第十六集 「西玄へ」
遼陽の戦より五日を経ずして、晋安は朱宇貫に陥とされた。
それは電撃的な侵攻であった。遼陽において淕家の大軍を撃破した後、朱宇貫は精兵一万を選りすぐり、彼を淕家への生贄に捧げようと目論んだ郭玄方への報復を図ったのである。進撃の駿足ぶりたるや、まさに神速と言っても過言ではない程の凄まじさであった。
晋安は瞬時に陥ちた。守兵の数こそ晋安を数カ月に亘り寄せ手より守り得る程の勢力を有していたが、晋安の兵には守勢を維持し得る程の戦闘経験も、そして勇気も彼らには無かったのである。むしろ遼陽より鹵獲した淕家軍の旌旗を掲げて急進して来た宇貫軍の先鋒を、守兵が淕家軍の先遣隊と誤認し城門を開いてしまったことが晋安の命運を決した。正門はあっという間に制圧され、その後には竜巻にでも襲われたかのような混乱が、束の間の平穏を貪っていた晋安の城市に恐怖と混乱を拡大した。城兵の一部が晋安の防御を放棄して進んで朱宇貫に降伏してしまったことも、防衛線の崩壊に拍車を掛けた。
事ここに至ってはもはや城市の防衛どころではなく、先ずは守兵全てが降伏し、住民がそれに続いた。王郁と郭玄方の籠る政庁にも内応者が出、朱宇貫軍が怒涛の如く雪崩れ込んだ政庁に至っては僅か半時で制圧された。僅かな幹部が剣を執り抵抗したものの、それは暴力的な濁流に晒された木堰の如くに潰えるしかない。
――その結果として郭玄方は囚われ、広い廟議の間に於いて只独り、彼は朱宇貫の前に引き据えられている。
「やってくれたな。この腐論の徒が……!」
後ろ手に縛られ跪いた郭玄方を見下ろし、朱宇貫は吐き捨てた。賢人に対する謙譲の衣は既に脱ぎ捨てられ、今はただ害虫でも見る様な眼差しが、朱宇貫という男の玄方に対する内面をあからさまなまでに顕していた。
「冥土に送り届ける前にひとつ聞いておきたい。あんた、淕家から何を約束された? 宰相にするとでも言われたか?」
「下種に語る口は持たぬ」
と、郭玄方はわざとらしく朱宇貫から眼を逸らした。
「その下種にあんたは敗れ、今こうして引き据えられている。惨めなものだな」
「……香南は、我が終の住処に非ず……香南、田園と為すべからず……香南、庵を結ぶに値ぜず」
「仮にもお前の生まれ故郷だろうが?」
玄方の独白に、宇貫は心から呆れたように言った。詩的な言い回しには初めから興味は無かった。
「都をもう一目見てから死にたかった……お前ごときの手に掛かって死ぬより、それを為し得ぬのが私には遥かに残念だ」
「おれに勝てれば、夢も叶っただろうにな……天はあんたじゃなくこの朱宇貫を択んだってわけだ」
「勘違いするなよ。下種……!」
鬼気が玄方の語幹に重なり、それは同時に鬼神にでも憑かれた様な烈しい形相をも彼の顔に招来した。
「私は朱宇貫というごろつきに負けたのではない。魯春醍という士に負けたのだ!」
「――――!?」
朱宇貫の顔に怒りが突沸し、同時にあからさまな憎悪の相が彼の目と口を歪めた。郭玄方を始めとする晋安の派閥に、遼陽の戦の全貌はなお伝わってはいない。だが玄方自身は名状し難い超自然的な知覚――否、感情の機微から戦の全貌を喝破して見せたのであった。それが朱宇貫を怒らせるのと同時に恐怖させた。
「靖晋大将軍 朱宇貫、お前は確かに香南に覇を唱えるだろう。だがお前が手に入れた権力はお前自身の手で掴み取ったものではなく、お前が疎んだ魯春醍より譲られたものだ。だが朱宇貫、その名を語るも忌まわしき下種よ、お前は譲られた権力の重みに耐えられるかな?……いや、耐えられまい。精々権力の重みに苦しむのだな下種よ。お前が魯春醍から掠めた権力を、彼が取り返そうと再びお前の前に現れるその時まで!……魯春醍はいずれ――」
嘲弄しつつも、怒気剥き出しに言葉を荒げる玄方の口。それを捻じ込むようにして貫いた剣が玄方から言葉を、それを発する力をも永遠に奪った。口の中から脳幹を貫き、後頭部にまで達した剣の一突き――直後にどす黒い血が瀑布の如くに玄方の鼻口、そして耳から吹き出し、怒りに任せて剣が引き抜かれるや玄方は糸の切れた傀儡のように議場の床に斃れ込む。
「――下種はてめえだ。この下種野郎!」
剣を一振りし、黒い血糊を拭いつつ宇貫は毒付いた。余りの展開にその場から動けないまま立ち尽くす部下を、この場にいない誰かへの憎悪剥き出しの眼で睨む。
「あいつは今何処にいる?」
「あいつ……とは?」
「魯春醍に決まっているだろうが!!」
とっくに彼自身が香南より追放した筈の男の名を、朱宇貫は歪んだ目付きもそのままに叫んだ。
兵の列が北へと進む。それは整然とした秩序を保ち、まるでこれから戦勝後の凱旋にでも望むかのような足取りの軽さを香南の街道に見せ付けていた。上校尉令 鄭塁欽は副官の楊倫を伴い、街道より一段高い小山に在ってその通過を見守っている。もっとも、眼下に在って国都大封を目指す兵の指揮権を、今の彼はとっくに擲っていた。傍らの楊倫に至っては朝廷に仕える武官としての責務というより彼個人の仁義に従い塁欽に付き従っているのに過ぎない。
――数にして七千の里楊関の守兵に、遼陽から命からがら敗走して来た兵凡そ五千。敗残兵の中でも傷付き、あるいは病に倒れて動けない者は荷車に乗せられて隊列の後を追っていた。この敗残兵の到来が、かつては王郁軍より里楊関を奪い、成り行きのようにその守将に収まった――否、守将たるを押し付けられた鄭塁欽をして遼陽の敗戦を知る切欠となった。
何尊凱大将軍が破れた!? 三十万の大兵力を投じたのに!?――塁欽ですら、敗報が伝わり始めた頃は半信半疑であった。それ故に塁欽は関より斥候の騎兵を放つということまでした。その彼らが戻ってくる間にも敗残兵は続々と増え、同時に戦の詳細が、断片的に戦況を伝える彼らの口を借りる形であたかも塵が積もる様に重なる。それらは普段沈着冷静を以てなる塁欽の心胆すら、まるで地獄の底に落とされたかのように震わせた。
「――叛徒の騎兵に陣の背後から襲撃された」
「――最初の半時で大将軍を始め主だった将、貴族が悉く討たれた」
「――奇襲を掛けてきた敵騎の数は五万!……いや、十万はいた」
「――陣から逃走した兵の多くが増水した亭水に殺到し、大水に流されて死んだ」
「――!」
塁欽は絶句し、そして戻って来た斥候の報告は、彼に更なる驚愕をもたらした。
「――亭水の付近には、溺死した淕家軍将兵の骸が山を作っておりまする! その数……二十万は下らぬかと!」
「信じられぬ……夢ではないのか?」
塁欽は声を震わせた。と同時に震えるばかりでは事態の打開にはならぬことを当の彼が最も弁えていた。如何なる魔術を使ったのかは知らぬが、その大軍三十万を打ち破った叛徒は、果たして如何なる選択を為すであろうか?――隷下の校尉を召集し、敗兵の収容を急ぐのと同時に関の防備を固める旨を告げる。秋河を挟みより北方の豫倉に伝令を送り、援軍の要請を行うのも忘れなかった……もっとも、今の淕家に再び南征を企図するに足る大軍を送り出す余力があるとは、鄭塁欽ならずとも到底思えなかったが。
――そこに、かの青年はやって来た。
亭水の方向に面した城壁の端、そこに立つ見張りの兵が声を上げた。やや焦った感のある彼の報告は、自軍の兵士では無い誰かが彼の見張り圏内に入って来たことを示していた。晴天の下で地平線が揺らぎ、やがて乗馬姿の影一つを、彼方を注視する守兵の凝視する先に生む。
馬に跨る旅装姿の男がひとり、だがその顔は編み傘の陰に隠れて判らなかった。奇異なのは馬上の彼が帯剣していること、そして恭順の意を示す白旗を掲げていること――それ故に城壁の塁欽は兵に攻撃を禁じ、そして男は里楊関の門前に馬を進めるに至る。
「――止まれ!」
威嚇の意味で矢を番えた守兵を、編み傘に覆われた頭が見上げた。
「我が名は大封の魯春醍。かつては叛徒の幹部なりし者、里楊関の守将にお伝えしたき議がありまかり越しました! どうか守将に拝謁を願いたい!」
「どうします?」
楊倫が怪訝な顔を塁欽に向けた。塁欽は表情を和らげ、楊倫に向き直る。
「会おう、入れてやれ」
「……聞いたことがあります。今年の初夏、幽関を巡り叛徒同士が争いし際、小癪な策を弄し関を奪った者がいるとか」
「ほう……?」
聞こうか、と言いたげな顔を塁欽は楊倫に向けた。
「そやつは大封からの勅使を装い、関の指揮官を城外に誘き寄せて質と為した由、守兵悉く抵抗できず関を明け渡すことになったとか……」
「見た処あやつは官服を着てはいないし、大封は亭水より南には無いぞ。それに……」
「それに……?」
「今の叛徒ならば大勝の余勢を駆り、かような小細工を弄せずに正攻法で我が関に寄せて来よう」
言い捨て、塁欽は青年を招き入れるよう身振りで命じた。
「――魯春醍、守将に拝謁致します!」
身形の粗末さからは想像もできぬ、丁寧な拝礼であった。しかしそれを、城壁の上に在って彼と正対する鄭塁欽は峻厳な眼差しをそのままに観察する。両脇には武装した兵を配し、その上にお決まりの様に「近く寄れ」とは言わず、塁欽はただ眼前の庶服姿の青年を凝視し続けた。
「そのまま用件を聞こうか」あえて抑揚に乏しい口調を使い、塁欽は切り出した。魯春醍と名乗る青年は再び低頭し、言われるがままに応じる。
「羅王儀をはじめ関中に囚われた王郁軍の兵を解き放ち、双方合議の上で城を明け渡して頂きたく、言上仕る」
「降伏しろというのか!? 貴様!」
楊倫が色を為して塁欽の前に進み出た。青年は頭を振り、やや狼狽した顔を隠さずに続ける。
「……逃げて頂きたい。と申し上げているのです」
「逃げろ……と?」
「はい」
「我らに恥をかけと言うのか? 卿は」と言いつつも、塁欽の語尾は笑っていた。眼前の若者に対する興味が湧いてきたのだった。
「恐れながら……この際関を捨てて北に逃げても恥辱にはならぬと心得ます」
「何故だ?」
青年は再び低頭した。
「恐れながら、この旅の征南軍の総大将は何方にございましょうや?」
「大将軍 何尊凱様であるぞ」と応じる塁欽の内心は、釈然としない。質問の意図が掴めなかったのである。
青年は頷いた。
「何尊凱は、すでに討たれてございます。今の征南軍に総大将はおりません」
「それで……?」
「総大将がいない以上、配下の軍が如何なる行いに出ようとこれに賞罰を加えることのできる者は御座いません。軍を動かす総大将がいない以上、今の位置に拘る道理も御座いません。どうか御熟考の上、守将様自らの判断にて兵を動かすよう、守将様にはお願い申し上げます」
鄭塁欽は、春醍に手招きした。手招きに従って数歩を近付いたところで制止する。塁欽の投げ掛ける声がよりはっきりと届く距離であった。
「魯春醍とか言ったな。卿は叛徒の首謀者……王郁とやらの使者か?」
「違います。申し上げた通り、叛徒の軍を脱したいち庶民で御座います」
「その庶民が、何の権限あって使者に立つ?」
「私はただ、これ以上無駄な人死にを亡くしたい一心で守将どのの許に参りました。それに――」
「それに?」
「捕らわれている羅王儀は、私の掛け替えの無い友です!……だから、こうやって助けに来たんだ!」
青年は膝を屈し塁欽に頭を下げた。居合わせた将兵がどよめく中で、塁欽を直視する青年の顔が酷く思い詰めていることに塁欽は気付く。一片の腹蔵も伺えない純真な青年の顔だと、塁欽は内心で気圧された――
「――塁欽様、塁欽様?」
傍らの楊倫に呼び掛けられ、塁欽は意識の糸を過去から現在に引き戻した。楊倫が、重病の親類を見舞うかのような神妙な表情を浮かべていた。
「考えておられましたか。あの魯春醍のことを」
「ああ……」
気恥ずかしそうに塁欽は頷いた。友を助けるためという妙な動機でありながら、その実魯春醍の言う通り、里楊関に拘泥する道理が遼陽の敗戦の時点で失われているのも事実であった。北から来る敵が寧原を通る経路を辿れば、忽ち戦略的価値を喪失するような位置に在る小城の何処に、生命を賭すに足る価値があるだろうか?……それに、塁欽が春醍の進言を容れた理由は何も戦略上の問題だけではなかった。淕家の私兵と化した官軍に、鄭塁欽個人は今となっては何の価値も見出していなかったのである。
街道の向こう、北の地平線の先に遠ざかりゆく兵の列を見送りつつ、楊倫が言った。
「塁欽様……大封には、本当にお戻りにならないのですか?」
「今の大封に私の居場所はない。おめおめと上洛したところで、何尊凱戦死のとばっちりを受けてあらぬ災難を被るのが落ちだろう。私は友人を頼って西玄にでも赴く積りだ。あの魯春醍のようにな」
「友というと……曹瞬どのですか?」
塁欽は頷いた。楊倫とて塁欽に従い西玄に赴く積りである。神代にその起源を発する大桑国の古都にして、今となっては大封を追われた建宗と彼の配下が新しき国都と定めた地、大封と西玄に二帝が並立する時代、いずれ来る両者の激突に備え、それなりの智勇の徒が数多求められている筈であった。解放した羅王儀に関を明け渡す間際、関を辞し北への旅路に戻る魯春醍と、戯れの積りで交わした会話が思い出された。
「――春醍どの、香南ではいかなるご活躍を?」
「――お恥ずかしいことですが私は前線には出ていません。主簿として幽関と……それから慶邑に転戦しましたが」
「――幽関? 慶邑?……あの小さな城市を守っていたと?」
「――小さな城を敵から拝借したり、誰もいなかった城を、単に守った振りをしていただけ……といった感じですが……」
「――……あなたとは、また何処かでお逢いすることになりそうだな」
――あの時と同じ苦笑が、会話を思い出すたびに抑え切れずに口元に浮かぶ。苦笑をそのままに、塁欽は透き通るような蒼空を見上げる。
「ひょっとすれば、あの青年も今頃西玄に向かっているのかもしれませんね」
「魯春醍――今は何処の、旅の空の下なのだろうな」
遼陽の敗報が伝わるや否や、国都大封の空気は一変した。
もっとも、負けると考えていた者は淕家の中にも、その外に在って淕家に傅く者たちの間にも、さらには大封の只中に在って息を潜めていた反淕家の者たちの中にもまた皆無であった。
それ以上に、三十万という大兵が中原における淕家の軍事的優位を担保する唯一の存在であったから、敗北が確定した時に受けた淕家棟梁にして国父 淕胞全の衝撃は並みならぬものがあったのだ。
しかし――
香南に覇を唱えた三十万の大軍が、一夜にして跡形も無く消失する――そのようなことが、実際に在り得るのだろうか? 大封にいる誰もがそれを訝しみ、やがて恐れるようになった。大軍の崩壊を大封に住まう人々の内少なからぬ数の人間が、人間業では無い神仙魍魎の類の仕業と考える様になったためである。もしくは、今次の皇位掠奪と南征に代表される淕家の専横を憎んだ大桑国歴代皇帝の霊が一致して淕家軍に業罰を加えた、と言う者もいて、それは風聞という形を取り大封を支配する淕家の屋台骨すら揺るがし始めたのであった。遼陽で大敗を喫してもなお、淕家には西玄に籠る建宗を討つに足る数の兵があり、進軍を支えるに足る財力も有していたが、香南への征路が断たれたという事実はもはや動かし様が無い。
衝撃で三日三晩寝込んだ挙句、淕胞全は寝床より最初の命令を発した。それは国都と周辺四群に亘る服喪と、「敗戦責任の追及」を名目にした、なお国都に所在する「反逆者」の捕縛と処罰であった。つまるところ勝つべき戦を落とし、あまつさえ腹心と恃む義弟をその戦で失った衝撃が、淕胞全の精神の地平に拭い難い暗雲を垂れ込めさせたと言うこともできる。従って、反逆者と見做された人々に対する処罰は苛烈を極めることとなった。
――遼陽の戦の前日、淕胞全に諌言して入牢した淕豊を、妻の鄅氏が訪ねた。他の囚人より恵まれた立場とは言え長期の拘禁生活で憔悴した感のある夫に、面会の当初、妻は優しく未来の希望を語ったものだ――今回の敗戦で胞全も我が身の傲慢さを自ら糺して行いを改め、諌言を為した者にも寛容さを示す様になるだろう。解放されるまで今少しの辛抱だと――が、夫は頭を振り、妻の希望を霧散させてしまった。
「……いいや、私は殺されるだろうよ」
「……何故? 何故でございますか? 貴方は淕家の一門であるというのに――」
「だからこそだ。私に淕家の血が流れているからこそ、胞全どのは私を殺さねばならないのだよ」
淕豊は穏やかな口調で話を始めた――もしこの度の戦で淕家軍が勝てば、上得意になった淕胞全は反逆者に自分の寛容さを示そうとしたことであろう。だが、負けた場合に彼がまず考えることは、己が勢力圏を守るべく自身の拠って立つ基盤を固め、異分子を排除することである。特に淕豊のような血縁者を粛清することは、敗北に揺れる淕家とその系塁間の結束を惹起し、他者に淕家の敵対者に対する断固とした意思を示すために絶対に必要な処断なのである――懇々と諭す夫の言葉を、妻は何時しか満面を涙に濡らしつつ聞いていた。
「それでは私たちも……」
「……済まない。胞全が軍を引き連れて大封に入る前……いや、入った時点で大封より逃げていればこの様な事にはならなかったのだ。私も甘かった。私も淕家なればこそ、胞全にはそれなりの礼節を以て私の話を聞いてもらえると軽く考えていたのだからね……」
淕豊の語尾が泣いている。粛清というからには淕豊の命ひとつを奪うだけでは終わらないであろう。これまでの淕家の敵対者に対するやり口を鑑みれば、少なくとも妻子とその親兄弟に至るまで只では済まないことを、夫婦は覚悟の内に察していたのである。
――三日後、淕豊は国父 淕胞全の命により処刑された。斬首であった。「喩え国父の一門と雖も、皇恩に仇為す者に仮借するなかれ」――それが、淕豊の斬首に当たり発せられた淕胞全の公式な声明であったという。
粛清の手は同時に、大封の邸に住まう淕豊の妻子一族にまで延びたが、激しく燃え盛る邸の崩壊を前にして、捕縛者たちの意図は壮絶なまでの頓挫を見た。邸に火を掛けた後、淕豊の妻鄅氏を始めとする一族全員がある者は自刎し、またある者は毒酒を呷いで刑に拠らぬ死を択んだのである……それはまた、敗戦を拭うための綱紀粛正に名を借り、狂気の道をひた走る淕胞全に対する抗議の死でもあった。
戦犯誅殺に名を借りた粛清が朝に夕なに進行している一方で、淕胞全が彼の甥たる王可明に皇位を継承させる手筈は着々と進行している。淕家軍の進駐が完了するまで、大封近傍の避暑地胡寧にあって淕家と内通しつつ情勢を窺っていた淕皇太后が、その子王可明を連れて大封への帰還を果たしたのは遼陽の戦の前日のことで、結果として若干十八歳の王可明は皇帝即位の直後に未曾有の敗戦に直面することとなった。幸先の悪いことこの上ない。新皇帝王可明、後の礼宗である。
結果として息子の晴れの舞台に泥を塗ったわけであるから、その庇護者たる淕皇太后の怒りは尋常では無かった。もっとも、彼女の怒りは征南軍を撃破した不埒な叛徒に対してではなく、専ら南征を企画し推進した彼女の兄に向いた。彼女個人の関心事は香南を占める叛徒の動向では無く、息子たる王可明ひとりの行く末にあったから、これは人間としてごく自然な反応なのかもしれない。敗戦以来、淕皇太后と礼宗は共に後宮に籠ったまま一歩も外に出ることなく、天許城の主同然の淕胞全に至っては、ご機嫌伺いに訪れた後宮から三度に亘り謁見を拒否された揚句、四度目で漸く皇太后の勘気が融けてふたりとの謁見が許されるという有様であった。
「……皇太后陛下にはご機嫌麗しく……」
「機嫌など、麗しゅうない」
皇帝の玉座より一回り大きい皇太后専用の椅子に坐したまま、淕皇太后は言い放った。太った狐を思わせる丸顔を引き攣らせつつ、胞全は低頭する。
「どうかお気をお鎮め下さりませ皇太后陛下、大封で即位した以上、我らの立ち位置は盤石。一度や二度の負け戦で揺らぐことあたはず……とお心得遊ばしませ」
謙った物言いの後に、へっへっへっ……という、下賤な笑い声が続く。呆れたように頭を振り、妹は兄に言った。
「兄上……ひとつ、諮りたき件これあり」
「至急のご用件で御座りましょうか?」
「左様。これが叶わずば大桑は遠からず断絶の危機に陥りましょうぞ」
「ハァ……?」
仮にも門閥貴族家の長であろうと、妹、それも皇太后の称号を持つ者に対し、露骨なまでの真顔で聞き返すという点だけで、その育ちの粗野さが滲み出ている。
「判らぬのですか? 此処は後宮でございまするぞ。然るに皇帝の住まうに相応しい調度も無ければ、我らに仕えるに十分な数の妾妃も女官も、そして宦官もおらぬではありませぬか」
「それは……」
自身の不手際を思い出したように、胞全は全身から苦渋を滲ませた。実際、香南支配、それに続く西玄攻略に備えた兵と兵糧の集積にかまけている一方で、皇帝の身辺にそれなりの格好を付けるという、肝心な配慮を彼は失念していたのである。
「すぐに手配なさいませ兄上、天上の高祖様も泣いておりましょうぞ」
「ははーっ!」
「母上……わたくしに妃を下さるので御座いますか?」
傍らに坐す息子たる礼宗の言葉に、皇太后は只でさえ細い眼を一層細めて微笑み掛けた。この点、愛する我が子に接する市井の母親と変わらなかった。
「そうじゃ……それも一人ではない。可明には両手両足でも数え切らぬ程の美姫を宛がい、大桑繁栄にためにもたんと子を挙げて貰わねばのう……」
「母上……私は母上が大好きでございます。でも母上以外の女子は……怖おうございます」
「仮にも大桑の皇帝たらん者がそのような惰弱でどうする。まあ安心いたせ。後宮には眉目秀麗にして諸芸百般に通じ、そちらの方でも万事心得た者を揃える……もしもの時は母が手取り足取り指南して進ぜようぞ」
雅な口調で際どいことを言い、皇太后は笑った。それを傍らにして、新帝はあばたの目立つ細面を紅潮させて俯くばかり――母子の遣り取りを神妙に見守りつつ胞全は安堵の息を漏らし、再び低頭する。
「……いまひとつ、香南の叛乱に関しご報告したき議が御座います」
「申せ」と最初に言ったのは皇太后だ。
「叛徒の首隗、郭玄方を討ち取りし賊軍の将、朱宇貫なる者が陛下に恭順を願い出ております」
「恭順とな? 異なことを言う。そ奴らは然る遼陽の戦に於いて官軍を討ち、何尊凱をも殺した者どもではございませぬか」
「大将軍を殺した賊軍とは、また別の賊軍にございまする」
「これは面妖至極……兄上はかの郭玄方と通じておったのではありませぬか?」
「その玄方を殺し、朱宇貫が彼の後を襲ったのでござる……それがしとしても聊か得心の行かぬ展開ではございますが」
わざとらしく釈然としない表情を見せ、面を伏した先で胞全は眼を泳がせる。
「叛徒の大半は生まれも賤しく、道義を弁えぬ無頼の徒と聞く。同志を手に掛けることに、聊かの躊躇も無いのでありましょうのう。恐ろしき限りじゃ」
「御意……」
横死した郭玄方には悪いが、朱宇貫とやらを懐柔しておけば、香南からの叛徒の侵入に晒されることも無くなる。単に向こうの都合で役者が変わっただけだ――淕胞全は内心でそう結論付けようとしていた……それにしても、ややこしい展開ではある。役者が御し易い人間であることを祈るばかりだ。
皇太后の下問は、なおも続いた。
「それで兄上、これからどうなさる御積りか?」
「朱宇貫の求め通りに王郁を香南に封じ、当面は朝廷の同盟者と為します。香南は彼らに預け、暫くは西玄の王累打倒に傾注するが肝要かと」
「今度は……否、陛下のためにも今度こそは勝たねばならぬ。兄上……頼みまするぞ?」
「はぁ……」
半分同意、半分生返事的な口調で、胞全は皇后を再拝した。後宮を辞して明極殿に戻る途上、淕胞全は立ち止り、踵を返して後宮の遠景を一瞥する。側近が怪訝な表情を顕わにして、彼の主人を見返した。
「国父殿下、何か……?」
「泉蘭の前では言わなんだが、宇貫は恭順の証に何ぞ持って来ると言っていたかな?」
「郭玄方の首級と、虜囚として玄方に就き従っていた文人、書生、学者どもではなかったかと。国父殿下の御承認が必要と思い、返事は未だ送っておりませぬが」
「そうか……ふうぅん……無粋な贈物よの」
「同感にございます」
短い首を捻り、やはり短い髭を扱いて考える。
「後宮は人が足りぬ……か……そうだな、こう致せ」
側近を近くに寄らせ、胞全は思う処を告げた。話を窺う側近の顔が一瞬戦慄に強張り、次には口元が皮肉っぽく歪む。
「……国父殿下も、恐ろしいことをお考えになりますな」
「どうせ科挙に及第することすら叶わぬ無用の本読みの集まりだ。郭玄方亡き今、それしか使い処があるまい?」
「御意にございます……では早速手配を」
「うむ、頼むぞ」
へっへっへ……と、胞全は側近に下品に笑い掛ける。ふたりは再び歩き出し、そして後宮が遠ざかる。
大封の遥か南。香南より遥か北。そこに大桑国新国都を称する西玄がある。
西玄は大封とその周辺という物資の大消費地と、米穀を主とする農産物の生産地たる香南を繋ぐ中間点に位置する上に、終には中原の東の涯――海にまで到達する河川交通の要とでも言うべき性格も持ち合わせている。生まれながらの商都と言ってもよく、城市自体の創始は古代、三邦七国時代の初期にまで遡り、これは大封よりも古い。むしろ物資集積と流通に特化した都市構造故に政治機能の集中が困難であったのがそれ以上の段階への発展――というより首都に相応しい変貌――を阻害してきた観がある。
大桑二四一年の晩秋、大桑国第十四代皇帝 建宗は西玄に入り、西玄をして之を臨時の首都を定めた。同時に、武力を背景に建宗を追う形で大封に乗り込み、新帝を擁した淕家の征討を命じる。命じてはみたものの、実が伴わないこと甚だしい。何よりも、大封を奪回するに足る兵が建宗の下にはいなかった。
「――戟文を出してみてはどうか?」
と、建宗は丞相にして彼の学問の師でもある李鶴元に諮った。建宗が西玄に入り間も無い頃のことである。
「今少し西玄に腰を落ち着け、周辺の情勢を見極めた上で為すが宜しいと存じます」
「悠長に過ぎぬかな?」
との教え子の懸念を、郭玄はにこやかに頭を振り制して見せた。
「淕家は今、その持てる私兵全てを以て香南の叛徒を平らげに掛かって御座います。その兵三十万に達する大軍なれど、香南を征するにはなお足らず。その分時を擁し、兵も消耗し疲弊するものと心得まする」
「三十万の大軍とな……西玄にその矛先が向きはせぬか?」
「西玄を中心として、我らが統べる領域は決して狭くはござりませぬ。敵が攻めればこの後背と側面を衝き、その動きを止め、兵糧を断つだけの兵は既に調えてございます。ご安心召されよ」
そのような遣り取りがあった少し後に遼陽の戦が起こり、淕家軍三十万の敗報は西玄すら揺るがした。
「誤報ではないのか?」
と、李鶴元ですらその報が伝わった当初、我が耳を疑ったものだ。しかし西玄は商都であるが故に、物資と同じく多くの情報と風聞もまた集まる宿命を有する。淕家軍の大敗に関し幾つもの情報が重なり、複合してもたらされた結果として、西玄の朝廷においても遼陽の詳報は確定し、最後には身分を隠してまで自ら遼陽の近傍にまで赴き、現地の情勢を検分した曹瞬の報告が全てを決した。
「――申し上げます。遼陽における淕家軍三十万の敗北は、事実に御座います」
廟議の場において、曹瞬は建宗に報告する。淕家軍は叛徒の拠点たる慶邑を目前にしたところで敵の奇襲を受け敗れたこと。叛徒は雨天を衝き、野営した淕家軍の後背より三千騎の手勢を以て突撃したこと。大将軍 何尊凱は寝込みを襲われて忽ち討たれたこと。将を失ったことにより統帥の崩壊した淕家軍の混乱を見逃さず、慶邑の叛徒も打って出てこれが淕家軍潰走の決定打となったこと。逃走する淕家軍の兵を増水した川が襲い、これにより大多数の淕家の兵が溺死したこと――李鶴元をはじめとして、建宗の許に集う文武諸官は、驚愕というよりも戦慄を以て曹瞬の報告を聞いたものであった。
「――以上が……臣曹瞬の報告に御座います」
「――――!?」
廟議の一同がどよめいたのは、曹瞬の報告に驚愕したためでは無かった。目を輝かせて玉座からすっくと立ち上がった建宗、普段冷静沈着な彼が滅多に表さない、それは興奮の発露であった。
「曹瞬、卿に尋ねる」
「はっ……!」
「何者か? 三千騎を率いて三十万を討ったという勇士の名は?」
「風聞に拠りますれば大封の生まれにして齢二十の青年と聞き及んでおります。名は……魯春醍と申す者にて」
「二十歳とな?……予とそれ程変わらぬではないか……!」
驚愕を声に出してはいながらも、建宗の声は弾んでいた。その様を李鶴元はさもありなんと言う風に凝視する。建宗の反応は人間というよりも若者として当然のものであった。若者は、自分に出来ぬ事を成し遂げた同年の者を敬い、そして憧れるものだ。かつて若き日の李鶴元が建宗の父王賛に憧れ、そして彼を敬ったように――
それにしても――と、建宗の反応を喜ぶ一方で、李鶴元は訝る。魯春醍という名には、聞き覚えがあった。しかし建宗を助け、大封に在った頃より切実に政務と会議に傾注する今となっては、過去の彼と人生を交差させたであろう名の持ち主を、容易に思い出せなくなっていたのであった。
「大封の出と言ったか……」
沈思し掛ける鶴元の意識を、建宗の弾んだ声が引き戻す。
「我、大桑の全土に檄文を下し、今こそ淕賊征伐の兵を挙げん!」
『陛下の御心の儘に――!』
群臣がどよめくのと、李鶴元ひとりを残し一斉に平伏するのと同時であった。否――
「…………?」
群臣の中で鶴元の他もうひとり、平伏しない者の姿を認め、郭玄は我が眼を疑った。鶴元と同じく大封より建宗に付き従ってきた、若白髪の目立つ若き官人が、眼も虚ろにその場に立ち尽くしていた。
「確かあの青年は――」言い掛け、鶴元は絶句した。あの青年、魯会信には父と弟がいて、老いた父は今も大封、そして弟もまた――そこで彼と交差した人生の一幕を、丞相は思い出す。
「まさか!……魯春醍というのは――」
その後の言葉を出せずに、鶴元は呆然とした。人生の奇異さにではなく、不条理さに……である。
西玄に都を定めた建宗は、政庁を臨時の宮殿と為していた。
城市の北一帯を占め、城市よりも一段高く普請された西玄の政庁は、商都と呼ばれる規模と格式に相応しい広さと造りを有していたが、それでも政務の中枢とするにはなお不自由で、増築の普請が防備の増強と並行して進んでいる。建宗は政庁の中央に位置する城主の館を居城に使い、それは普段の執務の場も兼ねていた。
その城主の館の最上階たる三階を、建宗は執務に使っている。
元から城市より高い位置にあり、それも館の三階。それ故に執務の部屋からは西玄市内の喧噪振りがその目で好きなだけ、好きな様に追うことが出来た。見晴らしが良かったのである。
そのような部屋で、建宗は戟文を書いている。
淕賊の非道と建宗陣営の正統なることを訴え、兵を募る内容は誰もが西玄政権の誰もが賛同するところである。ただし納得のいく文が書けないまま、反故と化した紙屑が部屋の床に溜まる。戟文の材を採るべく書物を一読し、あるいは考え込む――その内に目が部屋からその外へ向かい、皇帝は若者の目を大路の往来に遊ばせた。天許城と違い、西玄の城は民の住まう場所にずっと近い。それが建宗には愉しかった。何時しか建宗の足は窓辺に向かい、簾を開け放った遥か先に広がる往来と市の賑わいに惹かれている。
「まあ……こんなに散らかして」
「…………!」
聞こえてきた少女の声に、建宗は耳をびくつかせた。慌てて顧みた机の傍で、宮女の身形をした少女が忙しげに反故紙を片付けに掛かっている。まるで小鳥が庭で遊ぶのにも似た少女の身のこなしは、先ず大封の宮廷のような格式ばった場所では見られず、建宗は自然と微笑を浮かべて少女の様子を眺めていた。反故紙を備え付けの屑入れに仕舞う少女の手が止まり、少女は円らな瞳を巡らせ、それは程無くして建宗の眼差しと重なる。
「陛下、お片付けをなさってください」
「相変わらず母の様なことを言うのだな。寧深は」
建宗に笑われ、寧深と呼ばれた少女はばつ悪そうに俯いた。建宗が机に戻る間、持ち込んできた茶器で巧みに茶を淹れ、皇帝に差上げる――抹茶であった。献上された椀を手に取り、建宗は黙って茶を啜る。それを寧深は黙って、だがやや緊張した面持ちで見詰める。
「寧深……美味しいよ」
「…………」
寧深は微笑んだ。少女として盛りともいうべき年頃なのに、寧深の場合その内面を貫く芯が、年齢に似合わず太いのではないかと建宗には思われた。特にあの秋の日、追われる身となった自分を死地から救い出した機転などはそうだ。しかも彼女は、自分の許から離れようと思えば離れることが出来たのに、大封より離れた西玄にまで付いて来てくれた……それが有難いと思うのと同時に今では、そのような女性を困らせて見たいという稚気……否。欲望の様なものに唆されてしまう建宗がいる。
「寧深、予は戟文を書いている。賊を討つ兵を募るための戟文だ」
「戟文でございますか……?」
建宗はさり気無く書き掛けの文を見せ、寧深は身を乗り出して眼を凝らすようにした。期せずして両者の距離が狭まり、仄かに漂って来る女性本来の匂いに建宗は頬を紅潮させ、寧深は無礼を詫びようと身を引きかける――
「――そのままでよい。寧深……予が許す」
「…………」
躊躇いがちに言った皇帝と目を合わせぬまま、寧深の頬も朱に染まる。そのままで寧深は戟文を読み、それから身を引いた。
「寧深、どう思う? 許す。そちの思うところを述べてみよ」
「陛下は……賊を討って戦乱を収めた後は、何を為さりたいのですか?」
「何を……とは?」
「どのような政をされ、どのような暮らしを民に与えたいのか……でございます」
「…………」
明らかに呆然とした皇帝に真顔で見返され、寧深は慌ててその場から退いて低頭した。皇帝が機嫌を損ねたのではないかと彼女は勘繰ったのである。
「出過ぎたことを申しました! お許しください!」
「寧深、そちの申し様よくわかった。面を挙げよ」
「申し訳ありません……!」
なおも平伏する寧深に、建宗は歩み寄った。寧深の傍に腰を屈め、震える彼女の肩を遠慮がちに抱く――そのまま力を入れてしまえば、砕けてしまうのではないかと思われるくらいに華奢な肩。何時しか眼前の少女を傷付けることを、心から恐れる青年がそこにはいた。
「寧深、済まぬことを言った。そうだ……そなたの言う通りだ」
「陛下……?」
震えながらも寧深の顔が上がり、彼女の怯えを皇帝は頼もしい、男らしい微笑で受け容れる。
「寧深の言や善し。予は有職故実に囚われる余り、民に語るべき言葉を忘れていた……そうだ、そなたの言う通り民には未来が必要なのだ。生を繋ぐに足り、何物も恐れる必要の無い未来が――」
「陛下……!」
更に寧深を抱き寄せようとして留まり、そして建宗はゆっくりと寧深を立たせた。皇帝としての節度が、これ以上のことを寧深にするのを許さなかった。
「寧深……間も無く戦が始まる。故郷に帰り、良縁を得るがよい。未来はそなたにもあるのだから」
「寧深はいま少し、陛下のお側に居とうございます」
ふたりは、互いを見詰め合った。一方は驚きの眼差しであり、もう一方は決意の眼差しであった。
商都の中天を過ぎった太陽が西に傾き、それはふたりのいる部屋を燈色に照らし始める。それが大桑の斜陽を象徴するのか、あるいは斜陽の先の新しい寧日を象徴するのか、はっきりと断ずることのできる者は西玄の朝廷には一人としていなかった。
捻王――それが遼陽戦の後に「逆賊」郭玄方誅殺の功に報いる形で、大封の礼宗より王郁に与えられた官位であり、称号であった。捻王は香南に属する六州を皇帝の名代として支配し、礼宗を正統なる皇帝として忠誠を誓う。ただし遼陽戦後に晋安に乱入して来た朱宇貫軍に、政庁の米倉に侍女と共に潜んでいたところを見つかり、呆気なく朱宇貫の手の内に落ちた程度の男に、これと言った実権などもはやあろう筈が無かったのである。濁り果てたとはいえ王家の血が流れている。ただそれだけで王郁は再び香南の棟梁に祭り上げられた形となった。
その朱宇貫は兵部右使の称号を得た。それが機能していた時代には兵部太監を補佐し、国軍の半分を指揮統括し得る役職であり、彼は名目上は捻王の下に在りながら香南方面における兵権を自在に行使し得る立場に在る。何尊凱が死に兵部太監が空位である今、ことによっては淕家と彼が抑える兵全てが彼の指揮下で動くことも吝かでは無かった。
……が、今の朱宇貫には関心が無い。宇貫としては元々淕家と繋がっていた郭玄方と彼の一派を晋安より排除し、彼らに取って代わる形で能動的に淕家と結んだ以上、豫倉から供給される兵糧を元手に、あとは只管自己の基盤固めに没頭し始めた観があった。
晋安を襲った混乱の中で囚われ、牢に閉じ込められてから七日で日を数えるのを止め、それから体感的に二十日が過ぎたと思われた頃に、騎煩生は彼の同志と共に牢を出るのを許された。
生きて牢を出ることが出来た、という意味では騎煩生らはまさに幸運であった。郭玄方が殺された以上、普通に考えればその腹心も同然の弟子たちも生きていられる筈が無く、事実拘禁の当初は玄方に近い地位に在った者から牢を出され、詮議の上で殺されていた。死を待つ恐怖に抗えず自殺を図った者もいる。
それが、処刑が始まって十日余りで不意に止み、それからさらに十日以上を静寂の内に過ごす中で希望が生まれた。ひょっとすればそのまま忘れられたのではないかという疑念すら、騎煩生の内心を過ぎったものだ。逃亡を図った末、遅れて牢に入れられた煩生の兄弟子によれば、宇貫軍突入の当日、郭玄方は彼を捕えた朱宇貫を烈しく詰り、それに怒った宇貫自らの手で斬られて死んだという。
「――先生は死ぬ間際に仰っておられた……私は朱宇貫に敗れたのではない。魯春醍に敗れたのだと……その一言が朱宇貫を烈しく怒らせたのだ」
「…………?」
「――――!」
他の者は半信半疑であったが、騎煩生には思い当たるものがあった。魯春醍と最後の別れになった晋安での一幕。あの時魯春醍はこのまま晋安にいれば殺される、だから今すぐ共に大封に帰ろうと煩生に言った。煩生は春醍を拒絶し、春醍は曇天の下を単騎晋安の外へと飛び出した――それからまた平穏の内に数日が過ぎ、今度は味方である筈の朱宇貫軍が押し寄せてきた。まるで碁盤の石をひっくり返したかのような香南の変転、春醍はその只中に身を置いた結果として全ての事情を知っているのだろう――特に、あの数日の間に何が起こったのかを。
おれも、春醍に付いて晋安を出れば良かったのだろうか?――牢の中で今更のように、煩生は自分の選択を迷った。
あの時煩生は、郭玄方と共に在るという自分の選択には何の疑問も抱いていなかった。正しい場所に在るという自信から騎煩生は春醍を「救う」べく行動し、それが春醍に拒否された時、春醍に対する気遣いは彼に対する烈しい憎しみへと転じたのだ――入牢して一度は死を覚悟したものの、自分はこうして牢を出、郭玄方に「勝った」という魯春醍に至っては未だその消息は判らない。結果として未だ自分が正しかったのか、あの魯春醍が正しかったのか判然とせぬまま騎煩生は牢を出、そして朱宇貫の前に引き据えられている。
廟議の間の上座、そこに立つ帯甲した朱宇貫、幾多もの戦役と修羅場を経験した結果に人格が磨かれたのか、その獅子の如き一瞥で引き据えられた者共が悲鳴を挙げ反射的に平伏する程の迫力が、武人然とした彼には備わっていた。つい先年まで、乞食同然の生活をし、日々の糧にも事欠いていたような男が……である。そのような男が僅か一年も経ぬうちに一軍の総大将にまで上り詰めるということ自体、自分が乱世に生きていることを煩生に体感させる現実であった。
その朱宇貫に上座を譲られる形で、官服を纏った男が書状を手に進み出る。官服の着こなしといい、堂々とした物腰といい、彼が国都大封より派遣された使者であることは明らかであった。煩生にとっては官人となった自分の理想像であり、視覚的にも眩しく見えた。
「――恩赦である! お前たちに国父 淕胞全殿下及び皇帝陛下の格別の御慈悲を賜る。お前たちの罪一等を減じ、かつこれまでの皇帝陛下に対する赤誠の念を賞し、お前たちに官職を与え、朝廷への出仕をこれ差し許す。速やかに縛を解き、誓紙に署名押印した上で大封への出立の準備をせよ」
「――――!」
奇跡が起こった――命を下された者たちにとって、それ以外の表現が見つからなかった。衛兵に縛を解かれ、互いに幸運を喜び合う郭玄方の弟子であった者たち――その最中に在って、呆然とする騎煩生は、自分たちの背後で誓紙の準備が、それも待ち構えていたように設えられるのを見る。約束された自由と栄誉に目の眩んだ者たちが、使者に対する再拝もそこそこに、食物に集る餓鬼のように殺到している。
「…………」
煩生は上座を見た。嬉々として署名捺印する弟子たちに向かい薄ら笑いを浮かべる使者の傍らで、帯甲した朱宇貫がただ無感動に、廟議の間に現出した狂乱を凝視している。彼らの救済が内心では気に食わない様にも見え、しかしそれ以外にも腹蔵がありそうにも見えた。
「朱宇貫どのにお伺いしたい!」
煩生は意を決して声を張り上げ、それが廟議の間に沈黙を生んだ。それだけに煩生の声は大きく、使者の方とて驚き、真顔で騎煩生を顧みる。
「何だ? 騎煩生」と宇貫。
「春醍は……魯春醍は今どうしているんだ?」
一瞬の無表情――直後に宇貫は鯰の様な大口を広げ、ニヤリと笑って見せた。
「あいつは何処かの旅の空の下さ……事によると、もう野垂れ死にしているかもしれんな」
「…………」
言葉を失った煩生に、宇貫は囁く様に言った。
「あやつが何処に行ったかなんぞ、おれはもう関知しない。だが……もう死んでいるとしても、お前さんのよりは太く短い、いい人生だったかも知れんなあ」
「死んだ……?」
「煩生、お前はどうするんだ? お前の席は晋安には無いが、大封にはそれがある。新帝陛下の御許で文武百官と共に広い宮殿に詰め、選りすぐりの美女と一緒に過ごす暮らしが待ってるんだ。一度誓紙に署名してしまえば、あとは一生路地裏でせせこましく暮らす必要は無くなるんだぜ?」
宇貫の鋭い眼が煩生の顔をその深淵まで覗き、それを嘲笑っていた。真意を掴みかね、そして気圧され、煩生はそのまま立ち尽くす。
「煩生……大封に錦を飾りたくは無いのか? 阿呆共を見返したくは無いのか?……じゃあ晋安を出て魯春醍のように何処へでも好きな処に行きゃあいい。別に止めはしねえよ? まあ……こんないい機会、もう一生廻って来ないだろうがな」
「…………!」
鼻先にまで迫った希望と、名状し難い不安の間で動揺し、混乱する騎煩生を、それを見かねた彼の同志が背後から引っ張る。我に返り同志に促された先、既に誓紙は煩生の分ひとつを残すのみであった。鉛の様に重い足を引き摺る様に歩き、そして煩生は誓紙に向き直る。ただ署名と捺印の箇所以外には空白しかない、一見すると何のための誓紙か判らぬ誓紙――そのような誓紙の存在が許されない商家という生まれ故に、騎煩生はそれを訝しむ。
「此処に署名し、血判を捺せ」と、衛兵が記名を促した。急に増幅する不安に抗う様にして再び誓紙に向き直った途端、複数の視線で背中が痛むのを煩生は覚えた。同志たちだと思った。煩生が署名を終え、共に仕官した喜びを爆発させる瞬間を待ち侘びているのだ――文弱な男たちの見えざる圧力、そして目前に示された栄達への微かな希望が、なおも迷う煩生をして遂に筆を執らせ、そして震える指で為された血判が署名の最後を飾る――騎煩生を囲む同志たちの歓喜で、全ては終わった。
「――お前たちは七日後に、本職の先導により晋安を発ち大封に赴くこととなる。役職及び仕官に関する諸手続きの詳細は、大封に付き次第これを発表する予定である。新帝陛下はお前たちの働きに期待しておられる。くれぐれも新帝陛下の期待を裏切ること無きよう忠節に励むべし。追って沙汰あるまで、お前たちは以後暫く晋安において気ままにしてよい!」
署名の完了を見届けた使者はそう告げるや満面の笑みを浮かべ、解き放たれた煩生たちの出立をも見送ってくれた。衛兵に先導され、列を成して宿舎に向かう郭玄方の弟子たちの最後尾、煩生は一時足を止め、廟議の間が置かれた政庁を顧みた。その眼差しの先でもやはり、使者と朱宇貫は笑顔を浮かべて自分たちの行く先を見下ろしている。衛兵が煩生に歩み寄り、列に続く様促した。煩生が後を振り返ることはもうなかった。
「…………」
一度足を止めて此方を見上げた騎煩生が、衛兵に急かされて歩き始める。恐らくはそれが、自分が騎煩生という男を見た最後になるだろうと朱宇貫は思っている。
「……あれ程の志願者が揃っていれば、国父殿下もお喜びで御座いましょう」
使者が薄ら笑いを浮かべつつ言った。単なる悪戯心を越えた悪意が、その顔にはあからさまなまでに宿っている。その手には誓紙の束が握られていた。彼らの大封に着いてから後を完全に縛ることになる誓紙――宦官に志願し、一生を新帝の後宮に囚われて暮らすことを約した誓紙だ。
「右使どのもお人が悪うございますな。仕官を餌に彼らを地獄へと追い遣る様な真似をなさるとは」
「地獄?……それは当人の心掛け次第であろう。男根を切り取られたところで別に死にはせぬのだ。敢えてそれに触れなかった以外は、俺はひとつとして嘘は言っていない。だが……やつらを待っているのは地位や名誉とは一生無縁な、地獄に等しい生ではあるだろうがな」
「それまでに精々、役人気分を満喫させてやらねばなりませぬな」
「いい思いはさせるさ……今生の別れとしてな」
宇貫の眼が笑った。
「やつらは供物だ……新帝への贈り物ってところさ」
遼陽において王郁軍が大勝し、香南に平穏が戻りつつある今も、袁家荘は決戦を前にしたかのような活気に溢れている。要するに帯甲した男たちが旌旗を掲げて彼らの戦地へ向けて続々と出立し、その傍らで延々と武技の習得に励む新兵が育ちつつあるという意味での活気だ。むしろ遼陽の戦勝と慶邑の北東、里楊関の奪回が成ったことが、特に里楊関に守兵を提供した袁家に新たな行動の動機を与えていた。
「羅王儀、袁優華様に拝謁致します」
その袁家荘の活気の中央にあって、まるで蚊帳の外であるかのような静寂の下で佇む袁家の邸において、里楊関より帰還を果たしたばかりの羅王儀は袁優華に拝謁した。王儀が官兵の捕虜になっていたことはすでに優華の耳には入っていたが、眼前の羅王儀には憔悴の色は見られず、それが優華を安心させている。
開口一番、王儀は切り出した。
「魯春醍どのより、龍脚を与って御座います」
「春醍様から?」
優華は身を乗り出す様にした。遼陽の戦が劇的な終焉を迎えて幾日も経たぬ間、彼の名はもはや袁家やその他の叛乱軍の中のみで語られるべき名では無くなっていた。一兵も損ねずして幽関を奪った智将、南渡において数にして四倍もの赤蓮軍を破った猛将……そして僅か数日前の遼陽において、淕家の大軍三十万をわずか三千騎の手勢で撃破した無敵の勇将――しかし、風聞として流れて来るそれら二つ名を聞く度に込み上げてくる笑いに堪えられず、吹き出してしまう優華がいることもまた事実であった。本人の素顔、そして素の性格に釣り合わないと彼女には感じられたのである。
その一方で、優華には寂しく思われた――数にして百倍の戦力差を覆して勝利するという、おそらくは以後千年にわたり歴史に記されるであろう偉業を為した魯春醍が、その栄光を味わう暇も受けることなく、逃げるように香南の地を離れてしまったことに。
優華はいま一度、魯春醍に会いたかった。遼陽の勝者としての魯春醍にではなく、あの秋の日、兄袁隷に連れられて恐縮気味に袁家の門を潜った青年としての魯春醍に――その優華の内心を察してか否か、羅王儀は語気を険しくして言った。
「朱宇貫が春醍どのを疎んじたのです。あの男は春醍どのの武功を恐れ、香南軍総帥の権限を以て春醍どのに香南からの追放を命じました。春醍どのは北への旅路に赴く最中になお官兵の守る里楊関に立ち寄り、守将に説いて我ら囚われの城兵を解放してくださいました。しかし春醍どのはもう……」
羅王儀は顔を伏せた。軽い嗚咽が彼の語尾に籠るのを優華は察した。羅王儀は書を差し出し、優華に低頭した。
「春醍どのから、優華様への言伝にございます」
「まあ……」
書を手に取った優華を再び拝礼し、羅王儀は優華の許を辞した。先んじて兵を率いて晋安に在り、表面上は守宇貫との共闘を推し進めている袁隷から、補佐として再三に亘り幕下への出仕を求められていたためでもあるが、彼自身、暴力的とも言える手法で郭玄方より権力を奪取した朱宇貫の動向を、彼のごく近くに在って掴みたい欲求に囚われていたのであった。守将の座が空く里楊関には、隗雲、呉楊、魯哀と協議した上で呉楊を赴かせることに決している……恐らくはそこから、香南を去った後の魯春醍の動向を探る途もまた生まれるかもしれない。
羅王儀が去り、袁優華は書を封じる紐を解いてみた。厚紙の中で乱れた字が、書が北へと出立する慌ただしさを優華に思わせたが、その一方で春醍の個性が際立っているように見えて微笑ましかった。
『――戦乱一過し、袁家荘にも再び安寧の日々戻ることを祈り、筆を執ります。
小生、已む無き仕儀にて香南を出で、北に向かうことに決しました。
御館様と優華様、兄上様のご健勝なることを北の旅路より祈念申し上げます。
まことに厚かましい願いながら、羅王儀、隗雲、呉楊、魯哀ら各人を末永くお引き立て頂きますよう、優華様にはお願い申し上げるものです。
各人の存在は袁家荘を守り、風雲棚引く世に拡げる上で大きな援けとなるでしょう。
北風 雪を吹きて青山を過ぐ
顧みて千原を臨めば草色閑なり
君は夢中に在りて何れの日にか相逢わん
冬は江上に来りて幾人か還る
秋河雄渾たり 風雲の下
里楊参差たり 落照の下
誰か思わん 剣を執りて世難に臨み
独り馬上に在りて香南に客たらんとは
最後に、折あればまた袁家荘に赴き、優華様に龍脚をお貸し頂くべく伺いたく願うものなり。
魯春醍、この書を羅王儀に託し、袁優華様に送らん』
「……君は夢中に在りて何れの日にか相逢わん……君は夢中に在りて何れの日にか相逢わん……!」
書を持つ手が、震えていた。優華の紅潮した頬を一筋の涙が伝い、そして優華は声を震わせる。それは歓喜の涙であった。
「……春醍さま、優華は何時までも貴方をお待ち致しておりますよ……何時までも……何時までも――」
秋河を南から北に越えた先、あとは西玄、さらにその北の大封に至るまで低い丘陵の連なりと只平坦な草原に囲まれた道が延びる。冬の到来故に地上からは潤いが失われていが、それがむしろ雲ひとつない晴天の蒼と好対照を成していた。
道が一筋――
その上を、土煙を蹴立てて奔る騎馬が独つ――日は高いが風は冷たく。その冷風に煽られて乗り手の黒髪が馬の騣の如くにその背後に靡いていた。それ程の駿足で馬は道を駆け、そして丘陵を駆け昇り一気に降る。道は一本故に、どの道を辿るべきか考える必要すら無かった。情熱に任せて馬を駆けさせるだけ、自分は目指すものに近付けるのだと海狼は思う。
秋河の北の畔、その宿場に達したところで海狼は彼女が求める者の所在を知った。行動を共にしていた頃、常々還ると言っていた大封とは違う、西玄に通じる道であった。それが内心で海狼を安堵させた。大封に行けばあいつは間違いなく殺される――それだけのことをあいつは、今現在大封を支配している連中に対して「やらかした」のだから。
噂が、広まり始めていた。
空前の大軍で南征に臨んだ淕家が大敗したという噂、その淕家軍を圧倒的なまでの寡勢で破ったという男の名――戦場の名としての遼陽、そして勝者としての魯春醍、それらの名は乾いた野に放たれた火の如くに中原に広がり、そして尚も鎮火せずに席巻し続けている。
海狼には、不安があった。あいつが何も考えずに旅を続けているのではないかという不安である。
自分が引き起こした事の重大さを、あいつはまだ判っていないのではないか? 遼陽での大勝を等閑にして、あいつは中原の騒乱から事実上「降りる」積りなのではないか?――不安は海狼に疾駆を促し、馬は只管に丘陵を駆け昇り、その最後の頂点に達する。
「――――ッ!」
丘陵の麓、その先の道には一つの曲も上下も無かった。ただ一直線に伸びた道の真ん中を、とぼとぼと歩む孤騎――海狼は舌打ちし、端正な貌に喜色を滲ませて叫ぶ。
「阿春――ッ!!」
叫ぶが早いが、海狼は馬に疾走を促した。長い途を激情に任せて駆けさせてきたが故に馬の息は粗く、疾駆にも勢いが無かった。それでも海狼は、孤騎に向かい徐々に距離を詰め、そして追い縋る――
「阿春っ!!」
「海狼……!?」
趣の異なる響きで互いの名を呼び、同時に二騎は並んだ。追い剥ぎにでも遭ったかのような粗末な庶服姿、そこに顔も土埃に汚れているとあっては中原の誰が彼を不世出の名将 魯春醍と見るであろうか?
付き纏う海狼に目を丸くしたのも一瞬、魯春醍は汚れた顔から表情を消し、再び目指す道先のみに向き直る。
「何をしに来た? 宇貫におれを殺して来いとでも言われたか?」
「こうやってあんたを見張りに来た。降りるなんて許さねえぞ」
と、海狼は嘲弄するように応じる。
「降りる?……何から?」
「惚けるな阿春。あんたはもう中原という碁盤のど真ん中に鎮座する台風の目なんだ。中原の誰も彼もがあんたをどう扱ったものかもがいてる。もうあんたは碁盤からは降りられない。それが判らない訳じゃないだろ?」
「…………」
春醍は、黙っている。
「それに……この海狼様を満足させたほどの男を、中原のど真ん中でむざむざと野垂れ死にさせる訳にはいかねえしな」
「――――!?」
春醍は鼻白み、言うが早いが海狼は馬を駆けさせた。赤面を隠す積りか、ついて来いと言わんばかりの海狼の疾走に釣られ、自ずと春醍の馬も走り出す。蒼天の下を二騎は戯れる様に奔る。遮るものは何も無かった。暫く並んで疾走に任せた処で、二騎は再び縺れ合う様に走りを止めた。
「……あんたには、あたしを抱くに相応しい男になってもらう。ならなければこの手で殺すまでだ」
と、海狼は今度は怒る様に言う。事実彼女は怒っていた。真剣に自分の身を案じているのだと春醍は察している。
「西玄に行くんだろ? 今のあんたが生きたいと思えば、行くべき場所はそこしかない」
「海狼、生きるためじゃない。おれが西玄に行くのは淕賊を斃し、天下を靖んずるためだ」
「へえ……じゃあそういう事にしといてやらぁ」
海狼は我が意を得たりと笑った。それを春醍は眼を険しくして見返す。
「本気か? 本気なのか?」
薄ら笑いから一転、戸惑う海狼から目を逸らし、春醍はいきなり馬を駆けさせた。海狼も反射的に馬を駆けさせてそれを追う。今はとにかく、この男と共にいるのが愉しかった。この男となら、中原の何処までも共に走っていけそうな気がする。
そのとき――
戯れる様に平原を駆ける二騎の上空を大きな黒い影が掠め、ふたりは同時に気付き、馬を止めてその輪舞を見上げた。
「大きな……鳥?」
「阿春、大海青だ。こんな南まで……珍しいな」
翼幅だけでも優に馬の倍はある鳥が一羽。巨大な鷹を思わせるその鳥は、ふたりが見上げるずっと上の空を巡りつつ滑り、そのまま空の北、風に乗る雲が延び始めた場所へと遠ざかって行く。
大海青は空を巡りつつ気流を探り上昇を続ける。上昇が頂点に達したところで空の目指す一点に向かい滑空し、それを続けた先に大海青は故郷たる北限の地を見出すことになる。
「――――ッ!」
巨大な翼を羽ばたかせつつ、大海青は啼いた。そのはるか眼下に岩がちな谷が拡がる。谷は北の果てまで続き、その天辺には石造りの城が聳え、周囲の平原を巨人の如くに睥睨していた。
城……とは言っても城市では無かった。その中に民を囲う事など全く考えていない様な、石と煉瓦で出来た一つの山を思わせる城。その壁は中原の城市よりもずっと高く、石も粗く組まれている。美観や虚栄など全く度外視した、壁と縄張り自体が凶器のような城であった。
滑空――城壁を掠めるように加速を付けて大海青は飛ぶ。
飛び方を誤れば外壁に躯をぶつけ、翼を折りかねない程の接近であった。だがその危険を愉しむかのように大海青は城壁と楼塔の間を抜け、そして谷の向こうを気流に乗って上昇しつつ睥睨する――草原を疾駆する騎馬の群、それも黒い甲冑の一団が怒涛の如くに草原を駆け抜ける。そこは見渡す限りに遮るものの無い、海の如き草原であった。陸の海を騎馬の群れが船宜しく複数の集団に分かれて駆け抜け、そして行き交っている。草原を滑る様に疾駆する騎馬、その一騎たりとも例外なく馬の面構えと体躯、そして甲冑の様式において中原のそれとは大きく異なっていた。馬は逞しく、甲冑は造りと紋様の何れも刺々しく、かつ禍々しい。
騎馬を見届ける様に草原の上空を一巡した大海青が、谷に繋がる小山の頂きに嘴を向けて翼を畳む――地に舞い降りる寸前、人為的に立て懸けられた止り木の直上で羽を広げ、大海青はふわりと落ちる様に止り木に足を掛けた。
甲冑に身を包んだ人影が止り木に歩み寄り、大海青に結わえられた文を外す。大海青はあまりに大き過ぎ、鷹匠のように腕に停めるという芸当などまず不可能である。その分他の鷹や鷲よりも高い空を、長時間に亘り飛ぶことが出来るというわけで、そのような大海青固有の性質と遠隔地に忍ばせた間諜を組み合わせれば、有効な情報伝達手段として機能するという寸法であった。
「ランシ、大海青が戻って来たよ?」
黒い甲冑姿が、山の頂きにあって草原の騎馬を見詰める影に向かい声を張り上げる。女の声、それもやや薹が立った女の声であった。奇異なのは、重厚な甲冑を纏っていても明らかにそうと判る程の、到底女のそれとは思えぬ程の筋肉質の長身であること、その一方で豊かな胸、そして肉付きのよい腰など、成熟した女として強調されるべき処が帯甲の状態であっても艶やかなまでに強調されているという点にある。
凡そ戦に支障の無い程度に長い黒髪、顔立ちは肌色白にして深い彫り、さらには上に向かい尖端の張った長耳という塞外人の特徴を有しているが、それらを考慮に入れても、中原人の感覚的にも美しいと形容できる女性であった。不均衡なる美、と言うべきであろうか?――ただし、背丈にして八尺に達しようかという大女に美を感じる者がいれば、の話ではある。
「ランシ?」
大女に呼び掛けられ、騎馬の動きを追っていた影の眼が女の方を顧みる。そして何も言わず、再び小山の麓に向き直った。
彼女の様な帯甲姿では無く、袖の絞りこまれた上衣とズボンの組み合わせ。中原の言葉で言うところの胡服、乗馬に適した塞外民の習俗であった。それと毛皮の帽子を纏った褐色の肌の青年が独り。少年と形容したくなるほど短躯かつ細身だが、しなやかで引き締まった筋肉の持ち主であることは、服の輪郭からすら窺える体幹の太さからすぐに察せられた。薄茶色の瞳を収めた眼は海青のそれのように険しく、ややふっくらとした頬には、その筋に沿う様に幾何学的な紋様が刻まれている。これもまた、塞外民の習俗であった。馬に乗り、かつ馬上で武器を操り兵を統べるためにのみ生まれ、育てられて来たかと思える程に逞しい青年。長年彼を育み、付き従って来た女には、それが眩しかった。
「ランシ、間者からのお手紙だよ?」
背後からさり気無く青年の肩を抱きつつ、甲冑の女は畳まれた紙片を差し出した。じゃれる様が恋人同士、姉が弟に対するというより、母が溺愛する子に対するそれであるようにも見えた。
「…………」
何も言わず青年は紙片を取り、やはり無言でその文面に目を通す。それまで騎馬を見守っていた時とは違う、愉しむ様な眼付きで文を読み終わり、そして青年は女に紙片を返す様に渡した。
「何て言ってた?」と、媚びる様に大女は聞いた。
「香南で戦があった。淕家が三十万を揃えた戦だ」声が若い。口調は暗いが、未だ声変わりしていないのかと思える程にその響きは瑞々しい。
「ああ……あの戦だね。それで……?」
「淕家が敗けた。完膚なきまでに敗けた」
「…………」
女の顔から、余裕が消えた。彼女もまた手にした紙片を最後まで読み、それ故に苦笑気味に聞いた。
「南に行くのは、もう少し待つ?」
「いや……予定通りだ。むしろ少し早まる」
「早まる?」と聞く女の眼がギラギラと輝き出している。血に飢えた獣の目に、それは似ていた。
「敗けたとは言え淕家は香南とは一応手打ちをした。それでも淕家が遼陽で敗けたという事実は揺るがない。やつらは汚辱を掃うために一層早く、そして烈しく建宗を攻める必要に駆られるだろう……大局よりも自己の体面を重く見るような人間しか、いまの国都にはいない。死んだ仁宗からしてそうだった」
静かだが、感情が籠っていない故に彼の口調の内には怒りが感じられた。ひょっとすれば憎悪かもしれない。それも、血肉を分けた者に対する、烈しい憎悪だ。
「鬱憤をぶつけるのに丁度いい相手ってわけね。建宗サマは」と、女は言葉を笑わせた。「中原人は弱い者虐めが大好きなんだから……ランシは違うけど」
「呂緘」
「ランシ?」
「年が変わったら先に大封に行ってくれ。兵は好きなだけ持って行っていい」
「……わかった」
「ボクは後から行くよ」
「都はちゃんと私が掃除して置くね。ランシが来るまでに」
青年が呂緘と呼ぶ大女の目は、すでに笑っていない。
「ああ……頼むよ」
烈しい笛の音が草原に響き渡る。角笛、それも人の背丈ほどもある巨大な角笛の音であった。北限における兵の訓練の終了と、隊容の点検を促す合図であった。各地の廷尉に効かせた鼻薬のお陰で流刑に託けて大量の兵を集めることに成功したが、厳しい自然環境下で共食いにも等しい激しい訓練を連続させた結果として、集めた兵の半分が死んだ。それでも今なおこの青年、燕陽王 王嵐師の手元に在る兵の数は二十万を下らない。それも鍛え上げられた兵、何処に出しても恥ずかしくない精兵だ。
今なお厳しい北限の冬。だが意思ある限り何時かは、配下にある全ての兵と民に暖かい冬というものを味わわせてやることができる。それが王嵐師の信仰である。王嵐師の背後、城の何処かで大海青が啼いている。大海青は啼きつつ空を昇り、また南の空へと旅発って行く。
「魯春醍か……何時の日か会うてみたい」
風と雲が彩る蒼一色の空に向かい、王嵐師は呟いた。
中原には面白いやつがいる。わずか三千の手勢で、三十万の淕家軍を打ち破ったという男、魯春醍は特にそうだ。その男と会って話をすることのみが、今の王嵐師のささやかな欲ではあった。
あるいは話は、戦場ですることになるかもしれない。
風はなお烈しく、雲は寄る辺なく中原を蠢いては離合を繰り返している。
「風雲はるかに」第一部 終




