第四集 「初陣」
香南 慶邑――
六月を過ぎた頃には、香南に注ぐ太陽はより熱く、同時に瘴気のごとき湿気が大地を覆い始める。創建以来ろくに修繕を施していないが故に城壁の半分が崩壊した慶邑の街を出れば、それがよく判る。
本営からの指示を携えて二輪の驢馬車を二刻程走らせれば、魯春醍は彼の属する軍営に辿りつくことになる。その二刻は、今となっては故郷大封より完全に隔絶された身となった春醍にとって貴重な時間となりつつあった。
魯春醍は王律軍、または諌軍と名乗る叛乱軍の幹部となった。正式には王律軍隷下の将 朱宇貫が率いる一隊の主簿、言い換えれば兵站部門の長といったところだ。若干十九歳、さしたる軍役の経験も無ければ武術の心得すらない、そのような若者がどうして一軍の上層部に入りこむことが出来たのか……否むしろ、それだからこそ春醍は朱宇貫の幕僚になったのである。
書生、しかも科挙で殿試まで狙える程の文才と知識を持つ人間を放っておく者は王律軍の中にはいなかった。簡単に言ってしまえば字の読み書きが出来ると言うだけで、春醍は一軍の幹部になる資格を備えていたとも言える。命令の伝達はもとより命令文の起草に檄文の作成、そして報告文と議事録の作成……さらには騎煩生の仕事を手伝っていたことの余波として、記帳や金銭の出納にも少なからぬ知識があった春醍は、ときとして王律軍の財務にも駆り出されていた。
王律軍が、彼ら自身を「諌軍」と称している理由は判った。その真意は彼らが指導者として担いでいる王律にあった。彼らは王律を皇帝に押し上げる為ではなく、皇室に連なる血脈を有する王律を代表として皇帝を「諌め、退位させ」ようとしていたのである。具体的には、王律軍の首脳部は王律を押し立てて大封まで上洛し、大封の朝廷と何らかの交渉をしようとしている。それ以上のことは春醍にはまだ判らない。ただそれは首脳部における内々の話で、下級兵士として叛乱に参加している無辜の人々は「諌軍に参加して戦えばこれまでの貧しい暮らしから逃れられる」、「王律様ならば、貧窮に喘ぐ我々を救済し、大桑国に蔓延るあらゆる不正義を糾弾してくれる」といった単純な扇動を真に受けて叛乱に加わっているのに過ぎない。
事実、香南では予期せぬ気温低下が種苗の発育不全となって特産の米作地帯を直撃し、食糧生産に甚大な被害が及んでいたこと、それにより飢え、田畑を離れた農民が流民となり、王律軍のように強大な武装勢力へと成長しつつあるという事実を、春醍は今になって知った。春醍のみならず中原の中部、秋州以北の民がそのことを意識せずに済んだのは、現地の執政官が失点を恐れて事態を大封にまで報告しなかったこともあるが、元々中原中部以北が古くから開拓が進んだ麦作地帯にして文化帯であり、アワやキビ、ソバといった寒冷に強い雑穀類の栽培もまた広範囲に行われていたからである。
丞相李鶴元が、米価調整策の一環として大封近傍に官営の米蔵を増設し、豊作時に余剰となった大量のコメを備蓄していたこと、北限の気候にも耐え得る品種のコメ (ただし所謂「陸稲」で、収量と味は良くない)の大規模な栽培が始まっていたことも、香南で進行している事態の影響が中原中部にまで伝播しなかった (というより中々危機として認識されなかった)事情の一端を物語っていた。大封の様な城市で香南の異変を勘繰るにしても、「最近少し米の値段が上がったかな?」程度のものでしかなかったのだ。後世の研究で、この時代の世界は全球的な寒冷期に差し掛かっていたことが判明している。そのことにより影響を被り、あるいは衰亡の危機に直面した文明や種族は極めて多かった。ここ中原の場合はどうであったか――
荒れ道に驢馬車を進めつつ、春醍はさらに思考を廻らせる――王律軍の財務に関わるようになって判ったこともひとつある。
それは王律軍に資金や物資を提供している富裕層がいて、その数が多いことである。多くが香南の特産物たる米を扱う商家、小地主や富農、中には大桑国建国以前から続く名家も含まれている。脅迫によるものか、あるいは進んで叛乱に関与したのか?――少なくとも名家の方は後者であることはすぐに判った。まるで古代の英雄譚にでも出てくるような、過剰なまでに装飾した鎧を纏い、物干し竿の様な朱槍を振り回しつつ、慶邑の街中でやはり飾り立てた瞬馬を乗り回す青年――
「――袁家の馬鹿息子」
と、当人のいない場所で王律軍の兵たちは彼のことをそう言っていた。香南の袁家は知っている。というより一時は大封にまで聞こえた名家だ。香南に広大な土地を有する大地主で、過去に一度は門下省令、三度に亘り六部の尚書職を輩出している……とは言ってもそれも百年前までのことで、今となってはその栄華はすっかり鳴りを潜めてしまっている。その袁家の長男であるらしい。それも彼一人ではなく、勝手に家産を持ち出して千人に上る兵を募り、王律軍に馳せ参じてきたというのである。当然、それ故に幹部になった。
その「袁家の馬鹿息子」こと袁隷と、春醍は慶邑では何度も出くわす。地方城市故に慶邑は大封よりも狭い、それも遥かに狭い。だから連絡や庶務で慶邑の本営に赴く度に嫌でも道端で出くわしてしまうのだ。本営付きだから慶邑の街中を巡回し防備を検閲しているのかと思いきや、ただ単に騎乗姿の自身を王律軍の兵や住民に見せ付けたくて、馬を乗り回しているだけであることに春醍は気付き、内心で呆れた。むしろ時折目にする彼の副官という、自分と同年代の青年の方がより指揮官然としている。人づてに聞いた話では大封の下級貴族の出で、親類が犯した何らかの罪に連座するのを嫌い、此処まで逃げてきたところで袁隷に拾われ、王律軍に合流したということだが……
荒れ道の両脇を塞ぐ叢が消え、次には荒野が広がる。その使用を巡って方針が二転三転した後、遂に開拓を放棄された土地だ。今では王律軍の練兵場として使われている。ほぼ連日のように音程のずれた太鼓や銅鑼の音と、何処からともなく掻き集められた、まだ兵士ですらない流民の発する鬨の声――それらが重なり、まるで幽鬼の絶叫のように荒野を圧している。こうなる前は鹿や狸、野犬の住処だったそうだが、王律軍が土足で踏み入り戦の準備に使うようになってからというもの、彼ら先住者は忽ち逐われる側となった。単に追い出されただけではなく、捕らわれて食われたのである。春醍も相伴に与った野犬の肉は不味かったが、それでも懐かしき大封で、騎煩生に連れて行ってもらった夜店の屋台で食べた狗鍋の味を思い出し、春醍は不覚にも涙が溢れたものであった。もう少し辛子を効かせてくれたらよかった……などとも思ったものだ。
棍の克ち合う音、棍が人間の胴を打つ鈍い響き、そして誰かが斃れる音が聞こえる。列を為し、太鼓の音に従って動き、鬨の声を張り上げるという基本の「き」から始めねばならない大多数とは違う、腕に覚えのある連中がその一角に集まって武術の稽古をしている。大抵が所謂山賊や侠客の類で、中には廂軍にいた者もいる。彼らの多くが戦では十名から五十名程度の小部隊を率いることになるのであろう。そんな男たちの輪、ここ数日常にその中心にいる人影を目にする度、春醍は内心で鼻白む。
「――――!!」
表記不可能な蛮声を上げ、男が突き出した棍の切っ先を、海狼の突き出した棍が弾き飛ばす。返す刀で身を捻り、背後から突き出された棍が男の側頭部を強かに打ち、昏倒させた。一刻に遥かに満たない僅かな間の出来事――
「――次!」
海狼の発した声が、男たちの敵愾心を煽る。棍を振り上げて飛び掛かる男。だが一歩早く突き出された海狼の棍がそいつの脚を払い、薙ぎ倒した。彼の後の、海狼と対峙した男たちの運命も同じであった。海狼に挑んでは一合も踏み入ることが出来ずに倒され、薙がれる男たちの無様な姿……怖さというより小気味良さをその光景に覚えつつ驢馬車を進める内、何気なく背後を顧みた海狼の目と、春醍の目が合った。
「…………!」
慌てて眼を逸らし。春醍は驢馬に鞭打ち道を急がんと試みる。そろそろ朱宇貫の幕舎が見えてくる頃合いであった。
海狼が、眼を怒らせて驢馬車を見送っている。
「春醍、魯哀という男を知っているか? お前と同じ魯姓だ」
幕舎の出入り口を潜るや朱宇貫に投げ掛けられた問いに、春醍はさすがに面喰った。当の宇貫はと言えば、卓上に広げた香南の地図をそのままに、困惑する春醍の表情を愉しんでいる。
「何だ? 魯家の血筋は香南にはいないのか?」
「いることはいるが……人違いだろう」
「人違いで無い方が助かるのだがな……お前との誼で俺たちの陣に引き入れ易くなる」
魯哀という、僅か十六歳の少年が精強な部隊を率いている。元は僧であったそうだが、仏法を敵視する赤蓮教の軍勢に寺を焼かれ、同じく村を焼け出された信徒を糾合して反赤蓮教の強力な義勇軍を作り上げたらしい。それだけでも異類の才幹だが、その魯哀はなお、香南のさらに南で赤蓮教の軍と戦いつつ北上を続けている。王律軍に合流するためである。
「魯哀……僧形……そういえば……」
言い掛けて、春醍は口を噤んだ。春醍の属する魯家は元々本家から別れて大封に出、根を下ろした家で、魯家自体の本家は香南の北にある。春醍が生まれた頃、その香南の魯家でもひとり男子が生まれたが、生来白髪と白い肌を有するが故に忌まれ、物心付いて早々と寺へと預けられたのだという話を春醍は聞いたことがあったのだ。それが魯哀なのかもしれない……とは言っても、会ってみないことには判らない。
「知っているのか? 春醍」
「いや……」
白々しく応じた春醍を、宇貫は訝しげに睨む。話題を変える必要を春醍は感じた。
「香南の南ってことは、張葉堅がいるところだろう。途上でやつに捉まらなければいいけど」
「あいつなら今頃街を焼くのに夢中だろうさ。三度の飯よりも付け火と人殺しが大好きだそうだからな」
張葉堅という、常軌を逸した赤蓮教の指導者の名を、春醍はつい最近に知った。彼の掠めた市邑から命は文字通りに消える。反抗した者、逃げ遅れた者、降伏した者も残らず殺される。殺されるだけならまだしもその躯は惨たらしく辱められ、挙句の果てに喰われると春醍は聞いた。
だが張葉堅がどのような人物か、正確に知る者は王律軍の中にはいない。さらに言えば赤蓮教の中にも知らない者が多い。何故かというに戦闘、あるいは虐殺に臨む張葉堅は常に鉄の仮面でその素顔を隠しているためで、それ故に彼は「鉄面龍」と呼ばれている。それが一層、張葉堅という男に風聞にある粗暴さとは趣の異なる、掴みどころのない不気味さを与えているようにも思えた。
宇貫の独自に得た情報を本営に挙げるべく報告文を書き、同時に隊の訓練の進捗状況についても報告文を上げる。特に後者は本営の心証をよくするべく、自隊の練度の向上具合から頭目たる宇貫の有能さ、部下の心服具合については過剰なまでの誇張と虚飾が求められる――それが宇貫軍における春醍の日常で、組織内での宇貫の浮沈が自身の人生の進退にも関わるという意味では、科挙にも匹敵する緊張を伴う日々であった。
酒を満たした壺を、椀に傾けつつ宇貫が言った。
「……そういや海狼が愚痴ってたぞ。阿春は何で教練に出ないんだってな」
「というか何であいつが王律軍にいるんだ?」
「武術師範の代わりさ。あの女は腕が立つ。刀に槍、剣……刃物を使わせればあの女の右にでるやつは香南にはいない。下手をすれば中原にもいないかもなぁ……しかも馬を操らせても凄い」
「ふーん……」
以後、海狼が暴れ馬を乗りこなしたという逸話を滔々と聞かせる宇貫を余所に、紙に筆を走らせつつ春醍は考えた。十九年の人生を文一筋に費やしてきた春醍とは全く対極に位置する人生……いや、武なら「はしり」ぐらいは齧った。子供の頃、禁営校尉の官服の格好よさに惹かれ、採用には剣技が必修であることを知り勉学の傍ら、三、四年程師について剣を習ったことがある。師は退役した禁軍の兵士で、これが滅法強く、ついに試合稽古で彼から一本も取らせてもらったことはなかった……もっとも、科挙に備える勉学に集中することを強いられた結果、剣の修養は全くの等閑になってしまった。自分が人生で武に積極的に向き合った経験といえば、今のところそれだけだ……報告文を書き終え、宇貫に印を押してもらう。それをしばらく凝視して、宇貫は印を押す。字の読み書きが出来ないのに敢えて読もうとする――あるいは、虚勢で読む振りをする――彼に、内心で憐みを覚える春醍がいることも事実であった。
「戦が一段落したら、読み書きを教えようか?」
「余計なお世話だ……!」
と言い、宇貫は弾みを付けて印を押した。すでに息が酒臭くなっていた。
直属の部下たる春醍に対する宇貫の態度には、彼への優越感もあるが、それ以上に劣等感がある。ただしそれは春醍個人のみに向けられたものではなく、書画を描き散らし、聖籍についてこれ見よがしに論ずる士大夫に対する劣等感である。
過日、海狼が宇貫を指して「乞食坊主」と言っていた理由を、春醍はある夜の幕舎で彼の酒に付き合う間に知った。香南の貧しい農村、その小作人の三男という生まれ。食うに糧無く、職も土地もまた無い。そこに――
「――旱魃さ。その翌年に冷害で田んぼは全滅。俺は一家離散も同然で村を出たってわけさ」
着の身着のままで村を出た宇貫の前に広がっていたのは、無限の荒廃であった。州令による救済も無く、浮浪者故に城市にも入れない。道行く者に食を乞い、泥水を啜り、斃れた牛馬を捌いて喰らう……それすら叶わず道端に行き倒れ、朽ち果てていく人々の屍、屍……また屍――僧形に身をやつし宇貫は香南の各地を彷徨った。官許を得ないままの出家。僧形を以て他者の慈悲を乞い、香南の混乱を生き抜くための、これは彼なりの叡智であった。
「……結局はバレて、俺は牢にぶち込まれた。そこを王律軍が襲い、俺は晴れて叛徒の一員になったってわけだ」
宇貫が其処までを語るのに、丸々ひと瓶の酒が必要であった。同時に王律軍を成す人々の背景が、若い春醍の胸に重く圧し掛かった瞬間――
「――連絡は手早く終わらせて来いよ。牛が一頭手に入ったんだ。焼いて食うことにしよう」
ぶり返した嫌な過去を忘れようと努めたのだろう。二本目の酒瓶を空け始めた宇貫の声に見送られて幕舎を出る。そのまま向かう慶邑で連絡と庶務の全てを終える頃には、既に日が傾き始めているかもしれない。「袁家の馬鹿息子」のこともあるが、正直言って、慶邑城市は居心地のいい場所ではなかった。本営の住人は香南の士大夫層の出身が多く、それ故に春醍とは話が合う筈が、むしろ好奇の目……というより隔意の目で遇される。表立って迫害されているわけではないが、話の輪に入れてもらえない。若造だから?……いや、ただ単に疑いが晴れていないだけかもしれないが、隊を脱し大封に戻る方法を講じる他の、意外とも思える悩みがこれであった。
昼餉の準備に、すっかりと人影の消えた荒野。そこに佇む影を見出し、春醍は思わず目を見開いた。
「…………?」
「コラ阿春! 教練に出ないとはどういう了見だ!!?」
春醍を怒鳴り付けるや、海狼は驢馬車の前に飛び出して来た。春醍の襟を掴み、引き摺るようにして荒野へと放り出す。あの巨大な偃月刀を軽々と使いこなすことからも察せられたが、いざ投げ飛ばされる身となれば、女とは思えない凄まじい膂力の持主であることが判る。起き上がれない春醍に叩き付ける様に棍を投げ付け、海狼は棍を構えた。
「立て」
怒りが消え、次には無表情が春醍を凝視している。棍を執って立ち上がった春醍を見出した途端、海狼は目にも留まらぬ疾さで棍を突き出した。春醍は反射的に身を翻して避けたが、それも間一髪の差だ。二撃目は春醍の鼻先を掠め、次には春醍の腎を抉った。激痛に意識が乱高下し、春醍は棍を取り落としその場に手をついて耐える。吐き気が脳幹を揺るがし、春醍は烈しく咳き込んだ。
「立て」
再度の一言。海狼の発する言葉に感情は無かったが、それ故に今の春醍には恐ろしく聞こえた。恐怖に抗おうとして、あるいは傷付けられた男子としての矜持が春醍に棍を握らせる。大封で子供相手に読み書きの教師をしていた頃、教え子の中に武道家の子供がいて、その親から月謝代わりにと棒術の稽古を付けられたことがある。その時の勘が尚も残っていることに、春醍は稽古を付けてくれた当人に今更ながら感謝した。
「――――!」
春醍は叫んだ。撃発に任せて棍を振い、撓った棍が海狼の脚に向かう――が、棍は虚しく空を斬る。
『上――!?』
海狼は跳んでいた。尋常な跳躍ではなかった。自分に向けられた棍の切っ先を、春醍は身を転じて逃れる。刺さるように振り下ろされた棍が地面を抉る。そこからの切り返しは疾く、突風を思わせた。勢いに乗って突く海狼の棍、それを辛うじて受ける春醍の棍――双方の克ち合いが数合続き、そのまま二人の間で演武のような均衡となった。
「何を手加減している……!?」
「何でぇ……出来るじゃねえか」
海狼は笑っていた。弄ばれているという事実が、春醍から前後を見失わせた。海狼の顔に一撃を浴びせようとして、春醍の動きが止まる。がら空きになった軸足の甲を穿つ棍の先端――海狼は隙を見逃さず、よって春醍は膝を突き苦渋に顔を歪める。翻った棍、突き下ろされたその先端が春醍の顔面に迫る――
「――――!」
息を呑んだ春醍の鼻先で棍は止まった。だがそれも一瞬、突き出された棍の先が春醍の鼻っ柱を軽く、だが強かに打つ。拳で殴られたかのような激痛に鼻を抑え、春醍はその場に倒れ込み悶絶した。威力も、疾さも、狙った処を穿つ捌きにおいて、海狼の棍は春醍のそれよりも遥かに勝った。
「…………」
涙すら流し呻く春醍を、海狼は溜息を付きつつ見下ろした。
「阿春、今度怠けやがったらこの程度じゃ済まさないからな」
言い捨て、海狼は尚も苦しむ春醍を余所に踵を返した。鼻を抑えつつも、身を起こそうと春醍はもがく。
「いやだ……お前なんかとはもう仕合わない」
「は……!?」
海狼の足が止まった。怒らせた肩ごしに、海狼は春醍を睨む。上衣を拭い顕わになった肩と背筋、そして細長い腕の肉が隆々と盛り上がり、だが細く締っていることに春醍は改めて気付いた。尋常な鍛え方ではなかった……道理で強い筈だと思った。
「……阿春、もう一回言ってみろ……!」
海狼の目が怒り、呆れたような息を吐き出しつつ再び春醍に向き直る。しかし明らかな怒気は一瞬で海狼の眼から消え、最初に声を掛けられたときに見せた無感情が春醍を捉えていた……あいつは、人を殺す時はああいう顔をするのかと、春醍は今更のように思い当たる。
「お前とはもう戦わない……!」より語気を強め、春醍は海狼を睨んだ。
「遺言として聞いといてやるよ」
棍を握り直し、海狼は春醍に迫った。冷酷な無表情から一転、今度は冷静な殺意によるものではない、感情的な激発が海狼をして棍を振り上げさせ、春醍は眼を瞑り人生を諦める――
「――報告ぉーく! 報告ぉーく!」
「…………!?」
同時に道端を顧みた二人の眼前を、牛の背に乗った伝令が蛮声を張り上げつつ通り過ぎる。驢馬車を使う春醍の例に漏れず、出来合いの軍にとっては数の揃った軍馬など夢物語の範疇でしかない。背に跨るものがあるだけ幸運と言える……それでも、牛に跨り畦道を疾駆する人間の姿は滑稽なものに見えた。
「晋安からの命令だー! 朱宇貫の隊は幽関まで出兵、幽関を占領せよー!」
「何だと……?」
「命拾いしたな。阿春」
唖然とする春醍を皮肉っぽく嘲笑い、海狼は棍を収める。生を拾った幸運を噛み締めるでもなく、運命の急転を前に困惑を隠せないでいる春醍に、海狼は笑って言った。
「阿春、戦場で死んで来い。お前ごとき、わざわざあたしが殺すまでも無い」
「くそっ……!」
自分が殺そうとした男の敵愾心を受け流すように、海狼は踵を返した。春醍の眼前から遠ざかりゆく女。その足取りは奇異なまでに軽かった。
幽関とは、関という字の如く砦である。
香南という地においても、無数の山河の広がるが故に、交通の著しく制限された場所は数多い。自然の障害を縫うように生まれた無数の狭隘な道により、香南北部とそのさらに南は辛うじて繋がれているが、それらの道の中でも特に大軍の通行に適する広いものには、関所という名目で小規模な砦が置かれていた。
その当初は中央の目の届きにくい香南の、さらに南で反乱が発生した際に南から通行を速やかに遮断し、砦で食いとめている間に北方より鎮圧軍を速やかに送りこむという構想に基づいて設置された数多の砦のひとつであった。しかし大桑国二百年の太平が、先ずは軍事費抑制政策となって南下すべき鎮圧軍を霧散させ、次には硬直した官僚制と慢性的な税収不足が、砦に通行料徴収の場としての性格を強調させるに至った。通行料は朝廷や州の歳入面での都合の他、さらには砦を与る担当官個人の懐加減によって増減し、その結果として人々は通行により不便な山間の道を選び、その通行者を獲物とした山賊すらごく自然の内に発生させるに至ったのである。
その山賊が、幽関を占拠している。
肝心の守備隊は王律軍に恐れを成して関を捨てて逃亡し、その後を襲う形で、それも雨露凌ぎ程度の動機で幽関を手にした連中であった。王律軍に同心するもので無ければ朝廷に忠誠を誓うものでもない。今となってはただ要地を抑えることで両者を天秤に掛け、両者から多くを引き出したいがための火事場泥棒的な性格が強い。
香南の北部から中部に跨る各城市を占拠した王律軍にとっても、相互の連絡を確保するという意味では関の確保は焦眉の急であり、位置的にも幽関は要衝であったが、左右を崖に挟まれた道を塞ぐ形で構築された幽関は天然の要害でもある。力押しで奪れないこともないであろうが、一つの組織として機能を始めたばかりの王律軍にとって、無用の損害を出し既存の派閥間の力関係に要らぬ変動を生じるような結果を望む者はいない筈である……
……が、朱宇貫に攻略が命ぜられた。朱宇貫の下で調練を続ける兵力の総数は約一千。大軍同士のぶつかり合いに用途を限れば、文字通り一戦で潰える数であろう。更には北部から生起した討伐軍による圧迫が、王律軍本営の進退を徐々に狭めつつあった。叛乱軍への防備にあたり、香南北部の未だ王律軍の影響が及んでいない州、香南に隣接する各州の反応は王律軍本営の予想を越え、これらの州群より召集され、要衝に集結した郷軍の数だけでも既に二万人を越えていたのだ。朱宇貫に出陣が命ぜられた段階では、香南北部での戦にも備える必要が生じていた。それ故にうかつに慶邑から動くことも叶わず、幽関より南の魯哀と合流するという予定も実現できそうにない――自然、幽関に一隊を派遣し、抑えとすることに事は落ち着いた。
「……どうしたものか」
と、朱宇貫も、彼の幕僚も悩んでいる。
純粋な戦略構想に基づくものではなく、正面の戦線に出て手柄を立てたい、本営に対する影響力を強めたいという打算のなせる業であった。何しろ幽関からは予想される主戦場に距離的に間に合わない。幽関での戦闘に関わずらっている内に彼らにとっての「戦機」を逃してしまう。しまいには誰もが行きたがらないので春醍にお鉢が回って来た。大軍の指揮はおろか戦闘の経験すらない春醍がことを持ち掛けられた時、彼は即「いやだ」と言ったものだ。そこに「拒否したら殺す」ときた。今更のような脅迫の末――それだけではなく、春醍には純粋な動機がある。今は王律軍の本拠にいるという友人、騎煩生と連絡を取るためであった。何よりも朱宇貫がそれを勧めた。「巧くやって上の心証を良くしておけば、楽に煩生と会えるかもしれんぞ」と――
――春醍は、従軍することになった。
しかも彼は宇貫の配下から兵二百を与って幽関の近傍まで進出し、地形、兵の配置を観察するという任を課せられた。観察とは楽な任務のように思われるが実際は抑えと言ってもいい。幽関から敵が出た場合には彼らの攻勢を引き受け、あるいは増援の望めない不利な状況で戦闘から後退までを担わなければならない……春醍は宇貫に先立つ形で慶邑を出立し、宇貫たちとは逆、南へと軍を進める。足取りは重かった。一隊を率いる春醍の心というより、彼自身の駆る老馬の足取りが……である。無理に宛がわれたのではなく、乗り易い馬を春醍は選んだ積りであった。
「――もっといい馬に乗れよ」と、宇貫は春醍に勧めたものだ。「そう気を使うな。馬の乗り方を知ってるやつなんて、うちには殆どいない」
「やせ馬でいいよ」
「何故? 乗りこなせないか?」
「いい馬だと、亡くすのが惜しくてまともな判断ができなくなる」
慶邑を出たところで、春醍は後悔している。今の馬は旅にはいいが、戦にはやはり力が足りないように思われたのだ……とはいっても、軍記物にあるように、槍を番えて敵中に突っ込むような真似など自分に出来るとは思えない……実のところ、そんなことをする羽目にならないようにするための、老馬は予防線であった。
「…………?」
慶邑の方向から地響きのような蹄が細道に轟く、驚く兵たちを押しのけ、あるいは惑わせつつ隊列を掠める騎馬がひとつ――やがて疾風のように現れた海狼が、鮮やかな手綱捌きで駿足を殺し、馬上の春醍に並ぶ。飾り立てた瞬馬には見覚えがあった。
「それは……!」
「あの馬鹿息子には勿体無い。あたしが乗ってやることにした」
瞬馬をいなしつつ、海狼は春醍に笑い掛けた。過日の獰猛さが嘘のような爽やかさに転じ、それが春醍を却って戸惑わせる。
「何しに来た?」
「あんたを笑いに来た」
そう言って、海狼は笑った。笑いつつ春醍の馬を見遣り、今度は呆れたように言う。
「おい春醍、そんなやせ馬に乗ってると逃げ切れないぞ」
「なんで逃げるとわかる?」
「たった二百足らずの、それも老兵とガキばっかの軍で何が出来るんだ?」
「策はあるんだよ……策は……」
躊躇いがちな口調で、春醍は言った。躊躇いがそのまま眼差しとなっていつの間にか海狼に向き、それを真に受け、海狼は気まずそうに春醍から目を逸らす。
「あたしは駄目だぞ……北に行った方がたくさん殺せるからな。南はつまらん」
「おまえの助けなんかいらないよ。むしろおれの策には邪魔だ」
「何だとコラ! あたしが邪魔だってのか?」
「うん」
躊躇なく、春醍は頷いた。余裕ある貌を一転、怒気に震わせ、海狼は春醍を罵った。
「人が憐んで声かけりゃあいい気になりやがって!……死ね阿春! 死んで醢にでもされちまえ!」
「ああ、おれが死んだら醢を食う度におれのこと思い出してくれよ」
「――――!」
微笑んで見せた春醍に海狼は舌打ちした。憤懣に任せて瞬馬の腹を蹴り反転を促す。砂塵を蹴り元来た道を駆け去っていくのも疾風の如しであった。その様を春醍はただ無感動に見送り、そして思う――もっとも……死ぬ気も負ける気も、逃げる気もこれっぽっちもないんだけどな。
それに――
「――たかが山賊退治だ。叛乱に協力するわけじゃないさ」
内心でぼやきつつ、春醍は遠ざかりゆく慶邑を顧みる――都が、さらに遠ざかる。