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第一集  「女侠客」

 宿場を出、鬱蒼(うっそう)とした森が一刻ばかり続いた後、岩肌も露わな山道が眼前に広がる。それを若さに任せて昇るうちに木々の群も疎らとなり、そして森は完全に消えた。

 その日、歩き出した時にはさして気にも留めていなかった空気の湿っぽさが、今では身を焦がす不快さをもたらしている。手拭いで額の汗をぬぐいつつ彼は山を昇り、その先には四隅を塞ぐ岩山の連なりが彼の眼を喜ばせた。


 時は大桑二四一年初春。場所は中原の深奥、秋州の山中。


 重々しい葛籠(つづら)を背負い、山道を難渋しつつ歩く影が(ひと)つ――眼下には滔々(とうとう)と流れる河が一筋。眼下の河は巨大だが、これでも中原を東西に走る五つの大河から発する数多の枝流の、有り触れた一本でしかないことをその青年は知っていた。先日までは僅かながら見られた舟影はもう一艘たりとも見られなかった。一濁も見られない明瞭さをもって西から東に流れ、川面から響く水のさざめきが、何時しか雄大な水の営みとなって耳を愉しませていることに今更のように気付く。古の名文に描かれた、隠者仙人の住処を思わせる長閑さと厳かさの絶妙の調和を彼は思った。空気が湿っぽいのは、自分が次第に南に近付いていることを天が肌で教えてくれているのだと、魯春醍という名の青年には思われた。


 自然、胸がさざめいた。


国を去って香南遠く

山に登れば万里雨夏なり

傷心す 江上の客

是れ故郷の人ならず


 昔名も知れぬ誰かが、同じく香南への途を辿った際に詠んだという詩が思い出された。自ずと自嘲めいた笑みが漏れ、同時に傘を擡げて山霧の果てに、魯春醍は未だ見ぬ絶景を思い浮かべる。霧は濃いが、山道の前途を塞ぐ程ではなかった。昼餉にするべく木賃宿で老婆が持たせてくれた焼餅を取り出したものの、歯を充てた瞬間に春醍は形のいい眉を顰ませた。渡された時には柔らかく、温かかった出来たての焼餅は、春醍と旅程を重ねる内に石ころのように冷たく、硬くなり果てている。

「……だめだ」

 悄然と呟き、春醍は空を仰ぐ。傍らに下ろした葛籠を飾る修繕の跡が、人蹟の乏しい道に侘しさを見せている。何時しか回想の糸が廻り、春醍の意識は此処から陸路十数日の道程にまで遠ざかった大桑国国都 大封に在った。

 


「――貢生 魯春醍 丞将閣下に拝謁いたします」

 大桑国都 大封 皇帝の居城にして国政の中枢たる天許城。謁見の間に響いた自分の声を聞いたとき、魯春醍は一瞬心臓を高鳴らせた。組んだ手を掲げて首を垂れ、さらに膝を屈して試験官の言葉を待つ――それが位人身の貴賎を問わず入内し玉座に対する者が為すべき礼であった。

 広い。とてつもなく広いことは一歩を踏み入れるやすぐに判ったが、自分の声が此処まで禍々しく響くとは、若い彼には想像の外だったのであった。入内を許された瞬間に感じた、きつい香の匂いなど、とうに記憶の地平と押しやられていた。


(おもて)を上げよ」

「有難うございます」

 厳かな老人の声には、例えその口調に反感を覚えたところで、逆らえぬ程の威厳が歩調を合わせていた。逆らえよう筈も無かった。若干十九歳、しかも入内してこれからの半刻で以後の人生の大部分が決する段にある書生にとって宮中――この世にあらん限りの広範さと豪奢さを注いだこの狭い世界の何処に、身を隠す場所があるというのか?

「…………」

 顔を上げた先、(しつら)えられた試験官の座を占める老人の姿は、春醍の想像を裏切らなかった。派手な色調ではない、だが銅像のように重々しい暗い色調の礼服。それが白髭を生やした老人に纏われている。試験官にして大桑国丞相 李鶴元。試験官の座から階を隔てたさらに奥。垂簾に阻まれた皇帝の玉座は、位置的にも距離的にも下座の春醍からは見えなかった。それでも、中原を統べる大桑国において国政を与る人材登用の根幹を為す科挙。その最終試験たる殿試の始まりの中に、春醍は立っている。


 地方試験たる郷試から始まる、足切りと選抜を重ねた末に全土より選りすぐられた少数の及第者が受けることを許される殿試。本来皇帝直々の口頭試験であり、科挙及第者の序列を決めるための試験でしかなかったそれが、今では科挙の合否を最終的に決定する性質のものに変貌してすでに五年の時が過ぎていた。その五年間、殿試の試験官は丞相の兼ねる――否、代行するところとなっている。試験官という形で皇帝に貢生――殿試受験者の生殺与奪を握らせた結果、皇帝に要らぬ怨嗟が及ぶのを防ぐためでもあるが、それ以前に当の皇帝本人が、これといった理由も無くここ七年は朝廷に顔を出していなかった……実相を述べれば、政務を余所に後宮に籠ったまま出て来ないという公然の秘密もまた、殿試の在り方に少なからぬ影響を及ぼしている。

 

「魯春醍、卿に尋ねる」

「――――!」

 格調の高さでは経験の無い、外見の年齢を感じさせないよく通った声――落雷に打たれるような感覚が、これまで感じなかった緊張を春醍に喚起する。現に春醍の前に殿試に臨んだ貢生は、入内して半刻も経たない内に口から泡を吹いて運び出されてきたのだ。過度の緊張のなせる業であることは、春醍のような若輩にも察せられた。

 さて……どんな諮問が飛び出してくるのだろう? 身構えつつも、拝礼のために組んだ両手が震えるのは止められなかった。それを止めようとして、春醍は内心でもがく。

「北限軍役刑の濫発について、卿の思うところを述べよ」

「…………?」

 丞相は、何を言っているのか?……諮問の意図を探りかね、春醍は思わず垂れていた頭を上げた。眉ひとつ動かさず、長い白髭を扱くこともせず、その丞相は書生の反応を窺っていた。暫くの沈黙が続き、丞相は再び口を開く。

「わが国都大封、その周辺四群を合わせても、今月だけでも北限での軍役を課せられた咎人は一千にも及ぶ。去年まで同様の刑に処された者は大凡十を超えるか否かというところであった。この変化について卿の所見は如何?」

「…………」

 時事について論ぜよ……か。春醍は内心で胸を撫で下ろした。科挙において出題される課題の大部分は、聖籍五経と称される古代の聖王、賢人の言行録、そして彼らに纏わる史書、詩経にその出典を負っている。当然、一年や二年での付け焼刃な読書程度では及第はおろか郷試の突破も無理な話で、春醍自身も高級官吏の二男に生まれていなければ、今頃この場に立っていることが出来たか否かも疑わしい。殿試においても、これらの典籍に基づく問答を持ち掛けられる可能性は多分にあったのだが、春醍が解きほぐすべき課題は、むしろ空論より離れた現実の世界に在った。


 しかし、北限の軍役についてとは……困惑を覚えるのもまた事実である。北方、大桑国の威光の及ばぬ不毛の地たる北限、そこのさらに北に住まう「塞外の民」――蛮族の南下に備えて二十年前に設置され、今や大桑国唯一の常設軍と称されるまでの規模と戦歴を有する北限軍。その地理と軍役の過酷さ故なり手は無く、今や彼らの兵力の過半は北限以南より刑を得て配流される咎人の占めるところとなっている。春醍の記憶が正しければ、その北限軍を束ねる将は確か――


「……申し上げます」

 言うべき言葉を見つけ、震える声で丞相を再拝する。続いて正対する丞相 李鶴元の顔を窺う。木石のように、初めて会った瞬間から眉ひとつ微動だにしていないことに気付き、春醍は改めて戦慄した。

「民心の弛緩には苛刑を以て臨むべしと『古律経』に申します。而して北限における軍役を課せられた民が一千を下らぬとなりますれば、看過し難き事でございます。そのような判決を頻発するに正当なるか否か市井の風紀を探るのと同時に、判決を下した廷尉(法官)の上に立つ身なれば、廷尉の慎重な詮議をも要することになりましょう。あるいは……」

「あるいは……?」

「…………」

 不意に言葉に詰まり、春醍は両脇を見渡したい衝動に駆られる。入内した時には気にも留めなかったが、試験官たる丞相の他、この場には人間がいた。殿試の経緯を記録する祐筆は言うに及ばず、丞相を補佐する官人、興味本位で殿試の様子を見に来た官人たちで、朝議の間はぽつりぽつりと埋まり始めていたのだ。決して少なくは無い気配から注がれる視線が、春醍ひとりの身には痛く感じられた。

「魯春醍、続けよ」

 李鶴元に促され、春醍は一礼する。

「も、申し上げます……この際詮議は中原に及ばず、実際に兵を使役する北限軍に対しても為されるべきでありましょう。即ち、配流された兵を使う北限軍が、彼らをどのように扱っているのか……あ、あるいは……兵部より北限軍に配給されている兵糧、俸給を実際の北限軍の兵力と付き合わせてみることも肝要かと……」

「控えよ書生!……朝議の場であるぞ」

「…………!?」

 李鶴元のいる正面とは違う、傍らの官人たちから鋭い怒声を投げ付けられ、春醍は思わず頭を上げそうになった。と同時に、険しさを増した視線の下で、自分が虎の尾を踏んでしまったことを今更のように痛感する。自分は本当は、このような回答は求められていなかったのではないか? むしろ自分が為すべきは、投げ掛けられた課題を聖籍の名文を引用した上で論じ、忠孝の観念をも織り交ぜて総括して見せるだけでよかったのではないか……?

 汗――それも脂の様な汗が鬢とうなじから首を滑り、官服の襟を不快に濡らすのを春醍は覚えた。

「魯春醍、もう下がってよいぞ」

「…………」

 厳かに言われ、頭を上げた先で李鶴元は僅かに頷くのを春醍は見た。それから先のことを春醍はあまり覚えていない。眼前が真っ暗になるとは、こういう感覚なのかもしれない。再拝し、降内する途上、自身に向けられた視線に春醍は気付く。恐る恐る頭を上げた先で、一人の官服が春醍を見送る様に見つめていた。

「兄上……」

 春醍は呟いた。官服――それも高官たるを示す色調の官服の青年がひとり、退く春醍を見遣っている。

 その眼差しは冷たく、屋内で残飯に集る羽虫でも見出したかのように何の感情も籠ってはいなかった。



「そうかぁー……春醍落ちちゃったかぁ……」

 水を張った土鍋からは、真白い湯気が濛々と上がっていた。湯気を隔てた向こうで頬のこけた青年が笑っていた。

 無精髭が痛々しくも頼もしく感じられた。立ち上る湯気の中に香ばしい麦の匂いが重なる。その時が麺の食べ頃であった。春醍の見ている前で青年は箸を鍋に突っ込み、麺を自身の椀によそう。青年が麺を食べ始めたのを見計らい、春醍もそれに倣う。小麦の生地を伸ばし、適当に切った生麺を土鍋で煮、出汁と薬味で食するのだ……安価で単純なるが故にこの手の店は国都大封の各坊に広範に点在しているわけで、生家を出た魯春醍や、親類の援助を頼りに地方から出てきた書生にとっては有難い存在でもある。


「まあ仕方ねえよ。聞いたぞ。今年の殿試は難しかったって。それに……」

 声を顰め、騎煩生は続けた。

「今年の貢生の中には、淕家の系塁が三人もいるそうだからな……俺たちの席は初めから無いってわけだろうさ」

 皇帝の外戚として権勢を振う一門の名を出し、煩生はわざとらしく苦い顔をする。煩生いわく、科挙が有名無実化したのは、淕家に留まらず貴族や朝廷の上級官が、その権限を以て彼らの子弟を官に取り立てているがためで、従って朝廷は、本来の定数以上の官人を抱え込むことになる。その冗官(じょうかん)が増える一方で、後ろ盾のない者が科挙に及第したところで、彼が晴れて仕官するのは朝廷に席が空く何年か先……というわけでもあった。誰も表立って言わないが、試験を以て皇帝に仕える官人を作る仕組みは既に行き詰まりを見せている。


 冗談めかした煩生の物言いに、春醍は笑った。とっくに殿試用の官服を脱ぎ、庶服に戻った春醍と比べてみても、ふたりの出自の異なりは傍目からは区別できなかったが、官人――平たく言えば士大夫の系塁に連なる春醍に対し煩生は大封から遥か南、香南の地に本拠を持つ商家の出である。半ば出奔同然で大封に出、後に大封にいる親類の商売を手伝いつつ、あるいは故郷より仕送りを受けつつ市中に遊び、やはり何時かは春醍と同じく官に名を連ねることを望んでいる。だが郷試に落ちた彼の場合、その願いは春醍に先んじる形で絶たれてしまっている。それも過去四度に亘って、である。当然春醍より年長で、そろそろ三十にも手が届く煩生の実年齢は、春醍の兄魯会信よりもさらに上であった。春醍とは学房が隣であったことから知り合い、それから懇意となった。学の面で長じる春醍は煩生に勉強を教え、煩生は春題に遊びを教え、子供向けの私塾の教師や写本といった日銭を稼ぐ仕事を紹介するという形で二人の友情は成り立っている。父兄との関係が気まずくなり、家を出たがっていた春醍に下宿を世話したのも煩生であった。


 その騎煩生が麺を啜り、言った。

「……何でも、北限軍についての意見を聞かれたそうじゃないか」

「そうなんです。書生としてはこういうの困るでしょう? 聖籍から見た北限軍なんて……」

「それで……春醍は何と答えたんだ?」

「北限行きを決めた法尉と北限軍との間には、朝廷の預かり知らない合意があるのではないか……聖籍とは関係ないけど、まあそんな感じですね」

「そりゃあ……そんな言い方したら受かるもんも受からんよ」

 わざとらしく声を荒げつつも、煩生の目は笑っていた。

「でも……案外正解かもな。確かに今の北限の動きはおかしいよ。田舎にいる俺の伯父貴も手紙で言ってた。盗みでも北限送りになったやつがいるから気を付けろって」

「…………」

 事情通のように煩生は言い。春醍は困惑して窓の外、市の雑踏に目を移す。盗み程度で北限行きはおろか流刑に処されることは先ず無い筈が、大封の外では国法であるかのようにそれが横行している。天下泰平など、今では大封の中だけの話だとでもいうのだろうか?


「――春醍、おい春醍」

「…………?」

 気が付けば、煩生が思い詰めたように春醍の顔を覗き込んでいる。

「例の件、考えてくれたか?」

「例の件って……?」

「俺の商売手伝ってくれるかって件だ」

「あ、ああー……」

 納得しかけて、春醍は顔から表情を消した。殿試に臨む前、煩生と共に彼の親類の営む商売を手伝うという話で、煩生が独立して一家を構えた暁には、春醍も共に彼の事業を担う……ということでもある。

「また科挙を受けるんだろ? 俺よりも春醍の方が及第する可能性があるんだから勉学は続けた方がいい。もし官に就いたら俺を引き立ててくれよ。それまで俺がお前さんの面倒を見る。どうだ?」

「煩さん……」

「勿論……科挙なんて時の運だ。特に馬鹿貴族どもに官職を独占されてる今なんかはそうだ……駄目な時はその時だよ。何より……お前さんは書も読める上に算術もできる。だから傍にいてくれた方が俺としては助かる」

「…………」

 頬を上気させ、春醍は煩生を見遣った。心根の軽い男だが、嘘がつけない男であることを、春醍は彼との付き合いの間に知っていた。煩生は笑い、さらに話を持ちかける。

「返事はまだいい。そこで……ものは相談なんだが、ひとつ頼まれてくれないか?」

「やれやれ……」

 嘆息しつつも、断る選択肢を今の春醍は持っていない。春醍にとって煩生とは、そういう人物だった。



 ――回想の糸は折り返し現在へと通じ、人心地を取り戻した春醍は再び山道を歩き出す。そこに再び、国都を発った日の記憶が思い出された。


 香南に赴き、煩生の実家とも繋がりのある商家にて売掛金を回収する――ご丁寧にも回収すべき売掛金の台帳まで渡され、煩生と話した三日後には、春醍は大封城の門を出ていた。同時に渡された路銀は往路のみ、「許すから売掛金で豪遊しながら帰って来い」とは門まで送ってくれた煩生の言葉だ。科挙に及第し進士になれば、地方官の職を拝命し地方に出ることを考えないでもなかったが、実際には科挙に及第では無く、落第した結果として生まれて初めて春醍は大封を出、そして南に向かい歩き出したというわけであった。


 国都を出、暫く歩いたその時――

「――宮女のお通りだ。道を開けろ!」

 騎乗した衛兵の怒声、彼が振り上げる戈を前に道を行く旅人、行商人は人馬の別なく道の端に寄る。衛兵は先導であった。道上から動くものが消え、次には衛兵に守られた輿が列を為し、春醍とは逆の、都に上る道を進んでくる。


 四人担ぎの輿――「宮女か……」春醍は思わず呟いた。草原の乾いた風に乗り鼻腔を擽る色香。遊里の伎女(きじょ)が押し付けてくるようなそれとは違う甘い匂いが、眼前を横切る輿から漂ってくるものであることを察した時、春醍は思わず輿を凝視してしまう。簾に塞がれ宮女の顔も、そして姿も見えなかった。地方の良家から選ばれ、厳重な護衛の下で都に向かう少女たち。朝廷は集められた少女を宮中で養育し、やがて彼女らは後宮に収められることになる。基本、彼女が仕えた皇帝が崩御するまで、あの少女たちは宮中でも特に奥まった、狭い世界の中で生きていくことになるのだった。煌びやかな、だが空虚な行列が遠方に過ぎ去り、次には活気に満ちた旅の風景が戻って来た。春醍にはそう感じられた。


 旅の初日の記憶、そこに傾けていた意識を現在に引き戻し、再び山道――しかし山道と言うには道には広さと平坦さが戻り始めていた。歩きつつも自然、春醍は傘を擡げ、その目は空模様を窺っている。予兆は宿を出た時からあった。見返す度に空は、不機嫌な曇天を募らせている。

 


 曇天が、()き始めた。

 雨が疎らな内に雨宿りの場所を探して駆け始めたはよいが、春醍の脚以上に雨脚の方が勝った。山道を抜け、すぐに街道に達したのは僥倖であった。廃屋を見つけ、半ば崩れかかったその軒下に春醍が滑り込んだときには、背負った葛籠から衣の裏に至るまでが、まるでそのまま川の深みに身を埋めて渡ったかのように酷く濡れていた。滝のように天から零れる雨は、地上の万物を溺れさせるかのように降り続き、地に泥濘と混沌を生み続けた。

 手拭いで肌を拭い、重く湿った手拭いを絞りつつ拭うのを繰り返す。それでも埒が明かないことを、春醍はすぐに悟る。何処かに宿を取り、一息付かないことには全ては上手くいかなくなるだろう。それを思い、暗欝が胸中に広がる。しかし同時に己を励まそうと試みる。鬱陶しいほどの雨の量とこの淀んだ空気――自分が香南に近付いているのは確かなのだ……と。


 それにしても――


 中原とは、なんと広いのだろう――これまでの行程を思い、春醍は震えつつ息を吸い込んだ。山、河、空――中原に広がるそれらは大封という一個の隔絶された世界には存在せず、それらに生まれて初めて、それも直に接することができたという感動のみが、今の春醍にはある。


 正直言って、大封城の正門から一歩を踏み出した時には不安が勝っていた。騎煩生をはじめ気のいい書生仲間、腕白な私塾の教え子たち、そして魯家にいた頃、幼い頃から何かと尽くし世話を焼いてくれた家令夫婦――これまでの自分の人生に重要な示唆を与えてくれた人々、そして出立の日、自分を見送りに来てくれた人々と二度と会えなくなるのではないかという恐れに春醍は囚われたものだった。だが今は違う。任せられた仕事を終え、物見遊山に興じつつゆっくりと懐かしい大封へ戻ろうという希望が、今の春醍には芽生えつつある。大封と同じく、その外たる中原にも、太平の風は靡いているように思われた。大封で感じていた外の世界に対する不安は、既に無かった。


 ふと、春醍は思った――香南へは、どの道を辿ればいいのだろう?……と。もと来た山道と、雨宿りを続ける廃屋の間に横たわる街道は一筋。林が近いこともあるが、街道の両端は左右何れも雨の生む霧に包まれて見えなかった。

「…………?」

 豪雨の響きに紛れ、足音が近づいてくるのを察する。慌ただしい駆け足が緩んだ地面を跳ね上げる音。それも複数。気配が近付いてくる方向に自然と目が向く、ただしそれもまた淀んだ空気が生む白濁に塞がれて、実相を図ることができない。

「――――!?」

 刃の克ち合う鈍い響き――それははっきりと聞こえ、次には刃が肉を切る音が続いた――悲鳴。悲鳴も、刃の唸りも一度ではなく、重複して聞こえる。斬り合いをしているのだと判った時には、軒下に佇む春醍の眼前には既に三つの屍が伏していた。生を奪われた者の躯から、勢いよく泥濘に流れ出す血の河。そして――


「何……これ?」

 刀を構える男たちは、春醍を見てはいない。怯えきった表情をそのままに彼らは刃を握る手を震わせ、彼らを追うように現れた人影独つのみが、彼らの恐怖を一身に集めているかのようであった。その影の手にする武器には覚えがあった。都にいた頃、騎煩生と共に赴いた武具屋の奥に飾られていた、槍の様な長柄の刀……そうだ、確か青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうといっただろうか?

「うあああああああ!!」

 男が叫び、槍を振り上げて一歩を踏み出す。男の虚勢も生命もそこで潰えた。武器の間合いで相手は男に勝り、さらには刃を突き出す疾さでさらに勝った。偃月刀に胸を貫かれ足元から崩れ落ちる男。刃を引き抜き様に胡円を描くように翻し、一歩を踏み出す機会を窺っていた男の首を、防ぐ暇も与えず刎ねる――頬に生温かいものが掛かるのを春醍は覚えた――返り血。

「ひ……!?」

 気が付けば、影と対するのは刀を握った男一人。完全に怯えきった顔を強張らせ、次に彼は影に向かい跪く。

「た!……助けてくれ! 見逃してくれ! 荷は返す! この通りだ!」

「…………」

 無言のまま歩を進める影に息を呑むのと同時に、春醍は影の姿に違和感を覚えた。褐色の肌、か細い体躯に長い黒髪、そして青い長衣から透けて見える鞭の様な長い腕。偃月刀の使い手が女であるのと察するや、躊躇なく振り下ろされた刃が哀願を続ける男の首を刎ね飛ばす。

侠客(きょうかく)だ……」

 呟く春醍の眼前で、首を刎ねた躯が結わえていた風呂敷を剥ぐと、その女は彼女が作り出したまた別の骸の懐を弄り始めた。自分のものを取り返すには飽き足らず、恐らくは彼らの持ち物であろう荷を剥いでいるのだと春醍は察する。女侠客の挙動に目を奪われる余り、目を合わせまいとした時には遅かった。女の目が廃屋に向き、ふたりは期せずして互いを見つめ合う。

「…………?」

「…………!」

 女の柳眉、そしてただでさえ険しい目が、軒下に新たな男の姿を見出すや獲物を見出した豹の如くに猛々しさを増した。平静かつ華やかさの内に一日が過ぎ行く大封では、決して会うことも見ることも無かった種類の、粗野で猛々しい女の表情。ただし頬から顎にかけての輪郭、整った目鼻の形といい口元といい、花街の伎女と変わり映えしない端正さに、春醍は内心で気圧され、そして軒の端まで後退りした。女はと言えば戦利品を手に軒下を潜って春醍がいた場所に座り込み、中身を物色し始めていた。立て懸けた偃月刀の刃には、まだ血糊が雨に洗われないままに残っていた。


 頑健な、手の込んだ柄の造り、刃の長さ、分厚さといい施された装飾といい相当な大業物、それも並みの男子でも扱いに困るような業物であることに、そのときになって春醍は初めて気付いた。この女侠客は、ついさっきまで重々しく、禍々しいあれを鬼神が棍棒を操るように軽々と振り回していたのだ。只それだけでも、単なる威勢だけの侠客ではないことは判る……一方、春醍の視線を余所に物色を続け、見出した金品を自身の懐に仕舞う女の顔には先刻の険しさは既に消え、もはや街の物盗りと変わらない、嬉々とした下卑さに顔が歪んでいる。

「饅頭だ……!」

 (てのひら)大程もある饅頭を手に、女侠客の相好が緩んだ。それもまた、彼女に殺された盗賊たちの持ち物であった。同時に、春醍の腹も鳴った。今日は昼から何も口に入れていないことに、彼は今更のように気付く。女侠客は嬉々として饅頭に齧り付き、春醍はそれを横目に見つつ雨が止むのを待ち続けるか、ずぶ濡れを覚悟で旅程を急ぐことにするか迷い始めている。


 女侠客が不意に饅頭を春醍に投げ、春醍は危なっかしい手付きでそれを受け取った。血に染まった饅頭。唖然として春醍が目を向けたその先で、女は饅頭を頬張りつつ顎を杓った。「食え」という仕草だった。正直食べたくはなかったが、彼女の機嫌を損ねれば一生大封に戻れないかもしれないという危機に、今の春醍は囚われている。目を瞑って饅頭を齧り、難渋しつつも飲み込むということを繰り返す内に雨足が弱まり、曇天と静寂が戻って来た。

「よっしゃ行くか!」

 明るい声で女は言い、軒下から一歩を踏み出した。霧は退き始めてはいたが、道を行くに常人を躊躇わせる程の危うさを未だ漂わせていた。風呂敷を結わえた長大な偃月刀を担ぎ、女らしからぬ大股で道の真ん中を闊歩する後姿が霧の中に消え、それと対照的に道端に放っておかれたままの骸を前に、春醍は思わず背筋を震わせた。次には饅頭を叩きつけるように棄て、食べた物を吐き出さんと泥濘に顔を埋める。

 

 何処かで、鳥の啼く声がした。



 春醍の足は何時しか香南の境を超え、歩く道には賑わいが満ち始める。幅の広い街道の道端に居並ぶ旅人目当ての露店や酒場、茶屋の賑やかさに目を愉しませつつ二時も歩けば、春醍は旅の最初の目的地である慶邑の関所に足を踏み入れることになるわけであった。

 大封で貰った通行手形を見せて街に入り、早速宿を取る。出来れば風呂に入れて洗濯もできる宿がいい……半ば物見遊山の予定と化した目論見は、関所の様子を目の当たりにした途端、忽ち暗雲に包まれ始めた。関所にいる筈の官兵の姿が無く、代わりに先刻街道で見た盗賊のような風体の男たちが、思い思いの武器を振り回しては通行人を留め、人相と荷物を検めている。それ故に人の流れが滞り、春題もまた列を為す一要素でしかなくなってしまった。香南、しかも時節は夏に傾きかけているとは言っても、日の落ちるのはまだまだ早い。


 どういうことなのだろう?――疑問は関所の高楼から靡く旗を目にしても、答えを春醍にはもたらさなかった。「諌軍(かんぐん)」と銘された黄地の旗。釈然としないまま旗を見上げ続ける春醍の背後で悲鳴が上がる。背後に目を向けたのは、さすがに春醍だけではなかった。

「北の村に戻るだけだ! 何で止める!?」

「うるさい! 貴様ら逃げる積りだったろ!」

 夫婦と思しき男女が抗議の声を上げ、兵士が棒を振り上げて脅しつける。彼らを囲む兵士の数はさらに増え、兵士の一群はそのまま夫婦を引き摺るように門の向こうへと連れて行った。その後には恐慌が生まれた――もう引き返すことは出来ないという恐慌。

「叛乱だ!」

「賊軍だ! 賊に占領されてる!」

「――――!」

 列の各所から漏れる驚愕の言葉が、春醍にこれまで思いもしなかった事態を喚起させる。叛乱? 賊?――大封に生まれて以来、春醍はそのような話を聞いたことが無かったし、死ぬまで聞くことは無いと思っていた……否、思い込んでいたのだ。大桑国が成って二百四十年余り、戦乱の記憶と現実はすでに北限の彼方にまで追い遣られ、政道に不満こそあるが、世は春醍と彼の周りの人々の生き方を脅かさない程度には巧く回っている。叛乱を起こし朝廷を脅かす正当な理由など、何処にあるのか?


 愕然とし言葉を失う春醍の眼前で、言葉を聞きつけた兵士たちが棒を振り上げ、あるいは槍を構えて行列を脅しつけた。門前では、兵士の注意を惹いた旅人が容赦なく引き据えられては、街の何処かへと消えて行くのが見えた。

「――牢に入れろ! 朝廷の間者だ!」

「――逃げたぞ! あやつを追え!」

 恐怖は混乱を生み、次には恐怖を増幅させた。そこに悲鳴が重なり、遠方では人が斬られただの、槍で刺されただのといった物騒な言葉すら流れてくる。


 こんな筈ではなかった!……津波のように押し寄せては心臓を抉る恐怖に抗いつつ、春醍は門を睨む。不覚にも、噛み締めた歯ががくがくと震えた。


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