第二集 「皇帝崩御」
漆黒と満天の星々に彩られた空は、これが万物の主たる神の定めた法であるかのように東から白み始め、やがては静謐の中に大地に一日の始まりを告げる。それは古来より中原の要衝にして開祖 王世民によって開府されて以来、二百四十一年の長きに渡り国都の地位を守り続けてきた大封もまた例外ではありえなかった。
国都大封は、中原世界のみならず同時代に並立した世界各地の主要諸国の王都をその規模、人口共に凌ぎ、物流及び人材の集積地、往来の拠点としてもそれら以上に重要な貢献を続けてきたと言っても過言ではない。南北二十条、東西十二条。上空より俯瞰すれば碁盤状に区画された大封城の全域、その北側の一角、東西南北四条という広範な空間に亘り拡がる皇宮 天許城は、大桑国歴代皇帝の居城であり、帝国としての大桑国の発展と繁栄、それらの影の部分としての政変と動乱を、創建以来二百年以上の長きに亘り沈黙の内に見守って来た。城という呼び名の通り、四方を厳重な城壁に囲われた天許城はそれ自体が難攻不落の巨城であり、大封という中原より隔絶されたひとつの世界からさらに独立し、隔絶された別世界と表現することができるかもしれない。
城郭としての天許城の中心を占める皇帝の執政府たる明極殿。二代明宗の代になって造営成った壮麗さと威厳を極めるこの宮殿の背後たる奥まった区画。天許城南端を占める正門たる天門より、明極殿を中心とする天許城中枢を構成する各殿に遮られる形で、後宮は広がっている。
後宮――そこは大桑国皇帝の政務より離れた日常人としての住処であり、将来国を担うべき継子を挙げ、育むための場所でもある。皇帝以外の男子はその深奥に立ち入りを許されず、一軍を成すに足る数の妾妃と女官、去勢された男子たる宦官のみが、そこに存在することを許された人種であった。
後宮も含め、天許城の一日はまだ日も昇り切らぬ頃から始まる。天許城のみならず城市としての大封を守る衛兵たる禁営、その中でも交代制で天許城の警備を担う巡察使の交替を告げる太鼓が鳴り、それに追い縋る形で天許城に詰める上中下諸官に登城を促す太鼓が響き渡る。その中でも丞相の諮問機関たる丞相府から国政の実務を与る二省六部諸部門の長に至る、いわば高位にある官人は明極殿まで一斉に参集し、壮麗を極める朝賀の間において皇帝に拝謁することとなる――そこから、政府中枢としての天許城の一日が正式に始まる。
一方、後宮――中原の各地より容姿、出自ともに選りすぐられた美女の集まる後宮の中でも、寵愛とはいかぬまでも特に皇帝に目を掛けられた妾妃は後宮の一角に部屋を与えられ、あるいは離宮を宛がわれることもある。そのような離宮でもささやかながら一日は始まっていた。燈籠に油を注ぎ、回廊の端々を灯す蝋燭を替える……後宮でも最下級の女官の場合、彼女たちの一日はこの仕事から始まる。後宮に入って今日で七日になる孫寧深もまた例外たりえなかった。
「綺麗……」
同室の僚友に手伝ってもらい、最後の蝋燭を替え終わったところで、孫寧深は回廊から広がる景色に思わず瞳を煌めかせた。離宮に続く回廊から見渡す限りに広がる桃の木の杜。盛りを過ぎてもなお、散りきらずに残る花は多く、淡い桃色の海が薄い朝霧の中で瞬いている。古の書画に描かれた桃源郷とまではいかぬまでも、その入り口とは恐らくこのようなものではないだろうかと寧深は思うのだった。
「寧深、行こう? そろそろ拝謁の時間だよ?」
「うん」
僚友に促され、寧深は頷いた。わずか五日の差とは言え、後宮に入ったのはこの僚友の方が早い。新参者たる寧深の場合、平穏の内に年季を全うするためにも此処では万事慎重な振る舞いが必要であった。間も無く朝の拝謁が始まる。皇帝仁宗に対してではなく、今や後宮の一切を仕切る身となった皇后 淕泉蘭に対する拝謁が――
孫寧深は農村の生まれだった。生家は大封の南東より千里先。寧深の父は地主ではあるものの、その暮らし向きは彼の統べる五十余戸の小作人と変わらず、一度は豊かな学識を買われて地方官として出仕したこともある彼自身、寧深が物心付いた頃から朝な夕な畑に出ては鍬を振い、大地と語らう暮らしを送っていた。地代は低く、彼自身篤実な性格故に小作人たちの人望も篤く、それ故に寧深と彼女の兄弟たちも、荒廃した農村につきものの殺伐とした雰囲気に晒されることなく長閑な田園生活を送ることが出来たというわけであった。
寧深が十四歳になったときに起こったひとつの変化が、その後の寧深の人生に少なからぬ軌道変更を強いた。それは寧深も連なる孫家の本家筋の女子が後宮に入ったことに端を発する。当初は女官にも等しい最下級の宮女であった彼女に皇帝仁宗の手が付き、以後彼女は瞬く間に後宮の序列では皇后の下に次ぐ貴妃の位にまで登りつめた。あまりに急な地位の上昇故に彼女の身辺を世話する女官の手が足りなくなり、そこで孫家の傍流たる寧深の家にも白羽の矢が立った……というわけである。系図の上では (中原世界では女子は系図の中に入らないから、もし女子も記した系図があれば……の話である)七親等ほど離れた従姉たる孫貴妃の許に、従妹たる寧深が仕えることになった……と言えば、ことのややこしさの一端なりとも判るであろう。
一度後宮の門を潜れば、以後五年に亘り後宮の外から出ることを許されない暮らしを強いられる点を除けば、後宮勤めは決して悪い話ではなかった。喩え皇帝に直に接する宮女ではなくとも、後宮に仕えている限り衣食住は保障されるし給金も出る。さらには女官の場合、一年季たる五年が過ぎてしまえば暇を貰って後宮を出ることも叶う上に、皇宮であるが故に礼儀作法に厳しい半面、嫁の貰い手も引く手あまたというわけで、女として拍が付くという意味では、後宮の女官という職は妙齢の女子にとってはまさに垂涎の的であったというわけだ。
「宮女及び女官各位は速やかに朝蓮の間に集合するように――!」
朝礼を告げる宦官の甲高い声が回廊を伝わり、静かな慌ただしさが女官の列という姿を借りて回廊を埋める。雅な動きだが、やや早足で朝蓮の間に向かう妾妃、宮女、彼女らの後に従う女官たちの群。華麗の粋を集めた朝蓮の間は、妾妃の官位では皇后に次ぐ貴妃三人を先頭に、忽ち艶やかな色香で埋まる。寧深はその数少ない貴妃の一人、孫美柳の近従見習いなるが故に比較的前列に在って、これより後宮の女たちが拝謁する対象を見ることが出来た。朝蓮の間の奥、玉座を思わせる階段を隔てた上座に皇后の椅子が聳えている。その傍ら、一回り小さな椅子がひとつ――
「皇后陛下の御出座し――!」
『皇后陛下に拝謁いたします!』
宦官が再び声を張り上げ、同時に下座の一同は低頭し唱和する。ただし宦官の発声一過、跪き低頭を強いられる寧深たちが座の背後、分厚い簾の奥から現れる人々の姿を見ることは叶わない。緊張に満ちた時が暫く流れ、次には雅な、だが年増な女の声が下座の一群を低頭から解放した。
「苦しゅうない……面を上げよ」
『有難うございます!』
下座の面々は再び唱和し、そこで漸く頭を上げる。果たして寧深が見上げた先、金銀の刺繍で鳳凰をあしらった貪婪たる錦衣と装飾に身を包んだ女性が、およそ彼女一人には過剰とも思える数の女官を従えて座っていた。
皇帝仁宗の皇后 淕泉蘭。後宮に入った頃の瑞々しさはとうに失われてしまっているが、装飾と化粧を差し引いても他者をしてなお十分に美しいと思わせることのできる容姿を持つ女性であった。年の頃も未だ四十の半ばすら出ていない筈である。寧深はといえば、上座に皇帝宜しく坐す皇后の顔に、狐のそれを連想している。切れ長の瞳に細く尖った頬と顎などは、寧深にとってはまさに狐の化けた姿に見えた。本来ならば皇帝もこの場に出るのが慣わしなのだそうだが、寧深は後宮に入って以来この場は愚か後宮でも一度として皇帝仁宗の姿を見たことが無い。彼女が仕える孫貴妃にしてからか皇帝と閨を共にしたには半年前までのことで、以後は一度も顧みられること無く、仁宗は後宮の奥に在って只管酒色に精を出しているかのように見えた。
貴妃を始めとする妾妃、上位の宮女たちが皇后の健やかなるを賀し、朝の挨拶を述べ、皇后は会釈と少ない言葉でこれに応じる。それが大桑国の成立以来後宮ではほぼ毎朝のように続いている。これを必ずやらねば、明日にでも大桑国が滅びるかのように延々と続く決まり事と儀式の日々……七日目にして後宮の儀式に身が慣れ始め、好奇心が緊張に勝る様になった寧深の目は、何時しか皇后の傍らに在って下座を窺うこの場で只一人の男子に注がれている。あの小さな椅子の上で時折神経質そうに身を震わせ、落ち着き処の無いかのように目を遊ばせる頼りなげな男子の姿。
名は王可明。淕泉蘭は彼を生んだことにより皇后の位を賜った。皇帝仁宗の第三子だが、朝野を問わず彼を次期皇帝と見做す者は決して少なくは無い……というのは長子たる王賛は二年前既に病を得て死に、今ではその子王累が皇太孫に立てられている。第二子たる王嵐師は、北限出身の女官という生母の身分の低さ故に早々と皇位継承競争から外れ、齢十三歳にして燕陽王という名ばかりの王位を得て大封より追われ、北限に半ば配流同然に封じられていた。
聖籍の時代に唱えられた直系傍系の序列を絶対とし、双方の宥和により家名を守るべきという「直傍の序」を名分として王賛の子王累を皇太孫に立て、仁宗の次代とするのが丞相李鶴元を筆頭とする主流派官人たちの方針だが、これに異を唱える者も宮中には少なからずいる。当の淕皇后、彼女の出た外戚たる門閥貴族淕家などはまさにその筆頭で、特に淕家とその縁戚の政治力、財力は朝廷にとっても無視できぬ一大勢力である。従って淕家の後ろ盾がある王可明もまた皇帝の座に指の一本ぐらいは掛けられる程の好位置にあるわけで、これを外戚による専横と見る者もいれば、一方で李鶴元による皇太孫擁立を官人による国政の壟断と見る者もまたいたのであった。
皇太孫 王累の姿を寧深は一度見たことがある。
皇太孫という立場故に、後宮から離れて佇む東宮に住まう王累であるが、月に三度は淕皇后への挨拶のために宦官に先導され後宮に入ってくることがある。入ってくる度に同僚の女官たちがそわそわし始めるからすぐ判るのだと寧深の先輩格の女官は教えてくれ、事実その通りであった。そわそわし始めるのに理由があるのもまた判った。王累は美男子だったのである。
皇太孫であることを示す紫色の官衣を纏った男子の姿。取り立てて長身ではないが引き締まり均整の取れた体躯と、柔和さと精悍さとの絶妙に重なったその横顔は、十七歳という若年ながら将来の皇帝たるに相応しい風格を、寧深のようないち女官にすら感じさせた。女官によっては彼を大桑国第三代皇帝にして、美貌と名君ぶりを謳われた光宗の再来と言う者もいる……だからこそ、淕皇后も気を揉んでいるのだろう。
「――これにて拝謁を終わる。妃たちは速やかに退出せよ――!」
「――――!」
宦官の甲高い声が、寧深の意識を現実に引き戻す。上目遣いに窺う先で王可明が欠伸をし、口を手で押さえるのが見えた。その退出の間際、血相を欠いた宦官がひとり、臣下の礼も忘れて淕皇后の許に駆け寄り、何やら耳打ちをするのを寧深は見る――
「何と!?」
「――――!」
後宮では絶対に聞くことは無いと思っていた女の裏返った声、感情の吐露を表す悲鳴――それをよりにもよって後宮の筆頭たる皇后が発したことに、寧深はむしろ戦慄する。そしてその後に宦官が発した言葉は、その場の女たちを恐慌の渦に追い遣った。
「――皇帝陛下が……崩御なされました……!」
大桑二四一年。大桑国第十三代皇帝仁宗は死んだ。正確な死因は後世においてもはっきりとは伝わっていない。ただ二十三年に及ぶ彼の在位後半の、七年に亘る後宮における不摂生な日常が、一個人としての皇帝の命脈を著しく縮めるに至ったということは事実である。そしてこの日を境に、中原の歴史は軋みを立てて動き始めるのであった。
夜風が重い。入口と窓以外を分厚い石垣で閉ざされた牢の中に在っても、格子を嵌められた窓から吹き込んでくる風でそうと察せられた。重い、湿気を含んだ風は牢内を濡らし、そこに押し込められた人間を無気力と狂気の淵へと追い遣るように仕向けるのだろう。
眠る……只管眠り続ける――それが慶邑の石牢に囚われた魯春醍に唯一許された行為であった。旅路を急いで疲れていたこともあるが、今は何よりも、自分を取り巻く現実を忘れたかったということもある。眠りに就こうとした時にはあちらこちらから聞こえていた悲鳴や怒声は既に消え、ただ羽虫の鳴く淀み無い音が窓越しに漂ってきた。
それから更に時が過ぎ、夜が深まる。そこに、誰かが歩み寄る気配を身体で察する。形ばかりの寝台として用意された茣蓙の上で牢の入り口に背を向け、気配を無視するように努める。
「魯春醍、解放だ。牢から出ろ」
「…………?」
耳を疑い、わざとらしく身を縮めてみせた。
「魯春醍、起きろ!」
「うるさい! おれは眠たいんだ!」
死に対し片足を突っ込みかけた諦観から一転、人を間者扱いしておいていきなり出ろ。しかも何処にも行く宛ての無い夜に牢を出ろとは何事だ、という怒りが春醍の若い胸中に渦巻いていた。行商人のような格好、しかも大封から来た――春醍に関わる全てが街を占拠する連中の注意を喚起し、結果として春醍は詮議と称し囚われの身となったわけだが、それこそ理不尽、それ以前に何処の馬の骨とも知れぬ連中が官の関知無く武器を携えて街を占拠しているということ自体、最大の理不尽である。意地でも不貞寝を決め込んでいる春醍を説得するのを諦めた牢番が牢の扉を閉め、帰ろうとしたとき、新たな気配が現れるのを春醍は察した。途端に変わった空気が、牢番より上位にある人間が現れたことを春醍の第六感に教えていた。
「どうしたのだ?」
「こいつ、牢から出ようとしないんです」
「こいつが……?」
しわがれた声、だが怒らせると怖い男の声だと春醍は思った。だが一旦閉じかけた牢の扉が開く音が聞こえ、圧倒的なまでの量感を伴う気配が春醍のすぐ後ろにまで歩み寄って来た……そして、牢の床に勢いを付け座り込んだ。
「お前が魯春醍 騎煩生の義兄弟か?」
「――――!」
春醍は思わず眼を開け、半身を擡げた。胡坐をかき座り込んだ帯甲の男と目があった……と同時に、猛烈な汗臭さと血の臭いが春醍の嗅覚に飛び込み、春醍は思わず後退りしてしまう。
「義兄弟じゃない……只の友人だ」
と応じつつ、春醍の目は眼前の男に惹き付けられたまま動けなくなっていた。饅頭に目鼻が付いていると思わせる程頭の大きな男。帯甲した躯も頭に負けないほど太かったが、手足の短さと比べ何処となく全体の平衡を欠いているように春醍には見えた。赤銅色の肌、目は刃の様に細く、だが険しく、眼の間では幅の広い鼻が牛の様に荒い息を常に吐き出している。潰れた団子の様な鼻、そこから覗く大きな黒い穴が、やけに印象に残った。生気に溢れる余り自分の身体を持て余しているような男、この世に存在するあらゆる艱難辛苦を舐めた結果に肉体に醜悪な変貌を来たし、それでも生きることに倦まない男……それもまた、春醍が生まれて初めて出会った種類の人間であった。
「俺は王律軍の将、朱宇貫だ。騎煩生が来るまでお前の身柄を与ることになった」
「騎煩生!? 煩さんが来るのか!?」
「来なかったらお前は斬られる。この俺にな。お前は解放こそされるが、未だ信用はされていない。よって当分この街からは出られない」
「…………」
呆然とする春醍の前で、朱宇貫という男は豪快に笑った。口を開けるや漂ってくる生臭い息を顔に受けつつ、春醍は平静を装うと試みる。
「……そ、それで煩さんは何をしに来るんだ?」
「決まってるじゃないか。俺たちに合流するのさ。あいつは王律軍本営の幹部だ」
「そんな……馬鹿な」
朱宇貫の言っていることの意味はすぐに判った。だが信じるわけにはいかなかった。
「待ってくれ。これは叛乱だろ? 朝廷に弓を引くってことだろ? お前ら叛徒になるんだぞ。逆賊だぞ? 判ってるのか!?」
「話には聞いていたが、お前も所詮は聖籍に頭を囚われた腐論の輩ってやつか?」
「…………?」
意味を図りかねた春醍の表情を察し、朱宇貫は笑った。黄ばんだ、不揃いな歯だが、その一本一本が太く、全て歯茎が生えているかのように見えた。挽き臼を思わせる歯だ。そして彼は明らかに愉しんでいた。眼前の書生を困らせることに――
「俺たちには、ちゃんとした作戦がある。勝っちまえば俺たちの方が官軍さ。蜂起には大封の騎煩生も始めから関わってる」
「煩さん……何でこんな馬鹿なことを……」
「まあ精々悩め。生き死にに関係なく、お前はもう王律軍からは逃げられない……で、どうする?」
「お前……どうするって……何を?」
「この小地獄で一晩過ごすか、それとも今晩から俺に首を斬られるまで思い残すことの無いようにこの街で過ごすか……どうする?」
「今日は出ない!」
言い切り、春醍は朱宇貫に背を向けて横になった。その後に、苦笑の響きが続いた。
「強情なやつ……悪くない」
宇貫が去り、牢は再び閉じられた。元の静寂が訪れた途端、不覚にも溢れた涙が冷たくなった石畳剥き出しの床に零れ、それがさらに己が身の哀れさを春醍に誘わせた。もう大封には帰れないかもしれないという悲しみ――
国都大封は、皇帝の崩御という直近の過去を、国葬という典礼を以て総括し、新皇帝の即位という未来を、即位の儀という、やはり典礼を以て迎えようとしている。ただし、過去と未来の狭間でこれら両方に関わる人々の思惑は、必ずしも一致してはいなかった。
皇帝仁宗の崩御に伴い、位の追送を受け皇后から皇太后に昇格した淕泉蘭などはその筆頭であろう。本来の用法を当てはめれば国母に対する、国家の敬意の象徴とでも言うべき皇太后の称号ではあるが、今回至尊の地位に就く人間は彼女の息子 王可明では無かった。先代仁宗に引き続き丞相を務める李鶴元の補佐を受け、王可明にとっては異母兄の子にあたる王累が、皇太孫という称号に相応しく順当に皇帝への昇格を遂げ、彼は遠からず大桑国第十四代皇帝として正式に中原の頂上に立つことになるであろう。息子を溺愛する淕皇太后としては、殆ど赤の他人同然の人間に国母と仰がれる位置に祭り上げられたわけで、政治的にも、そして母性という意味でも決して看過し得るものではなかった。
その日、引き続き住まうことを許された後宮に隣接する離宮において、抱えるに至った憤懣を持て余しつつ日々を過ごしていた淕皇太后を訪ねてきた者がいる。
名は何尊凱、淕皇太后の実兄にして淕家の当主 淕胞全の義弟で、この時兵部大監の称号を得ていた。兵部大監とは本来大桑国以前に中原を支配していた王朝にて設けられた職制で、大桑国の官制には存在しない称号なのだが、淕家の政治力と淕皇太后自身の先帝に対する働きかけがこの称号の授与を可能にした。称号を与える側からすれば、名誉欲の強い門閥貴族に実権の伴わない官職を与え、これを手懐ける意図あっての措置だったのかもしれないが、その実兵部大監はそれが機能していた時代は、大桑国において実際に兵部を掌る兵部尚書に匹敵する権限があったのである……
何尊凱は若かった。系図で言えば淕胞全の正室何氏の弟であり、二十四歳の若さで何家当主の座にある。やや縦に長い嫌いのある顔を除けば、長身に属する体躯と粋な官服の着こなしともに有力な門閥貴族の一翼たる風格を漂わせていた。
「皇太后陛下の御鳳顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ奉ります」
「目触りじゃ……このまま離宮より出て行きゃれ」
「御不興の程、拝察し申し上げます」
離宮の深奥を占める皇后の私室、拝礼を終えた何尊凱はニタリと笑い、胡式の長椅子に腰を下ろした。まるで自分の部屋のように振舞っているわけだが、淕皇太后もそれを咎める風でも無く、淕家に準ずる若者に憂い混じりの眼差しを注いでいる。縁戚である上に、何尊凱個人の子供じみた性格が、むしろひとつの愛嬌として好感の対象になっていたのかもしれなかった。
「累は皇帝の器にあらず。我が子可明こそ帝位を継ぐに相応しい」
「御意にございます」
皇太后の言葉に無難な同意で応じ、何尊凱は続けた。
「諸悪の根源は李鶴元でありましょう。あやつは帝の藩屏たる我ら門閥貴族を朝廷より遠ざけ、国政を意のままにせんとしております。この度の建宗擁立と我らの憤り振りは、あやつにとっては想定通りのことやもしれませぬな」
「建宗?……とな?」
「王累は建宗と号されることに既に決して御座います。無論、我らには何の断りも御座いませぬ」
「李鶴元……獅子身中の虫め!」
申し訳なさそうに何尊凱は言い、皇太后は感情を顕わにして丞相を毒付く。
「そればかりか李鶴元は、今回の建宗擁立を機に、我ら門閥貴族に対する新たな課税の議を復活させる由、遠からず高祖より賜りし淕家伝来の地も礼儀を弁えぬ官人の踏み荒らすところとなりましょう……心ある貴族は皆胸を痛めております」
「淕家の所領は高祖より賜りしものにあらず。我ら淕家は高祖に臣従こそすれその実は同盟者も同じであった。それは何も淕家のみのことではないぞ?」
「これはしたり」
間違いを指摘され、何尊凱は恐縮する素振りを見せる。淕家を始め少なからぬ門閥貴族は大桑国建国以前より有力な豪族としてその権勢を保ってきている。高祖譜代の家臣ではなく、あくまで高祖の同盟者であり、協力者であったという自負が彼らの矜持の根幹を成していたわけであった……まあ、高祖を主と頂き、彼の覇業に協力したからこそ彼ら門閥貴族の現在があるわけなのだが。
「兄上は何をしておいでか……それに李鶴元の野心が何時可明に向かうとも限らぬ。それを思うと妾も胸が痛む」
皇太后にとっては、淕家の命運と同様息子 淕可明の将来こそが全てであった。その点、市井の母親と変わるところは無かった。至尊の座を掴んだ建宗と、その輔弼者たる李鶴元が聡明な (と皇太后は思い込んでいる)王可明を疎んじ、何時排除の手を伸ばしてくるかわかったものではない。過去十三代に亘る大桑皇帝の治世の狭間でも――表沙汰にこそなっていないが――幾度か起こっていることだ。
「――その点については御心配無く、天意必ずや我らに味方することと相成りましょう」
「まことか?」
「我ら貴族ではなく万民の後押しにより建宗は斃れ、何れ中原は王可明様の御手の内に収まりましてございます」
そこまで言って、何尊凱は笑った。刃を思わせる、怖い笑みであった。
「乱は香南より」
過去と未来の狭間で、彼らなりの未来を掴むために胎動する者もいれば、掴むべき未来を見出せずに右往左往を強いられる者もいる。
特に淕皇太后のお膝元とでも言うべき後宮の住人などはその筆頭であろう。大桑国以前の王朝より続く慣例として、皇帝の代替わりごとに後宮は解散し、新たな後宮が妙齢の女子を集めて編成されることになっている。具体的には貴妃以下の妾妃、女官は一時金を下賜された上でお役御免となり、宮女を徴募する専門の官人、地方官が大桑国全土を巡って新たな女子を集めることになるというわけであった。それは先帝に目を掛けられた妾妃も、入宮以来一度として手を付けられることすらなかった妾妃も斉しく同じで、彼女らの中である者は郷里に戻り、またある者は国都大封に新たな住処を得、等しく一時金と年金、そして後宮より拝借した多少の財貨を頼りに、彼女たちには長すぎる余生を送ることになる……
驚き……というより拍子抜け、といった感じで孫寧深は皇帝の崩御を受け入れた。全くの新参者である寧深の場合、それ以外に彼女が持つべき感慨は無かったと言ってもいい。平時の静寂から一転、人員の代替わりと出立の準備に喧騒を極める後宮にあって、寧深もまた後宮を出る妾妃の荷づくりや宝物の整理に駆り出される人員の一人でしかなかった。後宮には原則として男子は入れないのであるから、これは当然の流れともいえる。むしろ引っ越しの手伝いに集中している方が、未来を考えずに済むだけ気楽でいられた。寧深と同年代の女官たちもまたその点では同じだった。ことが終われば、彼女たちもまたそれぞれの郷里に戻ることになるのだから――
寧深が仕える孫貴妃は、許されて大封の郊外に邸を与えられることになった。寧深の場合、同族の誼で引き続き孫貴妃に仕えることが決まり、いずれは孫貴妃に従い後宮を出て行くことになる。出仕の場が後宮の外になるわけであるから、この環境の変化は実のところ寧深には嬉しかった。都の賑やかさに触れる機会が増えるだけ、これからの自分の人生も潤いのあるものへと変わるだろう……と、この時の寧深は漠然と考えていたのだ。
「寧深どの? 寧深どの」
声を掛けられて、寧深は荷づくりをする手を止めた。彼女と同じく孫貴妃に仕える顔見知りの宦官が、離宮の外に在って寧深を手招きしていた。後を僚友に任せて外に出た寧深に彼は言った。
「孫貴妃がお呼びですよ。こちらへ」
宦官に先導され、寧深は孫貴妃の控える離宮の四阿へと通される。それまで堀の縁に在って高位の女官たちと談笑していた孫貴妃が、寧深の姿を認めるや女官に席を外すよう目配せし、その後には貴妃と寧深、そして寧深を導いた宦官が残された。
「孫寧深、孫貴妃様に拝謁いたします」
「寧深、あなたを見込んでひとつ頼みがあります。聞いてくれるか?」
「はい、喜んで」
いち女官の立場ではまさか嫌とは言えず、その一方で貴妃が日頃見せることの無い、思い詰めたような口振りであることに、寧深は胸騒ぎを覚えた。
「丞相府からの命により、後宮に少なからず女官を残すこととなりました。後宮に新しく入る妾妃が揃うまで、そなたにも後宮に残ってもらいたいのです」
「貴妃様、御無礼を承知でお伺いしたき議が御座います。お許しください」
「許します」
「後宮に妾妃が揃った暁には、わたくしはどうなるのでございましょうか?」
「半年……半年はそなたは此処にいて諸事を掌ることとなろう。そなたは我が一門のひとり。半年経てば必ず私の許へ呼び戻すゆえ、いま少し耐えてくれまいか?」
「か……畏まりました」
低頭しつつ、応じる声が震えた。と同時に、安堵の溜息を寧深は聞く。寧深を選んだ孫貴妃にしてからか、気が進まない様子がはっきりと察せられた……後宮の外で、何が起こっているのだろうか?