転機
意外にも目立ったトラブルはなく月日が流れていった。ところが、早くも前期の終わりが来週に迫っていたある晩、ちょっとした事故が起きた。ニーアが眠っていると、静寂を破る「うわぁっ!」という声に続いてガランガシャン、ドシンという音が聞こえた。見ると、ベッドの脇にアイリスがいた。はしごのようなものの上に座っており、パジャマ姿で腰を抑えている。
「アイリス? どうしたの」ニーアが寝ぼけ眼で言った。
「上から……落ちた……ムニャムニャ」アイリスも寝ぼけていた。
「そう。危ないからここで寝なさい……」
「ん……わかった……」
寝ぼけ眼のアイリスは、従順にもそのままニーアと同じベッドに入って眠った。
翌朝、先に目を覚ましたニーアが叫び声を上げたのは言うまでもない。驚いて目を覚ましたアイリスも「ひぃーっ!?」と情けない声を発した。
「なんであなたがここで寝てるのよ!」ニーアが喚いた。
「知らないわよ! 私だって――」
そう言いながらアイリスは後ずさりするように下段のベッドを脱出し、床に落ちている何かに触れるのを感じた。上段の手すりだ。
「思い出した! 手すりが壊れて私が落ちたら、あんたがそこで寝ろって言ったんじゃない!」
「え、ええ!?」
ニーアも徐々に思い出してきた。そうだ、今日見た夢の一つに、そんなのがあったかもしれない。いや、夢ではなく、現実の出来事だったのだが。昨晩、はしごのように見えたものは上段の手すりだったのだ。
「そ、そうよ! 嫌なら断りゃよかったじゃない! そう言われてのこのこ入ってきたのはあなたでしょ!」
「上が壊れてるんだからしょうがないじゃない! それに、嫌がってるのはあなたの方でしょ!」
上段に登るはしごそのものは、畳スペースに向かって倒れていた。
「べつに、私だって嫌がってなんかないわよ」
「……」
「……」
妙に気まずい沈黙が流れた。ニーアは、直前の言葉が好意的に解釈できてしまうことに気づき、慌てて付け足した。
「そんな幼稚な理由でバディを見捨てるほど未熟じゃないって意味よ! さっさと朝食に行きましょう」
「今日からは、飛び乗ってでも上で寝るから」
その晩、部屋に入るなりアイリスが言った。
「やめてよ。あなたが落ちてくるたびに起こされるのは嫌よ」ニーアが言った。
なんと寝具の予備はないそうで、新品が届くまでの一週間、なんとかアイリスの寝床を確保する必要があるのだ。
「じゃ、畳で寝る」
「バカ言わないで。べつに文句言わないから、私のベッドで寝ればいいのよ」
アイリスはキッと何か言い返したげな視線を寄越したが、さすがに畳で寝るのは勘弁だったようだ。
「あそ。じゃあお言葉に甘えて」
慇懃無礼な返事をし、ニーアに続いて下段のベッドに入ると、手すりのほうを向いてすぐに眠りについた。ニーアも壁側の手すりの方を向いた。
ニーアはすぐには眠れず、ぼんやりといろいろなことを考えていた。十五分くらい経ったころ、背後でモゾモゾと動く音がした。アイリスが寝返りを打ったのだ。ニーアも寝返りを打って目を開けると、アイリスの寝顔がそこにあった。
こうして眺めてる分にはまったく無害そうなのにな、とニーアは思った。一年生の演習での出会いで敵意を抱いてしまって以来、彼女がほんとうに嫌いなのかどうかについて考えたこともなかった。可能な限り非友好的な態度を貫くことは、もはや二人の間での「習慣」となっていたのである。もし、違う出会い方をしていたら――初対面の印象があんなじゃなければ――二人の関係は、また違ったものだったのだろうか。想像もつかない。
そんなことを考えているうちに、ようやく睡魔が襲ってきた。ニーアは深い眠りについた。
二人が一緒に寝るようになって六日目。とうとう前期が終わった。学期の終わりには成績発表がある。そして成績表が配られる前に、優秀な成績を収めた生徒に対する表彰がある。一年生からずっと表彰は一人単位だったが、三年生ではバディ単位となる。
ニーアもアイリスももともと成績がよく、上位一桁台の成績を取り続けたが、毎年惜しくも表彰台とは縁がなかった。そのためいつも観客のつもりで参加していたのだが、心のどこかで期待をしている自分に気づいてもいた。
「第三位、バディNo.28、エリー、ミランダ。第二位、バディNo.13、エリック、デイビッド」
女性教官が読み上げている。あー、やっぱり今年も観客だな、と二人の緊張が緩んだそのとき。
「第一位、バディNo.47、ニーア、アイリス」
ニーアが「えっ、うそ!?」アイリスが「やったあ!」といい、二人は思わず抱き合ってぴょんぴょんと飛び跳ねた。二人がぴょんぴょんをやめたとき、二人はまだ笑顔だったが、目の前にいるのが誰だったのかを思い出すと、気まずさと喜びが入り混じった微妙な笑顔に変わった。
「あー、え、えーと、ニーア……こ、これは……」
「え、ええ、わかっているわ、アイリス……私、その……」
「名前を呼ばれた生徒は表彰台へいらっしゃい」
ニーアとアイリスは必死に言い訳を考えていたが、教官に呼ばれたのでとりあえずは何も言わずに済んだ。
成績表を受け取って解散すると、二人はいつものように一緒に行動したが、お互い無言だった。いつもの無愛想な態度によるものではなく、先ほどの迂闊なハグによる気まずさが原因であった。幸か不幸か、二人は同時に相手を抱きしめたので、どちらかが一方的にからかわれる心配はなかったものの、あんな姿を見せてしまった以上、いつもの調子に戻るきっかけが二人とも見つからないままでいた。
結局夜までどちらからも話しかけることはなかった。アイリスの寝床の復旧は明日なので、今日もまた同じベッドで寝ざるをえなかった。今日も互いにそっぽを向いていたが、ニーアはなんだか喜びの消化不良で眠れなかった。名前を呼ばれた直後の一番テンションが高いときに、思う存分はしゃげなかったのだから当然だ。
しばらくするとニーアの背後でアイリスが寝返りを打つ気配がした。なんとなくニーアも寝返りを打ち、目を開けると――なんとアイリスも目を開けていた。二人は目が合ってしまったことに気づいたが、今更目を閉じて寝たふりをすることも不可能だったので、気まずい表情をしながら互いに目を逸らした。
「まだ寝てなかったの?」仕方なくニーアが聞いた。
「お互い様よ」アイリスが答えた。
「そうね」ニーアが適当に返事をした。
「今日はあんな驚くべきことが起こったものね」もっとはしゃぎたかったなんて口が裂けても言えないので、ニーアは驚きのあまり眠れなくなったことにしようと思った。
「それは――それは、もちろん私たちのバディが一位になったことでしょうね?」アイリスが確認した。
「ま、まあ、それもだけど……あなたがあんなふうに抱きついてきたことだって……」
「それはあんただって同じじゃない! ふん!」
そう言ってアイリスはまたニーアに背を向けた。
「……嫌だった?」
顔だけを少しニーアの方に向けながら、アイリスが聞いた。
「べつに。喜んでた最中に驚かされて、ちょっと消化不良になっただけよ」
ニーアが答えた。厳密には、驚かされた原因はアイリスが抱きついてきたことの他に、自分がアイリスに抱きついたということもあったが。
「あなたは嫌だった?」
「そんなことないわよ」アイリスがきっぱりと言った。
少し間をおいてから、アイリスはもう一度ニーアの方に振り返り、言葉を続けた。
「あなた、あのとき喜びきれなかったからモヤモヤして眠れないんでしょ」
「え、ええ――? そう、だけど……」
言い当てられてニーアは面食らった。確かにさっき消化不良とは言ったが、今まで起きている原因がそれだとは一言も言っていない。
「それなら、ここで続きしましょ。さっ」
そう言って、アイリスはニーアを抱きしめた。
「ニーア、一位おめでとう」あまり感情のこもっていない言い方だったが、アイリスが祝った。
「えっ……あっ、あの……」
嫌な気持ちは一切なかったが、あまりにも唐突な展開に、ニーアは初めて抱きしめられたときよりも困惑して固まっていた。
しばらくして身動きがとれるようになると、ニーアもアイリスを抱きしめ返し、呟いた。
「アイリスも、おめでとう」
発表直後の気持ちが蘇ってきた。ニーアは喜びに任せてアイリスを抱きしめた。ニーアの興奮が、ようやく本当に落ち着くと、一時間遅れの睡魔が迫り来るのを感じた。眠りにつく前に、ニーアは気になっていたことをアイリスに聞いた。
「ありがとう、やっと眠れそう。でもなんでわかったの?」
返事がない。アイリスはとっくに熟睡していた。
「なによ……あほらし」
一気に睡魔が襲ってきて、ニーアも眠りについた。