りんご、美味し!
その日から、一日に一回外に出ては念動力の制御を行う日々が始まった。
娯楽というものから切り離された生活においては気晴らしになったし、なによりミズキには目的があった。
マツリさん、番匠って名字で、あのとき助けてもらった。あの人を助けたい。俺の出番が来るかはまだ分からないけど。やるに越したことはない。
部屋にいる間は、置かれている参考書の問題を解いたり、自己流の筋力トレーニングに励んだ。
ミズキの消化器や心肺機能の弱さは、この部屋に来てからすっかり解消されてしまっていた。まさか臓器にまでウイルスが浸潤したのかとミズキは震えたが、慣れてしまえば体が強くなっただけだと思えた。
体が強くなったなら、鍛えることも出来る。今までは数回の腕立てで息が上がっていたところをいくらでもこなせるようになった。もちろんやっているうちに疲れはするのだが、短時間休めばまた元通りになる。
体力の回復も鍛えた筋繊維の修復も常人と比べると異常なほどのスピードだったが、ミズキは気にしなかった。常人の水準に疎かったということもあるが、単純に、楽しかったからそれほど気にもしなかったのだった。
そういう日が何日か続いた。今日もインターホンが鳴り、来客を知らせてくる。ミズキは慣れたもので、すぐに扉まで出向いた。
「はい、すぐに行きます」
内側からロックを外し、どたばたと出ていく。二人に出迎えられ、トレーニングルームに向かっていった。
部屋の中に入ると、須藤が一直線にロッカーへと向かう。その間、衣笠がミズキに話しかけてきた。
「なあ、立花くん」
「はい、なんでしょう」
「いつもあの部屋に一人で寂しくはないか?」
ミズキはこんな出し抜けに聞かれるとは思わなかったのでなんなんだと思ったが、返答はした。
「まあ、そうっすね。メールとか電話もやっちゃだめだって言われてるんで、ほんとは家族とかどうしてるのか聞きたいんですけど」
「なに! けちくさい連中なんだな、私たちへの支給は渋るし、ろくなことをしないんだな、まったくもう」
癖毛をピコピコ動かして怒る衣笠に、ミズキは「ははあ」となんとでもとれる返事をした。女性慣れしていないミズキは衣笠との応対を苦手としていたが、どうもこの女は自分の不慣れとは別のところで妙なんじゃなかろうか、という仮説が生まれそうになっていた。
須藤が二人の前にリングとリボンを浮かべる。二人はぎょっとして須藤の方に注目した。
「はい。おしゃべりはそのあたりにしておいてください。今日の課題はこれです」
須藤が説明を始めた。リボンを円錐形にくるくると動かしている。当たり前のように、手を使ってはいない。
「なんでもいいんですが、これらのリングを繋いでみてください。形状は構わないので、順番もいいですから」
ミズキは頷き、自分の内側から念動を走らせる。
念動。第三の手。あるいは第三の足。
四肢の他に身の内側から発生する自分を代弁する感覚器官。
ミズキの中にあるのは、何本かの細い細い腕のイメージだ。常人には知覚できないそれらを、リングとリボンに伝わせる。ミズキが「手」を伸ばしたのを確認すると、須藤はリングを支える自らの「手」を離した。
ミズキはリングを五輪の形に並べ、リボンを通し始めた。通すだけでは飽きたらず、端は蝶結びにしている。衣笠が感心したのか前髪部分の逆毛をしきりに動かしている。
細かい動きは必要とされるが、ミズキにとっては、林檎よりはよほど扱いやすかった。林檎は「胴体」たる幹から離されて時間が経ってはいるものの、いちおう生きてはいる。生きているものを操るのは難しい。生きていれば念動が伴う。念動に干渉するのは難しい。そういうことだった。
マツリもミズキの念動に曝されはしたが、直接ダメージを負ったのは防護服だけだ。念動自体は首筋を撫でるにとどまった。その念動にミズキの血液が含まれていたから大事になったわけだが、ただ念動がかすっただけなら擦り傷すらつかなかっただろう。
ミズキは林檎を動かすことで、生き物に念動で触れる感覚を身につけた。その後林檎に血液を垂らし、あっと言う間に林檎が崩れ落ちるのを見た。自分は「これ」をどうにかしなければならないのか。ミズキは頭が痛くなる思いだったが、ともかく練習は続けた。
ミズキはリングをタワーのように重ねてみるなど、無機物の扱い方は格段に向上していた。須藤も腕を組みながら笑っていたが、思いついたように持参した鞄をあさり始めた。
「そういえば、差し入れを持ってきたんです。あんまり根を詰めすぎるのもよくないですから」
取り出したのは市販のスポーツ飲料だった。ミズキは飲んだ後は俺がゴミに出せばいいんだよな? などと算段を立てつつ、「手」を伸ばした。
「すいません、ありがたくいただきます」
と、念動で引き寄せて手に取った。そして気づく。
ちょっと待て。いくらなんでも差し入れぐらいは自分の手で取るもんだろ。
「あ。ああ、いやあ、すんません。わざとじゃないんですけど、油断したっていうか、失礼しました」
須藤にぺこりと頭を下げ反省の意を示す。
須藤は「構いませんが」と言ってなにもなくなった自分の手元を見ている。衣笠は「おお」と声を漏らした。
「あれぐらい力まずに使えるということだろ。たった二週間でここまでやれるようになるとは大したものじゃないか」
ほめられたものの、ミズキは素直に受けられなかった。
「いや、ただの紐なら出来るかもしれないですけど。肝心の毒を抑えるっていうのがなかなか進んでないですから。こないだ、蜜柑が五個も六個もだめになっちゃったし」
「七個目は元に戻せたじゃないか」
「いやあ……」
須藤は口に手を寄せ笑う。
「ふふ、素直に受け取ったらいいと思いますよ。事実、きっかけがどうであれあなたには才能が芽生えたようですから。もしかしたら、僕たちを抜いてしまうかもしれないぐらいの、ね」
笑う須藤に、ミズキはそんなバカな、と言いたげに胡散臭そうな顔をした。
「それはないでしょう。だって、俺、タカツキって人にこの間通信で聞いたんですけど。あなたたちってとんでもなく偉い人たちなんですよね。確か、ハイクラスっていう、この支部じゃ一番上の位置にいる人たちだって聞かされました」
須藤と衣笠は、そろって手を横に振った。
「そんなことを言っていたんですか、タカツキさん。高位だからって偉いというわけではないんですけどね」
「そうだな。偉くはないさ。立場としてはバイトなんだから」
「そうですよ」
そう言われても腑に落ちないミズキは、「ええ?」と説明を要求した。
「まあ、分かりませんよね。まず、僕たちは職員としての階級があるんです、正規雇用、非正規、正規の中でも幹部職や平職員、部門別で分かれています」
「それとは別に、超能力者としての階級があるんだ。低位、中位、高位、特位、という風にな。ロー、ミドル、ハイ、と略して呼ぶ方が多いかもしれん。ロークラス、なんて風にクラスをくっつける奴もいるな」
ミズキは小さく手を上げる。衣笠が顔を一回上げ下げして反応した。
「なんだ?」
「特位って人たちには呼び名はないんですか」
「一応あるな。エクストラ、範囲外、例外、そんなものだ。要するに、常識的な考えのうちに入らない人たちだ。あの人たちは三都市から出られないからな、私たちじゃ会う機会もないだろう。だからあんまり考えなくていいぞ」
「はあ」
会う機会もない、というのはこんな地方都市に来ることはまずない、という意味だった。特級の人間は三都市の治安維持を第一に行動している。地方でなにがあろうとそんな木っ端の事件まで介入することはありえない人種であった。
「言っててイヤになってきたな。ええいともかく、超能力が関係ないところでは、私と須藤の立場はバイトだ。ときどき来て手伝う程度だし、賃金も小遣い程度。偉いかどうかで言ったら、正規の職員じゃないんだからそんなに偉くはない。そんなところだ」
「へえ」と気の抜けたような返事を返しつつ、ミズキはリボンを円錐状にくるりくるりと回していた。