異世界―清々しい朝―
「ホクトー様、おはようございます」
「はい、エーヴィンさんもおはようございます」
俺こと北桐荒祢は今、ベッドから起きて朝の太陽を浴びながらエーヴィンさんの挨拶を聞いている。
清々しい朝だ。
窓の向こう、城壁に囲まれた箱庭の空には青しかない。欠片も雲が存在しないような空は俺の気分を映し出すようだ。
少なくとも昨日や一昨日の朝とはまるで違う。生まれ変わったような気すらしてくる。
新世界、……へへっ、まさにそれだな。
にやけそうになるのを堪えながら、エーヴィンさんの方へと振り返り机に置かれた謎の物体へと視線をずらす。
容器の中にはスープなのか、淡い黄金色には野菜がたくさん散りばめられている。
これだけなら美味しそうだが、問題は別にある。
「……何か問題でも」
「…………大きい、です」
バケツ並みの容器に並々と注がれた化け物スープ、これが今日の朝飯か。
気が遠く……なってきた……
▼▼▼▼▼
「げっふぅ…」
たぷたぷなお腹の自分を褒めてやりたくなる。野菜は表面に浮いているだけだったので、野菜自体はたいしたことがなかったが、スープの量が桁違いだ。例えるなら、カレーの大鍋にお椀一杯分のご飯をぶち込んで食べるぐらいバランスが悪かった。
だからといって大鍋に見合う量のご飯を入れられたら翌日からカレーリゾットを食う羽目になる訳だが。
それに味もかなりの薄味だった。
まぁ、濃い味だったら今頃俺の味覚は破壊されていたかもしれない。
「……次からは量も気をつけます。申し訳ありませんでした」
「うん……お願いします」
流石に昼もこれだとお腹が破裂する。
今度からは気を付けてもらおう。
「行きましょうか」
「げっふ、……行きましょう」
先導するエーヴィンさんをアヒルの子供のように追いかける。
何せこの城はでかい、でかい上に地図も無いのだから、彼女みたいに詳しい人がいないと迷うのだ。
足を動かすと、げっぷが漏れだし腹がちゃぽちゃぽと鳴る。
想像以上に疲れた。食事で疲れるのは久々な気がする。
「おっ、種馬じゃねぇか」
「えふぅ?」
聞き覚えのない女性の声、エーヴィンさんを挟んだ向こう側に黒っぽい肌の人がいる。
露出の激しい服装に何かを背負っている。血が巡っているのか、ふるふる蠢いているのを見る限りは身体の一部か。
確か……名前は……
「何だよその変な声はよぉ、……まぁいいわ。直接話すんのはまだだったな。取り敢えずアスル様とでも呼んでくれよ」
「は、はい」
やる気のなさそうな声のアスル様とやらは長い指で髪を弄っている。
何となくだが苦手な雰囲気だ。
エーヴィンさんも何故か頭を下げないものだし、俺も早々と立ち去った方がいいのかもしれない。
そんな彼女の横を通り抜ける、
「うひぇ!?」
曲げた足に何かが当たり、世界が段々と傾いていく。
何かに引っ掛かったのか。
それを確認する時間はない。
徐々に近寄る廊下のカーペットに思わず目を瞑る。
「おっとぉ、大丈夫かぁ?」
彼女のネットリと濡れた声が至近距離から降り注ぎ、背筋に微弱な電流が走ったような感覚に陥る。
背中から回された腕が俺がこけるのを阻止したのか、女性らしい柔らかな感触が背中を覆う。
起き上がらせようとしているのか、回された腕の力はより強いものへと変化していく。
(うおぅ……)
強くなる感触にドキドキしながらも、後ろへ振り返ろうと
「これ、やるよ。俺の部屋の鍵、用があるなら来いよな」
「ひぇ」
耳元で囁かれる淫靡な響きの声。服の首元に突っ込まれた冷たい何かに思わず上擦った声が漏れる。
振り返るように顔を向けるが、既に離れてこちらに手を振りながら去っていく。
流すような色のある目と赤い唇からは何とも言えないエロスが漂っていた。
……行ってみたい気もするし、正直言えば行きたいが、エーヴィンさんの目があるし、あのエスターニャ様の言うことを聞くのも癪である。
沈黙のエーヴィンさんに行きましょうとだけ言いその場を後に……
「あっ、おはようアラネ! 昨日は遅くに行って本当にごめんね」
「!? あ、あぁスオウさ……スオウもおはようございます!」
「あはは……、言葉がぐちゃぐちゃだね」
そうは言われても、緊張してしまうのだから仕方がない。
苦笑いを浮かべるスオウ。さらさらの髪を撫でながらそんな顔をされると胸にくる。
やっぱり時代は肉食系よりも清楚系なのだ。
日本人なら日本人っぽい娘を選ぶのが自然ではないか、むしろ摂理である。
冷静に考えれば、そもそも足を引っ掛けてきたのはあの人の仕業だろうし、何か種馬だと貶められた気がする。
流石スオウ、俺に掛けられた色欲という呪いをあっさりと解除してくれたぜ。
「呼び捨てでいいとは言ったけど、別に敬語なんて使わなくてもいいんだよ?」
「えっ、はい、……うん」
敬語を抜いたら俺の阿呆さが露見するではないか。
そんなことを思いつつも彼女と向かい合う。
しかし、本当に俺の好みを地で行くような娘だ。
日本にいたらきっと高嶺の花になっていただろう。
「ホクトー様、時間も時間ですしお急ぎになられた方がよいかと」
「あっ、そうなんだ。じゃあまたね!」
「あ、ああ、さようならです!」
「……」
要努力というやつか、ジト目のスオウを見送る。
クルリと向きを変えた身体は綺麗な黒髪を靡かせながら、どこか凛とした彼女
それにしても、背中だけでも彼女の可愛さがヒシヒシと伝わってくる。
「……ホクトー様、お手伝いしましょうか」
エーヴィンさんはこちらに振り返りはせず、そう言ってくる。
お手伝い、何だろう。代わりにこの後の鍛錬でも受けてくれるというのだろうか。
「お手伝い……ですか? ていうか、何の」
「スオウ様とのことです」
……バレていた、か。
頬が熱くなってきた。
しかし、そこまで分かりやすかったか。
「私で練習してみてはいかがでしょうか。わざわざ敬語を使う必要はありませんし、名前も呼び捨てで結構ですよ」
「うーん、いいんですか?」
「えぇ、私のことなどお気遣いなく。どうぞ好きに呼んでください」
エーヴィンさんのご厚意に甘える形となるが、しかし、好きな娘のために別の娘で練習するなんてまるでロクデナシのようだ。それに今までさん付けの人を呼び捨てとなると、慣れないものがある。
いいのか、いいのだろうか、自問自答するが、答えは見えず。
静かにこちらを見据える彼女に答えるべく、口を動かす。
「分かりま…ったよ。エーヴィン」
「……はい」
…………うん。