友情
翌朝、今度はアイリスがニーアの腕の中で目覚め、叫び声を上げる番だった。
「うわぁぁああ!?」
その声でニーアも目を覚ました。
「にゃ、にゃによ……?」
しばらく見つめあって呆然としていたが、二人とも昨晩のことを思い出した。
「ア……アイリス、おめでとうね。あなたすぐ寝ちゃったみたいだから、聞こえてなかったかも……」
「あー……それは覚えてる。ありがとう……」
「なんで私の眠れない理由がわかったのか、私聞き損ねたんだけど」
「え? そりゃあ、私だってそれで眠れなかったからよ……それだけよ……」
そういうことか。あの唐突な展開の意味がわかった。
「なんだ。私が眠れないから続きしよって言ったくせに、ほんとは自分が眠れないから抱きついてきたんじゃない」
「そ、そうよ! それ『も』あったけど? 悪い?」アイリスは顔を真っ赤にしてニーアを睨んでいる。
「ぜーんぜん。うふふっ」アイリスの開き直り方がなんだか可笑しくて、ニーアはクスクス笑っていた。
「なによ……なにが可笑しいのよ……もう!」
そう言ったものの、普段あれだけ意地を張っていたニーアがくだらないことで笑っているのがまた可笑しくて、次第にアイリスも笑わずにはいられなくなってきた。
「ふふっ」
二人は見つめ合いながら、しばらく一緒に笑っていた。
「だけど、昨日の『おめでとう』は嘘じゃないんだからね」アイリスが一つだけ念押しした。
「わかってるわよ。ありがとう」
敵同士から一転して友達同士になった二人の会話は、見違えるようだった。
「アイリス、あなたこれ好きでしょ。私のも食べる?」
「えっいいの!? じゃあお返しにこれあげる」
「ありがと」
友人としての付き合いは今日始まったばかりだが、一応は知り合って二年以上、バディを組んで半年の間柄である。互いの性格や趣味嗜好に関する知識は――これまでただの一度も使うことはなかったが――ある程度備わっていた。
「へー。ニーア、意外と気が利いたりするんだ」
「べっ、べつにこれは……ただ、あなたが喜ぶかなと思ってしただけよ!」
「……だからやっぱり気が利いてるんじゃない」
ニーアは反射的に自分の親切を否定するような口ぶりをしたが、出てきた言葉は1ミリも否定できていなかった。
前期が終わったので、今日からは夏休み期間となる。帰省を予定している生徒も数多くいたが、ニーアとアイリスは実家が遠方なのと、実家では絶対に夏休み課題をやる気にならない自信があったので、毎年夏は帰省しなかった。
それに、二人とも今年は帰りたくない積極的な理由があった。昨日できたばかりの新しい友達と、夏休みを満喫したかったからだ。二人はさっそく一緒に外出することを決め、裏門を出た。
「あっつ~」国道を渡る横断歩道で信号待ちをしていると、アイリスが言った。
今日は特別晴れていて、コンクリートの上はすでに暑くてたまらなかった。二人の脇にある街路樹から、蝉がミンミンと鳴くのが聞こえた。信号が青に変わって国道の北側に渡ると、二人はなるべく涼しそうな店をいくつか回って午前中を過ごした。
昼になると、ニーアとアイリスは例のカフェに向かった。今日も多くの人が訪れていたが、すぐに店内に入ることができた。二人がおすすめスイーツを頼むと、上品なピンク色の苺ケーキが出てきた。
「うわぁ、おいしそう。いっただきま~す」アイリスが感嘆した。
「いただきます」ニーアも目を輝かせながら言った。
アイリスが先に一口頬張り、幸せそうな表情をした。ニーアも一口切って頬張ると、やはり口の中が幸せで一杯になった。あの時と同じ連れと、同じ場所で、(品物は違えど)同じメニューを楽しんでいるのに、幸せが二倍にも三倍にも感じられた。美味しいものはいつだって美味しいが、やっぱり友達と一緒に食べるほうが美味しいに決まっているのだ。
午後も二人は本屋以外のいろいろな店を一緒に回った。二人は、意地でも一人で歩き回っていたこの間までとは比べ物にならないほど楽しい週末を過ごした。
その日の夜、部屋に戻ると、二段ベッドが新しくなっていた。ようやくアイリスの寝床が復旧したのだ。入浴を済ませると、二人はそれぞれ自分のベッドに入った。
「良かったわね、アイリス。急に一人になって寂しくない?」
「そんなわけないじゃない。寂しいのはニーアの方でしょ。上で寝てもいいのよ?」
「勝手に言ってなさい。おやすみ」
ニーアは一旦そう言ったが、思い直した。
「あっ待って。やっぱ行く」
ニーアは初めて、上段へと続くはしごを登った。
「やっぱり、二段ベッドの上って、憧れじゃない?」
「ニーア、あのときはどっちでもいいって言ってたくせに、本当は上が良かったんじゃん」
「うるさい」ニーアが照れた。
ベッドを選んだときは当然敵対していたので、どっちでもいいと強がって下を選んだのだった。アイリスだって上がいいに違いないと思ったからだ。
それから数日なんだかんだと理由をつけて一緒に寝ていたので、いつしか一緒に寝るのをやめるきっかけを掴めなくなっていた。ここまでくると、果たして二段ベッドを新しくしてもらったのは本当に意味のあることだったのか甚だ怪しい。さすがに片方しか使わないのではもったいないので、毎日交互に上と下を使うことにした。一応は上がアイリス、下がニーアのベッドなので、上の日はアイリスが奥で、下の日はニーアが奥で寝た。
そうして毎晩過ごしていたある日。この日は下で寝る日だった。
「じゃ、おやすみー、ニーア」
「おやすみ、アイリス」
向き合った状態で挨拶を交わすとアイリスが先に目を閉じた。ニーアも目を閉じようかと思ったが、ちょっとした衝動がそれを邪魔した。
――ぷに。ニーアは人差し指でアイリスの頬を突いた。
「ん? なに?」
「えっと……なんか柔らかそうだなって思って」
「そんなのお互い様でしょ」
アイリスもニーアの頬をぷにっと突いた。
「私は……こんな触りがいのあるほっぺしてないわよ!」
「いーや、ニーアのほうがぷにぷにしてるんだから! ほら!」
互いの頬をつつきながら、意味のわからない言い争いをしていた。
「あなたは、こっちの方だってぷにぷにしてるじゃない!」
頬では決着がつかないので、ニーアはフィールドを変えようとしてアイリスの胸をつついた。
「ひゃっ!?」
アイリスは両手で胸を押さえた。一瞬は目を見開いてニーアの方を見ていたが、すぐに寝返りを打って背を向けてしまった。
「ア……アイリス?」
アイリスの表情がわからないので、ニーアが慎重に聞いた。
「あー……嫌だったかな? ごめん……」
「い、いや、大丈夫……気にしないで……」
アイリスは口ではそう言ったが、その晩は二度とニーアの方を向いてはくれなかった。ニーアは申し訳ないやら困惑するやらでひどくテンションが下がって、それ以上は何も言わずに眠りについた。
朝起きると、目の前にアイリスがいない。アイリスはすでに起き出して、畳スペースで柄にもなく本を読んでいた。
「あ……アイリス、起きてたの」
「あー……ニーア、おはよう」
やはりアイリスの口調はいつもと違った。少なくとも、昔のような敵意たっぷりの言い方ではなかったが、近頃の親しみを込めた言い方でもなく、どこかぎこちない言い方だった。
それからもニーアは何度かアイリスと話したが、アイリスはその日ずっとぎこちない喋り方をしていた。時折、アイリスは上の空で話しているようにも見えた。昨日のことが、そんなに気になってるんだと思うと、ニーアはひどく申し訳ない気持ちになった。ほんとに、ちょっとしたスキンシップのつもりだったのに――こんなことになるとは、思いもよらなかった。
夜、部屋に戻ると、アイリスはさっさと上のベッドに入った。壁の方を向いてはいたが、一応ニーアのスペースを空けてくれているようだったので、いつもの慣習に倣ってニーアも上のベッドに入った。
「アイリス、そんなに気にするなんて……本当にごめんなさいね」
「違うのよ、違うの! ほんとに、大丈夫だから……」
「でも、あなた今日ずっと気にしてる様子だったじゃない」
「違うの……少なくともニーアのことは責めてないから、ほんとに安心して」
責めていないと言われて少し安心したが、それだけでは喜べなかった。ニーアの望みは、許してもらうことではなく、いつものようにアイリスと話すことなのだから。
「私は、私が責められてるかどうかよりも、アイリスのほうが心配なのよ。お願いだから、悩んでることがあるなら言って」
アイリスは、体を捻ってニーアの方を見た。そして、少し間をおいてから、ニーアに訊ねた。
「私もよくわからないんだけど……笑わないで聞いてくれる?」
ニーアは大きく頷いた。アイリスはまだ少し迷ってる様子だったが、寝返りを打って体全体をニーアに向けた。
「昨日ね……あなたに、その……触られたとき……ちょっと……私にも予想外の感覚だったの」
触った張本人であるニーアは、少しきまりの悪い顔をしながら静かに聞いていた。
「普段なら、もちろんあの調子であなたにやり返したりしたはずよ。でも、あのときの感覚は――嫌な感覚ではなかったわ、少なくとも――だけど、私はあの調子のままではいられなかった」
「それは――ざっくり言うとどんな感じだったの?」
「うーん……なんというか……驚いたというか……ドキッとしたというか……」
ニーアは、できれば当たっていてほしくない答えを、なんとなく察し始めていた。
「それって……男の人には、感じたことある?」ニーアが聞いた。
「あー……そういえば、近いものを感じたこと、あったかな……中学生のとき……でもそれってさ……」
「うん……」
アイリスもその先の答えを信じたくないに違いない。私がドン引きすると思ってるだろうから。でも私自身はどう思ってるのだろう? 予想が当たってるならかなりびっくりすると思うけど、これまた驚いたことに、嫌悪を感じることはないような気がする。そんなことを考えながら、ニーアは言葉を続けた。
「それって……好きな人にドキッとした感覚だよね?」
「……そうかもしれない」アイリスが泣きそうな顔で認めた。
「でもわかってる! わかってるよ! ニーアは女の子だし、なにかがおかしいって……私、男性にときめいたことがあるってさっき言ったよね? だから、元からそんなつもりがあったわけじゃないんだよ……」
「わかってるわよ」
アイリスが混乱してきたので、ニーアは落ち着かせようと思ってアイリスの髪を撫でた。アイリスはまたニーアの感触に反応して、小さく「ヒッ」という声を出した。
「私は、仮にアイリスにその気があったとしても、べつに嫌いになったりはしなかったわ」
本当にそうだったのかは自信がなかったが、アイリスを安心させたくて言った。少なくとも、今アイリスに告白をされても、嫌な気持ちにならないということだけは保証できた。
「あっ、私が元から女性が好きっていう意味じゃないけどね。あなたと同じで、男の人を好きになったことはあるし」
「そう……」
アイリスは、もう細かいことはどうでもいいという調子だった。もう考えられる解釈は一通りしかないのに、それをなかなか認めないせいで、いつまでも気持ちの整理がつかなくて疲れきっていた。
「アイリス……私のこと、好きなの?」
「……そうなのかもしれない」
「私も好きよ、アイリス」
ニーアはアイリスを抱き寄せた。
「だから、アイリスも好きって言って」
アイリスはもう顔を真っ赤にしていたが、少し間をおいて言った。
「ニーア……好き……」
「え? よく聞こえなかった」
アイリスは蚊の鳴くような声だった。何を言っているのかは確定していたので(ニーアが指定したのだから当然だ)、本当は聞き返さなくてもよかったが、やはり直接その言葉を聞きたかったのであえて聞き返した。
「好き……」
「ごめん、もう一度言って」
聞こえないのは本当で、からかうつもりは一切なかったが、アイリスがついに爆発した。
「私はニーアが好きって言ってるでしょ! 何度も言わせないでよ! バカ!」
そう言って、アイリスはニーアの唇に自分の唇を重ね、これでもかというほど抱きしめた。
「んっ……」ニーアは不意を突かれた。
数秒経って唇を離すと、アイリスはもうわけがわからなくて、シクシクと泣き出してしまった。
「はいはい、ごめんね、アイリス」
そして、ひとまずアイリスが泣き止むのを待った。
「でも不思議だよね、私たち二人とも女性を好きになったことはなかったのに」
泣き止んで冷静になってくると、アイリスが率直な疑問を述べた。
「そうね……それは、順番が『逆』だったからじゃない?」
「どういうこと?」
「えっと、その……女性が好きだからその人に惚れたんじゃなくて、惚れた人がたまたま女性だったっていうか……」
「うーん……そういうこともあるのかなあ」
「私も、あなたの告白を受け入れられたのには驚いたわ」
ニーア自身も、この疑問の答えはよくわかっていなかった。
「ま、とにかく、改めてよろしくね、アイリス」ニーアが微笑んだ。
「うん。よろしく、ニーア」アイリスも微笑み返した。
二人はすでにずいぶんと夜更かしをしてしまっていたので、いつまでもわからないことを考えるのはやめて大人しく寝ることにした。