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第十五集  「遼陽の戦」

 城壁から臨めば、人型の蟻が波の様に回廊全幅に広がり、南へ、只管南へと押し寄せているように見える。

 だいいち、大桑国の開闢以来二百四十年の間、数にして十万以上の兵が動いたことは今回を除き三度しかない。後世に「大桑の三大征」という名で記憶されるそれらの出兵は、それぞれ北限の塞外の民、西方の獣人種たる鴎狗、国内にあっては「二王の乱」と称される江州、衛州にそれぞれ封じられた時の皇弟に対する出兵であり、たかが地方叛乱の鎮撫にこれほどの大軍が動くこと自体、前代未聞である。


 ……が、現実には部下と共に里楊関の城壁に在って、外界を窺う上校尉令 鄭塁欽の眼前には、その前代未聞の大軍が大河の流れの様に回廊を埋め尽くし、そして蠢いている。

「あのような大軍、初めて見ます」

「そうだろうな……私もだ」

 副官の楊倫が言い、塁欽も軍勢の移動から目を離すことなく言った。そして彼は、里楊関を陥落させた後にその守備を命ぜられ、軍勢に加わることを許されていない。つまりは攻城を幸いに鄭塁欽は、征南宇宙銀河討魔超大将軍を名乗る何尊凱に爪弾きにされた形だった。


 何尊凱が、鄭塁欽の功績を認めながらも一方で邪険に扱っているのを示す例はこれだけでは無い。豫倉での軍議において塁欽は寧原への抑えとして兵十万の分遣を主張し、表向きそれは容れられたが、実際に何尊凱が送ったのは三万程度であり、その結果は寧原方面軍の敗走という幸先の悪い展開を生んだ。これまでの官軍との戦と赤蓮教徒との内紛の結果として叛乱軍は経験を積み、明らかに強くなっていた。その一方で貴族の馬鹿息子とその私兵から成る淕家軍は数の劣勢もあり、まともに抗し得なかったというわけだ。

 尊凱が寧原に兵を出し惜しみせず、十万とは言わず少なくとも六万の兵を差し向けていれば、戦歴を重ねた叛徒と言えど無事では済まず、その後の戦況も安寧の内に推移したかも知れぬ。


 何尊凱は、ふたつの欲に憑かれていた。三十万に達する大軍を己が手足の様に操る欲望と、それを集中運用することにより大将軍として武勲を独占するという欲望である。特に中原の歴史上、十万を越える大軍が中原の地に現出した例は幾度かあるが、その内実はあくまで複数の将により同時に掌られた軍勢の総数であって、それが只一人の将の直接指揮下で動いた例は存在しない。前例がない以上、その利点も欠点も鄭塁欽程の人物を以てしても未知の領域に属していたのだった。

「塁欽様、あれを……!」

 楊倫が指さした先、巨大な質量が太い四本足で交互に地を踏み、唸り声を上げて中原を進む。猛烏象の一群であった。戦にあたり、横列に並べたこれらを敵陣に突進させ蹂躙するというのが、淕家が大金を積み異国の獣を取り寄せた用兵上の理由だが、それ以上に常識を越えた兵器として巨獣を連ね、敵対者を威圧する効果の方がむしろ期待されていたのかもしれない。

 しかし遠い西方の生物故に中原の水が合わないのか、征路の途上で死んだり、病を得て動けなくなる猛烏象もまた多かった。淕家軍が連れた異邦の猛獣のもう一翼――剣虎に至っては、単なるこけ脅し以外にそれを取り寄せた意図すら判然とせず、今や只檻に封じて大量の肉を喰わせるだけの重荷と化していた。一度ならず檻から抜け出したそれらが人里に達し、住民が食い殺されるという惨事すら引き起こされている。


「叛徒も生きた心地がせぬでしょうな……あれ程の大軍です。案外すぐに武器を捨てて降伏するかも」

「……どうかな」

 と塁欽は言い、楊倫は怪訝な顔を隠さない……というのは、塁欽は叛徒に臨む征南宇宙銀河討魔超大将軍の姿勢を既に知っているからで、それは「武器を執る叛徒の投降を認めず、最後の一人までこれを賊滅せん」というものであった。叛徒をしてむしろ敵愾心を喚起し、この後に待ち受ける猛烈な抵抗を考慮に入れれば、当初の目論見通りに順当な鎮撫というわけにはいかなくなるやもしれぬ……という懸念が塁欽の胸中には生まれている。


 伝令の兵がふたりの許に駆け寄り、跪いた。まだ少年の面影の残る、若い兵であった。

「申し上げます! 征南……ええっと……何だったかな?……」

「大将軍でよい」

 塁欽の言葉に、伝令の兵が恐縮したように頭を下げる。塁欽は楊倫と顔を見合わせて苦笑した。新兵の不調法に呆れているのではなく、彼らとて長過ぎる何尊凱の肩書を完全に覚えているわけでは無かったのだ。「用件は?」と楊倫が聞き、伝令はそのままの姿勢で声を張り上げた。

「大将軍のご命令です! 捕えた里楊関の守兵を速やかに並べて斬首するようにと」

「何時まで……とは言っていないのだな?」と塁欽。

「はっ……!」

 楊倫が塁欽を顧みた。

「どうなさいますか? 謀反人の孫、羅王儀もおりますれば、大将軍のご下命も御尤もかと」

「謀反人の系塁であるからこそ、大封に連れ帰り詳しく詮議する必要があろうに」

「……はい」

 楊倫は頷いた。それは心からの心服であった。

「晋安が陥ちるまで待つさ……」

 呟く様に言い、塁欽は城外に目を凝らした。兵の波はなお絶えず、香南に戦禍を広げようとしている。






 平原を駆ける間はなお地平線より上に在った筈の太陽は、山間に龍脚を乗り入れる頃には山際の織り成す巌と杜の懐に取り込まれてしまっていた。ただ無限とも思える星々の瞬きが、春醍と彼の操る龍脚の鼻先に向かうべき路と軽やかな馬脚を与えていた。龍脚が立ち竦まない間は、たとえ夜道でも何処までも進んでいられるような安心感があった。


 袁優華が送ってくれた名馬龍脚の素晴らしさを噛み締めている半面、馬上の春醍はいま、止め処ない不安に囚われている。董泉とその地名を語るのは容易い。だが現にそこに身を置いた途端、名称からかけ離れた人跡未踏ぶりに春醍は驚いている。大昔の伝奇小説に出て来る魔王の棲み処を、春醍は峻厳な岩山と木々に挟まれた山道に感じた……海狼、あの女は何を考えて此処を仮の宿としているのだろうか?


 ――その理由は、董泉のさらに奥まで龍脚を進め、馬の乗り入ることのできない狭隘な路の入口にぶつかったところで判った。

山肌の生む冷気に、生温く湿った空気が混じるのを頬に感じる。それは大木の連なる間を縫うように広がる靄となって、山肌を歩く春醍に却って道標を与えた。

「温泉か……!」

 歩きながら春醍は感嘆した。更に歩き、星明かりの下で森が開けるのを覚えた。森の只中に空いた滝壺が一筋、水の跳ねる心地良い音を立てつつ大量の滝水が流れ続けていた。滝そのものが温泉であった。湯気に充てられつつ歩くにつれて、滝の際にあって湯水を浴びる人影の存在に気付き、春醍は思わず足を止めた。そして正体を確かめようと再び滝壺の縁まで歩く。

「…………」

 一糸纏わぬ裸体が、滝から零れる湯を浴びている。

 褐色の肌と豹と見紛う程に上半身と足腰の絞られた体躯には嫌という程見覚えがあった。湯を受ける形のいい頭からしな垂れる長い黒髪に目がいった瞬間、春醍は軽く声を上げて立ち止り、岩陰に背を預けて潜んだ。

「――――!」

 海狼か――気が付けば胸が烈しく高鳴っている。そう言えばこれまで、彼女を女として見ていなかった自分に、今更のように春醍は気付く。しかも彼女の躯は美しく、武器を執る者とは思えぬほど艶めかしく春醍の内心を擽った……と同時に、湯浴み中の彼女にどうやって声を掛けようかと、春醍は男子として迷う。

 迷った挙句に、春醍は待つことに決めた――海狼が気付いてくれるまで。その間、岩に背を預けて待つ内に、旅の疲れが春醍を眠りの世界に誘っていく。熱気に充てられた岩が、眠りに身を委ねるのに適度な温かさを春醍の身に与えていた。

「――――!」

 頭上から滴り落ちる水滴――躯が痺れたように感じ意識が覚醒する。反射的に頭を上げた先でやはり、獲物を品定めする豹の様な眼光が、女の顔を借りて春醍を見下ろしていた。

「府抜けの阿春……董泉くんだりまで何しに来た?」

「……おまえに、頼みがあって来た」

 言うが早いが、岩陰から海狼の気配が消え、やや遅れて滝壺に何かが飛び込む音がした。その後に、悠々と滝壺を泳ぐ海狼の気配が続いた。

「海狼……!」

 岩陰に背を預けたまま春醍は言った……というより呼び掛けた……と同時に、泳ぎが止まった。湯船に浸かる女体の溜息が、自分を無視している証ではないかと春醍は内心で恐れた。だから言葉が震えた。

「頼む……おれの話を聞いて欲しい」

「…………」

「海狼……?」

 岩陰から飛び出す様に身を乗り出した先、影も形もおろか、海狼の気配すら消えていることに春醍は愕然とした。轟々と唸る温泉の瀑布が、一帯に動くもの全ての気配を春醍から奪っていた。思わず滝壺の際まで這い寄り、滝壺の面まで春醍は身を乗り出す――

「――――!?」

 滝壺の底――水面を破るように突き出された手が春醍の襟首を掴み、そして春醍は引き摺られるがままに滝壺に落とされた。


 深い――その上に温かい湯が全身を包む。水を呑むのが怖くて目まで瞑る――もがく様に滝壺の水面に顔を上げた春醍を、その正面に在って海狼は冷厳と見詰めていた。

「眼が醒めたか、阿春?」

「何をする……!?」

 怒ろうとして、間髪入れず突き出された海狼の両手が春醍の頭を捕える。動くことも儘ならない状態。滝壺は思いの外深く、底に僅かな岩ひとつという覚束ない足元で、春醍は必死に身体を支えるよう努めた。

「眼を開けろ。阿春」

「おまえ!」

 深い――――手を上げようにも、上げた途端に均衡を崩して溺れるのが判る。それが怖くて動けない春醍を、海狼は愉しむ様に見詰めていた。

「……あたしには、どうしても判らないことがある」

「…………?」

「こんな垢抜けない、流した血の色も知らない様な孺子の何処に、大軍を統べる程の才がある?」

「…………」

「独りでは何にも出来やしない、世間知らずのぼんぼんの何処に、中原を震わせる程の天命がある?」

「…………」

 そこまで言い、海狼の目付きが険しくなった。徐々に海狼の顔に引き寄せられるのを感じつつも、春醍は抗わない。

「……頼みがあると言ったな?」

「ああ……言った」

「じゃあそれで、あたしは何を得られる?」

「それは……」

「天命から逃げたあんたの言うことを聞いて、あたしに何の得がある?」

 海狼の眼差しが単に険しいばかりではなく、真剣であることに春醍は気付く。

「おれは天命からは逃げない。何故なら、皆の天命を変えるのがおれの天命なのだから」

「ほざくな……!」と、海狼は小声で怒った。その弾みで春醍の足元が滑り、春醍は溺れるまいと反射的に海狼の腰を抱く。一糸も纏わない女の腰、生まれ落ちたままの女の豊かな腰を――

「――だから、海狼におれの頼みを聞いてもらわないと、皆の天命を変えられない。海狼、お前の天命もだ……!」

「あんたに協力して、あたしの天命がどう変わる!?」

 春醍は、言葉を躊躇わせた。

「わからない……しかし、いまおまえに約束されている天命よりはずっと――」

 海狼の眼がぎらつき、自分を抱く春醍を強引に突き放した。温水の中でもがきつつ新たな足場に達した時、また海狼の姿が消えていた。海狼を見出そうと頭を巡らせる春醍の後背――海狼は忍んで泳ぎ、そして春醍を背後から抱いた。

「――――!」

「阿春……あんたの言いたいことはよく判った」

「…………」

 春醍の首筋に粗い息を吐き、耳元に息を吹く様に海狼は言う。

「……だが、あんたの語気には迫力が無いんだな……これからあたしや宇貫その他の天命を変えようとする男の迫力じゃない」

「海狼……?」

 春醍の胸が高鳴った。先刻は胸で、そして今は背中に重なる女の胸の感触――今更のように女と密着していることに、激しい後悔が込み上げて来た。その春醍を愉しむ――否、慈しむ様に海狼は囁いた。

「何故だろうなぁ……?」

「海狼……胸が……!」

 海狼の鼻が、笑った。

「阿春、判ったぞ」

「…………?」

「あんた、女を知らないな?」

「――――!!?」

 驚き、激しく背後の女体を振り解く。滝壺の縁までは僅かな距離であった。岩場にしがみ付き、這う様に滝壺から出た途端に、激しい疲労で仰向けになる。そこに――

「――――!?」

 海狼は既に上がって待ち構えていた。仰向けになった春醍に褐色の躯が強引に重なる。春醍が見るべき天は、すでに彼を抑え込む海狼の半身に遮られていた。

「あたしは構わないんだぜ? 阿春」

「離せ……!」

「力を抜けよ。阿春……!」

 海狼の力は相変わらず強かった。その上に何時しか互いの身体が絡み付き、容易に跳ね退けられないことを春醍は悟る。苛立ちを隠さず、頑なに目を逸らした春醍に業を煮やしたのか、海狼は眼を剥いた。

「阿春、あたしに奪わせろ……!」

「…………」

 それは哀願だと春醍は思った――自ずと、身体から力が抜けた。海狼が微かに笑い、顔を春醍の首に埋める。軽く首筋を噛み、次には貪る様に首から下へと這い行く海狼の舌――


 ――ただされるがまま、かつては書生だった若者は、呆然と天に棲む冷たい星海を見続けていた。



 天から星々の気配が薄れていく。日が昇りつつある予兆であった。

 温泉の湧く滝壺で共に躯を洗い、芯まで身を温めた後に、春醍と海狼は馬を繋いだ麓へと滝壺を発った。もっとも、滝壺に身を漬かる間も海狼は名残惜しそうに春醍の胸にしな垂れて彼を求めて来た――結果としてその夜ずっとふたりは繋がり、互いを貪っていたことになる。春醍からすれば、この一夜でもう一生分女を抱いたのではないかと思える程に濃く、深い夜であった。

「阿春」と、路を急ぐ途上で海狼は言った。先を行く春醍は立ち止り、そして付き従う形の海狼を顧みる。

「生きてあたしと合流するんだ。晋安なんて、真っ当な男子が死ぬべき処じゃねえ。この広い中原、あんたの死ぬべき処は他にある」

「海狼……おまえには感謝してる」

「な……?」

「おれに全てを賭けてくれた上に、もう何も思い残すことのないようにしてくれた……少なくとも今のおれは昨日までのおれからは少しばかり、大業を為す男に近付けた様な気がする……」

「阿呆、何言ってやがんだっ……!」

 毒付くように海狼は言ったが、伏せた顔の頬に朱が宿るのは、どう繕ったところで隠し様が無かった。

「宇貫は慶邑だ。海狼が顔を出しただけで段取り全てを整えてくれる」

「ああ、判ってる……!」

「海狼、もしおれが晋安から戻らなかったら――」

「阿春……!」

 烈しく名を呼ばれて顧みる。次の瞬間には、海狼の唇が春醍の唇を塞いでいた。そのままの状態が静寂の内に過ぎ、そして海狼はそれを味わう様にゆっくりと春醍から唇を離すのだった。

「……戻らないなんて、二度と言うな」

「…………」

 ふたりは、無言のまま麓へと向かう。しかし麓に繋がれた龍脚の姿を目にした瞬間、海狼は咄嗟に春醍とその瞬馬を見比べたものだ。

「こいつも男にしてやった覚えは無えんだけどな……」

 春醍は微笑み、龍脚に飛び乗った。騎馬姿の春醍を暫く凝視する内、海狼の端正な顔から次第に血の気が引いて行くのが判った。

「阿春!……この馬まさか……!」

「借り物だよ。袁優華どのからの」

「あの女か……!」

 海狼の顔が、そのまま裏返ったかのような怒気に席を譲る。

「阿春! あの女とはドコまで行った!? あいつともやったのか!? 阿春!」

「それは言えない」

 間髪入れず、春醍は龍脚を駆けさせた。まるで龍脚自身が海狼の怒気に驚いて逃げ出したかのような勢いであった。

「阿春! この大馬鹿野郎ーっ!!」

 林道を一気に駆け抜けて平原に達する間際、海狼の怒声は春醍の心の琴線を烈しく震わせる。今の春醍には、心から死なせたくないと思う人間が確実にいる。それが彼には嬉しくも切ない。



 日は昇らず、夜はそのまま煮え切らぬ曇天へと転じた。

 このままでは慶邑の朱宇貫らを救えないのではないかと恐れは、晋安の近くにまで龍脚を駆けさせるにつれて、その一帯に広がる歩塁、そこに控える守兵の群を前にして一筋の希望を春醍に与えた。だがその後には烈しい失望が訪れた。彼ら守兵が一向に慶邑の支援に向かう気配を見せないのも然ることながら、晋安に籠ったまま動かない文官連中に対する怒りと言うより、なお自分たちを襲っている理不尽そのものに対する怒りが、ごく自然の内に春醍の胸中に広がっていた。そして春醍は、歩塁が何も慶邑に籠る朱宇貫らを援護するためでも、南下し来る官軍から晋安を守るためでも無い、むしろ官軍と協働して慶邑を挟撃せんとする意図の下に配されていることに、その只中を龍脚と共に駆ける内に悟ったのである。


 それを潜るに当たり、抵抗を恐れた晋安の正門はごく自然の手続きの内に騎乗した春醍を迎え、晋安の城市に招き入れた。春醍を迎えるに当たり、予め郭玄方の意が行き届いていると見え、門を潜って一時も経たぬうちに、王郁の居城たる政庁に達した春醍は裏門まで導かれ、そして衛兵の案内に従い政庁の奥まった一室に通される――正式な謁見の場所たる廟議の間では無い、郭玄方個人の私室であった。敷居の前に立ち、拝礼しようとした春醍を、玄方は書き物をしている手を止めずに制する。曇天ゆえに薄暗い部屋。玄方の傍らに在って揺れる燭台の灯が、心許ないが温かい光を辺りにばら蒔いていた。

「礼はよい。入りなさい」

「…………」

 春醍は黙礼し、玄方の前に進み出る。玄方が書き物を止め、自身の正面に坐るよう勧めた。

「茶でもどうかね? 魯林正の子よ」

「結構です……お互い、時間は無いでしょうから」

「そう急かすでも無い」そう言い、書き物をしていた紙を持ち上げる。詩だと春醍は思った。

「ひとつ出来たのだが、聞いてくれるか?」

 春醍はまた黙礼した。実年齢より若く見える筋肉質の長身から、やはり年齢より若く、張りのある美声が庵中に流れた。



天許の閣下 千官を会し

禁裏の朱桃 後宮より出ず

初めて是れ寝廟春餞の後

御苑鳥(そう)の残れるに関わるに非ず

帰鞍競うて帯ぶ 紅糸の篭

中侍頻りに傾く 青玉の盤

飽食懼れず 内熱を憂うるを

餐官に()(きび)湯の涼あり



「…………」

 春。後宮の桃林より摘んだ桜桃を、皇祖の霊廟に献じる儀式の華やかなる様を謳った詩であると春醍は察した。鳥ですら美味と感じる程に丸々と肥えた桃は、やがて霊廟より朝廷の諸官に下げ渡され、果たして天許城には両手を使っても抱えきれない程の桃を下賜され、それらを宝玉でできた籠や盆で運ぶ官人たちの笑顔で満ちることになる。美味故に発熱を覚える程桃を食べ過ぎた者のために、宮中には(さとうきび)を煮詰めた冷たく甘い飲料も用意してあって、それが今となっては、かつては官人としてその最中に身を置いていた郭玄方には――


「――懐かしいのですね。都の暮らしが」

 春醍は感情を出さず、ただ悲しげに言った。それは玄方に対する失望であった。春醍の無表情を鼻で笑い、玄方は言った。

「私も愚かだった……官に在るには勇気があり過ぎ、野に在るには勇気が無さ過ぎたのだ……そのことに気付いたとき、わたしは再び国都に戻り、再び私の様な者を出すまいと官に復することを決心した」

「……そのために、王律どのを殺したのですか?」

「何と……?」

「……そして今度はそのために淕賊に与し、慶邑の兵たちを殺すお積りか?」

「彼らは匹夫流民の集まりだ。来るべき大桑には必要ない。新帝のご即位に賊徒鎮撫という華を添え、官に背いた浄罪を為すことに私の大望はある」

「匹夫流民……だと?」

 剣の鞘を握る春醍の手が、怒りに震えた。それに気付き、玄方は眼を険しくする。若者の怒気に対する怯えを、彼は見せなかった。

「地を這って生きる匹夫流民にも、与えられた天命はある……貴方にはそのこともお分かり頂けませんか?」

「剣を収めよ魯春醍。私が何故卿に帯剣を許したか判らぬか?」

「…………」

 自ずと眉間が歪み、柳眉が逆立つのを覚える。静かなる怒気を前に、郭玄方は尚も慈父の如くに泰然としていた。

「私が卿を救いたいと思ったのは、朋友の一族であるのもそうだが、卿が軽率に剣を抜き、大業を台無しにする匹夫とは違うと思ったからだ。卿には未だ未来がある。共に大封に上り、新帝の政に尽くさないか?」

「……そこで玄方どのにお聞きしたい。大封に上る際、あなたは誰を生贄になさるお積りですか?」

 玄方は微かに声を上げて笑った……が、それも口元だけのことだ。

「よく見たな魯春醍。だからこそ卿は死なせたくない。今次の挙兵を義挙と為すための生贄は既に幾人か用意してあるぞ。中には卿のよく知る者もいる」

「騎煩生か……!」

 春醍は反射的に立った。立つのと同時に剣を抜いていた。

「若いな……それで私を斬るのか?」

「…………」

 何も言わない。剣の切先が、沈黙の内に玄方の胸元に向かう。

「私を斬るか?……士たるを捨て、あの礼を知らぬ匹夫共と同じ修羅に住まうか?」

「…………」

「私を斬ると、もうそれまでの魯春醍には戻れなくなるぞ? 人として生きておれなくなるぞ?」

 切先が下り、そして退いた。それを見て郭玄方は眼を微笑ませた。

「……斬る価値もない」

「…………!?」

 奈落に突き落とされたかのような唖然を顔に浮かべ、玄方は佇む春醍を見上げた。滑らかに剣を収め、春醍は言った。

「玄方どの、あなたはあなた自身の生まれ出でた意味を考えるだけよかったのでしょう……私もかつてはそうでした。でも今は――」

「…………」

 玄方が、険しい眼で春醍を睨む。

「――今の私は、そういう訳にはいかなくなりました。今慶邑にいる皆は、貴方のような者の掌の上で死ぬべき者たちじゃない……だから私は彼らと一緒にいて、喩えこの身朽ち果てても人としての道を全うしたい。そして貴方には――」

「…………!?」

「――己が気紛れのために、多くの運命を弄んだ報いを、私なりのやり方でこれから与えたいと思う」

「馬鹿め……正道を踏み外すか魯春醍!」と、玄方の眼が嗤った。それまでの謹厳ぶりがすっかりと消え失せ、まるで幽鬼に憑かれたかのような狂気に目元が歪んでいた。

「御免」

 春醍は玄方を拝礼し、慌ただしく部屋を辞した。「後悔するぞ魯春醍! この賊徒の系塁め!」――背後に郭玄方の怒声を聞く。回廊から臨む政庁の中庭に靄が漂い始めていた。雨が降る兆しだと思った。それ故に足が急き、そして政庁の外に近い厩舎へと達する――



「――煩さんか?」

「春醍か?」

 煌びやかな官服姿の騎煩生が、物珍しげに龍脚の騣を撫でていた。春醍の姿を見出すや、繋がれた龍脚と帯剣した春醍の姿を交互に見比べ、彼はその細面に似合わない大きな眼を見開いた。

「出世したんだな……馬も立派になったし……それに何よりお前、急に男振りが上がってないか?」

「…………」

 蒸し返される海狼との一夜を春醍は思い出す。込み上げて来た気恥ずかしさに頬を朱に染めた春醍に、煩生は歯を見せて笑い掛けた。

「ひょっとして馴染みの女でもできたか?」

「そういうわけじゃないよ」

 途端に煩生が笑いを抑え、そして真剣な眼差しを向けた。

「……それで、晋安に残るのか? 残るんだろ?」

 春醍は、黙って煩生の腕を掴んだ。目を醒まして煩生を見据える。最初は驚き、次には余りの目付きの悪さに震える煩生をそのままに、春醍は切り出した。

「煩さん……逃げろ」

「へ……?」

「おれと一緒に大封に帰るんだ。今ならまだ間に合う」

「大封には帰るさ……勿論新帝にお仕えするためにな」

 煩生は薄ら笑った……が笑おうとして失敗した。その笑顔を春醍の冷厳な目線が抑えたからであった。

「大封にはおれと二人で帰るんだ。玄方の言うことを聞いていたら煩さんの命は無くなる。殺されるってことだ。それでもいいのか?」

「――――!」

 かっと眼を見開き、煩生は春醍の手を叩き解いた。その後には意地にも似た敵愾心が生まれていた。

「断ったのか?……お前、先生の御寛恕を(なげう)ったのか!?」

「煩さん……!」と、春醍は再び煩生の躯を間髪入れずに掴む。

「王律を殺した時ですらやばかったのに!……お前もう終わりだぞ! わかってるのか!?」

「……煩さん、あんたがおれにしたことはこの際水に流すよ」

「おれに……したこと?」

「玄方に王律とおれとのことを訴えたのは煩さんなんだろ? おれが王律どのと懇意だったのは本当だから、おれはこれ以上何も責めないよ」

「春醍……!」と、煩生の眼が涙で赤くなっている。痩せた背筋が震えだすのが、それを抑えている春醍の手にも伝わって来た。

「だから今はおれの言うことを聞いてくれ。おれは煩さんには此処で終わって欲しくないんだ。だからおれは……!」

「黙れっ! お前の終わった人生におれの未来を巻き込むなっ!!」

 何度か躊躇い、しかし今度は身体を捻じって春醍の手を再び振り解き、よろめきつつ後退りしつつ煩生は声を荒げた。

「お前はおれに嫉妬してるんだ!……玄方先生のお傍にお仕え出来たおれと違って、お前はずっと戦場暮らしだったから!……玄方先生のお眼鏡に叶わなかったから!」

「…………」

「春醍! 死にたいのならばお前ひとりで慶邑に行けばいい! そこで逆賊になって死ねばいいんだ!……お前は……お前はもう終わりだ! 友達でも何でもない!」

 言うだけ言い捨て、騎煩生は春醍に背を向けた。その途上でよろめき、あるいは転びつつも、煩生は真っ直ぐに政庁の方へと奔っている――同時に、時間が失われつつあるのを春醍は察した。


 さようなら――煩さん。

 勢いを付け、春醍は龍脚に(またが)った。手綱を翻すのにもはや躊躇いは無かった。




 晋安城市の大路を、正門に向かって龍脚真っすぐに駆けさせるのと同時に、大路が不気味な程静まり返っていることに春醍は気付いた。かと言って事情を詮索する暇など今の春醍には無かった。大路を奔る内に靄がゆっくりと大路に棚引き始めるのを春醍は見た。このまま時が過ぎれば雨も重なり、晋安はその装いを完全な霧中に没するであろう。

「――魯春醍! 魯春醍を捕えろ!」

「――馬を曳け! 早く!」

 心地良く刻まれる蹄の響きに混じり、何処からか微かな声が聞こえる。不穏な声であった。郭玄方の心変わりかと思えたが、あるいは配下の先走りかもしれぬ――さらに駆ける間、背後から地響きを思わせる蹄の音が聞こえた。追手の騎兵であることは確実で、顧みるべくもなかった。

「止まれぇ――っ!!」

「――――ッ!」

 正門の前、号令一下、大路を塞ぐように広がる兵列。馬の足を掃う戈を構えて並ぶ彼らの列は疎らで、統制も取れていなかったが、それでも単騎に対するに大きな障害となり得るのは事実であった――馬脚を抑えるどころか更に速め、春醍は龍脚を駆けさせた。


 戈を構える兵一人一人の顔が、馬上からでははっきりと見出せる距離まで駆ける――龍脚が飛び、それは悠々と兵の列を乗り越えて走り去る。並みの軍馬で為し得る跳躍では無かった。正門がさらに迫り、同時に春醍と龍脚と城市に封じ込めるべく閉じ始めるのを春醍は見た。

「――――っ!!」

 気合いを入れ、龍脚に加速を促す。龍脚の駿足ぶりに天井は無いかのように思えた。背後から撃ち掛けられた矢が唸り上げて春醍の耳元に飛び込み、そして追い越すのを感じた。今まさに閉まり切ろうとする巨大な門扉、矢は門扉すら容赦なく抉り、そして春醍は閉まり掛けた門の隙間から晋安の外に飛び出した。

「――――!」

 曇天の生む白濁が龍脚の前途を塞ごうとしている。しかしそれは今の春醍にとっては天佑であった。

「海狼……待っていてくれているか?」

呟きつつも、春醍には確信があった――霧に紛れてこの道を行く限り、おれは必ず海狼と落ち合える。



 時を追って龍脚を駆けさせる内に、晋安を取り巻いていた重くどんよりとした空気が次第に薄れていく。

 さらに北に向かい駆ける内に、温かい空気が流れて来た。熱気だと思った。大きな戦を前にした熱気だ。香南に辿り付いてから経験した幾度かの戦の結果に得た知識――否、勘の様なものであった。傍目には馬鹿々々しい話かもしれないが、この香南の地で独り馬を走らせている身では、神仏以上に頼りになるように思われたのだ。

 曇天が徐々に暗さを増していく。夜が訪れようとしている証であった。北上の途上で慶邑まで続く道を見出し、さらに龍脚を走らせる。頬と胸を掠めては過ぎて行く冷気が、戦場の匂い、そして群れる兵の匂いを運んで来た。官軍?――否、友軍の匂いだと魯春醍は思った。坂道を駆け昇る――晴れていれば、慶邑を地平線の彼方に捉え得る場所であった。


「――駄目か」

 霧は峻嶮な山嶺はもとより平原と丘陵の連なる大地を覆い、霧に覆われた地平線の先に慶邑の城市は隠れていた。晴れていれば一望できたであろう、粒ほどの慶邑の影を傍目に、平原に龍脚を乗り出して駆ける。慶邑の在る位置からずっと東――空を舞う鳥の数が尋常ではないことに気付く。大軍が動きつつあるのだと察した。同時に戦慄を覚え、気が急いた。


「魯春醍どのか!?」

「――――!」

 小高い山の頂から呼び掛けられ、春醍は馬上から反射的に顔を上げた……と同時に、剣の柄に手が触れた。何時でも抜ける様に――頂きに騎馬の一団。しかし敵と見做すには余りに殺気が無さ過ぎる。それが春醍を躊躇わせる。春醍の姿を捉えた騎馬が一斉に山肌を下り、瞬く間に春醍の周りを取り囲むようにした……数にして十余り。まだ山から降り切らず、麓の様子を窺っている騎馬も含めれば百を超えることが迫る気配で判った。


 騎馬の長らしき男が進み出、春醍に言った。

「我らは主将、朱宇貫様の命により貴方の帰還を待っていた者。その最後まで同道する様、宇貫様直々に仰せつかってござる」

「それはご苦労、して海狼は?」

「海狼どのは自らの手勢を率い、合流先の祠堂にて春醍どのの参着を待ってございます」

「道を急いでいる。案内を頼まれてくれないか?」

「その前に、宇貫様の御命令を伝えとうござる」

「命令……と?」

「全ての戦が終わりし後、速やかに香南をお出であらんことを。再び香南の土を踏むこと、これを許さずと」

「…………」

 唐突に追放を命ぜられたも同然であるように感じられ、春醍は一瞬どきんと胸を高鳴らせた。だが意外とは思わなかったし、戦場たる香南に在る以上、宇貫ともこのままで終わることも無いだろうと、内心の何処かで覚悟していた春醍がいたのも事実であった。

「戦が終わったら、一度宇貫と話したい。それでは駄目か?」と言ったのは春醍自身、気持ちの整理を付ける側面がある。

「拒否すれば斬れと……宇貫様の仰せで御座います」

「…………」

 きっぱりと告げた騎馬の長の顔を、覗く様に見る。凝視すれば彼の顔が酷く青褪め、引き攣っているのがわかる。近い将来の宇貫軍はおろか自身の命運を決しかねない男の旅、男の回答如何によってはそれをこの場で断絶させねばならないという彼に課せられた使命に、圧し潰されようとして彼は必死に耐えていた。それが今の春醍には痛いほど判った。

「わかった。香南を出よう」

 春醍の言葉は、その場の騎馬のみならず、香南に在って淕家軍の南下に怯える多くの人間の命運をも救ったかもしれない。



 慶邑を目前にして曇天が雨を生んだ。生まれた雨はやがて天の崖から落とされる瀑布のように香南の山河、そして平原を圧し始める。この雨が終われば香南には本格的な、だが短い冬が訪れる――少なくとも古くから香南に住まう人々にとってそれは常識の範疇であった。

 もっとも、総数三十万に喃々とする淕家軍の移動はそのずっと前から止まっていた。さらには征南宇宙銀河討魔超大将軍 何尊凱という人物ひとりの統制下で全軍が動くという前提に、霧と雨という天候が重なった故に大軍の統制が叶わず、兵そのものの集合も遅れがちであったこともあるが、何より征南宇宙銀河討魔超大将軍は、透き通るような晴天の下に在って幾下の全兵を睥睨し、その戦い振りを督戦することをその心底より所望していたのである。


 当然、負けるということは考えなかった。何尊凱の下にあって兵と兵糧の統括に当たる将や末端の校尉、簿官(補給監)ですらこの点では彼らの上に立つ征南宇宙銀河討魔超大将軍と考えを同じくしていた。区々たる用兵を揮う余地すら初めから無いと思われる程の大軍、中原の歴史上最初に現出した膨大なる兵。敵が如何なる詭計、如何なる蛮勇を以てしてもそれは兵の海の只中に飲み込まれ、脆く粉砕されてしまうであろう。「我が兵、数故に死角無く、数故に負け無し」とは、後代の叙事詩に謳われた淕家軍三十万の将と兵に共通した感慨であった。


 もっとも、軍列の最後尾では一つの懸念が生まれていた。鄭塁欽により啓開された里楊関と慶邑の間には、秋河の支流に端を発する亭水という名の小川が跨っており、平時は最大でも人の膝程度まででしかない深さ故に、大掛かりな架橋を施さずとも容易な渡河が可能であったのだが、雨天時に増水し通交を遮断する懸念もまた同時に生まれていた。

 それ故に下級の校尉たちを主として架橋が進言されたわけであるが、彼らの進言は後衛を与るより上級の将軍に達した段階で握り潰されてしまっていたのである――何より、南下以外の行く先を誰もが想像すらせず、それはむしろ大軍の壮途に当たり異端な志向と見做されたところに、校尉たちの懸念が「要らぬお節介」で終わった原因があった。


 距離にして慶邑の西より十里までに迫ったところで、征南宇宙銀河討魔超大将軍にして天与香南超大刺使 何尊凱は全軍に野営を命じた。雨天が退き、遮るものの無い晴天が訪れた時が慶邑に籠る叛徒たちの終焉の秋であった。

 雨天を押して一気に攻勢を掛け、慶邑を陥とすべしという進言も無かったわけでも無いが、何尊凱自身はそれを有体に言えば「野暮」の一言で却下した上に、一般の将兵を以てしても、ある意味悪手とも言える雨天下での攻勢に二の足を踏ませる空気が流れていた。言い換えれば三十万という数故に、そこに連なる将兵をして死者の列に転じるのを恐れさせたという面もある。大軍で戦う――否、寡勢を圧殺する以上損害は過少で在るべきであり、その過少な損害の中に自分の名が連なる不運を望む者は誰もいなかった。晴天下での攻勢であれば、その不運の発現も極小にまで抑えられる様にも彼らには思われたのである。


 投降を呼びかけてはどうか?――大軍に一兵の犠牲も出さないという意味では、これは最良の策であった。あるいは、慶邑に対しては抑えの一隊を置いて包囲に留め、主力はそのまま南下して晋安を直接に衝く――実際に考案され、何尊凱にも献じられたこれらふたつの策いずれもが結局は却下された。前者においては、「叛徒を悉く誅戮し、その屍を以て新帝即位の礎石と為す」という方針が早くから決定されていたこともあり、後者の場合は、喩え優勢であろうと延び切った補給線そのものに対する懸念もまた、献策と同時に示されたためである。

 慶邑から晋安に至るまで順番に叛徒の拠点を潰すという地道な策の維持が確定した瞬間、淕家軍は当の慶邑を前にして前進を止めた。もっとも、その策の手堅さの裏に隠された何尊凱のどす黒い真意を知る者は、淕家軍の本営の中にすらごく限られた数しかいなかったが……




 淕家軍陣中 征南宇宙銀河討魔超大将軍にして天与香南超大刺使 何尊凱の本営。


 雨が激しく降っている。かと言って本営たる巨大な幕屋に在って酒宴に集う面々にとっては、中原に生を享けて初めて経験する戦場における、目を愉しませる数多く物珍しい要素のひとつでしかなかった。


「――香南には評判の美人がおるそうな。里楊関から逃げた袁隷の妹御で、古の西鈴に劣らぬ美貌とか……晋安に入った暁には、勝利の美酒代わりに閨でとくと堪能してみたいものよ!」

 と、美酒を満たした銀杯を手に何尊凱は言った。両脇に在って坐する尊凱の幕僚たちが笑い、ある者はご相伴に与りたいものだと追従する。幕僚とは言ってもその全てが大封に在って何尊凱と近しいというだけで将軍の肩書を得、凡そ戦場での実用を度外視した豪奢な鎧を纏い、道化宜しく飾り立てた馬を乗り連ねて来た大貴族の子弟たちであった。


「大将軍、評判の美人と言えば香南にはもう一人おる由、海狼とか申す侠客は、それはそれは女も惚れる程の、深山を巡る夏風の如き女傑とか」

「ほう! 侠客と申すからには武芸にも優れておるのであろう? 如何程のものかのう?」

「はあ、百斤もある青龍偃月刀を軽々と使い、馬術にも優れ、それで討ち取った官将の首は百を超えるとか」

「賊徒の系塁であるか? 面白い!……そ奴も捕えてわし自ら衣を剥ぎ、隅々まで検分してくれん!」

 悪酔いに感情を任せたかのような下心丸出しの言葉に、若く下品な笑い声が重なって続く。だが何尊凱の口調と態度は、発現の下品さを感じさせない程の気品を酒宴の場に在っても漂わせていた。この点、何尊凱もまた権門の一員たるに相応しい育ちであることを窺わせる。


 童子をして銀杯に酒を注がせつつ、尊凱は配下に聞いた。

「兵共はどうしておるか?」

「はっ! 大将軍の御命令通りに」

「そうか……今宵は冷える上に火も使えぬ故、酒を以て身体を温めねばなるまいな」

「その点は抜かりなく」

 と、配下は恭しく低頭した。尊凱はその指揮下にある三十万の兵に対し、戦を前に破格の配慮を示していた。全将兵の食事に酒と肉を付けさせ、豊富な酒の配給は結果として、本営での酒宴の規模と下品さをより拡大したかのような乱痴気騒ぎを野営の各所で同時並行的に発生させていたのである。気前の良さを示したいばかりに、何尊凱は軍に連れていた猛烏象を幾頭か殺して解体し、兵に酒肴として供したとの記録も残されている程で、野営に蔓延する空気だけは、すでに未だ見ぬ戦勝に彩られていたと言っても過言ではない。

 一方で、酒宴に明け暮れる陣中にあって警戒に配された兵は僅か一万。それらは広範な陣の四隅に分散して配され、しかも何れは定時の配置換えという形で酒神の懐に取り込まれる運命にあった。


 そして――未だ酒宴に参加していない衛兵に交替の時が訪れ、酒の快楽醒めやらぬ兵に守りを取って代わられようとする淕家軍の陣。

 陣の後背より僅か一里――ぽつんと佇む急峻な崖上に、見慣れぬ影が集い始めるのに気付いた兵は未だいない。



 淕家軍に向かい再び駆け始めた時には三百騎、慶邑に程近い寂れた祠堂で海狼と合流し漸く一千騎――更に馬を走らせる内に各所から集い来る騎馬を引き入れつつ、魯春醍は龍脚を走らせている。

 しかも騎馬の先頭であった。その春醍に付き添う様にして海狼が馬を走らせている。時折背後を顧み、そして海狼は春醍に言った。

「――阿春! 二千!……いや三千はいるぞ!」

「わかっている!」

 龍脚の手綱を握る春醍の身体は、吹き付ける風雨に晒されて烈しく濡れていた。それは海狼を始め、春醍に付き従う各騎もまた同じであった。だが迫り来る運命の時への予感が、押し寄せる雨水と寒さを些細な障害と見做すようになっていた。蹄の泥濘を蹴立てる響きが勢いを増す雨音にかき消され、やがては人馬の気配すら雨と夜の帳の中に閉じ込めてしまう。その帳のただ中で魯春醍と海狼、ふたりは共に烈しく馬を走らせ、時には並ぶ。その度に海狼は春醍を顧みる。春醍との距離を計っているのではない。海狼には珍しいものの様に見えるのだ。帯甲した魯春醍が――それは祠堂で春醍と落ち合った際、海狼直々に用意し着せた甲冑であった。だからこそ今の海狼には、春醍を気に掛ける動機がある。


「見ろ! 敵陣だ!」

「――――!?」

 誰かが叫び、春醍は龍脚の上から気配の方向を見遣った。春醍から見て丁度北側であった。その暗中に灯る松明、あるいは油灯の放つ光が眩く、まるでそこで祭りでもやっているかのように見渡す限りに広がっていた。今すぐにこの場から馬を翻し、あの灯の塊の中に突っ込もうと思えば四半時程で辿り着きそうな距離――だが春醍にとっては未だ遠過ぎる距離であった。

「このまま! このまま真っ直ぐ私に続いて走れ!」

「魯春醍に続け! 遅れるな!」

 春醍は果断に命じ、海狼は檄を飛ばす。騎馬の一団はそのまま小山を駆け昇り、山際に沿って尚も駆ける――行き止まった処は、崖であった。

「――――!?」

 傾斜の緩い崖下、何も遮る物の無い先に、目指す淕家軍の陣がひとつの街の様に広がっていた。漆黒の空間全てを埋め尽くす様に、焚火や篝火の生む光が無数に連なって広がる。それはまるで崖下に別の夜空が出現したかのような、息を呑む程の幻想的な光景であった。

「…………」

 気が付けば、雨の勢いがだいぶ退いて収まっていることに気付く。同時に周囲を見回す余裕が今の春醍には戻って来た。魯春醍を取り巻き、彼の次の命令を待つ騎馬の一団。そして魯春醍の傍らに在って微笑を浮かべる海狼――

「――阿春、躊躇っているな?」

「…………」

「何なら戻ってもいいんだぜ? 何処から攻めても、もう負けるこたぁねえ」

「……いや、此処しかないんだよ」

「…………」

 海狼が、眼を険しくして春醍を睨んだ。負けずに海狼を見返し、春醍は頷いた。

「最も短い時間で、最も早く淕賊の本営を衝く……そのための場所は此処しかない……此処しか、ないんだ」

「じゃあ何故躊躇う?」

「今更ながら……死ぬのが怖くなった」

 怒る海狼を、春醍は覚悟した……が、次に起こったことに春醍は我が目を疑う。ゆっくりと、だが抱く様に春醍の手に重ねられた海狼の手――

「――阿春……あたしも怖い」

 海狼の顔が強張っている。初めて見る顔であった――と同時に、春醍から全ての雑念が融ける様に消えた。咄嗟に海狼を下がらせ、そして春醍は勢いを付けて剣を引き抜き、天に掲げた。


「聞け!……我らこれより死地に入る! 我らがこれより分け入るは神代以来一度として中原に現出したこと無き大軍なるべし! 我らの戦を壮途か、あるいは狂か愚か断ずるは、今はただ天(これ)あるのみ! 我魯春醍、(なんじ)等勇士に改めて命ずる! 死を賭してもなお歴史を創らんと欲する者は我に続け! 此処を離れ生を望まんと欲する者は我是を追わず! 汝ら(これ)より我が命に只行いを以てのみ応ふるべし!」

 一瞬沈黙を置き、春醍は崖下に剣を振り下ろした。

「斬り込めぇーっ!!」

 魯春醍の握る手綱に導かれ、龍脚が崖を飛び降りる。その後を騎馬の一団が崖を滑る様に、あるいは飛ぶように駆け下りて続いた。


 史書に曰く――生を望みし匹夫、一騎として無かるべし。 




 怒涛の如き質量が崖を下り、それは僅か一刻もしない内に淕家軍の陣に達した。

 文字通りに、最初に薙がれたのは陣の外縁に在って形ばかりの防備に就いていた衛兵であった。痛飲と暴食の果てに尚も酒宴の余韻を引き摺り、摩耗させた心身故に敵味方の判別すら難しくなった彼らに、急速に接近して来る騎馬の一団を押し止める役割など期待できるものでは無かった。むしろ敵騎を友軍の別働隊と勘違いした者が多く、それは何も彼ら衛兵だけの問題では無かった。

 誰何すらする間も与えられず彼らは突進してきた騎兵に瞬間的に戟で首を刎ねられ、槍で貫かれて斃された。動く者は悉くが斬られ、襲撃の第一撃を生き残った者は散々に逃げ惑った挙句尚も健在な陣にも混乱を持ち込んだ。酒宴に気が緩み、鎧を脱いでいた兵が多かったことも混乱と殺戮の拡大に拍車を掛けた。逃げ惑い、さらには敵味方を誤認し斬り合う淕家の兵――それ故に秩序の崩壊は進行し、秩序の崩壊は史上類を見ない巨大な戦陣に亀裂を生じ始めた――何尊凱の坐する本営までの途が、一挙に啓かれた瞬間である。


 本営の、それも寝所に在った何尊凱の場合、それは先ず外界の騒ぎ声となって熟睡し掛けた彼の精神の琴線を震わせた。

 初めは、酒に悪酔いした兵が騒いでいるのかと彼は思った。

 騒ぎを無視し、同衾させた童子と戯れに睦み合っている内に、騒ぎの声が静まるどころか更に大きくなっていることに彼は気付く。業を煮やした尊凱は寝台より童子を蹴落とし、護衛担当の校尉を怒鳴りつけるべく本営の外に一歩を踏み出さんと――

「――――!?」

 本営の広間、軍議にも使用されるそこから一望し得る陣の変わり様に、何尊凱は思わず立ち尽くした。炎と破壊と悲鳴と逃走――それらが、その場から剣を執りに寝所にとって返すまでの短い時間の間、彼が眼にした全てであった。金色の寝間着に過剰に装飾した剣という、傍目には間の抜けた姿で彼が本営の外に一歩を踏み出した時には、すでに突入を果たした騎馬の群れが守兵を蹂躙し始めていた。


 これは……何だ?

 半ば夢遊病者の様に足を踏み出した尊凱を、混乱の中でそれを見出した部下が押し止めた。彼の襟を掴み、眼を剥いて尊凱は詰問した。

「これは何だ?……卿ら、私の兵をどうするつもりだ!?」

「敵襲にございます! 敵騎の襲撃でございまするぞ!」

「それは見れば判る! して敵の数は!? やつらは何処から――」

 言い掛けた尊凱の脇を、唸りを上げて火矢が飛ぶ。本営の入口に刺さった火矢は雨上がりであるが故に効果を発揮しなかったが、それでも本営の内に飛び込んだ火矢から新たな焔が生まれ、焔は本営を内から喰らい尽くそうと拡がる。火が回るのは早かった。手傷を負った部下が尊凱の元に駆け寄り、そして跪いた。

「大将軍! 此処は危のうございます! お引き退きを!!」

「引き退く?……我らは三十万の大軍ぞ! たかが寡勢での夜襲ごとき、何を恐れることやあらん?」

 部下は食い下がった。

「大事を取ってのことにござります! この大軍に兵権を有するは大将軍お一人のみ。大将軍の御身にもしもの事あらば、即座に統帥が瓦解いたしまするぞ!」

「うぬうううう……!」

 全身を逆立てんばかりに尊凱は呻いた。消し止められぬままに広がる炎が本営を喰らう様に崩壊させ、憤怒に身を任せたまま動かない尊凱の背後で熱く巨大な焔の壁と化していた。

「馬を曳けぇ! 馬だぁ!」

 殆ど泣き叫ぶように尊凱は声を荒げた。直後に地獄にでも落とされたかのような烈しい音を立てて本営が全壊する。焔の壁が海へと変わり、焔の海の向こうで破壊と殺戮を繰り返す騎馬の群は更に数を増していた。完全に襲撃者に取り巻かれ、暴れるがままに任される本営の周辺、部下たちも敵への対処に忙殺される中、尊凱が何気なく顧みた先で、彼の眼が奇異に歪む。

「…………?」

 馬に乗った影が剣を握っている。影が退き、蒼い馬に跨った剣士の姿が顕れる、それが友軍では無いことに何尊凱は気付き、剣士は何尊凱に向かい馬を駆けさせた。恐怖――固まったまま動けない尊凱の眼前で剣が振られ、逃げようと背を向けた尊凱に向けて振り下ろされた。騎馬が颯爽と尊凱を追い抜き、そして尊凱の首が胴から跳ぶ。

「阿春! 見事!」

 続行して来た海狼が偃月刀を振り上げつつ声を弾ませた。跳ね飛んで地に転んだ何尊凱の首に偃月刀の切先が突き立てられ、そして海狼は尊凱の首級を高々と夜空と焔の海に向かい掲げる。

「敵の大将軍は魯春醍が討ち取った! 敵の大将軍討ち死に!」

 海狼の声は複数の勝鬨を生む。春醍たちとの突入時とは違ったより烈しい衝撃が、次には恐慌の波動となって主亡き淕家軍の陣中を駆け廻り、兵の数だけは総勢三十万に達する全軍を崩壊の縁に追い込んだ。


 淕家軍の悲劇はそれだけに留まらなかった。

 混乱の中で、それまで柵や檻の中に繋がれていた猛獣が、恐らくは敵襲への対抗の意図であろう、確たる命令系統も準備も無く解き放たれてしまったのである。猛獣使いの制止を振り切り、あるいは殺して陣中に足を踏み入れた猛烏象、そして剣虎が、逃げ惑う淕家軍の兵をも外敵と見做して蹂躙に掛かるのにそれ程時間は要さなかった。猛獣の吠える声、そして兵の悲鳴は燃え盛る炎と共に慶邑に籠る朱宇貫軍の知るところとなり、火事の延焼に伴う火薬集積処への引火とそれに伴う烈しい爆発が、城内の朱宇貫をして一つの決意を固めさせるに至った。


「全兵に告ぐ! 城を出て官兵を殺せ!」

 朱宇貫が命じたのはただそれだけであったが、命令としてはそれだけで十分だった。慶邑の城門を開き敵陣に向かい一気に躍り出た兵は二万を越えた。十万を遥かに超える淕家軍に対し、逆撃に転じた二万の兵では大人と子供ほどもある戦力差であったが、兵権を有する大将軍 何尊凱が討たれ、指揮系統が崩壊した今となっては、そのような戦力差は全く問題とはならなかった。何せ慶邑攻めはおろか反撃を命じる者すら今の淕家軍にはいないのだ……とあっては攻められれば退く、陣をも棄てて退くのが主亡き淕家の兵に残された途であった。

 

 守るべき陣地も担うべき武器も棄てて淕家の兵は逃げた。元々兵の練度は慶邑に籠る朱宇貫軍の方が優越している上に統制も取れていた。それ故に日が変わっても淕家軍の損害は更に拡大し、攻められるがまま北へ北へと逃げる淕家軍を、最大の悲劇が待ち受けていた。


「見ろ! 川が増水している!」

 最も早く戦場からの離脱に成功した兵が、震える指を亭水に向ける。彼が眼にしたのは、長期の豪雨により水嵩を増し、さらには勢いすら増したかつては小川であった何かであった。観念し、別の逃走路を探ろうと元来た途を顧みた彼の顔が、そこで蒼白に転じる。兵が眼にしたのは、彼と同じく逃げ道を探して亭水の川岸まで来た十万単位の人の波であった。逃げ道など何処にもなかった。

 朱宇貫軍に追撃され川に追い込まれた中原史上最大の敗残兵の群、狭い川岸で密集する群衆が生む圧力に抗しきれず、暴れる河に放り出された兵がそれこそ数百単位で飲み込まれ、そして押し流されていく――日が昇り、昨日までの雨天が嘘の様な晴天に転じたのと時を同じくして、香南を掠めんと南下した淕家軍は壊滅した。後代に()まれた史書によれば、生きて投降が叶った者が五千名余り、生きて里楊関に戻った者、わずか百名余りという。総大将たる何尊凱はおろか、勇躍大封を発った貴族の子弟は一人として生き残らなかった。


 ――これが後世の史書にいう「遼陽大捷」、歴史学上の一般的名称で言う処の「遼陽の戦」の、劇的かつ壮絶なまでのあらましであるが、魯春醍という青年の一個人史に限れば、彼が中原の歴史に強烈なまでにその記憶を刻む、これは始まりの戦でしかなかったのである。




次回 7/5(日)掲載分で、「風雲はるかに」第一部終となります。

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