第七集 「袁優華」
香南より春の装いはその余韻すら完全に消え去り、後には重々しい雲の棚引く合間に蒼天の覗く夏が続く。その日、蒼天より吹き下ろす風に煽られて梅林は青々と揺れていた。
完全に花の落ち、翠の犇めく梅林の合間を縫い、下男たちの巧みな采配で天幕が渡される。天幕で仕切られたこじんまりとした一角に卓と椅子が運ばれ、やがては酒壺と料理までもが運び込まれるに至り、梅林の真ん中で始まっている準備が、ごく身内だけの饗応のそれであることが察せられた。
梅林の外れ、青々と枝を広げる梨の木の下に在って、準備の一部始終を見守る影がひとつ。準備に勤しむ下人の環の中から歩み寄って来た中年の女性が影に向かい恭しく一礼する。影は柳を思わせる、たおやかな細身を有していた。
「お嬢様、準備一切調いましてございます」
「御苦労さま。給仕に必要な者だけを残し、後は下がらせてね」
「畏まりました」
声の若い響きに似合わず、早熟な感性を思わせる落ち着いた口調であった。下女頭が再び影に一礼し、後退りしつつ梅林の方向へと戻って行く。それを見届けたところで、人影は木陰から足早に歩を進めた。木陰の外、外見から一切の虚飾を窺わせない、簡素だが端正な身形の女性が梅林に接する邸へと向かう。
娘であった。背丈の高さが目立つきらいがあることを除けば、大抵の男性の関心を惹くであろう腰の括れ具合。ただ、収まりの悪さが目立つ前髪が歩く度に揺れて片方の目元を隠している。前髪の下から覗く、眠たげな目付きをした瞳を他者が気にすることがなければ、娘は美人と呼ばれるに足る資質を十分に併せ持っていた。
その一方で、癖毛の入り乱れる後ろ髪が、宝玉の簪で辛うじて留められているようにも見える。中天に昇った太陽の輝きと熱気をその中に閉じ込めたかのような、金色の光を絶やさぬ宝玉であった。黄玉という、大桑の西の涯、沙浪関からさらに千里を行った先に広がる山地でしか産しない宝玉で、その一粒で一国を購えると評されたほどに希少な宝玉であった。当然、大桑の西限が沙浪関からだいぶ後退した現在となっては、新たに入手するべくもない。その黄玉を強いて目立たせる風でも無く、まるで市場で購った簪を気軽に指す様に、ごく自然の内に彼女は髪に飾らせていた。
娘が向かった先は、玄関から二十歩も隔てた先に佇む邸の正門。杖を付いた老女がひとり、正門に向かい椅子に腰を下ろしている。その老女の両脇を、二名の下女が畏まった顔もそのままに傅いていた。かつては美しい女性であったろう老女。しかし皺の刻まれたその顔には、邸の主たるに相応しい気品よりも、むしろ長年の気苦労により形作られたのであろう意思の強さの方が目に付く。そのような歳の取り方であった。娘は恐縮気味に老女の前に進み出、拝礼する。
「お母様、饗応の準備万端調いましてございます」
「優華や、ご苦労でしたね。さあ、母の傍にいておくれ……」
そこまで言って、老女は寂しく笑い掛けた。そこに抑えきれぬ感情の発露が、湿った言葉となり重なった。
「……そうでないと、あの不孝者を八つ裂きにしてしまいそうでならぬ……!」
「お母様。お気をお鎮め下さいませ。お身体に障ります」
収まりの悪い前髪の下で、濃い睫毛が萎れる様に瞑られる。優華と呼ばれた娘は、母と仰ぐ老女を励ます必要を感じた。ただ、この邸を受け継ぐべき老女の息子が出奔してからというものの、娘がずっとそうしてきているのも事実であった。
「兄上が無事にお帰りになられるのです。まずは毅然として、お帰りを迎えるのが宜しいかと」
「…………」
窘める様に言われ、老女は両目を瞑り嘆息した。娘の言に従い、彼女なりに内心の蟠りを抑えんと試みたかのようであったが、それでも抑えきれぬ愛憎の起伏が、さらに老女の胸中をかき乱してしまう。
「隷!……あの馬鹿者の為した事は万死に値する。我が夫は許より、御先祖様の墓前に何の顔あって見えることが出来ようか」
老女は両手を顔に充て泣き始めた。彼女の一人息子袁隷より、帰宅する旨一報を受けてからこの日で三度目の慟哭であった。ひとり老女の傍らに在って、彼女の肩を抱いて慰める袁優華は袁隷の妹に当たるのだが、実際は単なる兄妹とは片付けられぬ、いま少しややこしい血縁関係にある。
様子見に遣わしていた下男が足早に正門を潜り、老女と優華の前に跪いた。
「申し上げます奥方様。若君様お帰りでございます!」
「…………!」
面を上げた袁隷の母から、荒い鼻息が漏れるのを優華は聞いた。表にははっきりと出さないまでも、それは年齢に相応しくない、明らかな憤怒の兆候であった。馬上姿のまま一騎が悠然と袁家の門を潜り、そして敷居を跨ぐ。
「母上! 袁隷ただ今戻りました!」
まるで凱旋将軍のような、堂々とした風体に相応しい、堂々とした声と拝礼であった。本家からの出奔という恥ずべき過去などとうに忘れ去ってしまったかのような笑顔を浮かべ、馬上から母を睥睨する息子を、母たる老女は冷ややかに見上げた。
「隷よ、それがおまえを産み育てた母に対する礼儀か?」
「は……?」
一瞬浮かべた怪訝が、次には狼狽に変わる。そそくさと馬から降りるや、袁隷はその逞しい長躯を曲げて彼の母に向かい跪いた。
「袁隷、母上に拝謁――」
「――隷や、近う来やれ」
「は……?」
長い杖がコツコツと地面を叩く。拝礼を遮られた次に、息子は母に杖を以て無言でその足元まで寄る様促されている。当初の願望に反し、息子を見る母の眼が冷ややかなことに、袁隷という青年はこの期に及んで初めて気付いたかのようであった。今までの威勢が一転、悪戯を咎められた子供の様に悄然として、袁隷は言われるがまま彼の母に歩み寄る。
「隷や、礼をせよ」
「袁隷!……母上に拝謁いたします!」
直後、重い衝撃と鈍痛が袁隷の頭を苛んだ。一撃目にはどうにか耐えられても、満身の力を込めて二度三度と背中全体に振り下ろされる杖の痛みには抗えなかった。間欠泉の如くに発露した怒気に任せて老女は息子を杖で打ち据え、息子は体面に構わず泣き叫んで慈悲を乞う。
「母上お許しを! 後生でございます!」
「母に逆らうだけなら未だしも、賊に加わり皇恩を仇で返すような真似をするとは許しておけぬ! この不孝者! 不忠者! おまえなど袁家の者ではない! 死んでおしまい!」
「お母様! 私からもお願い申し上げます。兄上をお許し下さりませ!」
震える両手で杖を揮う母に縋り、優華は声を上げた。頭を抱えて蹲ったまま動かない袁隷を打つ杖が止まり、次には袁隷の母は、息荒く杖と優華に支えられ疲弊しきった躯をどうにか椅子に預けるのだった。袁隷に続き、だが下馬して門を潜って来た若者が、母と優華に向かい恭しく一礼した。
「羅王儀、袁隷どのの母上様に拝謁いたします!」
「そなたは?」
「私は袁隷どのの配下、羅王儀でございます。お見知り置きを」
「配下……とな?」
「袁隷どのは国難を靖んずるに際し家運を傾けてまで馳せ参じた尽忠報国の士。それがしは袁隷どの志に賛同し、その幕下に加わった者にございまする」
老母の怪訝そうな表情が、すぐに困惑へと変わる。恐る恐る半身を起こした袁隷が、卑屈な笑みもそのままに彼の母に言った。
「母上……かねてよりお伝え致した客人でござる……どうか客人に免じて私の帰来をお許しくだされ」
「…………」
母と娘は、互いに顔を見合わせた。それも僅かな間、息子の身勝手な振る舞いに呆れたように嘆息し頭を振る母の一方で、優華は下人を呼び客人を招き入れる手筈を整える。客人は眼前の若者だけでは無かった。到底邸に招じ入れるに相応しい客とは思えない、山賊のような風体をした二人組、彼らのすぐ後に白髪、赤い目をした異相の若者がひとり。
そして――
「――春兄い、折角御馳走してくれるってんだ。一杯やればすぐに憂さも吹っ飛ぶってもんだぜ!」
二人組の片割れ、細身の男が門の外、取り残された様に佇む影を顧みて言う。先程の客人たちのような勇ましさもおどろおどろしさも感じられない、吹けば飛ぶような庶服姿の青年がひとり……いつしか優華の眼は彼ひとりに注がれ、それまで目も虚ろだった青年は、優華の眼差しに気付くや慌てて彼女に向かい拝礼する。
晋安から程近い広大な荘園の一角を占める袁隷の邸に魯春醍が招かれたのは、確かに当の袁隷本人のたっての願いであったが、その動機が彼の言う様に諌軍の同志として友誼を結ぶことにあるのではなく、家産を持ち出して一軍を編成するという無謀な形で生家を出奔した袁隷に、莫大な財力を誇る本家との和解の機会を与えることにより、諌軍における袁隷と彼の同志の立場を一層確固たるものとするという、袁隷自身の打算にもまた後押しされていた。その再会に当たって躓きこそあったものの、羅王儀と魯春醍、そして彼の同志は袁家の客として正式に迎えられ、梅林の奏でる爽やかなざわめきの下で、形だけは和やかな宴会が始まる。
「さあみんな、存分にやってくれ」
「袁隷どのに……!」
形ばかりは袁隷の副官格たる羅王儀を始め、宴席に集った皆が一斉に唱和し盃を空ける。すでに月単位の長きに亘り戦場にあった彼らにとっては久方ぶりの美酒であり、馳走であった。よって喜色に溢れない訳が無かった。羅王儀に酌をさせた二杯目の盃を飲み干しつつ、袁隷は威勢のよさ――と言うよりこの場合気前の良さと言った方がいいだろうか?――を前面に押し出して言った。
「知っての通り、当面官軍は動かない。我ら諌軍の蜂起により、大封の政情が常に無く揺れ動いておるからだ。やがては朝廷の心ある者たちが我らの正義に同心し、以て皇帝陛下に諌言を為すべく王郁どのを国都に召喚するであろう。我らはその王郁どのを奉じ、各々が一軍の将となり挙って上洛する。想像しただけでも気宇壮大にして雄渾、男子として中原に生を享け国事に身を賭した甲斐があるというものであろうが」
その発言、そして風格だけを見れば袁隷の威勢は一国の王たるに匹敵するであろう。しかし実が全く伴っていない上に、当の袁隷自身そのことを自覚しているのか疑問が残る。空転を始めた言葉をさらに弄ばんとし、袁隷の弁舌はさらに続いた。
「我が邸で暫く英気を養った後、我らは再び募兵に及ばん。善戦虚しく兵一千の内半数を失えど、中原にはなお国士、勇士数多あり。しかも我らに勢いあり。我らに民の声望あり。私はこれらを以て募兵に臨み、今度は三千の兵を整え征途に就かん」
善戦虚しく兵一千を云々……というのも明らかな嘘であることを春醍は知っていた。ややもすればこの宴席に同席している袁隷以外の者全員が、この邸の主たる袁隷にその手の能力がまるで無いことを、我が身を以て思い知らされている。
あの官軍との全面衝突の第一戦となった寧原の戦において、袁隷は先鋒第一陣を自認して官軍の軍列に吶喊するも、それは天の理地の利人の和全てを無視した、彼自身の無謀な冒険心の為せる業であった。袁隷に就き従う兵からすれば、吶喊によって何を得たいのかも判然とせぬまま吶喊は官軍の方陣に弾かれ、碌に突破も儘ならずに四散したところを追撃の騎兵に捉われ、槍で貫かれ、剣で薙がれて理不尽にその生を終わる――そうして生まれた阿鼻叫喚の中を、自身が引き起こした惨劇に恐怖しつつ袁隷は逃げ惑い、やがては恐怖に囚われて自身の兵を捨てた……それを自覚しているのか否か、今日実家に用意させた宴席にあって音頭を取る袁隷の顔はまるで今次の戦の勝者のように晴々としている。
「春醍どの!」と盃を傾けつつ袁隷は席の近い春醍を呼んだ。それまで黙って盃をちびりちびりと傾けていた春醍は、驚いて宴席の主を顧みる。手ずから酒壺の美酒を掬い、袁隷は春醍の盃に注ぐ。
「春醍どのこそが宴の主である。どんどん飲まれよ。それがしと卿が共に香南に号令すれば、三千と言わず一万の兵が集まろうぞ」
注がれた酒を、春醍は黙ってぐいっと飲み干した。その飲みっぷりの良さに袁隷は目を細め、今度は手酌で盃の酒を満たすのであった。嬉々として宴を仕切る袁隷の様子を間近にして、春醍は嘆息しつつ一座を見渡す。そこで春醍の対面、羅王儀がただ一人憮然として盃を傾けていることに気付く。春醍の視線に気付き、顔を上げた王儀が悄然として頭を振る。袁隷はといえば腹心の心中を察するでもなく席を立ち、魯哀らの坐す席まで来て威勢のいい大望とやらに話の花を咲かせていた。
袁隷、そして彼以外の王律軍幹部が結果的に寧原の戦いで失点を喫した一方、春醍は得点を重ね、慶邑から晋安に移った諌軍本営の一員として迎え入れられるに至った。春醍が幽関を確保し、さらには敗軍を掌握して慶邑の防備を固めたことが最終的には王律軍を全面的な瓦解から防ぎ、叛乱軍指導部をもその権威失墜から救った。袁隷ですら、羅王儀の懇請を容れた春醍の執り成しが無ければ、未だ諌軍の本営に残ることが出来たか疑わしい。
袁隷が――というより羅王儀が袁隷に進言して――袁家で宴席を設けさせたのも、彼が袁家との間を修復するのと同時に、春醍らを袁隷の派閥に取り込む工作のようなものであった……そのような羅王儀の意図が、今の春醍には痛いほどよく判る。袁隷が袁家を説き伏せることができれば資金面で支援を得られるのみならず、王律軍への協力に消極的な中小の地主も積極的に従うかもしれない。さらに春醍らを配下に収めるのは無理でも、誼さえ通じておけば王律軍内における袁隷の地位を多少は盤石なものとできるであろう――本来ならば宴の主催者である袁隷自身が積極的にやらねばならないことを、元々袁家とは縁も所縁も無い余所者同然の羅王儀が否応無く仕切っていること自体、袁隷が指導者の器では無いことの証明のようなものであった。
「王儀どの、どうぞ……」と、春醍は羅王儀に酒を勧めた。春醍が傾ける酌を盃に受け止め、羅王儀と言う名の若者は恐縮したように酒を押し頂く。
「春醍どの、かような場に卿を引き出して申し訳ない。これも我が主袁隷のためなのだ」
「悪い人ではないということは判ります。戦場以外では使い処がある人だということも……」
「……そう、王律軍における最大の出資者の一人であるからな。袁隷どのは」
春醍に酒を勧め、そして王儀は話題を変えた。
「春醍どのは大封出身と聞いたが、何処に住んでおられたのか?」
「西市のすぐ北です。用水路沿いの戸楼に下宿しておりました」
戸楼とは、この時代中原都市部の貧民区に作られた階層式の集合住宅のことである。はじめは二~三階建てのものが、都内の庶民はもとより地方より朦朧と流れ込む流民を受け入れるにつれてこれが四階五階、ついには八階まで建て増しされることがある。勿論違法であり、建て増しに端を発する崩落事故も頻繁に起こったものであった。
「戸楼?……家を出られたのですか?」
「……ええ、色々とありましてね」
ばつ悪そうに俯くと、何故か寂しい笑みが漏れた。あれ程嫌った魯家が、時勢に流されるがまま賊になり果てた今となっては妙に懐かしく、恋しい。ふと見ると、春醍に釣られる様にして王儀も寂しげに笑っているのがわかった。
「私は冤罪に連座することから逃げて来たくちでしてね」
「冤罪……?」
「私の家は高祖の代から貴族でした。かといってそれ程裕福では無く、赤貧洗うが如しというわけでもない。朝廷よりそれなりの官位を貰いささやかに暮らしていたところに淕家が……」
「淕家……?」
耳を疑った春醍に、王儀は頷いた。と同時に眼許が尋常では無く据わっていることに春醍は気付く。それは明らかに、憤怒と憎悪の発露であった。
「私の祖父は礼部にあって皇室の所蔵せる工芸品を管理する役職にあったのですが、淕家に連なる上司が所蔵品を市中に流して私腹を肥やしていたのを咎め、それが容れられないと知るや礼部尚書に告発しようと試みました。しかしその寸前で淕家に皇帝暗殺の謀議に加担したとの罪を着せられ、私の一族は父母兄弟に至るまで死罪を課せられることとなったのです。私は……!」
王儀の怒った眼から涙が溢れ、込み上げてくる激情に白眼が朱に染まる。それを春醍は息を呑んで見届ける。
「……すんでの処で縛を免れ、此処まで逃げて来た。先祖の霊を守れぬまま、身一つで此処まで流れて来たのです。私が袁隷どのの幕下に加わり、叛乱軍に身を投じたのには何もこの国の行く末を思ってのことではない。私に限れば復讐だ。我が祖父を陥れた者を斬り、そやつの首を我が先祖の霊前に供えるまで私の戦いは終わらない」
「…………」
絶句――堅固なる決意の発露を前に春醍は二の句が継げず、ただ無言で王儀の顔を窺う。窺う内、端正な王儀の顔に徐々に柔和さが戻り、元の好青年に戻っている。
「春醍どのには類稀な軍才がおありのようだ。何時かは春醍どのと共に同じ戦場に立ちたいものです」
「王儀どの……私は……」
春醍には、もはや何も言えなかった。彼が進んで身を投じた王律軍も、その実彼の祖父を陥れ一族の命をも奪った淕家の手札に過ぎないという真実を、明かすべき時が今ではないことぐらい春醍でも理解出来た。彼が知らないということは、おそらくは袁隷も知らないのだろう。そして彼が遠からず真実を知る時、羅王儀をどのような感情の激流が襲うことになるのか春醍には想像すら出来かねた。
「王儀、話が弾んでおるな」
もはや盃ではなく、酒壺を手にした袁隷が儚げな足取りで王儀の傍に歩み寄る。王儀の側から春醍を見遣り、袁隷は今の彼が抱く上機嫌をそのまま声を張り上げた。
「王儀が右将軍、春醍どのが左将軍だ。もちろん私が征討大将軍。まさに盤石の配置であろうが!」
袁隷は笑った。これを殆ど本気で言えること自体、袁隷が己が身の程を弁えていないことの、何よりの証明と言えるだろう。陪席した袁隷軍の幹部がこれに歓声を上げて応じ、やや遅れて春醍に連れ添った魯哀たちも盃を掲げて応じる。袁隷自身の思惑は別として、宴は今のところ羅王儀の打算通りに進んでいることは自覚できた。
春醍は袁隷に聞いた。
「袁隷どの、以後の官軍に対する防備については如何なる方針に決しましたか?」
「私は引き続き北側の統治と防備を併せて任されることになった。里楊関の城主に任ぜられることが軍議で決している。いずれ王儀と共に赴任することになるだろう。ただし主力は……」
そこまで言って、袁隷は形のいい眉を顰めた。軍才と政治力がからっきしでも、袁隷が堂々たる長躯と美形に属する顔立ちの持主であることは春醍には否定できなかった。天が二物を与えるというのは、やはりそうそう無いものであるらしい……
「慶邑よりさらに南、卿が奪った幽関を起点の一つとしてその兵力を集中させるそうだ。南にいる官軍の残存兵力を鎮撫し、今や香南の支配者が誰であるのかを民に知らしめるためであろうよ」
そんなばかな……と春醍は耳を疑う。香南の南に官軍なんて、もはやいないも同然と聞いていたのだが。その真意というのはまさか……
「……赤蓮教については、何も窺っておりませんか?」
「……そうそう、慶邑及び晋安の兵力配置については赤蓮教徒からの増援も得ることになっておる。正直四六時中念仏を唱えていて気味の悪い連中だが、兵はあるに越したことは無い。防備を整えた上で我らは待てばよいのだ。大封の朝廷が内紛に疲弊し、我らに交渉を申し出るまで」
それは正しい……寧原の勝利にも関わらず、以後官軍の動きは低調になった。大封の朝廷における建宗派と王可明派の内紛が激化しているという風聞が流れて来たのはその少し後のことだ。王律が示唆した通り、やはり後者が香南における官軍の行動を掣肘しているのだろうか?
「魯春醍様?」
春醍の名を呼びつつ、ひとりの女性が宴の場に入ってくる。服装の色調は宴の場に在って給仕を仕切る召使たちとそれほど変わらない。だが宴の場から超然とした静謐な雰囲気が、酒に乱れた男たちの心すら圧倒した。収まりの悪い髪、しかも前髪が長過ぎることを除けば、大封ですら滅多に見掛けない美女であることはすぐに判る。
「おお優華か? ここに来て酌をしてくれぬか?」
と、だいぶ酔いの回った袁隷は美女に手招きした。袁家の門を潜る前に眼を合わせた女性だと、春醍はすぐに気付く。袁隷の誘いを突き放すように凝視し、優華と呼ばれた女性は言った。
「兄上……改めてお母様に御赦しを頂かぬのでございますか? では構えて申し上げますが、夕餉だけは必ずお母様と共にしてくださいませ。皆様も陪席させた上で」
「判っている! 出奔してからの申し開きをすればいいのであろう? 今は堅いこと言うな」
袁隷は露骨なまでに不機嫌な顔をしてみせるが、怒りの色の無い目からそれが単なる「創り」でしかないとわかる。家庭人としての袁隷が、優華というこの女性に芯から心を許している証かもしれない。
「王儀、春醍どの、この場で改めて紹介致そう。それがしの妹の優華だ。香南の口さがない男共は『官に就くなら禁営校尉、嫁にするなら袁優華』などと謳っておる。我が袁家自慢の娘であるぞ」
『優華様に拝謁いたします。御尊顔を拝し奉り恐悦至極……!』
春醍と羅王儀は同時に優華を拝礼した。優華も腰を屈めて一礼し、そこに袁隷の評が続く。
「優華は死んだ親父が婢に産ませた子でな、幼くして母を亡くし路頭に迷っておったところをそれがしの母が引き取り、実の娘同然に養育したのだ。いわば腹違いであるが、それがしにとっても出来た妹よ」
「…………」
発言した袁隷からすれば悪気が無いのであろうが、優華の顔に憂いが重なるのが春醍にははっきりと判った。気まずさが宴席に広がるのを防ぐべく春醍は立ち上がり、再び優華に向き直る。
「優華どのは御用で伺ったようですが?」
「魯春醍どのに晋安から使いの馬が参っております」
春醍は席を外し、袁隷に一礼して宴席を抜けた。「評定か?」と聞く袁隷に頭を振り、春醍は言う。
「宇貫どのの誘いでしょう。酒に付き合えと」
「そうか!……では少し待ってくれ」
言うが早いが、袁隷は足元を弄り始めた。やがて彼の手に握られた巻物の包みを目にした時、春醍は思わず目をパチクリさせ、その過剰な包装を凝視してしまう。
「晋安には、海狼どのもいるのであろう?」
「おそらくは……」あの夜、海狼の過去の一端に触れた夜以来、彼女の姿を春醍は眼にしていない。
「海狼どのに会ったら、これを……海狼どのに渡してくれぬか?」
巻物の包みを渡す袁隷の言葉と眼が、まるで直に海狼と対面でもしているかのように泳いでいる。それだけでも普段威勢のいい彼の見せる小人的な側面が、春醍には却って微笑ましく感じられた。もし叛乱が起きず、あるいは起きたところでそれに首を突っ込まずにいれば、袁隷自身は気前のいい地方領主としてごく平穏に一生を終えることも可能であったに違いない。その意味でもこの叛乱は多くの人間の人生を狂わせたことが判るというものだ……春醍は恋文を認めた巻物を笑って受け取る。隗雲と魯哀に後事を託して梅林を離れ、袁家の玄関口まで歩く途上、先導する袁優華の足が止まった。
「あのう……海狼とは?」
「諌軍に加わっている女の名です」
「名前から察するに、侠客なのでございますか?」
「……はい」只ならぬ様子を察し、春醍の言葉が躊躇った。
「馬鹿なひと……相変わらず身の丈に合わない人間とばかり付き合おうとして……!」
「…………」
優華の嘆きが、春醍には痛いほど判った。自身とは住む世界の違う人間、その生き様に新鮮さを覚える余り、自身の在る世界から脚を跨ぎ他者の世界に踏み入る人間がいる。袁隷のように生来より物質的にも金銭的にも不自由したことの無い者からすれば、海狼のように天下に己が身一つ、武と虚勢で生きる侠客の見る世界がまさにそれなのであろう。それを後腐れも無く上手くやりおおせるには、自己の世界と彼らの世界との間に明確な一線を引くことなのだが、今の袁隷にそれが出来るのか否かは春醍には判らない。
晋安での急用なのではないかという春醍の予感は当たった。馬丁が春醍の馬を門前に引き出してくる間、優華が自身の姿をまじまじと見つめていることに春醍は気付く。
「お見掛けしたところ、貴方は役人でも山賊でも……侠客でもないようですが?」
「私は大封で書生をしておりました。用があって南まで下って来たのです」
「お帰りにならないの?」
「帰りたいのは山々ですが……今は囚われの身も同然。武勲でも挙げない限り帰ることもままならぬと言われる有様で」
「……まあ、酷いことを言う人もいるのですね」
「ええ……」海狼の顔を思い出しつつ、春醍は頭を掻く。
「でも、叛乱軍の幹部でいらっしゃいます。世が世なら若くして一軍の将たり得ます」
「…………?」
微笑――前髪から覗く優華の眼が涼しい。春醍がそれに目を奪われている間、馬丁が春醍の馬を曳き出して来た。あばらの浮いた痩せ馬、それも老馬であることに優華は驚きの眼を隠さなかった。
「大丈夫?」と、鐙に足を掛けた春醍に思わず声が漏れる。
「生憎、今は戦時では無いので」
揺れる馬をあやしつつ、春醍は馬を門へと翻した。馬の扱いには慣れてきたが、それでも王儀や魯哀には未だ及ばない。優華は一歩を退き、馬を操る春醍を見上げている。
「あの……!」
「…………?」
不意に声を掛けられ、春醍は思わず手綱に力を入れた。馬が踵を返し、再び向きが優華の方向に戻る。
「何時お戻りになられますか?」
「明日には……!」
応じると同時に馬の腹を蹴り、門に馬を戻す。邸を完全に出、暫くを馬で歩いたところで、春醍は何気なく袁家を顧みた……壮大なまでに横に広がっている邸の全容。その門の傍に在って、遠ざかりゆく春醍を佇んだまま見送る袁優華の姿――それを振り切ることが出来ず、春醍は歩く度に何度も背後を顧みる。
王律軍の指導部に在っても、春醍が朱宇貫の配下という当初の立ち位置は変わっていない。春醍が指導部付きでこそあれ階級的には出世しなかったというわけではなく、逆に王律軍内における朱宇貫の地位が上がったがために部下である春醍の地位も向上した。軍事的には寧原の戦の後、朱宇貫は常時二万の軍を動かし得る大将軍の称号を得、春醍は彼の配下に在って数千の兵を与る将軍の称号を得ている。
これは既存の大桑国の兵制に倣った官位では無く、遡ること二千年近く前、聖籍の時代に定められた古代の兵制をそのまま踏襲したものであった。今や王律を指導者の座から追い、新しい神輿として王郁を担ぐ連中の考えたことだ。何しろ世に溢れる「聖籍読み」の中には、この聖籍の時代を中原の理想社会と見做し、政治思想として「聖籍の時代への回帰」を真面目に唱える者も多いのだから――
東西南北に跨る広さにして、優に慶邑の三倍の面積を有する晋安。朱宇貫は南門に程近い、かつては富裕な商家であった邸にあって、春醍の入城を待っていた。春醍はこの宇貫に就き従う形で、本営の置かれた政庁に赴くことになる。
「春醍のお陰だ。お前がいてくれるだけであの腐論の徒どもと張り合える」
と宇貫は言う。空論を弄ぶことで国を論ずるを善しとする連中を相手に、剛直な宇貫としては少なからぬ気苦労を強いられているようではあるが、それ以上に大軍を指揮するに足る権力に酔う心地良さの方が勝っているとも見える。
「春醍、お前随員は連れて来なかったのか? おれの配下は三百、お前も兵を連れてくれば街を威圧するぐらいの行進ができただろうに」
馬を並べて進む二人の後を、五騎の騎馬と数百に及ぶ帯甲した兵が続いている。城市の人々はその様を、固唾を呑み見守っている。威圧――それのみがこの世界で何の恐れも感じずに生きていくための術であると、宇貫自身心から信じているかのようであった。
春醍は言った。
「騒がしいのは好きじゃないんだ。それに……」
「それに……?」
「隗雲、呉楊、そして魯哀はおれの配下じゃない。同志だ」
「その考えはいかんな……いかんぞ春醍」
「なぜ……?」
聞き返した春醍を、刺すような目付きが迎える。
「実力があるからには、それに相応しく振舞え。喩え実力が及ばずとも、あるように装え。この法も徳もへったくれも無い世界で天寿を全うする知恵だ」
「…………」
「幽関と慶邑でお前の為した事は、お前が以前に言った様に偶然の采配によるものなのかもしれん。だがお前はその偶然とやらのお陰でこうやって伸し上がれた。かと言ってもう元の場所には降りられんぞ。無理にでも降りようとすれば足を踏み外しそのまま奈落の底だ」
「言い過ぎだ……!」
「言い過ぎなものか。現にお前が幽関で与った連中は、お前を君主として仰いでいるではないか?」
「そんなことは……ない」
忌々しげに宇貫から目を逸らす。その先に伎楼が立ち、上階から春醍らの行進を見下ろす、見慣れた人影に春醍は思わず目を見張る。
「海狼……!」
刃の様に白い歯を見せて笑い、海狼は宇貫の行列を見送っていた。遅れて宇貫も海狼に気付き、彼は苦笑と共に言う。
「あいつは寧原の戦いで官軍の騎馬三十を、それも独りで仕留めた。内五名が校尉だったそうだ。率いる兵こそ無いが、そのときの功であの女も今じゃれっきとした将軍だ。頭を使わずにここで生きていたけりゃあ海狼のように強くなるしかない。だが誰もが海狼になれるわけじゃない」
「海狼はあれで賢明なんだよ」
「あいつが賢明? 冗談だろう?」
宇貫は春醍を嗤った。春醍が彼に反駁する暇はすでにない。城市の大通を練り歩いた先、諌軍本営の置かれた政庁が聳えている。
朱宇貫に付き春醍が本営まで赴いた理由は、ちゃんとある。騎煩生に会うためであった。
「衛晋大将軍 朱宇貫 王郁様に拝謁致します!」
「朱宇貫の幕僚 魯春醍 王郁様に拝謁致します」
膝を付き拝礼し、一度伏せた頭を上げたところで、春醍は王郁の座の傍らに居並ぶ面々をさり気無く見た。庶服や礼服をまとった叛乱軍の文官の中に、当然のように立つ官服姿の男、それが恐らくは彼が夢にまで見たであろう官服の袖に腕を通した騎煩生の、ある意味変わり果てた姿であるのを察するのに、春醍には多少の逡巡が必要であった。官服を着た彼の小奇麗な風体が、大封で日頃接した彼のそれと、どうしても重ならなかったためである。春醍の視線に気付いた煩生が春醍に会釈し、それは彼が、春醍を一連の叛乱に連座させたことに何の罪悪感も抱いていないことの、何よりの現れであるように春醍には見えた。
そして拝礼の正面――寧原における敗戦の責任全てを被せられる形で指導者の座から追われた王律の後釜に座った男は王律よりもずっと若く、かといってその顔立ちには一片の徳も見出すことが春醍には出来なかった。王律の様な芯の通った実直さも、袁隷の様な育ちの良さも感じられない。市井の遊び人が官服を着て、玉座に擬せられた指導者の座に座っている……それが、春醍が初めて接した王郁の姿であり、印象であった。
「面を上げよ」近来の友人にでも接するような、軽妙な口調で王郁は言った。同時に彼の座の最も傍に控えていた文官が進み出、宇貫と春醍に王郁から向かって右、叛乱軍武官の控える列に加わるよう促す。髭が長い。まるで武術の達人かと見紛うほどの、筋肉質の中年男……ああ、あれが郭玄方か――半ば感銘に近い感慨と共に、春醍は彼の意に従い、武官の末尾に立つ。
郭玄方、かつては官人として大封にあって、聡明な人物として朝廷に重用されたと春醍は父 魯林正から聞いている……というのは、魯林正が科挙に及第した年の同期がこの郭玄方で、ただし一度の受験で及第した林正と違い、郭玄方は三度目の受験での及第であったという。その後の官界における栄達は順調であったそうだが、政道を批判したかどで先帝仁宗の不興を買い、香南の州令補に任ぜられた。事実上の大封からの追放であった。その赴任先で官を辞し、以後は私塾を開き多くの門弟を教えている。事実叛乱軍の幹部には彼の門弟も多く、それだけに叛乱軍内における少なからぬ影響力、指導力が玄方には感じられた。叛乱の起きる前、丞相李鶴元は彼の才能を惜しみ、仁宗の許しを得た上で時折使いを遣っては彼に官職への復帰を勧めていたというが……その郭玄方が、よく通る声で言った。
「これより廟議を始める。まずは石臨海どの、赤蓮教団との交渉の途中経過を報告せよ」
「申し上げます」
文官の列からひとりの男が進み出る。顔色の悪い細身の男、口元から蝦の触角の様にピンと伸びた髭が、人ならざる異形を春醍に連想させた。現在晋安とその周辺に展開している叛乱軍主力の中で、唯一赤蓮教団からなる兵を束ねる石臨海。元は春醍と同じく科挙の及第を目指していたというが、塩の密売商という叛乱軍に加わる直前の肩書からすれば、大望叶わなかったが故の挫折感が、彼の人生観をも歪めてしまったのではないかとも邪推してしまう。
上座の王郁を再拝し、石臨海は言った。
「香南南部における赤蓮教本営 丹州本山より、幽関の奪回に伴う南北の通交確保の件、心底より謝し奉る旨、使者からの言伝が御座いました。ごく近来に赤蓮軍が北上し、諌軍本営に合流する運びとあいなろうかと存じます」
「して北上してくる赤蓮軍の将の名は?」
「張葉堅どのになろうかと存じまする」
「――――!?」
困惑と驚愕が、絶妙の配合で廟議の場に広がる。援軍の到来をごく普通の意味で吉報と受け取るには、それを指揮する者の悪名は、今や余りにも大き過ぎた。それを今更のように察したのか、石臨海は細い目を見開き、言葉を戸惑わせて釈明する。
「あいや!……ご懸念ご無用。葉堅どのは分を弁えた性分にて、まさか既に平定なったこの地で暴挙には及ぶまいと存ずる……それでも不安と思し召すのであれば、軍監を付ければよう御座います」
「そうだな……では葉堅どの入城の暁には、騎煩生に軍監をやってもらおうか」
郭玄方が何気なくそう言った途端、悲鳴に似た声が文官の列から上がる。騎煩生であった。明らかな狼狽の表情もそのままに彼は列前に進み出、玄方に向かい這いつくばって懇願する。
「玄方様! 後生でございます! 私ごとき者に軍監が務まる筈がございませぬ。どうか今一度慎重なる人選をお願い申し上げます」
「玄方……そなたは本営に入って以来さしたる働きを見せておらぬ。常に本営に入り浸っておるばかりでは将来の実務にも差し支えよう……善き働き場を得たと思い励むことだ」
「玄方様……そんな!」
「煩生!……がんばれよ」
狼狽する煩生の肩を、玄方は軽く叩く。そこに、意外なところから声が掛かった。
「煩生、しかと勤めるのだぞ? 軍監の役目、最後まで勤めた暁にはそちを城監にして遣わす。支城の何処かをそちに与えようぞ。それまで葉堅の勘気に触れることもなく生きていられれば、な」
「…………?」
追い打ちにも似た王郁の言葉を前に、もはや一言も発することも儘ならず煩生は再び玄方に向き直る。涙眼を隠そうともしない煩生を前に玄方は頷き、屈めていた腰を上げた。
「衛晋大将軍 朱宇貫、晋安の防備はどうか?」
宇貫が進み出、合掌し言った。
「城市内外の兵の配置及び晋安に通じる各道の防備、滞りなく進んでおります!」
玄方は頷き、皆を顧みる。廟議はそのまま玄方の口を借り、叛乱軍の戦略構想の披瀝へと転じた。
計画としては朱宇貫の率いる兵を以て晋安の防備に充て、南下し来る官軍を食い止め、張葉堅の兵を機動させつつ官軍の側背を突き潰走せしめる。潰走させることあたわずともその南進を停滞せしめることができよう。
その間、趙大可率いる本隊が王郁を擁し北上を開始する。趙大可は元々香南中部に勢力を有する山賊の長で、県令の座より退いて以後の王郁は彼の食客であった。それ故に叛乱勢力の事実上の指導者たる郭玄方が王律を擁した時、一時両者の関係は険悪になったが、王律が去った今となっては、両者は急速に接近しつつある……その趙大可の率いる兵は現有で五万。彼らは官軍の守城を攻略しつ前途で同志を募り、流民を吸収しつつ大封まで北上し、「政道を正す」というわけであった。郭玄方としても叛乱の象徴と成すにあたり、皇統に連なる男子であれば誰でもよかったらしく、その点、無用の摩擦を生じずに来られたという点では王郁の擁立は無難な選択であったとも言える。
――戦略に関する説明の一切を終えた後、郭玄方は質問を求めた。他者の追随を許さない聖籍に関する研鑽の他、古兵学すら修めた玄方の論理は整然としていて、逆に山賊や郷兵上がりが多く、兵学に詳しい者に乏しい叛乱軍の武官たちとしては、異論の余地すら見出せないまま玄方の言葉に従うしかない。当の王郁に至っては、玄方が軍略を説いている間、上座にあって睡魔に感性の半分を握られ掛けていた。それが廟議の進行にあたり何の障害にもならないという点だけでも、この叛乱軍における王郁の存在意義が判るというものであった。
質問を待つ間に醸成された静寂が、場を白けさせ、やがては廟議解散への空気を産もうとしたその時、春醍は挙手をした。
「質問」
「名乗られよ」
「朱宇貫の配下 大封の魯春醍と申します」
直後、文武両官の間から感嘆の声が漏れる。ただし、叛乱軍のいち指揮官としての魯春醍に対する感嘆では無く、彼を配下に置く朱宇貫に対する感嘆の声であった。それも当然だ。幽関と慶邑における敗勢の挽回は、表面的には朱宇貫の「武勲」ということになっているのだから……
「魯春醍どの、どうぞ……」
玄方が手を差し伸べ、春醍に発言を求める。春醍は武官の作法として合掌し、口を開いた。
「まずひとつ申し上げたい。玄方どのは北進の途上で兵を募り、軍勢を強化して大封を目指すと仰られるが、その当てがお有りなのでしょうか? 兵糧も限られる以上、北進の進捗によっては我らも兵糧尽き、また流民同然となる恐れこれありかと」
「ふむ……」
玄方は頷いた。
「春醍どのの言、真に傾聴すべき意見である。而して結論を申さば、春醍どのの言顧慮するに値せず。我らが同志既に香南より北に散り、民の宣撫を始めておる。既に民決起し我らとの共闘を申し出たる群県これあり。故に兵糧の供給に憂いなく、むしろ北の友軍を支援する上でも北進は至急の要である」
「玄方どの、いまひとつ……!」
最後の「いまひとつ」に力を込め、春醍は食い下がる。
「どうぞ」
「張葉堅は、信用できるのですか?」
「なんと……?」
「晋安に張葉堅の軍勢を引き入れたところで、独力で幽関以南を平定し、勢いに乗る彼らが、寧原で躓いた我らの統制に従うとお思いか? それに我らはいずれ大封まで赴かねばならぬ身、その軍列に張葉堅のような人面獣心の輩を引き入れているとあっては、民意奏上に当たり我らの方こそ鼎の軽重を問われましょう。民心の懐柔もまた至難の業かと存じます」
「春醍どの……!」
石臨海が色を為し声を上げた。郭玄方は手を上げ、臨海を押し止める。
「春醍どの……続けて。では卿ならどうする?」
「張葉堅には香南太守なりなんらかの役職を王郁様の名の下に与え、敢えて之を動かさず、我らと共闘する赤蓮軍の主力には他の者を以て主将と為すべきでしょう。例えば……此方におられる石臨海どのが宜しいかと。我らには宇貫どのはもとより魯哀、袁隷といった有力な将を抱えております。彼らを以て補佐に当たらしめれば統帥も盤石」
そこまで言って、春醍は宇貫を顧みる。春醍に向いた宇貫の眼が、明らかに「いいぞ」と笑っていた。春醍の息のかかった将を捻じ込むことが、赤蓮軍にまで宇貫の影響力を伸ばすには手っ取り早い手段だと彼自身察したからであろう。
「なるほど……」
春醍と玄方は同時に石臨海に向き直る。二人同時に視線を注がれた臨海の反応は、ある意味二人の予想を外れた。明らかな狼狽――
「わ、わしは駄目だ!……妻と子を質に取られておる!……下手な動きをしたら忽ち殺される!……葉堅どの、葉堅どのを主将にするということで決した筈ではないか!?」
「…………!」
声が裏返っているだけに、臨海の狼狽ぶりはこの場に集う幹部の関心を惹いた。
「人質?……どういうことか?」
誰かが問い、臨海は我に返ったかのように手で口を抑える。赤蓮軍に近い文官の中には、血相を掻き臨海に詰め寄ろうとする者もいた。場を収集する必要を感じたのか、さすがの玄方も声を荒げた。
「静まれ! 臨海どの、葉堅どのの件はそなたの言葉を廟議の後、私自身が詮議した上で改めて廟議に諮らん。春醍どの」
「はっ……!」
「それで……葉堅どのの件、卿は当面どうすればいいと思う?」
「信頼のおけぬ者に軍監を付け忠誠を誓わせても無駄というもの。騎煩生どのを葉堅どのの軍監と為すを一旦差し止め下さりませ。軍監の人事は詮議の後でも十分間に合うかと」
「そうだな……それも一理ある」
そう言い、玄方は上座の王郁に眼を泳がせた。不意に視線を向けられ、半ば夢心地に在った王郁は背筋を正し、そこで玄方が頷くのを見る。散会の合図――「これにて廟議を終える。皆ご苦労であった」――お決まりの言葉が、王郁の口から空虚なる宮内に響き渡った。廟議に意義を見出していなかったが故に、終始沈黙気味であった朱宇貫に付き従う形で議場を出ようとした春醍を、当の郭玄方が呼び止めた。
「大封の魯春醍と申したな?」
「はい……」
声を低め、春醍は玄方を再拝する。
「そなた、父の名は?」
「魯林正と申します」
「やはり……林正どののご子息か?」言うと同時に、巌の様な顔に微かながら喜色が広がる。
「林正どのと私とは同年に進士に上ったのだ。林正どのはご壮健か?」
「すでに此処に赴いて二月以上経ちます故、何とも……」
「折あれば私の許へ訪ねて来られよ。酒を酌み交わし此処に来た所以と大封の近況について語り合おうぞ」
春醍の肩を叩き、玄方は豪快に笑った。玄方と別れた後、煩生が半ば這う様にこちらに走り寄って来た。
「春醍! 助かったぜ!」
煩生は泣く様に叫び、食い付く様に春醍に飛び付く。それを抱き留めつつも、春醍は真顔を緩めなかった。
「煩さん、話がある」
「…………?」
春醍の注ぐ険しい眼差しを、煩生は唖然として受け止める。それに互いの意識のずれを察し、春題は疲れた様に眼を泳がせた。眼を泳がせたその先、廟議の出口に在って春醍を待つ宇貫の姿に行き当たる。
「…………」
春題を見遣る宇貫が苦笑し、彼を置き去りに歩き出した――これからまたひとつ、不本意な話をしなければならないことに、春醍は困惑する。