またすぐいつものように話せるだろうと安易に考えていた。
しかし、ニーアは本当に話さなくなった。食事や演習はいつも通りアイリスと一緒に行ったし、どうしても必要な連絡事項は事務的に話したが、それ以外アイリスをなるべく避けるようになった。
アイリスはわかっていた。あのときニーアは本当に悲しかったんだと。なのに自分がそれを顧みないことばかり言ったものだから、ニーアは深く傷ついてしまったんだと、アイリスは自分を責めた。
ニーアはニーアで、取り返しのつかないことを言ってしまったと、自分を責めていた。もうすぐ離れ離れになるとわかった以上、本当は残りの時間で少しでも多く話したかった。しかしあんなことを言ってしまった以上、話さなくても平気なさまを見せてやらないと辻褄が合わない、と、持ち前の意地っ張りを発揮していた。
ニーアから見ても、もうアイリスが話そうともしなくなったのがわかった。まるで友達になる前のようだった。いや、もっと悪いかもしれない。あの頃は少なくとも、憎まれ口を叩けば憎まれ口が返ってきた。今は、互いに憎まれ口すら叩こうとしない。ニーアの誕生日が数日後に迫ってきても、アイリスは気づいた素振りさえ見せなかった。もしかしたら、自分が本当に二度とアイリスと話したくないんだと思って傷ついてるかもしれないと思うと、ニーアは涙が出る思いだった。
ニーアとアイリスが話さなくなってから初めての週末がやってきた。いつもであれば外出先についてあれこれと話し合うところだが、今の二人にとってそんなのは遠い昔のことのように思えた。午前中は二人とも部屋で柄にもなく勉強などをしていた(皮肉にも、普段よりはかどるのがわかった)。無言のまま昼食を一緒に済ませ、バディ部屋のドアの前まで戻ってくると、いつの間にかアイリスがいなくなっていることにニーアは気づいた。トイレかと思っていたが、一時間過ぎても、二時間過ぎても部屋に入ってこない。とうとう時刻は門限を過ぎた。ニーアはアイリスが校内のどこかにいることを祈りながら一人で夕食を済ませ、部屋でアイリスを待ったが、一向に帰ってくる気配がない。ニーアは居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出した。
ニーアは学校の敷地内をくまなく探した。食堂や談話室など、心当たりのあるところにはどこにもいなかったので、ありえないだろうと思われるところ――厨房、体育館、グラウンドなど――まで探したが、やはりいない。アイリスが学校の外にいるということが、ほぼ確定してしまった。
ニーアはもうパニックだった。こんなに遅くまで外にいるなんて、今ごろ何をしているのか心配で仕方がない。それに、誰にも相談できない。自分がバディを傷つけたことやアイリスが門限破りをしたことがばれたら、二人の成績に大きな傷がつくに違いないと思ったからだ。教官たちに気づかれる前に、アイリスをなんとかして連れ戻さなくては。そして、万が一にもアイリスがバカな真似をしようとしているんだったら、絶対に思いとどまらせなくては。ニーアは一人でアイリスを探しに行くことを決意した。
ニーアは北玄関から外に出て、警備員の目を盗んで飼育小屋裏に回り、北側の塀を乗り越えた。よし、ばれていない――ニーアは一人ぼっちで、夜の街に立っていた。大小のビルの窓から明かりが漏れ、目の前の国道をヘッドライトとテールライトが左右に駆け抜けていく。ニーアは心細くなった。いくら魔力があっても、武器や防具がなければ、ニーアたちはその辺にいる体育会系の女子高生と大差ない。それに、探すって、どうやって? この近辺にいるくらいなら、わざわざ門限破りなどせず敷地内にいるに決まってる。戻れないほど遠い場所にいるか、戻りたくなくてどこかに隠れている可能性が高い――
ふと右側に目をやると、数多くのヘッドライトに紛れてタクシーの行灯が近づいてくるのが見えた。街といってもここははずれの方だ。流しているタクシーは多くない。ニーアはとっさに手を挙げ、タクシーを止めた。
「どちらまで?」セダン型のタクシーの後部座席にニーアが乗り込むと、しわがれ声が聞こえた。
「えーと――とりあえずこの道をまっすぐ……」
運転手の眼鏡をかけた中年男性は少し怪訝そうな顔をしたが、「わかりました」と言うとハンドル脇のレバーを下げてアクセルを踏んだ。車が西へと走り出した。怪訝そうな顔をされたのは、タクシーなどまったく乗り慣れていないうえ、今は目的地も決まっていないせいで、不自然な言い方だったからに違いないとニーアは思った。
いくつかの交差点を越えたのち、赤信号に止められた。ロードノイズがなくなって静かになったところで、運転手が尋ねた。
「お嬢ちゃん、こんな時間に何をしてたんだい?」
小柄なニーアは運転手からは未成年に見えたらしい。もっとも、その予想は当たっているのだが。
「わ、私、こう見えても20歳です」ニーアはとっさに嘘をついた。
「これは失礼しました。じゃあ、お仕事帰りですか? ご職業は?」
「お、OLです」真っ先に思いついたありきたりな職業を答えたが、すぐに嵌められたことに気づいた。OLが週末に、しかもこんなカジュアルな服装で仕事をしているはずがない。
「そうですか。遅くまでご苦労さまです」信じていないという調子だった。
信号が青になった。車は再び動き出し、エンジンが唸り声を上げたが、運転手は構わず続けた。
「お客さん、一応聞いておきますが、この時間に山へ向かっているというわけではありませんね」
ニーアは目を丸くした。山? なぜそんなところへ行くと思うのだろう?
「いいえ、そんなことは」
ニーアがそう言うと、運転手は安堵したようにため息をついてから言った。
「それなら良かったです。昔、思い詰めた客を拾ったとき、この道を通って山まで送りましてね。何日かして、新聞でその客の顔を見つけたときには……」
ニーアはもう黙っていてほしかった。左右の窓の外に目をやり、偶然にもアイリスの姿が見えはしないかと目を凝らすのに集中したかったからだ。
「お客さん、何か思い詰めてらっしゃいますね?」運転手がビシッと言った。車は橋に差し掛かったところだった。
「え、ええ、実はちょっと……」
人を探していると言うべきかどうか考えていたその時、左側の欄干から川面を眺めている少女が目に入った。あの長い黒髪の後ろ姿は、間違いない、アイリスだ。
「運転手さん、ここでいいです! 降ります!」
「え、ええ――? 橋のど真ん中ですが、よろしいですか?」そう言いながらも、運転手は返事を待たずに車を停めてドアを開けた。
ニーアはメーターをほとんど見ていなかったが、三桁であることは間違いなかった。ニーアは急いで財布から千円札を引き抜いて運転手に握らせ、釣りも受け取らずにタクシーを降りた。
「アイリス!」
ニーアが駆け寄りながら叫ぶと、アイリスが振り向いた。
「アイリス、こんなところで、何して――」
「ニーア、あれ見て。ほら、3、2、1……」
アイリスが指差す先は、上流の河川公園のタワーだった。タワーに取り付けられたデジタル時計が、20:00になった。すると同時にタワーが色とりどりに輝き出した。川面に逆さまに映っているタワーも同じ色に輝いていて、幻想的な景色だった。ここからだと川面のタワーがちょうど川の真ん中にまっすぐ伸びて見えていて、この景色を見るにはまさにベストな位置だとニーアは思った。
「ちょうどこのタイミングで通りがかったから、一回見ておこうかと思って」アイリスが無邪気な声で言った。
「――そ、そんなことより、早く帰らなきゃ」一瞬景色に見とれていたが、我に返ったニーアが慌てて言った。
「私、警備員に見つからずに入れるところ、知ってるから――」
そう言った途端、雨がポツポツと降り出した。みるみるうちに雨足が強まるのがわかった。すると背後から呼ぶ声がした。
「お嬢ちゃんたち、早く乗りな! ずぶ濡れになるよ!」さっきのタクシーがまだそこに停まっていた。運転手が助手席の窓を開けて叫んでいる。
二人もずぶ濡れは嫌だったので、大人しくタクシーに乗ることにした。後部座席左側に近づくと、自動ドアがパッと開いた。
「お嬢ちゃんたち、魔法が使えるからって、むやみに自分の身を危険に晒しちゃいけないよ」
ニーアが後部座席の右側、アイリスが左側に乗り込むと、運転手が何かをニーアに差し出した。ニーアは、財布から千円札を乱暴に引き抜いたときに、学生証を落としていたのだった。
「あ――ああ……えーと……ありがとうございます……」ニーアは、やってしまった、と思いながらおずおずと受け取った。
運転手は後部座席のドアを閉めると、行き先も聞かずにハンドルのレバーを下げて車を出した。エンジンが唸り始めた。車は橋の西詰の交差点でUターンし、もと来た道を走った。問答無用で学校に向かっているのだな、とニーアが思っていると、すぐにニーアが最初に乗車した地点が見えてきた。
「運転手さん――私たち、ここでいいです……降ります……」
「バカ言ってちゃいけない。こんなとこで降ろしたら、このあと君たちがどうなるかわかったもんじゃない。僕は大人として、君たちを最後まで安全に送り届ける責任がある」
運転手は降ろしてくれそうもなかった。タクシーは学校の北東の角の交差点で右折車線に入り、赤信号で止まった。右ウィンカーが点滅する音がカチカチと響いていた。正門まで連れて行かれるとわかった二人は、不安そうに顔を見合わせた。
「僕は君たちを送り届けるだけで、状況については口出ししないよ。口裏を合わせる必要があるんなら今のうちにやっときな」ルームミラー越しに二人の様子を見ていた運転手が言った。
二人はためらったが、運転手を信じて小声で話し合い始めた。二人は一緒に外出したということにし、遠くまで行き過ぎて門限までに戻れず、夕飯を食べてから徒歩で帰っていたら20時になってしまって、最後の最後で雨が降ってきたのでタクシーに乗ったというストーリーにすることで合意した。
まもなく車は正門に到着し、自動車用の入口に鼻先を突っ込んだ。運転手が窓を開けて守衛に声をかけた。
「こんばんは。おたくの生徒さんを拾いましてね! 行方のわからなくなってる子が二名おりませんか?」
守衛が無線で「見つかりました」というようなことを言っているのが聞こえた。窓が開いていると雨の降る音がいっそうよく聞こえた。少ししてから守衛は、運転手に玄関へと進むように促した。ガラガラの駐車場をタクシーは進み、左側を玄関前の歩道に横付けして停車した。
玄関には、すでに教官らしき人が立っていた。運転手がハンドル脇のレバーを上げて車を降り、教官に話しかけた。運転手が元気よく「こんばんは!」と言うのまでは聞こえたが、同時に運転手が運転席のドアを閉めたのでその後は聞こえなかった。教官は運転手と少し立ち話をしたあと、頭を下げて、何かを手渡しているのが見えた。運転手は一度断ったが、教官が譲らないので結局受け取ったようだった。運転手も軽く頭を下げると、まもなく左側後部座席のところにやってきてドアを開けた。先にアイリスが降り、次にニーアが降りようとしたとき、運転手はこっそり何かをニーアの手に握らせて小声で行った。
「先生がちょっと多めに下さったもんでね。君がくれた分は返すよ」
運転手とアイリスの向こうから教官が見ていたので、ニーアは小声で「あ……ありがとうございます」とだけ言ってそのまま車を降りた。玄関前の歩道には屋根があるので雨には濡れなかった。運転手が後部座席のドアを閉めるときに、二人は乗車への礼として「ありがとうございました」と言った。運転手は笑顔で二人に手を振りながら車を出すと、テールライトと行灯の光を残しながら正門へと去っていった。
「君たち、無事で良かった。君たちに連絡をしに行かせた子から、二人がどこにもいないって聞いて、ずっと心配してたんたよ。これから、女子寮の先生のところに行くから」
二人の後ろに立っていた教官が言った。あまり面識のない男性教官だった。教官に連れられて歩きながら、アイリスが観念したように口を開いた。
「先生、申し訳――」
「君たちがどんなに重大なことをしでかしたかは、あとでみっちり教えてもらえると思うから、謝罪はそこですればよろしい」気楽な言い方ではなかったが、二人を責めるような口調でもなかった。
しばらく廊下を歩くと、教官は女子寮のドアの一つで立ち止まり、ノックした。
「二人を連れてまいりました」
ドア越しに返事が聞こえ、二人は部屋の中に入れられた。
「ご苦労さまでした」中にいた厳しい表情の女性教官が言った。
「じゃ、私はこれで」
男性教官が立ち去った。入り口のドアがバタンと閉まった。
「さて、あなた方二人が無事であったことを、まずは嬉しく思っていると伝えておきましょう」
このあとに嬉しくない話がたくさん続くという宣告にしか聞こえなかったので、二人は余計に身構えた。
「ですが、あなた方が門限を破り、自らの安全を顧みない行動をしたことは悲しく思います。いったい何をしていたと言うのですか?」
二人は、タクシーの中で口裏を合わせた通りに話した。「それだけで二時間以上も遅刻したと言うのですか」としつこく追及されたが、一貫して、昼のうちに調子に乗って遠くに行き過ぎて、交通費をケチって最後まで乗り物に乗らなかったと主張した。雨に降られてタクシーに乗った話まで聞き終わると、教官はフンと鼻を鳴らして事情聴取を終了した。
「あなた方が、安全のための規則よりも交通費の節約を優先したことは非常に残念に思います。なにはともあれ、今回は無事で良かったです。もう遅いですから、早く入浴を済ませてお就寝みなさい」
「申し訳ございませんでした」アイリスが先に頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。先生、質問してもよろしいでしょうか」続いてニーアが頭を下げながら言った。
「何ですか、ニーア」
「私たちの、進路に、影響はありますでしょうか――」ニーアが、アイリスの安否の次に気になっていたことを聞いた。
「進路?」
「私たち――私たち、きっとこれが成績に不利に働くことはわかっています。それで、もし、進路を変えなければならないのでしたら、早めに対策しないと、と……」ニーアがしどろもどろと言った。
教官はまたフンと鼻を鳴らした。
「今回の件で、あなた方の今期の成績を減点せざるを得ないのは間違いありません」
教官は厳しい声だった。ニーアは結論がどこへ向かうのか恐れながら聞いていた。アイリスも不安そうな顔で聞いていた。
「しかし――幸いにも、あなた方二人は、これまですべての学期で優秀な成績を収めています。たとえ今回の一件について最大限の厳しい評価をしたとしても、あなた方の総合成績は今期の魔術師志望者たちの平均を大きく上回ることでしょう」
ニーアもアイリスも、予想を大きく覆す返答に驚き、声が出なかった。
「あなた方が過ちを繰り返さない限り、進路を心配する必要性はまったくといっていいほどありません」教官の口元がわずかに緩んでいるのがわかった。
ニーアとアイリスは安堵の表情を浮かべて部屋を出た。二人は一旦部屋に戻り、入浴の支度をし、すぐに浴場へと向かったが、この間はまだ何も喋らなかった。浴場に到着すると、もうほとんどの生徒が入浴を終えている時間だったため、脱衣所にも浴室にも誰もいなかった。湯に浸かると、今日の疲れがすべて溶け出していく感じがした。
「はぁ~、とりあえず私たちの将来には影響しないみたいでよかったわ」緊張がほぐれてきたニーアが切り出した。
「ほんとそれな~」アイリスは緊張が緩みきっていた。
「それで、アイリス、いったいあんな時間までどこ行ってたのよ」二人が再会してから続けざまに色々あったので、ニーアはまだこの話ができていなかった。
「え? あーっと、それは……まあ……ちょっと遠いところに行ってみたくなって……」アイリスは何かを言わないようにしているようだった。
「それで、遠くに行き過ぎちゃって、門限までに帰れなくなったのは本当……だからさっきの事情聴取での話は、フィクション半分、真実半分ってとこ」アイリスは具体的な行き先を言わないまま補足した。
ニーアはしばらくアイリスを睨んでから、諦めたように言った。
「まあ、私に言いたくないことがあるなら、べつに言わなくてもいいわよ。でも、もうあんな心配かけるのはやめてよね。あなたを見つけたときなんて、川なんか眺めてるもんだから、変なこと考えちゃったわよ」
「ああ、ごめん……進路のことも、私のことも……心配かけて、本当にごめん……」
アイリスに謝らせてしまったが、もとはといえば自分が口を利かなくなったせいだ。そのせいで、きっとアイリスは自分のいないところに行ってしまいたいと思ったのだ。それを思い出したニーアは、偉そうにアイリスを許すことなどできなかった。自分のほうが、先に謝らなくては……
そう思っていた矢先。アイリスが突然号泣を始めた。
「わた、わたしっ! ニーアが口を利かなくなるほど傷つけたばっかりなのにっ! ひっ……また迷惑かけてっ! ニーア、ごめんなさい……!」アイリスが両手で顔を覆いながら言った。
ニーアは慌てて浴槽の中を移動し、アイリスのもとに歩み寄った。泣いているアイリスに手が触れると、ニーアも涙が溢れて止まらなくなった。
「あなたが、謝らないで!……うっ……卒業したら離れ離れになるってわかったから、ほんとはそれまでにたくさんたくさん話したかったのよ……! だけど私、あんなこと言って、意地張って、本気で二度と話したくないと思われてるんじゃないかって、不安でたまらなかったわ……わぁぁぁぁぁぁぁっ!」
二人は浴槽内でぎこちなく抱き合って、とめどなく溢れる涙を、互いの肩に落としていた。
「アイリス、ほんとにほんとにごめんなさい。また、前みたいに話してくれる?」
無限かと思われた二人の涙がようやく枯れたとき、ニーアが言った。アイリスは、ニーアを抱きしめたまま肩をぽんぽんと叩いて「もちろん」の返事をした。
「私も、あんなときにからかってばかりいてごめん。あと今日のことも。許して、もらえるかな?」
ニーアはキスで応じた。涙でしょっぱくてたまらなかったが、二人はなかなか唇を離さなかった。
「今日のことを許すですって……今日は素敵な思い出ができたわ。あなたと一緒に川で見た景色、私一生忘れない」
アイリスがニコッと笑った。アイリスも、ニーアと見たあの景色を忘れることは一生ないだろうと思った。
脱衣所に戻り、二人は体を拭いていた。ニーアがふと横を見ると、アイリスの一糸まとわぬ姿が見えた。本当に美しいとニーアは思った。
「ん? なに見てんの?」アイリスが訊ねた。
「べっ、べつに。本当に立派なお胸をお持ちね、と思って眺めてただけよ」ニーアは事実とやや異なることを言った。
「へへーん、いいでしょー。また触りたいの?」
「ち、違うわよ。今までだってべつに、そういう意味で触ろうと思って触ったわけじゃないし……」
「じゃあ今夜も私が先に主導権を握っちゃおっかな~」
その言葉で気づいた。思い返してみれば、ニーアは毎回、(ちょっと指で胸をつつくことを除けば)先にいろいろ触られる羽目になっている。ここで引いたら、また主導権を握られる。なんだかそれは、負けた気がする。
「言ってくれたじゃない。そうはさせないわよ」
ニーアはアイリスの肩を掴んで、アイリスを自分の方に向けた。アイリスはタオルを片手に、ポカンと口を開けている。ニーアは構わず、その口にキスをした。
「もがっ……んむー!」アイリスが何か言っているような気がしたが、ニーアは無視した。
主導権を握るには、こうして奇襲を仕掛けるのが一番だとニーアは思ったのだ。唇を離すと、ニーアは木目調の床に自分のバスタオルを放り投げた。
「さあ……ここに座りなさい」
「ちょっ、待って、ニーア……まさか、ここで……?」
アイリスは顔を真っ赤にして、情けない声を出した。そう言いながらも、アイリスは従順にタオルの上に腰を下ろした。ニーアは主導権を握ったことを確信したが、ここからどうすればいいかよくわかっていなかった。とりあえずアイリスを押し倒したが、それ以上何もできなかった。
「……ん? どうしたの? もう終わり?」
この後どうすればいいんだろうという不安と、いつ人が来てもおかしくないという焦りにすっかり怖気づいたニーアは、何もできずに唇を震わせていた。
「きょ、きょうはこのくらいにしといてあげるわ……」ニーアは蚊の鳴くような声で言った。
「なんだニーア、やっぱり私が主導権を握ってあげなきゃダメなんじゃん」
「そっ、そういう問題じゃ……ああっ!」
「よっこらしょっと」
そう言うと、アイリスは器用にニーアと入れ替わり、ニーアをタオルの上に寝かせた。
「ア……アイリス……こんな体勢で、人が来たらどうするの……」
「おっぱじめた人が、なんか言ってますねえ」
結局、アイリスが主体となって裸のじゃれあいが始まった。主導権はずっとアイリスが握っていたが、アイリスの粋な計らいにより、最後はきっちりおあいこで終わった。
と、そのとき。誰かが今まさに脱衣所に入ってこようとしている気配がした。
「ったくあいつ、あんな量の補習させるとか……あれ? ニーアとアイリスじゃん。あなたたちも今頃お風呂?」
補習をしていて遅くなったらしい二人が、脱衣所に入ってきたとき――ニーアとアイリスは、光のような速さでタオルを片付けて、今しがた流した汗を洗い流すためにもう一度浴室へと向かうところだった。
二度目の入浴を終えて部屋に戻ると、ニーアはふと、明日が自分の誕生日であったことを思い出した。
「まさか誕生日にあんなスキンシップをプレゼントされるとは思わなかったわ」ニーアは自分が先に手を出したことを棚に上げて言った。
「あー……実は気づいてたよ。ニーア、誕生日おめでとう。はいこれ」
そう言うとアイリスは、きれいな包みをカバンから取り出してニーアに手渡した。包みを解いて小さな箱を開けてみると、綺麗な青色の髪飾りが入っていた。
「ほんとは、これがプレゼントのはずだったのよ? ニーア、髪、真っ白だし、映えるかなーっと思って……」アイリスが照れくさそうに言った。
ニーアはすべてを察した。今日アイリスが外出したのは、これを買うためだったのだ。もし今日も仲直りできていなかったら、明日これを自分に渡して、仲直りのきっかけにするつもりだったに違いない。自分の誕生日を覚えていてくれて、しかも自分と仲直りするためにあんなに長い時間プレゼントを探してくれていたのかと思うと、ニーアは嬉しさで、さっき枯らしたはずの涙がまたこみ上げてくるかと思った。
「こう?」
ニーアはさっそく髪飾りを着けてアイリスに見せた。
「ほら、思ったとおりだ! かわいいよ!」
ニーアは顔が熱くなるのを感じた。
「髪飾りが、とかいうオチじゃあないでしょうね?」本当は嬉しくてたまらなかったが、照れ隠しに愛想のないことを言ってしまった。
「そんなわけないよ。私の思いを受け取ってくれたニーアが、一番かわいいんだよ」アイリスにはニーアの照れ隠しが見え見えだったので、もっと照れさせようと思って歯の浮くような台詞を言った。
「もう! アイリスったら!」
ニーアは顔が燃えるような思いだった。たまらず髪飾りを箱に戻し、壁の方を向いて頭まで布団を被った。
「ありがと。大切にするわ。おやすみっ」
「おやすみー、ニーア」
二人は幸せな気持ちでいっぱいのまま眠りについた。




