第六集 「寧原の戦 その後」
香南の北限 寧原――
一日前まで、その地は山間に広がる荒れ地であったが、その一日が過ぎた後には、鴉の舞う下を無数の骸が折り重なる戦場と化していた。躯の重なる傍らを騎馬の一群が駆けて通り過ぎ、彼らは北から南へと向かい消えていく。騎手の掲げる「大桑」の旌旗が、疾駆の生む風圧に煽られ、荒々しく靡いた。
そして南へと向かう「大桑」を掲げる騎兵は一群のみではなかった。二群、三群……さらに複数の騎兵の群が屍を踏み越えて香南を駆け抜けていく。機を見て屍の山から這い出、戦場からの離脱を図ろうとする人影もあったが、彼らの多くが騎兵に討ち取られる運命にあった。様相は典型的な追撃戦に移行し、逃げゆく敵を斃し戦果を拡大するに騎兵ほど有用な兵種は存在しない。
「――申し上げます。我が方勝利。賊軍の統制崩壊し、個々に香南の奥に向かい逃走中に御座います」
寧原を一望し得る丘陵の頂に在って、上校尉令 鄭塁欽は兵の報告を聞いた。その彼の眼前では、戦闘の最後まで温存され、今まさに働き処を得た騎兵団が躍動を続けている。賊軍は騎兵の数において劣り、さらには全体的な意思統一の面でも劣った。勝ちはある意味当然の結果であった。より多くの兵を動員し得れば、この一戦で叛乱軍を文字通りに壊滅させることが出来たかもしれない――この寧原の戦に投入した三万を以てしても、叛乱軍の包囲殲滅は為し得なかった。それ程の数の叛徒が、香南に蜂起したのである。
「せめて大封より増援があれば、この一戦で終わらせられたのでしょうが……」
副官 楊倫が悄然として言う。水筒の水を一口呷り、鄭塁欽は彼の副官に笑い掛けた。同時に、楊倫にも一口飲むよう勧める。
「出せないものは仕方がない。幸いにも我らの損害は多くは無い。上手くやれば手持ちの兵だけで香南の中部までは治安の回復が図れるだろう。それに……」
「はっ……?」
「北部各州の州令も募兵を約束してくれている。来月には各州合わせて最低五千の兵が補充できるだろう。それ程悲観したものではない。むしろ警戒すべきは……」
「……張葉堅でございますか? 赤蓮教の」
「うむ……」
楊倫の口振りに緊張が混じり、塁欽もまた土と煤に汚れた顔から表情を消し頷く。本来、叛乱の拡大が周知のものとなった時点で、塁欽も属する香南方面の朝廷軍は、香南の南に常駐する軍と呼応し叛乱勢力を南北より挟撃する構想を立てていたのだが、それは序盤で予想外の挫折を見た。王律軍に呼応する形で蜂起した赤蓮教、張葉堅という名の彼らの幹部は、塁欽らも瞠目するような素早い用兵で香南南部各地の駐屯軍を電撃的に各個撃破し、瞬く間に香南南部を赤蓮の紅色に併呑してしまったのである。それはまた、戦闘の過程とその合間に流された無数の人間の血の緋でもあった。今日朝廷軍は勝つには勝ったが、これ以上の南下は当然、狂信的な赤蓮教徒の大軍との衝突を覚悟せねばならなくなる。
今年齢三十を出たばかり、結わないままに背中まで伸ばした長髪、薄い顎鬚の印象的な鄭塁欽は本来、香南北部に位置する秋州に常駐する廂軍の武官で、官位は上校尉であった。平時においては一千名程度の兵を指揮し得る立場である。それが今は秋州令の命により複数の上校尉を束ねる上校尉令に任ぜられて各州の残存兵力を纏め、その結果、五桁の数に上る鎮圧軍の最高指揮官職を自然、務めるかたちとなっていた。ただし今日こそ存分な采配を揮えたものの、本来万単位の軍を指揮すべき者に与えられる将軍の称号を塁欽が得ていない以上、それは仮初の指揮官職であるのに過ぎない。塁欽自身、叛乱の拡大により各州軍の指揮系統が壊滅状態に陥るという非常事態に見舞われることがなければ、その武官としての生涯を上校尉止まりで終わっていたかもしれない。
この時代、大桑国に於いて将軍とは武官として実績のある者に与えられる称号ではなく、むしろ門閥貴族及び高級官人に与えられる名誉職的な官位へと変質している。地方のいち上校尉に過ぎない塁欽が抑えとしての役割を果たした以上、そうした実の伴わない者が功績目当てに従軍を求め、将軍として大封より下りてくる可能性は十分に考えられた……まあ、こうした「将軍」に戦術面での助言を与える役割を、塁欽らが引き続き務める可能性もまた、ないわけではないのではあるが……
「……各隊に徹底させよ。追撃は慶邑までとする。以後慶邑を起点とする防衛線を構築し、兵力の再編及び兵糧の補給を行う」
「心得ました!」
楊倫の采配一下、伝令の騎兵が一斉に散った。敵の反撃に備えるための判断だが、百年以上も太平の世が続いた結果として、戦慣れしていない者の多さを懸念したこともある。勝ったが故に当初の緊張が解れ、追撃に際し無謀な試みを図る者が出るかもしれない。彼らの死に場所は寧原とその周辺にでは無く、また別の場所に在るべきであった。
止まることを知らないかのように騎馬の群が香南の地を駆ける。「大桑」の旌旗を掲げた騎馬、つまり官兵であった。
逃げる叛徒を追い、逃げ遅れた叛徒を獣に対するように斬り捨てつつ騎馬は走る。寧原で戦が始まって以来、そこで初めて人を斬る事を覚えた彼らは、同じ人でありながらまさに人の血に飢えていた。逃げるのを止め、抵抗する叛徒もいたが、それは騎馬の勢いと数の威力で風前の灯の如くに潰され、そして地に骸を晒していく――
眼前には川、その向こうに、逃げる兵の影――否、兵ならざる者もその中には混じっている。何の前触れも無く寧原で戦が起こった結果として、住み慣れた家を捨てて香南のさらに奥まで逃げ伸びて来た人々であった。血に濁った眼には、もはや敵味方の区別も付かなかった。だいいち、大桑が始まって以来起こっては潰えて行った中小の叛乱において、それが付いた験しなど一度として無かったのだ。敵と同じ場所にいたというだけで殺され、あるいは捕らわれて奴隷に売られた名も無き者は枚挙に暇が無い。それが神代以来の中原における、戦の情景の一つであった。
逃げる民の多くが橋を渡り終え、今まさに最後に橋を渡らんと奔るか細い影がひとつ――
母子であった。幼子を抱いた若い女性が独り。奔りつつ前に踏み出した足が橋の敷居に触れたその瞬間、母は足を挫きその場に倒れ込む。橋の向こうから上がる驚愕の声、だが敢えて来た途を戻り母子を助けようという者はいない。
子の泣き声に引き寄せられるかのように迫る騎馬――
騎馬の戦闘を行く騎長の眼が、弑虐の悦楽に歪む――
「――――!?」
最初に異変が起きたのは騎馬群の最後尾を占める一騎であった。突如背後から急追して来た一騎に応戦する間もなく、彼は胴から上を薙がれて死んだ。大人一人の胴をひと薙ぎする程の得物と膂力の持ち主が、騎馬の勢いに身を任せてその背後から迫って来たとき、その実殺すことには慣れ切っても戦そのものには慣れていない彼らの間に恐慌が起こるのは必定であった。長大な青龍偃月刀の一閃で、続く二騎が一気に殺られ、辛うじて応戦し得た一騎も僅か一合の抵抗で馬毎斬られて落命する。
「女――!?」
腿から脇に掛けて斬り上げられ、馬上から放り出される最中、その騎兵は最期の言葉を呟いた。その後に生ずるは地を転がる骸――――騎兵長は前方の獲物に気を取られる余り、部下を引き離していたが故に追撃を免れたが、彼が生きる事の出来たのはその短い間だけであった。
振り上げられた偃月刀を防がんと掲げた剣、振り下ろされた偃月刀に剣ごと頭を叩き割られた騎兵長が、死にゆく虚ろな目で見た相手――――女の無感情な眼が、ただ彼の死に様を蔑んでいた。
更なる騎兵の群が迫るのを、海狼は元来た路から発ち上る土煙で察した。母子を庇う様に橋の入口に馬を廻し、偃月刀を握って敵を睨む。彼女を見出し、殺そうと距離を詰める騎馬が、やがて地に転がる味方の人馬の骸を前にして狼狽し、動きを止めるに至る。海狼はそれを愉しげにせせら笑うのであった。積み上げられた骸の山。戦の勝ちが確定した以上、拾ったばかりの己が命を些細な追撃で損ねることの愚かさに、彼らは今更ながら気付いた観があった。
「こら官兵ども!」と、海狼は蛮声を張り上げる。
「この橋を渡りたくば、あたしを斃してから渡りなよ……出来ればの話だがなぁ……!」
追手に突き出された青龍偃月刀の切先が鈍く光る。同時に釣り上った眼光殺気に煌めき、男たちをして脅えさせ、遂には轡を翻して元来た途を駆けて行く。海狼の読みは当たった。
追手が完全に路の向こうに消えたことを確かめ、海狼は刀を収めた。彼女が守り抜いた兵と民は、先程まで自分たちが置かれていた死地が人事であった様に、彼らなりの逃避を続け、その結果として海狼は彼らに大きく置いて行かれた形となった。それに舌打ちを覚える間も無く、今度は「諌軍」の旌旗を掲げた騎馬が二騎、此方に駆け寄って来る。
「海狼どのーっ!!」
海狼の名を呼びつつ馬を止め、騎兵が拝礼する。
「本営より御命令です! 晋安まで退き、敵の南下に備えよと!」
「慶邑で防ぐんじゃねえのか!?」
「慶邑はこれを放棄、全軍の兵権は王郁様にこれを委譲する運びとなってございます!」
「…………!?」
眼を剥いた海狼に向かい、騎兵は平然と答えた。
「お前ら勝つ気があるのか!? 慶邑に兵糧が運び込まれ始めでもしたら終わりだぞ!」
「我らは玄方先生の御命令をお伝えするのみにて!」
拝礼こそしたものの、この場合それはこれ以上の詮索を許さないための挙作であった。慇懃無礼に終始して、終いには再び海狼から離れて行く騎馬を、彼女は憤然として見送る。北からの敵に対するに、寧原、遼陽と言った二つの回廊に面する慶邑を放棄するなど、香南それ自体の防衛を捨てたと言ってもいい愚策であるというのに――
「勝つ気があるのか?……馬鹿が……!」
空虚なまでに澄んだ天の蒼、望みの見えなくなったそれを一瞥し、海狼は地に唾を吐く。
凱旋を心から期待していたわけではなかったが、それでも不吉な兆候は慶邑の近傍に踏み入らない内に、生臭い風に乗り魯春醍の許に漂ってきていた。ただし幸運と呼ぶべき点もある。今の春醍は二百程度の守兵を幽関に残して来ても、なお一千の兵を慶邑まで連れて来られるほどに質的な充実を見ている。地方のいち城市を占拠するに足る数だ。
かつては朱宇貫軍の兵営が置かれていた荒れ野に差し掛かったところで、春醍は魯哀を呼んだ。
「魯哀どの」
「ここに」
「騎兵を四方に放ち、慶邑とその北の様子を探らせた方がいいと思うがどうだろう?」
「同感ですね」
魯哀は騎兵の分遣に同意してくれた。その直後に、慶邑方面から来る兵の姿が三々五々と春醍たちの前面に姿を見せ始める。いずれも寧原の戦の最中に統制を失い、敵騎に追い散らされて命からがら逃げ伸びてきた王律軍の兵であった。中には酷く傷付いている者もいる。
「春醍どの……」
「…………?」
魯哀に促され、春醍は敗残兵の収容を命じた。同時に、隗雲と呉楊が心得たように残兵から未だ健在な者を選り抜き、歩兵主体の自隊に加えていく。朝廷軍の南下が未だ続いており、敗報にいち早く接した慶邑の本営はいち早く慶邑を脱出してしまっているという報に接したのもこの時であった。彼らの中には朱宇貫の配下にあった者もいた。聞けば全く統制の取れない、各隊の場当たり的な開戦の結果として、統制の取れた官軍の防備に前進を阻まれ、結果として後背からの逆撃を許すことになったのだという……
「……脱出? 脱出って何処へ?」
「……おそらく……晋安だと思います」
「王律どのも御一緒か?」
「そこまでは……」
そこまで言って、その兵は後ろめたそうに表情を歪めた。王律と彼の一家が指導部より取り残され、慶邑に未だいることの、それは不快な示唆であった。
「隗雲! 呉楊!」
「ここに!」
共に敬礼し、春醍の許に駆け寄って来た二人に、春醍は聞いた。
「戦に備え得る兵の数は幾らか?」
「我らの手持ちも含め約一千。魯哀どのの騎兵も含めれば一千五百にはなります」
「騎兵からの報告を待って慶邑に入城する。官軍に慶邑を抑えられるのは拙い」
「御意!」
「心得たり!」
共に声を張り上げ、二人の義兄弟は春醍に服した。さり気無く傍らの魯哀を見遣る。魯哀もまた目礼し、春醍の決断に対する同意を示していた。その間も敗残兵が此方の位置を嗅ぎ付けたかのように四方八方から集まってくる。魯哀が騎兵を送り出すに辺り、残兵の誘導も命じていたのが此処で効いてきたかたちであった。
「春醍どの。事は急を要します。すぐに慶邑に向かいましょう」
「あ?……ああ」
魯哀に強い口調で促され、春醍は負傷者と兵百を残し慶邑に向かう旨を命じた。兵を指揮する果断さにかけては、魯哀の方が戦慣れしている分一日の長があることを、春醍も認めざるを得ない。その途上で未だ戦闘可能な残兵を拾う内、春醍の束ねる軍はいつしか三千にまで膨らんでしまっていた。兵を進める内、春醍たちは坂道の向こうに慶邑の城壁を見出す。完全に人気と生気の失せた、見捨てられた拠点としての慶邑――
「敵襲――ッ!!」
誰かが叫び、どよめきが群を圧する。不意を突かれたような一方に春醍は心臓を飛び跳ねさせ、魯哀に至っては春醍に先駆けて応戦の準備を命じている。道を外れ、装備を投げ捨てて逃げ出そうとしている者すら現れていた。それは同じく驚愕の色を隠し切れていない隗雲や呉楊が怒鳴りつけている。
「違う! 官軍じゃない!」
汚れた「諌軍」の旗に混じり「袁」と銘された小旗を掲げた騎兵の小規模な群、それが慶邑に通じる道を行く春醍らの前途を塞ぐように表れ、旗が恐慌を瞬時に解消した。僅かな睨み合いの後、ひとりの騎馬が春醍に向かい進み出る。いかにも先刻一戦終えてきたという感じの、汚れ切りやつれ切った風体の騎士――春醍たちに向かい馬上から拝礼し、その騎馬は言った。
「我が名は王律軍配下袁家軍の副将 羅王儀と申す。卿等は?」
「春醍どの……」
再び魯哀に促され、春醍は羅王儀と名乗る騎馬に向かい馬を寄せた。
「我が名は王律軍配下 朱宇貫軍の幕僚 魯春醍と申します。敗兵をまとめ、慶邑に向かう途上です」
春醍が名乗るや、羅王儀は恐縮したように低頭した。同時に春醍には思い当たる処があった。慶邑にあった王律軍の本営、そこに袁隷の配下として詰めていた貴族出身の若者だと、彼は気付く。
「これは御無礼つかまつった。拙者、我が主袁隷どのを戦の途上で見失いし故、探索の途上にござる」
「慶邑はいまや無人と聞いたが……」
「左様、ただし放っては置けませぬ。敵が慶邑を占拠しここに兵糧を集積した場合、我らが危機は一段と高まりましょうぞ」
「だからこそ我らは慶邑に向かっております。どうか貴公も、我々に同道して頂けませんか? 貴公が加わるというのであれば心強い」
「…………」
最初は困惑し、次に羅王儀は傍らの従士を顧みた。やがて彼らは納得したように頷き、再び春醍に向き直る。
「慶邑の防衛成るまで、我らが身を春醍どのにお預けいたします」
さらに進む内に、今度は袁隷配下の兵が続々と春醍の軍に集まってくる。ただし慶邑に入るまでに加わった袁隷軍の兵は二百にも達せず、寧原の戦で彼らが被った被害が決して少なくは無いことを春醍にも認識させた。その一方、羅王儀に付く彼らの足取りが軽いことから、袁隷軍における彼らの人望は、主君格の袁隷以上に彼に集中しているのかもしれないと春醍は邪推してしまう。
「報告ぉ――く!!」
蛮声を張り上げ、また騎兵が近付いてくる。魯哀配下の騎兵だ。
「朝廷軍慶邑まで十里の距離にまで接近! その数およそ五千!」
「全軍、駆け足で慶邑に入る! 入ったら全ての城門を開けろ。兵は全て城中に潜ませ、そして城壁に持てるだけの旗を立てるんだ!」
「何と……!」
明らかに我が耳を疑った幹部たちの前で、春醍は不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫。わたしの言うとおりにすれば、みんな無傷でこの戦いを終われる」
官軍には、勢いがあった。全軍を束ねる鄭塁欽もまた馬を駆り、何時しか追撃を続ける騎兵の先頭にあって慶邑へと鞭を揮っている。
風に身を任せて駆ける内に雑念が消え、塁欽の意識も何時しか過去にまで廻った。あの頃の塁欽は朝廷の中央軍たる禁軍のいち騎兵。大封から命を受けた監察使の衛兵として北限へと赴いた時期のことだ。そこは太平の永きを謳い、風花の心地良きに身を委ねるを日常とする中原とは明らかに対極に位置する北限の地、そこは海原のごとき平原と海原の中に浮かぶ小島の如くに荒涼たる岩山の交互に広がる世界、そこは嵐のごとき寒風と氷雪の交互に吹き荒ぶ大地。そしてそこは、全土から半ば追放同然に集められた大桑の兵たちが、誰にも顧みられること無く、終わることも無い戦いを続けている終焉の地でもあった。
それ故に北限の兵は強い。馬を操るに中原の兵よりも巧みで、弓射の術にも秀でた男たち。強い者しか生き残れないのだからそれも当然だ。広大なる中原、世界の文明の中核たる中原、そこに住まう誰もが豊かな生を謳歌している筈の中原に、かくも苛酷なる生を送っている者たちがいる――この事実だけでも、塁欽のような精兵すら怯ませるのに十分であった。
だが――
刺青、胡髪、それ以外にも服装や装備の端々に窺える塞外の民の習俗、中原から放逐されたも同然の彼らはこうした習俗に容易く靡き、ごく自然の内に染まっている。兵の中でも許された者は塞外の民の女を娶り、子まで為している。最も精強な騎兵は当の塞外の民によって取り仕切られ、彼らの中でも特に見出された者は北限軍の中枢にまで取り立てられていたのであった。中央の預かり知らぬ処まで進行している中原の民と塞外の民との融和――それはまるで、北限という地域が大桑国から政治的にも文化的にも完全に独立したひとつの国家に変貌しつつあるような印象すら塁欽は受けた。
当然、受けた衝撃は塁欽自身よりも朝廷より派遣された監察使の方が大きかった筈である。何より北限を束ねる燕陽王 王嵐師が皇帝の許可なく城塞を増築し募兵していること。その兵の多くが塞外の民で占められていること、さらには軍の維持に必要な兵糧と給金を、それを必要とする兵の実数より過大に申告し、不正に着服していること――それらの罪状は喩え皇族と言えども任地より大封まで召喚され、皇帝の面前で査問された後極刑に処されるに十分な要素を満たしていた……事実、監察に日を費やす内、数多の不正を見出した監察官自身に危機が及ぶに至り、塁欽らは殆ど逃げる様に北限より出立するに至ったのであった。折から始まっていた風雪が、自分たちの行程を隠してくれるものと、淡い期待を抱いていたことを塁欽は今でも覚えている。
塁欽らの逃走は、恐らくは北限軍からしても予想の範疇であった。
氷雪舞う中での逃避行の途上、塁欽らは急追してきた北限軍の騎兵に捕捉される。あの時の塁欽ら衛兵は五十余りであったが、塁欽らを捕捉した追手はわずか独り――勝負は、始めから見えているかのように思われた。しかし巨大な黒馬に跨った魁偉なる影。兜の天辺から爪先までが黒い甲冑に覆われた禍々しい影を遠方より見出した時、当初の余裕は驚愕へと容易に転じた。
単騎は塁欽らを見出すや馬脚を猛然と速め、さらには長大な方天戟を振り翳して迫ってくる。禁営の長が応戦を命じた時には、その獰猛なる単騎は既に指呼の間に入っていた。方天戟が真円を描き、最初に対峙しようとした三騎の首をあっという間に刎ね飛ばし防備を突き崩す。その後は怒涛の如き殺戮であった。方天戟の間合いに近付けず次々と首、あるいは腰から上を刎ね斬られる騎士たち。敵は凶悪な得物を軽々と操り、まるで草でも刈るように禁営の兵を蹂躙していく。塁欽もまた単騎襲撃者に立ち向かい、ほんの二合で方天戟に突かれ、馬から弾き飛ばされた。
「…………!」
塁欽が再び意識を取り戻した時には、風雪はすでに吹雪となって道と言わず林と言わず見渡す限りの全てを覆い始めていた。なるべく目のみを動かし、当時の塁欽は周囲の様子を探らんと試みたものだ。
やがて眼差しの先に無残に斬られた同僚、そして監察使の姿を見出した時、塁欽は微動だにせぬまま襲撃者の気配を探る――恐怖は、雪原を踏みしめる蹄の響きとなって塁欽の至近にまで迫って来た。息を殺し、恐怖から逃れんと――
「――――!」
落雷の如き疾さで振り下ろされた戟の先端が雪原を抉る。それも塁欽の眼前であった。叫ぼうとして、寸前で理性を振り絞り思い留まる。欹てた耳に低い笑い声が轟いてきた。
『…………?』
「――女の声だった……女の笑い声だった」
「上校尉令どの。何か?」
「……いや。何でもない」
並走する楊倫に聞かれ、塁欽は我に返った手綱を握り直した。かつては露店が立ち並んでいた街道を駆け抜けた先、城門を開け放ったままの慶邑を見出したところで塁欽は荒々しく馬脚を止めた。楊倫はじめ彼の部下たちもそれに倣う。
「突入しないのですか? 上校尉令どの」
「待て、あれを見て何とも思わないのか卿は?」
「…………?」
よく見れば、それは異様な光景であった。城門が開けっ放しであるのに、その城壁には叛乱軍の掲げる「王律」、「諌軍」の旗が無数に棚引いている。防備を固めているにはあまりに間の抜けた光景ではないか?
「旗を立てているのに城門が開きっぱなし……どういう積りなのかあれは?」
「単に人手が足りぬか、恭順の意を示しているのでは?」
「恭順の意を示すのであれば、とっくに使者を立てて来るであろうが」
部下に待機を命じ、塁欽は馬を進めた。後を追おうとした部下を後ろ手に制しつつ馬脚を徐々に速める。城門まで指呼の間に迫った時、何処からともなく一本の矢が過ぎり、馬の足元に刺さった。
「校尉令どの!」
部下が叫び、塁欽は慌ただしく馬を翻す。城市から距離を置くべく走る彼の馬を追うように地面に刺さる矢が二本、三本――部下の許に駆け戻り、塁欽は声を荒げて見せた。
「伏兵か!……姑息な!」
「では……」
「一旦引き上げだ。野営地に戻るぞ。翌日更に兵を整え、本格的な攻城に当たるべし!」
「心得ました!」
敵は城内に伏兵を潜ませ、こちらの入城を手ぐすね引いて待ち構えている。攻撃を強行すれば今日の戦勝に一抹の汚点を残しかねない――それを恐れたが故に塁欽は後退を選び、部下もまたこの点同意見であった。
「官軍、撤退していきます!」
「まだだ……まだ動くな。官軍が山際から消えて無くなるまで」
土埃を上げ、官兵が退いていく。速やかなる後退の様を、城壁の陰に在って魯春醍はじっと窺っていた。やがて敵影は山際に取り込まれるように消え、次には静寂が戻り始めた。安堵――
「やりましたな。春醍どの!」
城壁に潜みつつ、羅王儀が声を弾ませる。一方の春醍は顔からなお緊張を消していない。そこに、王儀の思い詰めたような声が春醍の耳を打つ。
「春醍どの、お許しを頂ければ数騎を率い、我が主君を探しに外に出たいのですが……」
「ああそうだった。ついでに周辺の様子も見てきて頂ければ有難い」
「心得ました!」
王儀の目が笑っている。城市の警戒を隗雲、呉楊に任せ、春醍は魯哀を伴い市中の探索に出た。羅王儀が城市の外に出るにあたり、魯哀が騎兵を二十騎程分遣してくれたのは有難かった。探索の道すがらに春醍が礼を言うと、魯哀はばつ悪そうに白髪を掻き、微笑んで見せた。この辺り、初心な少年の面影が残っている。
「……ここだよ。ここに王律どのの一家が住んでいた」
春醍自身も常宿としていた酒場を指し、春醍は言った。魯哀を外で待たせ、先ずは春醍自身が踏み入る。官軍進撃の報がよほど急であったのだろう。酒場には飲み掛けの酒と調理し掛けの食材が床に散り、竈には未だ温かみが残っていた。宿の部屋へ続く階段を上り、先ず相部屋が空であるのを見定めてから部屋の探索に入る。吹き抜け式の通路から見下ろした地階には、魯哀が踏み入り彼なりに探索を始めていた。
最も隅の部屋に気配を感じる。半開きの戸から覗いた先――ひと固まりになり震える人影を見出し、春醍は意を決し、戸を押し開く。
「…………?」
「――――!」
女子供の悲鳴が聞こえる。と同時に春醍の目と、部屋の隅に在って妻子を庇うように抱く中年男の目が合った。驚愕は一瞬。だがその後には心からの安堵が訪れる。
「あなたは……」
「よかった……生きておられたましたか」
妻子を抱く王律の前に進み出、春醍は拝礼しようとし、王律は春醍の手を握りそれを止めた。
「あなたも生きていてよかった……慶邑はこの通り、見捨てられたも同然です。我が一家も……」
「……いえ、官軍はもう去りましたよ」
春醍は王律の手を取り、外に出るよう促した。階下にいた魯哀が二人の姿を認め、春醍が先ず声を掛ける。
「魯哀どの、この方が王律どのです」
「魯哀! 王律様に拝謁致します!」
「心苦しい……私の様な実の無い者に、立派な若者が平服するというのは」
「…………」
悄然とした声で頭を振る王律に、春醍は何故か気遅れにも似た感覚を覚えた。
慶邑の北、鄭塁欽の陣――
「――勅命である!……」
勅書を構えた州令の使者が厳かに文書を読み上げる。それを鄭塁欽ら武官は下座に在って低頭し勅命の内容を拝聴する。
「……諌軍を僭称せる叛乱軍鎮撫に当たり諸卿らの示した働き誠に見事なり。朝廷は褒章と恩賞を以て諸卿らの武勲に報いるものなり。以後は現在の占領地からの前進はこれを許さず。軽挙妄動を慎み、以て討伐軍本隊の到着あるまで香南北部諸州の防備及び民生の回復に当たるべし――」
「…………?」
勅命を受け、塁欽は傍らの楊倫と顔を見合わせた。討伐に当たる前に州令及び県令をも交えて打ち合わせた作戦と、勅命の内容は完全に食い違っている。使者が文書を読み終えるや、塁欽は喰い下がるように言った。
「州令は我らに約束された筈です。香南北部の叛徒鎮撫は我らに任せると」
「勅命でございますぞ。塁欽どの」
「それに、何も大封から大軍を南下させる必要はない。あと五千、兵を送って頂ければ叛徒の鎮撫は成るのです」
「しかし赤蓮教徒がおります」
「では尚更速やかな南進が必要でございます。少なくとも慶邑とその周辺諸群を確保しておかねば南に対する防備も覚束ぬ。防衛線を張るには、この位置は中途半端に過ぎる」
「勅命は、これを許さず……どうか堪忍の程を」
上座から一転、恐縮し低頭する使者を苦々しげに睨み、塁欽は使者に歩み寄った。
「……勅書を、お見せ頂けまいか」
使者は塁欽の言に従った。渡された文書を手繰るように一読し、国璽の捺されている筈の最後部にまで目を泳がせた時、塁欽は我が目を疑った。
「……これは、私の知っている国璽の紋様ではない。この鳳凰の紋様……皇后の印璽か?」
「はい……淕皇太后陛下の勅にございます」
再び低頭した使者を、塁欽幾下の武官が取り囲んだ。
「皇帝陛下の勅ではないのか!?」
「州令は何を考えている? どうして大封に確認しない!?」
「だいいち大封では、何が起こっているのだ? 皇帝陛下は?」
強面の武官に詰め寄られ、完全に怯えきった表情を隠せないでいる使者。塁欽は場を取り持つ必要性を察した。
「控えよ卿ら。仮にも勅使であるぞ」
武官を下がらせ、使者に部下の非礼を謝罪する。対して塁欽を再拝した使者に、塁欽は言った。
「増援とやらは、本当に来るのでしょうな?」
「はい、目下大封にて集結中でございます」
「大封ですと……禁軍というわけですか?」
「いえ……勅許を受けた貴族が領地より兵を募り、叛乱軍に対するとのことでございます」
「郷兵ですか……それなら香南及びその近隣州から集めて叛徒に対した方が理に叶ってございましょう?」
「香南の兵は、郷里が近き故叛徒に同調する恐れ大なり、遠方より兵を集め鎮撫に臨みたいと、淕皇太后陛下の御意向にございます」
「勅使の申しよう、塁欽よく判りました。しかし無念だ……!」
語尾を荒げ、塁欽は彼が戻って来た途に目を転じた。その路を進んださらに先に、彼が確保を企図し諦めた慶邑がある。
多少の被害には目を瞑っても、慶邑を取るべきであったか……そのような後悔が、耐えがたい苦みを以て塁欽の胸中を覆い始めていた。
慶邑が王律軍の手に戻ったという報が広がるのは早かった。二時も経たない内に敗戦など無かったかのように王律軍の兵は一路慶邑を目指し、遂にはかつての叛乱軍本営のような活況を呈し始める。寧原の戦は負けと聞いたが、兵の損失はそれ程多くは無いのではないかと春醍自身も思い始めていた。
宿屋では、王律の妻が夕餉の準備を始めていた。春醍も夕食の席に誘われたのは嬉しかったが、それ以前に王律の妻が食事の準備をてきぱきとこなしていることに驚いた。宿屋の主人が言っていた「庶民と変わらない暮らしぶり」は、単なる冗談ではなかったというわけだ。城門で警戒に当たる隗雲、呉楊も夕食に誘うべく宿屋の外に出た春醍を、騎馬で駆けて来た羅王儀が呼び止めたのはそのときであった。
「春醍どの!」
羅王儀は一騎の騎馬を従えていた。あの派手な鎧こそ来ていなかったが、貴人然とした風体には見覚えがあった。
「紹介します! 我が主君、袁隷です」
声を弾ませ、袁隷に前に出るよう促す。良家の出、それも一軍の指揮官とは思えない汚れた服と顔は、敗勢の後に彼が言語に絶する辛酸を舐めたことをそのまま物語っていた。
「馬上から失礼する。折角の名馬を盗まれてしまってな……私自身は奮戦したのだが、全体の戦局を支えるまでにはいかなかったようだ。無念だ」
そう言い、袁隷は大仰に頭を振って見せた。春醍ですらその大げさな素振りが気になったが、それ以上は詮索せず、今度は王儀が再び春醍の前に進み出る。
「我々はこれより晋安に向かいますが、春醍どのも同道しませんか? 朱宇貫どのも向こうにいるようですし」
「いえ……私は用がありますので」
「そうですか……では縁があればまたお会いしましょう。まあ、再会はそう遠くないと思いますが」
「お気を付けて」
春醍は王儀を再拝し、王儀も馬上ながら見事な礼で応じる。彼の仕える袁隷と言えば、とっくに羅王儀の許から離れ、あちこちに声を掛け回っていた。
「誰ぞわたしの馬を知らないか? 銀色の毛をした見事な馬だ!」
主人の様子を顧み、王儀は呆れたように頭を振っている。それも一瞬、見送る春醍に笑顔で手を振り、馬を翻し去って行った。
「そうか……宇貫がいるのか」
意外だとは思わなかった。ただ、彼を通じ王律軍の中枢と関わる切欠ぐらいは作れたのではないかと思う。その一方で官軍の動きが気掛かりであった。再度の攻勢に耐え得る兵力は徐々に集まりつつはあるが……
「…………?」
何時の間にか、王律の子三人が春醍の足元に纏わり付くようにして彼の顔を窺っている。夕食に呼びに来たのだろう。
食卓を共にすることに異存は無かったが、王律と別席で酒を酌み交わすことになるとは、春醍には想像の外であった。王律は手ずから春醍たちに酒を勧め、皆の酔いが回った頃には、実の家族にも似た和やかさが男たちの間には生まれていた。
春醍は、聞いてみた。
「本営の幹部の皆さんは、王律どのをして皇帝陛下に諫言申し上げると言っていましたが、それは事実なのですか?」
「……末席とはいえ私も皇統に連なる者、それ故に私が叛徒を指導するという形を取れば朝廷と交渉し易く、また咎めも重くはならぬと踏んだ上で私を指導者に押し上げたのでしょう。私自身、最初は乱れた政道に憤りを持っておりましたし、叛徒の意図は殊勝な考えだとも思っていました」
「最初……は?」
「……だが、あなた方を信用して申し上げるが、叛徒の指導層の真意は皇帝陛下に諫言申し上げることではない。どうも彼らの真の目的は、私を押し立てて皇帝陛下に圧力を掛け、皇統に連なる他の者にご譲位せしめることにあるようなのです」
「確か、今の皇帝は先帝の摘孫でしたね」と、魯哀が言った。王律は頷いた。
「左様、叛乱軍にとっての打倒の対象は大桑国そのものではなく先帝陛下、しかし先帝陛下の崩御を機にその御摘孫……つまり今の建宗様になったのです」
「わかった……!」
春醍は察したが、むしろ見えてきた事の真相があまりに衝撃的であるが故に、半信半疑に陥ってしまう。
「先帝には三人の男子がいた。死んだ長子は建宗の父親、もうひとりは皇位継承から脱落して、さらにもう一人、第三子は確か……」
王律は言った。
「おそらく……背後で糸を引いているのは第三子、王可明どの、ひいてはその背後にいる淕氏でございましょう」
「ひどいな……皇位欲しさに叛乱をでっち上げたのか」
怒りよりもむしろ失望を春醍は覚えた。民のため、大桑のために善かれと思い始まった筈の叛乱が、その実全て朝廷の簾蓮の向こう側にいる連中の掌の上であったという不快な事実……おれは、そんな魑魅魍魎の蠢く場所に仕官を求めようとしていたのだ。なんという見込み違いであろう――
「――王律どのは、これからどうなさるお積りですか?」
「私は、今回の寧原における敗戦を以て、叛乱軍指導者の位を追われる仕儀と相成りましょう。叛乱軍の兵権は、遠からず晋安にいる王郁どのの握るところとなるでしょう」
「王郁!? あの前 暉朗県令の王郁ですか?」
先刻までの和やかな表情を一変させ、色を為して聞いた隗雲に、王律は頷いた。
「左様……まあ、皇統の系譜からすれば私よりも王郁どのの方が王家を名乗るに相応しいお血筋でございます」
「ありえない!……あのようないい加減な男に諌軍の舵取りをさせるなど」
「王郁? 王郁って誰だ?」と魯哀。
「香南は衛州 暉朗県令だった男ですよ。横暴な県政で民を苦しめ、あまつさえ県の財貨を横領し放蕩三昧の生活を送っていたのがお上に露見して逃亡を図った男です。今ではすっかり落ちぶれて、何処かの山賊の厄介になっているとは聞いていたが、まさか叛乱軍に加わっているとは……!」
王律は嘆息した。
「私は神輿としてはもう用済みのようだ。乱の後始末が出来ないのは心苦しいが、元の筵売りの暮らしに戻れるだけ気が楽になります。だから指導者だの王候だのの地位になど未練は無い。ただ最後まで妻子とともに連れ添うことが私の願いなのです」
「それで、本当に宜しいのですか?」
春醍は問うた。途端に、王律の拳と肩が震え、大粒の涙が王律の眼から零れ出す。
「これでいいものか!……私は国を乱してしまった。己が欲望のために国と民を蔑にする卑劣なる輩に、中原を壟断させる切欠を我が手で作ってしまったのだ!……これでは、偉大なる高祖様に顔向けが出来ぬ!」
酒器を放り、王律は先刻までの謹厳な表情を崩してまで泣いた。困惑が春醍をして目を空に泳がせ、そして魯哀を始め付き従ってきた仲間が春醍のことを窺っているのに彼は気付く……だからと言って――
「――おれに何が出来るんだ」
宿屋の屋上から問いかけたところで、殆ど灯の消えた夜の城市から答えが返ってくるわけでもない。当の春醍もそれを期待してはいなかった。宴から醒め、かといってそのまま寝床に赴くには今の春醍の抱える憂いは重過ぎ、憂いを軽くするには更なる量の酒が必要であった。
おれは、香南に長居し過ぎたのかも知れぬと、春醍は考え始めている。
単に売掛金の回収に来た筈なのに、いつの間にか叛乱軍の主簿まがいのことをやらされ、さらには一軍の指揮までやった。これだけでも十分に一生分の緊張と驚愕を使い果たすような経験であろう。天はこの魯春醍に、これ以上に何をやれと言うのだろう?
「おれに……何が出来る?」
「――もう沢山だ。大封に帰りたい……とか思ってるんじゃねえだろうな阿春?」
「――――!?」
背後から投げ掛けられた声は、文字通りに春醍の内心の臓腑を抉った。かと言って背後を振り返る気にもなれなかった。
「……海狼か?」
春醍の背中に、嘲笑するような笑いが聞こえた。次に瓦を踏みしめる音が聞こえ、海狼は春醍のごく傍に腰を下ろすのだった。
「あんたは一兵も損なわずに幽関を奪り、そして慶邑も奪った……それも、ひとりの敵兵も殺すことなく」
「偶然だ。そうじゃなかったらツイていただけだ」
「しかもあんたは手持ちの兵を五倍にして帰って来た……晋安に引き籠ってる奴らはあんたのやらかした事に驚いてる。宇貫に至ってはあんたが慶邑を取り戻したと知った途端、威張り出しやがった。何せあんたは宇貫の手下だ。手下の功績は親分の功績って寸法さ」
「譲るさ……功なんて」
「譲る? 何故?」
問う海狼の口調に、険しさが混じり始めている。
「こんな処で挙げた功績なんて、大封には持って行けない。持って行ったが最後、このおれも晴れて賊の仲間入りじゃないか」
直後、春醍は襟から引き摺られ、押し倒された。圧し掛かる様に春醍を抑えつける海狼の眼が星明りを吸い込み、血に飢えた獣の様なぎらつきを放っている。温い夜風が、血の臭いと女の匂いを春醍の嗅覚に運んできた。特に前者――この女、今日の戦いでも相当殺したのだろう。
「甘ったれるな阿春。あんたが大封に戻る方法はもう一つしかないんだ。それはあんたが王律なり王郁なりを奉じて、大軍を引き連れて大封に上るしかもう帰る手段は無い!」
「おれに大桑を滅ぼせというのか? おまえは……!」
「別にあんたに滅ぼされなくとも、大桑はもう長くは無いんだ。大桑に引導を渡す仕事は、他の誰かにやらせりゃいい」
形のいい口から歯をむき出しにして、海狼は笑い掛けた。白い歯が、獲物に牙を剥き出した狼を春醍に連想させた。
「阿春……今のあんたは、ものすごく幸運な位置に居る。晋安のやつらが誰も顧みなくなった王律を担いで、此処で一派を起こせばいい。冴えない書生から一気に派閥の頭目……下手すりゃ王にすらなれるんだぞ?」
「王律どのが望んでいない。おれは王律どのを野に帰す」
「阿春!」
「やめろ! おれをこれ以上引き込むな!」
満身の力を込め、春醍は海狼を押し退けた。当然ふたりの距離は広がり、ふたりは互いの眼光を睨み、荒れた息を整えつつ暫く対峙を続けた。
「この馬鹿!……天命を棒に振る気か!?」
「意に沿わぬ天命を厭うのも人の性だ!」
海狼はあらん限りの怒気をその低い声に振り絞り、春醍は海狼から目を逸らすまいと身構える。やがて海狼から怒気が退き、今度は悟った様な無表情が春醍を見据えた。おもむろに海狼は上衣を拭い、さらには胸から腹を覆う帯甲をも拭う――顕わになった上半身を翻し、稽古を付けられた時にも見た背筋に直に接した時、あるものを認めて春題は息を呑んだ。
「婢章……!」
焼印――背中に赤々と刻まれたそれは三つ。刻まれた字は、かつて彼女の持主であった者の姓なのであろう。それは眼前の海狼という名の女が、かつては人間として一切の自由の無い奴婢として、三人の人間の所有物として生きていたことを示していた。
「阿春、見ろ。これがあたしの天命だ」春醍に背中を見せつつ、海狼は言った。
「嘘だ……何故?……こんな……!」
絶句と困惑をない交ぜにして、うわ言が虚しく漏れる。終いには何も話せなくなり春醍はその場にへたり込んだ。奴婢に印を焼付ける慣習自体、遠い昔に廃れた慣習の筈であった。それ以前に、大桑国には奴婢という階級など法的には存在しない筈なのに――
「阿春、生まれついた時からあたしは奴婢さ。父親も母親も名はおろか顔すら知ったこっちゃない。物心付いた時から見ず知らずの家で馬車馬のように働かされ、またある時は変態の玩具にされ、仕舞には殺しの術まで仕込まれた……それが今のあたし、侠客海狼様の隠し様の無い過去。天命ってわけさ……こんな天命、あんたが言う様に今更厭えるか……!」
肌を顕わにした女の、吐き出す言葉に満ちる苦渋を春醍は聞く。やがて春醍は俯き、虚ろに転じた眼もそのままに聞いた。眼から、大粒の涙が零れ始めた。
「……そんなものまで曝け出して、おれに何をしろと言うんだ? おれはおまえの婢印をまともに見られるほど、立派な人間じゃないのに……とどのつまり天命なんて、天下国家なんて関係なく、おれは気ままに生きたいだけなのに……」
春醍の独白に似た言葉――――それを聞きつつ、海狼は黙って身繕いに掛かっていた。
「阿春、あんたがそう思い続けたいのならあたしはあんたにはもう何も言わない……だがな阿春、天命はあんたがそれを避ける度にあんたから大切なものを奪っていくぞ。それだけは忠告しとく」
海狼が去った。だがそのことを春醍が自覚するのに、もうしばらくの時間が必要だった。ただ打ちのめされたという思いが春醍の心を暫し閉ざし、星々の散乱する夜が、重い静寂の下で過ぎていく――




