表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/18

第三集  「父と子」

 皇帝の崩御という凶報は多少の時差を以て慶邑にまで達したが、かといって喪に服するでもなく、その小さな街は祭りの日でも迎えたような奇妙な活気に満ち溢れていた。慶邑を取り巻く各地から陸続と集まってくる兵士……否、兵士としてものの役に立つかも疑わしい男たちによってその活気は継続され、むしろ更なる気分の高揚すらもたらしている。


 牢から出ることを許された魯春醍の場合、未だ街を出ることが許されない以上、それは単に繋がれた獄の間取りが飛躍的に増しただけで、状況は何ら変わってはいなかった。ただし獄を出てから三日目にして春醍は自身が「王律軍」、あるいは「諌軍(かんぐん)」と名乗る叛乱軍に引き入れられ、幹部の列に加えられていることを知って愕然とした。つまりは春醍本人には何も知らされないまま、事態はさらに思わぬ方向に進んでいたわけである。


「おめえは殺さねえことに決めた。ただし反抗しない限りはな」

 と、あの朱宇貫――――賤民(せんみん)出身丸出しの大将は春醍に言い放った。ただし騎煩生が慶邑に入るまで彼らの軍議への参加は許されず、春醍は仮初の住処として宛がわれた宿場で飼い殺し同然の日々を送っている。もっとも、軍議など参加したくも無かった。そんなことをすれば自分は文字通りの反逆者になる。自身が咎を受けるだけならばまだしも魯家の家名に泥を塗ることになる。


 ……もっとも、もうとっくに泥を塗りたくっているも同然の人生なのだが――夜、宿場の地階を占める酒場の隅で、酸っぱい濁酒(だくしゅ)を呷りつつ春醍は自嘲する。代々朝廷に出仕してきた官人、学者を輩出してきた魯家において、自分は異端者だった。周りが聖籍五経やら古史典といった哲学書や思想書を読み、実生活には何の意味も無い論を戦わせている一方で、自分は科挙には何の関係も無い実学書や地誌、兵書を読んでいた。兵書――どのような家に生まれても、男子ならば誰でも一度は人智を超えた勇ましさというものに憧れる。早熟な春醍にとって、ただ玩具の剣を振り回しての戦争ごっこに興じた時期はすぐに過ぎ、あとは戦のやり方、戦に臨む心得を記した兵書を読み耽る日々が続いたというわけだ。


 地誌もいい。家に居ながらにして中原の各地の気候や地形、そして民の生活が手に取るようにわかる。ものによっては中原の外――朝廷の上級官人だった父は、それを「化外の地」と蔑むように言った――で人々が何を食べ、どんな仕事をし、どんな神を信仰して生きているのかも教えてくれる。つまりは、世の中には聖籍に頼らずとも自分の頭で自分の人生を生きる人々がいて、実際にそれは可能なのだということを、春醍はこれらの書物から学んだのだった。


 しかし、そのような日々は、順当だが魯家の人間としては物足りなさが残る成績で郷試を通りその次段階、地方官採用の目もある国試をも通った時に、魯家の中庭で燃やされる実学書の山を目にした瞬間に終わりを告げた。官に就くなら地方官でもいいと春醍は漠然と思っていたが、彼の属する魯家ではそのような生き方は許されていなかったのだ。その筆頭、春醍からこれらを取り上げ、火にくべた兄魯会信の突き放すような眼――それに反駁し、あるいはそれを恐れて春醍は魯家を出た。


「――兄ちゃん、飲み過ぎだよ。未だ星も出てないってのに……」

 酒屋の番台を与る主人も呆れている。それを無視するように春醍は椀に酒を満たし、過ぎ去った日々とともにそれを飲み干さんと椀を傾けた。不意に子供の騒ぐ声が聞こえ、春醍は酔いに濁った眼でその出処を探る。酒場の奥座敷、住民と蛮声を張り上げる巡回明けの兵士たちに混じり慎ましげに卓を囲む親子――嬌声を上げて卓の周りを走る子供を母親らしき若い女性が叱りつけ、彼女に比してやや年配の夫が子供を宥めている。その彼らの周りを帯甲した兵士が数名、さり気無く固めているのは明らかに異常な光景であった。

「あれは……?」

「兄ちゃん知らないのかい? あのお方が王律様だよ」

「王律?……王律軍の王律か?」

 春醍がそこまで言ったところで、主人は露骨に呆れて見せた。

「高祖様の何人目の子供だったかな……建隆王とかいうのから十何代目のお方だよ……もっとも、傍流のさらに傍流だから今となっちゃあ俺らと殆ど変わらない身の上だけどね」

「…………」

 主人の言わんとすることを察し、春醍は内心で酔いが醒めるほど驚嘆した。春醍の記憶が確かならば建隆王は高祖 王世民の第十二子。後年その孫が謀反の罪を得て香南に配流されたところで系譜は途絶えていた筈である……同時に、叛乱軍の真意も僅かながら判ったような気がした。彼らはあの王律を担ぎ、皇帝亡き後の大封に乗り込む積りではないのか……と。であれば叛乱はややもすれば義挙となる。


「オヤジ酒をくれ。酒と肉だ!」

「…………!?」

 外から飛び込んできた弾んだ声に、春醍は危うく何杯目かの濁酒を満たした椀を取り落としかけた。ずかずかと酒屋の敷居を跨ぐ足音に、重々しい鋼の塊を引き摺る音が続く。何事かと思って顧みた入口で、春醍の顔は凍り付いた。褐色の肌も露わに片袖を捲った長衣を纏った黒髪の女、旅路の途上、雨中で凄惨な斬り合いを演じたあの女侠客の姿――思わず目を逸らした春醍だったが、彼女はあの馬鹿でかい偃月刀を引き摺りつつ、無思慮にも酒場の奥まで踏み入って来る。

「…………」

 女の気配が春醍のすぐ傍で止まった。刺すように注がれる視線が、自分のことを窺っていることに春醍は気付く。それも束の間、女侠客は春醍から離れて番台の席に座り、番台の主人も酒肴の準備を始めていた。この種の客に、明らかに馴れている様子だった。

「騒がしいな。戦でも始めようってのか?」

「もうひと月はその話で持ち切りですな。勝った暁には、香南にまた新しい国ができるそうで……」

「ふうん……それじゃ古史典の時代に逆戻りってことかい。んんーと……何と言ったかな」

 三邦七国(さんほうななこく)時代だ――心中で呟きつつ、春醍は黙って二人の話に聞き耳を立て続けている。粗野な外見に比して、あながち無学という訳では無さそうだった。


「海狼がいるって酒場は此処か!?」

 今度は入り口で蛮声が響き渡る。街を占拠した叛乱軍兵士と変わり映えしない、山賊の様な身形の男たちが数名、引き抜いた刀を振り翳して店内を威圧した。声を発したところで男の眼が番台の一隅で留まり、男の顔が心からの憤怒に歪む。

「このクソアマ! 俺の弟分をよくも殺しやがったな! 表に出ろ!」

「うるせぇ! 侠客はいま休業中だ! おととい来やがれってんだ」

 およそ女子が吐くべき言葉ではなかった。それが春醍を鼻白ませた。この諍いに正義など無い、虎と狼の喧嘩と本質は変わらない。自分は早く此処から立ち去るべきだろうか――迷いと共に廻らせた視線の先で、先刻の一家が怯えているのを見る。王律という名の夫など、両脇に怯える子供を抱き、感情の失せた眼で侠客たちの睨み合いを見守っていた。

「二十日前に安涯山の麓で仲間を五人も斬りやがっただろう。答えろ!」

「あれか……あれはあたしの荷を盗みやがったから成敗したまでだ。あたしゃあんたらや張葉堅と違って無用の殺生なんぞに興味は無いんでね」

「嘘をつくと為にならんぞ! 海狼!」

 肩を怒らせ、男が卓を蹴り飛ばす。だがそれも春醍には恐怖の具現を前にした虚勢である様に見えた。男たちを睨む女侠客の眼光が険しく、それ故に斬り合いに必要な一歩を踏み出せないでいるのだ。喩え一歩を踏み出したところで、あの偃月刀の錆にされるのは火を見るよりも明らかだろう。


 逡巡――女侠客と王律一家を交互に見、春醍は番台を離れ、男たちの前に進み出た。


「……この人の言っていることは本当だ。おれは見た。あんたらの仲間がこの人の荷を奪って行ったのを……この人は……」

 そこまで言い掛け春醍は女を顧みる。虎狼と思わせる険しい眼光が、今度は春醍に注がれていて、それに春醍は内心で鼻白んだ。言葉が少し縺れた。

「……自分のものを取り返しただけだ……少し乱暴なやり方だったけど」

「…………!」

 歯噛みしつつも、男たちは互いの顔を見つめ合った。侠女の気迫が男たちの気迫を削ぎ、春醍の言葉が、さらに彼らから勢いを奪ったかのようであった。そこに――

「貴様ら何をやっとるか! 持ち場に戻れ!」

 これも聞き覚えのある言葉であった。今度は兵士を引き連れた朱宇貫が現れ、春醍たちを凝視する。彼の濁った眼差しが刀の男にまで達したとき、男は忌々しげな表情もそのままに刀を納め、部下に店を出るよう目配せした。

「海狼覚えてやがれ。何時か絶対に殺してやる……!」

「首を刎ねて城門に吊るしてやる」

 去っていく男たちを横目で暫く見送り、買い言葉を発した侠女を一瞥し、宇貫は店に踏み入った。途上、座敷の王律に向かい拝礼し、彼は春醍に向き直る。

「騎煩生と連絡が付いた。お前さんは晴れて王律軍の一員だ。明日から幕舎に連れていき俺の主簿にする。嫌とは言わせんぞ」

「あんたは……!」

 宇貫は挽き臼の様な歯を見せて笑った。それ以上何も言わせず春醍の肩を叩き、今度は女侠客に向き直る。

「ここでは面倒を起こすな。海狼」

「偉くなったもんだな宇貫。乞食坊主が」

 罵られた宇貫の顔から表情が消え、だが彼は何も言わず足早に酒場を去っていく。戸惑う春醍の目が王律と合った時、彼は合掌して春醍に一礼し、春醍も思わずこれに応じた。その様から腐っても皇族の末裔、士大夫(したいふ)だと春醍は感銘を覚えた。


「おい」

「…………?」

 背後から呼ばれ、春醍は番台を見遣った。春醍の喉元に向けられた偃月刀の刃先、寝た刃の上に、酒を満たした椀が乗っていた。

「あたしの奢りだ。礼を言う」

無感動。だが見下したような眼が春醍を迎えた。

「あんたのためじゃない」

「じゃあ何の積りだ? おまえ、何がやりたかった?」

「子供に斬り合いなんて見せたくなかった」

 王律一家の方を見やり、春醍は言った。奥座敷の食卓にはすでに嬌声が戻っていた。主人は皇族だが、外目には紛れも無い庶民の、慎まやかな夕餉の食卓に映る。失笑――女は首を振り、春醍を凝視する。

「まずは飲めよ」

「いらない」

「あたしの酒が飲めないのか?」

「…………!」

 再び釣り上った侠女の眼を前に、意を決して椀を取り、一気に飲み干す。それまで忘れていた酔いが、ぶり返したように春醍の胸をムカつかせた。

 女侠客は、今度は春醍の顔に眼を愉しませている。

「あたしは海狼。あんたの名は?」

「春醍、魯春醍だ」

 元の席に付きつつ、春醍は応じる。

「何処から来た? 仕事は?」

「大封から来た。商売で来たらこのザマだ」

 海狼は笑った。音程の外れた、下賤な笑い方だったが、何処か愛嬌を感じさせる笑い方だと春醍は思った。

「何がおかしい?」

「むしろ今の内に此処に来れたことを喜ぶべきだろうよ。皇帝もくたばっちまったしな」

「何が言いたい?」

「大封ももうじき戦場になるんじゃねえか?」

「王律軍が上洛しない内にか?」

「兵隊なんて、此処じゃ無くとも集められらァ」

「…………」

 崩御した仁宗の後継に纏わる、不穏な噂を春醍が思い出したのはそのときであった。仁宗の後継として二人の皇族が有力視されているが、皇太孫王累には官人以外の後ろ盾が無く、反面第三子王可明には門閥貴族という、王累以上に有力な後ろ盾がある。それに皇后たる彼の母親も健在だ。王累が帝位に就くとして、継承はすんなりと進むのだろうか? 否、今はすんなりと進んだとしても、その後はどうなる?

「都の貴族でも豪族でも誰でもいい、目端が効いたやつがいりゃあ、今頃とっくに自分の領地で集めてると思うぜ? いつでも都に雪崩れ込めるようにな」

「北限軍……北限軍はどうしてるかな」

「そう、それだよ阿春。北のやつらも動くだろうな」

「阿春……!?」

 春醍は海狼を見返した。父母はおろか騎煩生にすら、そのような名の呼び方を春醍はされたことが無い。その春醍の表情をさらに愉しむかのように見詰め、海狼は酒の椀を傾けている。

「聞いた話じゃあ、北限の燕陽王ってのはものすごい戦上手だそうだ。ガキの頃から戦場に出て、塞外の民の頭目を一人で何十人もぶち殺したらしい。今じゃあ奴ら、燕陽王を恐れて誰ひとりとして北限を越えないって話だ阿春」

「その阿春というのやめろ。気持ち悪い」

「いいじゃねえか阿春。そのガキみたいな面にお似合いだ」

 からかわれている?……しかし怒る気にはなれなかった。戸惑う春醍を余所に、眼前の女侠客は春醍を闊達に笑っている。いつしか彼女が席を元いた場所から自分の許に引き寄せていることに、春醍は気付いていなかった。



 国都大封 天許城の中枢。明極殿の一角に丞相 李鶴元が執務を行う部屋が置かれている。本来、丞相は明極殿に隣接する丞相府に在って政務を執るが、第十四代皇帝建宗の即位成って以来、絶え間無い彼の下問に応えるべく努めて明極殿に常駐するようになっていた。


 もっとも、その丞相府自体、当の李鶴元が五年前に勅許を得て創設した機関である。名目は丞相直属の諮問機関であるが、朝野より人材を集め、政治上の諸問題に関し彼らの合議の上で出た結論及び案を政策に反映させるという意図が多分に含まれていた。丞相府の長たる丞相府令は李鶴元の兼任であり、会議の主催もまた李鶴元の職掌の中にある。

 ただし、李鶴元の下に集った識者は全て現役の官人と在野の元官人であって、この点、彼自身も科挙を経て官界入りした李鶴元の限界であるのかもしれないが、そう片付けるだけでは済まない切実な事情もまた存在した。門閥貴族出身者がその権勢を以て従来官人の占めるところであった官職にも触手を伸ばし、結果として官界に彼らの公私を弁えぬ意向を強いようとしている現状が、李鶴元をして彼らに対抗する手札を確保せしめる動機となったが故の丞相府開府と見ることもできるためである。


 その日の朝から、李鶴元は明極殿に割り当てられた自身の間に来客を迎えていた。聖籍の講読は兎も角として、君主の心得や皇帝権力の行使と自制に代表される帝王学の教授が必要な人間は、現在この大桑国広しと雖も一人しかいない。その一人は僅か十七歳で即位以来連日、朝議が終われば速やかに李鶴元の控える間に入り、学者としても高名な丞相自らの講義に耳を傾けていた。

「先生、相談が御座います」

 と、大桑国第十四代皇帝 建宗は切り出した。当然、講義が終わるのを見計らってのことである。

「承ります。陛下」

 李鶴元は一礼し、卓を挟み対面する皇帝に応じた。講義を求めたのは建宗自らであり、講義の時間に限り君臣ではなく師弟の関係でこれを行うことを求めたのも建宗である。それ故に、講義が終わればその瞬間、ふたりは再び君臣に戻るというわけであった。ただし政務の場においても建宗は、李鶴元のことを常に「先生」と呼ぶよう努めていた。

「今すぐというわけではありませんが、貴族の所領の変更を行おうと考えています」

「ふむ……」

 顎の白髭を扱き、李鶴元は手振りで建宗に発言を促した。

「高祖による大桑建国以来二百四十年の長きにわたり、貴族は皇帝より所領の安堵を約されておりました。ただしこれからは大桑建国以前より有していた所領の安堵ではなく、あくまで所領を有するという特権ただ一点のみの保証に国法を変えたいと存じます」

 そこまで言って建宗は沈黙に転じる。師としての李鶴元の反応を窺いつつ、慎重に持論を展開していることは彼にもすぐに判った。

「陛下……どうぞ」

「貴族、特に建国以前より高祖の偉業に貢献してきた門閥貴族は、中原に広大な所領を有し、その地に深く根を下ろしている。それが大桑と対峙するに当たり大きな利点として機能している。彼らは己が所領にて独自に租税を徴収し、朝廷の預かり知らぬ田畑を拓き、朝廷の預かり知らぬ兵を養っている……それ故に朝廷は彼らを従わせることができぬ。大桑の危機、それも国財の窮乏を緩和し、財政を健全ならしむるには一度貴族を彼らの拠所たる土地から切り離し、一度朝廷の管理の下に置いた上で新たに所領を与えねばならぬと思う」

「御明察にございます」


 丞相は皇帝を再拝した。実は彼も皇帝に同意見であったのだ。ただし彼が考えていたのは所領の入替えという生易しい方法ではなく、所領の没収――兵を用いても強制的に貴族を所領より引き剥がす――というものであった。その際の名分もちゃんと用意してある。租税の根拠となる土地収量の不正と、朝廷への申告無く募兵と城市の増改築を行ったという、いわば謀反の疑いというべきものだ。


 無論、そのための準備もしていた。つまりは門閥貴族に圧力を加えるための実効力の整備である。大桑国はその建国以来、正規軍として国都及びその周辺を守る中央軍たる禁軍と、地方に在って治安維持と土木工事に従事する廂軍が存在するが、禁軍は歴代皇帝による文治政策と国財の濫費の影響により縮小が進んでいる。一方廂軍に至っては元来禁軍の中でも練度の低い兵を地方に張り付けたのがその起こりであり、今では半ば失業者対策的な性格が強い。建宗の即位と李鶴元の国政に反発する門閥貴族に対する実行力としては、いささか心許ないのだ。


 そこで李鶴元は、仁宗の在位中より形骸化した軍事力を立て直すべく策を講じることにした。それが、郷軍制の再施行である。地方州の最高執政官である州令に民より兵を募らせ、廂軍を強化する形で新たに軍を編成するのだ。再施行と言うからには前例があるわけで、最初に郷兵が編成されたのが現時点より遡ること百五十年前、西方から雪崩れ込んできた人肉を嗜食する「鴎狗(オーク)」――鬼人族――に対する防衛力強化の一端であった。この郷兵と官兵から成る混成軍を巧みに纏め、大桑国の西限、沙浪関にて性残虐なる「鴎狗(オーク)」の大軍――というより大群――を迎え撃ち、大破せしめた可炎、曹紀といった各将の名と智勇は、今でも世人の語り草となっている……


「……しかし、時間がかかりますな」

「時は幾ら費やしてもよい。急ぐと事を仕損じる。それに、喩えあと三十年を要したとしても、予は帝としては未だ十分に若いではないか」

 建宗の言うことはもっともであった。十八歳での皇帝即位は確かに歴代大桑皇帝の中でも若い部類に属する。改革にあと二十年、あるいは三十年を経たとしても、一個人としては未だ働き盛りの年代と言えよう。

「だから先生には、政務の傍らで予を輔弼してくれる優秀な家臣を育てて欲しい」

「ははー……!」

 あと三十年経てば、建宗は兎も角李鶴元が朝廷に在る可能性は極限まで低くなる。年老いた彼が皇帝に先駆けて天寿を全うしてしまうまでに、彼の代わりとなり得る人材を集め、育てる――この点もまた、李鶴元が丞相府を作った動機のひとつであった。


 建宗の実父たる王賛の友にして、それゆえ建宗の師となった李鶴元から見て、建宗はこれ以上を望めない優秀な生徒であった。幼少期より聖籍五経を諳んじ、李鶴元による講釈を真綿が水を吸い込むように吸収し自分のものとしていく……建宗が未だ皇太孫の称号も冠せられていなかった頃より彼の養育に関わり、結果として李鶴元は建宗に大桑国中興の担い手たる期待を掛けた。友の忘れ形見を前にして、私心などあろう筈も無かった。


 ……講義に続く、政治的な会話に暫く時を費やし、時が正午に差し掛かりかけた時、李鶴元は別の要件を切り出した。この場合は、報告と言えるのかもしれない

「陛下、かねてより進行中の後宮の再編のことでございますが……」

「話は聞いている。妾妃が集まらぬのであろう?」

「この件、我らが与りながら誠に面目なき仕儀にて……」

 李鶴元は低頭した。慣例に従い後宮を解き放ったものの、その後が続かない。勅令こそ出しているが、選ばれた妾妃が未だ大封に集まる気配も無いというのは、後宮をも統括する官人の側としては困惑を以て迎えられるべき事態であった。

「それも、未だ急がずともよいのではないか?」

「は……?」

「予は未だ若輩故、当面は政道に身を傾けていたい。いきなり華やかな後宮など持っては、何と言っていいか……気が散る。だから当面は女官のみを置くに留めておけばよい」

「しかし……」

「後宮は今しばらく捨て置くがよい。予は若いのだ。これから先幾らでも子は作れよう」

「それはいけません」

 少し語調を強め、李鶴元は言った。

「陛下には、大桑のためにも御自身の宸襟を盤石ならしむるよう努めていただかねばなりません。臣鶴元、胡寧にて御静養中の皇太后様にも使者を送り、この件助力を乞う所存に御座います」

「先生……わが父蘭州王は生涯側室を持たず、永年一人の女を愛し続けた。それが予の母だ。出来得れば予も、伴侶の在り方については父に倣いたい」

「陛下……」

 李鶴元は知っている。建宗の父にして先帝仁宗の長子蘭州王 王賛は、侍女上がりの女子と相思相愛の仲になり、皇帝の長子というその立ち位置を危うくしてもなお生涯彼女のみを守り続けた。彼女は建宗を産んで間もなくして死に、以後蘭州王は正室も側室も置くこと無く、建宗一人の成長を見守りその生を終えたのだ。王賛の無二の友としてその経緯を直に見知っている李鶴元にとっては、王賛は士の在るべき姿としても、ひとりの男子としても眩いばかりの理想像に見えた。

「それに……後宮がしばらくこの状態であれば、当面出費を抑えられるではないか」

「御意のままに……」

 李鶴元からこれ以上の進言を為す意思が揺らぎ、一礼と同時に正午が過ぎる。



「淕皇太后陛下からの返事は如何に?」

 正午の柔和な顔を、謹厳さを押し出した無表情に転じ、丞相府 合議の間に李鶴元は足を運ぶ。その足取りの早く軽やかなること、およそ齢五十を越えた老人の足取りではなかった。その彼の背後を、二省六部の長及び幹部が、恐縮した面持ちでやはり足早に続いた。丞相を先導する衛士が合議の間に続く扉を開け、李鶴元を先頭に方卓に着座した。


「申し上げます丞相。使者からの報告によれば淕皇太后様よりいろ良い返事これ無く。使者なお胡寧にありて皇太后様の心変わりを待つとの由。今しばらくお待ちくださいませ」

 発言の口火を切ったのは礼部尚書であった。建宗が皇帝に即位するや、淕皇太后は病気静養を理由に大封から約百里離れた皇室の避暑地胡寧に身を移したまま、一向に動く気配が無い。朝廷内には、この淕皇太后が妾妃を献上する各地の責任者に圧力を掛け、後宮再編を妨害しているのではないかと邪推する声も少なくなかったが、李鶴元は今のところ敢えてこれを無視している。

「馬鹿な……もう一月経つのだぞ。せめて令旨だけでも頂けぬものか?」

「それもご病臥を理由に叶わず……」

「……仮病ではあるまいな」

 李鶴元は言い。その瞬間合議の間が凍りつく。李鶴元は戸部尚書に向き直り、言った。

「戸部尚書、幇州令からは何と言っている?」

「はあ……幇州令と申しますと?」

「しかと命じたではないか。州令をして幇州における淕家の動向を探らしめよと」

「は……はい」

 拝礼で受命の意思は示したものの、戸部尚書には気が進まない様子が明らかに見て取れた。幇州には淕家の本拠地であり、その歴史は大桑国成立以前にまで遡る。地方官人事を管轄する戸部尚書ですら、それ以前に現地の地方官たちも尻込みする程に淕家の権勢は凄まじい。虎穴に入り虎の尾を踏んで来いという命令に、誰が従うだろうか?

「廂軍に郷軍の増強を充て幇州との境を固め、淕家への圧力とするのはどうか」

「それで淕皇太后が動けば此方の目論見通りではありましょうが、淕家そのものが乗り込んでくれば眼も当てられぬ」

「では尚更よい。淕家当主を詰問し、淕皇太后に令旨を出して頂きましょう」

「まずは幇州に使者を送ろう。先ずは此方から礼を尽くし、然る後皇太后を説得するのだ。ただし軍を大封近傍に集め、何時でも幇州方面に出せるようにしておこう」

 百官の長たちの議論が一過し、李鶴元が締め括る。

「香南における叛乱の件はどうか?」

 丞相の新たな下問に、兵部尚書が立ち上がり一礼した。

「報告に拠りますれば叛徒は晋安、貴招、慶邑、香遼などの香南州諸都市を占拠、この状態を維持したまま目立った動きを見せておりません。ただ……」

「ただ……?」

 李鶴元は発言を促し、兵部尚書は噤みかけた口を開いた。

「問題は香南のさらに南です。赤蓮教の輩が先年の飢饉で発生した流民と結託し、各州の境を流浪しつつ略奪狼藉を働いております。特に張葉堅なる賊の頭目は性冷酷にて、民を殺戮するに飽き足らず、捕えた者を生きたまま串刺し、引き臼で磨り潰し食するとか、凡そこの世の光景ではないと」


 諸官のどよめき、あるいは唸り声が合議の間に満ち、それでも李鶴元は平静として兵部尚書に向き直る。

「香南の兵のみで鎮撫できるか?」

「香南の北部にて募兵と防備を急がせて御座います」

「当面大封からは兵は出せぬ。各州には手持ちの兵で鎮撫に努めるよう命ずるのだ。それと……」

「…………?」

「……刑部尚書、例の廷尉の件、調べはついたか?」

「ははっ……!」

 刑部尚書が立ち上がり、拝礼した。

「仰せの通り、大封にて刑律を与る法官を密かに取調べましたるところ、既に七名の法官が北限より賄賂を得ていた由、誠に遺憾ながらこの場にて報告させて頂きます」

「大封だけではあるまい」

 恐縮しきりの刑部尚書を見遣る李鶴元の眉に、これまでとは違う種類の険しさが宿り始める。

「はっ……大封のみならず捻陽、果川など近傍諸都市においても(まいない)による廷尉と北限軍との密通が発覚しております」

「わかった……この件はわし自ら帝に申し上げ、裁可を仰ごう」

 刑部尚書が一礼し、言った。

「……丞相、私を今日限り官よりお免じ下さいますようお願いいたします。この件は全て不肖私めの監督不行き届きによるもの。どうか……他の者には累が及ばぬようご高配を賜りたく……」

「その心掛け殊勝である。その件も含め帝に上奏する。(けい)は自邸にて謹慎し追って沙汰を待つように」

「丞相の温情、心底より感謝致します」



 ……合議を解散させ、ただ独りその場に残り一息ついていた李鶴元を訪ねてきた者がいる。無髭、そして年の頃も李鶴元より若く見えたが、官人として豊富な実務経験と、職務に広く通じた印象を、没個性な官服の裏に秘めた男であるようにも見えた。壮年の盛りを過ぎた男の背後、彼と揃いの官服を着た青年の目付きに、丞相はしばし目を奪われた。

「魯林正、刑部尚書の代行として丞相閣下に拝謁いたします」

「魯林正が子 魯会信、丞相閣下に拝謁いたします」

「魯会信……確か大桑二三三年の状元であったか」

「……非才の身をお見知り置き頂き、恐縮の極みに存じ奉ります」

 丞相に声を掛けられ、魯会信と呼ばれた青年は低頭した。科挙の最終試験たる殿試。その最優秀者を大桑国では状元(じょうげん)と称する。そう称された時点で、官界における最高位までの栄達は約束されたと言ってもいい。魯会信の冠位は、まさに八年前の状元が現在昇って然るべき高位にあることを示していた。李鶴元自身、大桑二百七年の状元である。

「それで魯林正どのは、早速着任の挨拶に参ったというわけかな?」

「はい……」

 頷き、親子は丞相を再拝した。丞相は親子に座るよう勧めた。

「林正どの、北限軍による廷尉の買収、卿はどう見る?」

「正直なところ、思いも拠らぬことでございます。法の番人たる法官が、政の何たるかを知らぬ蛮勇の徒の傀儡も同然であったとは……丞相閣下のご慧眼、林正恐れ入り奉りまして御座います」

「そなたの息子は、それを看破したというのにか?」

「…………?」

 親子は、互いに顔を見合わせた。李鶴元は首を傾げて言った。

「会信どののことではない。過日殿試に臨んだそなたの、もうひとりの息子のことだ」

「春醍のことでございますか!?」

 魯林正が伏せがちな顔を挙げて言った。声が、謹厳実直な外目に似つかわしくないほどに裏返っていた。

「そう……魯春醍どののことだ」

 説明する必要を感じ、李鶴元は続けた。

「全ては春醍どののお陰である。あの殿試のとき、わしの発した問いに皆が聖籍と絡めた精神論、まさに殿試に及第するための空論で応じた一方で、春醍どのの答えのみが大桑国の現状に即した的確なものであった。わしはあのとき驚き、春醍どのを及第させようと諮ったが他の者は皆それに反対した。不正を犯した法官どもと北限軍を憚っていたのだ……そしていま、幸か不幸かあの若者のみが正しかったことが証明された。そういえば……」

 唖然とする魯林正に怪訝な表情を浮かべ、李鶴元は聞いた。

「……春醍どのはいまお幾つになられるのかな?」

「十九歳に御座います」と応じたのは会信の方だ。

「そうだ……十九であったな。帝と一つも違わぬ」

 そこまで言い、李鶴元は林正の顔を覗き込む。

「林正どの。そなたの御子息 魯春醍どのに、折あれば我が邸を訪ねて来るよう言伝を願えますかな? 先ずは我が執務を手伝わせ、何れは然るべき官位に引き立てましょうぞ。あの若者は見所がある」

「ははっー!……有難き幸せ!」

 親子は揃って低頭した。ただ無心に頭を下げる父親の一方、彼の後ろにあって低頭する会信の無表情に、丞相は釈然としないものを覚えたが、それは一瞬のみの迷いとして彼の記憶からは消えた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ