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第十四集  「龍脚」

 大桑二四一年の初冬に国都大封を発した兵部太監 何尊凱の兵は途上に設けられた駅亭、郡庁舎を流用した補給処より兵糧と人員の補充を受けつつ南下を続け、二月程の時を経て最後の攻勢準備拠点である豫倉(よそう)に達した。


 もっとも、香南を臨む豫倉への到達に長く時を費やしたのには、征途についた兵数にして三十万という近年に例の無い大軍そのものが、淕家軍をして軽快な進撃を阻んだこともあるが、その実大封の南東は西玄とその周辺を根拠とする建宗派による妨害を警戒し、淕家の本拠地たる幇州を通過する途を択んだ結果として、多少の遠回りを強いられたという事情がある。

 それでも進軍そのものは順調であり、しかも十万単位に上る大軍の移動は、今や大封の主となった「次期皇帝」王可明に対し、臣下としての忠誠を決めかねている各郡に対する示威という効果をも発揮していた。何より出兵の令旨が発せられてからというもの、香南の叛徒を討つべく遣わされた一軍の進軍というより、来るべき新体制を担う淕家の威信を示すかのような豪奢な行列が、連日香南に通じる主要な街道を埋め尽くし、沿道の人々を仰天させたものであったから――


「――兵馬その金銀を纏いしこと、さながら天界の兵の如し。将車の走ること、さながら黄皇(こうおう)が中原を統べるが如し」

 史書は当時の様子をこう伝える。過剰なまでに装飾された武具を纏った兵が歌舞を奏でる楽士に先導されて街道を進む。行列の中程、太古の神代に天地を創造した伝説の王黄皇宜しく、四頭立ての豪奢な戦車に坐した何尊凱自身が、やはり手を振りつつ沿道からの歓声に応える。その歓声を発する沿道の民も、何も心から何尊凱の進軍を喜んでいるわけではなく、余程の物好き以外の誰もが淕家の手先がばら撒いた金子に惹かれ、あるいは脅されて沿道に並んだ者たちばかりであった。


 兵の列が過ぎた後、今度は衝車、投石機、そして火砲といった攻城器の列が続く。その何れも破格の大きさを誇り、場所によっては人夫をして路の拡幅を行わなければならなかった程の大きさを誇ったものだ。牛馬に曳かれて進むそれらの中で、一際異彩を放ったのが磨き上げられた巨大な青銅砲で、牽引に十頭の牛を要するそれは、砲の口径だけならば大規模な寺社の釣り鐘の倍はあったかもしれない。果たして、人々は噂しあった――あれ程の軍勢が差し向けられるのだから、香南の叛徒どもも只では済まんぞ、と。

 そして人々の眼を驚かせたのは、何も進軍に加わった兵と、彼らの装備ばかりではない。


 西蛮人――大桑国の施政圏外に住まう亜人種の獣使いに操られ、毛むくじゃらの巨獣が地響きを立てて路を歩く。胴と頭から足先に至るまで全身を剛毛に覆われた獣、長大な鼻とやはり長く太い牙を持つ巨獣――中原の言葉で猛烏象と称するそいつは、扱いによっては敵陣の正面突破に有効な切り札となり得るかも知れないが、むしろそれ以前に巨体から放たれる獣本来の悪臭が沿道の人々を驚かせた。

 その巨獣の後に獰猛な唸り声が続く。鉄製の篭に口を塞がれた剣虎――それは口から剣のような牙を生やした虎であった。猛烏象よりさらに北方に棲まい、破格の膂力と獰猛さを誇るそれらもまた獣使いに促され、あるいは鞭打たれて沿道を進む。その獣使いをしてからか手に負えぬ程獰猛な個体は檻に入れられて進む。攻城器の類もそうだが、淕家固有の財力と大封の国庫より横領した少なからぬ金銀が、叛徒鎮撫を目的とした軍隊の行進をまるで見世物行列のような進軍に変貌させていた。

 そして当の何尊凱は、軍列の進捗を一望し得る特注の高台に在って、彼の幕僚――というより取り巻きの青年貴族ら――と共に悦に浸る。その尊凱の傍らには、今次の大征にあたり彼が義兄より授けられた称号が錦の幟となって翩翻と靡いていた。


 「征南宇宙銀河討魔超大将軍」という、軍事上の最高指揮官、さらには「天与香南超大刺使」という香南における行政上の最高権者――大封出立にあたり、兵部太監 何尊凱は、彼の義兄にあたる「国父」淕胞全より新たな称号を受けた。何れも前例の無い称号であった。恐らくは名称、命名法則の何れも古史典やそれ以外の史書の何処を探したところで、これに類する称号を一行一字たりとも見出すことは出来ないであろう。大封において掌握した国政の大権を振り翳したくて、何尊凱の義兄は義理の弟に新たな称号を与え、義弟は嬉々として中原史上に前例の無い、滑稽なまでに冗長な称号を、子供が新しい玩具を貰い受ける様に受けた。


 当然、批判に晒された。


 特に舌鋒鋭く胞全と尊凱を批判したのは、建宗が去ってもなお大封に在って、聖籍の編纂と研究に従事していた学者たちであった。先帝仁宗も認めた正当な継承順位を無視した振舞いも然ることながら、今次の遠征に代表される門閥貴族による軍事力と国庫の私物化を、古来からの礼法と道徳の継承を人生の第一義とする彼らは義憤を以て受け止め、そして賢者として為すべき行動に出たのに過ぎない。批判そのものは直訴や奉書という形で行われたものの、それは中原における最高権者を自認してやまない淕胞全の自尊心を、徒に損ねる効果しか与えなかった。


 肥大しきった自尊心の赴くまま、天許城の淕胞全は学者たちに対し反撃に出た。それも徹底的な――批判がなされた明朝、大封各所の学堂は胞全の差し向けた兵により即座に閉鎖され、同じく武装した淕家の配下が学者らの邸宅に踏み込み、一族郎党共々を捕縛したのである。それも完全に日が昇るまでに全てが終わってしまうという鮮やかさであった。

 この時、淕奇蘭という女将軍が粛清同然の一斉摘発の指揮を担った。彼女は淕胞全の異母妹で母親の身分は低かったが、生来の美貌も然ることながら女離れしたその武勇と明朗な性格を胞全は愛していた。この辺り、獰悪な陰謀家として知られる淕胞全の、一個人の隠された側面として興味深い。義弟の何尊凱に対する度を越した称号濫発もそうだが、淕胞全という人物は、その身内に対しとことん甘い所があり、その分系塁の外に位置する人間に対する、度を越した冷酷さとなって跳ね返ってしまうというわけなのかもしれない。その冷酷さが、今まさに発揮されようとしていた。


 だが今度はその身内から造反者が出た。朝廷は工部省の顕職にあった淕豊という人物が、捕らわれた人々の罪の減免を嘆願してきたのである。淕という名字の示す通り、淕豊は淕家に連なりながらも、胞全の先々代からの分家に端を発する血筋の人間ではあったが、科挙の及第を経て官界入りし、地方官職を堅実に勤めあげた結果として中央に地位を築いたという点が淕家主流の者とは大きく異なっており、粛清の標的となった学者たちとの交友も深かった。それ故に淕豊は大封の主同然に振舞う淕胞全の横暴を看過することが出来なかったのである。そして当の胞全からしても、たった一人ではあっても、身内から出た物言いを無視するわけにはいかなかった。


「――諌言を誹謗と見做し、これに極刑を以て報いるは次代の覇者として採るべき途に非ず、苛政には天下の民(こぞ)りて委縮し、新帝の(まつりごと)にも障りとなりましょうぞ。胞全様にはどうかご再考の上、諸子に寛大なご処置を(こいねが)うものでございます」

「そなたはわしに対する誹謗を諌言と申すか?」と、上座に在って胞全は不満の顔を隠さない。その彼の傍らには、剣と甲を帯びた淕奇蘭が微笑を絶やさず、だが感情の無い眼差しをそのままに彼女にとっても遠縁に当たる官人を見下ろしている。

 冷汗で脂ぎった汗顔を拭わず、淕豊は言った。

「誹謗は当人のいない場所で為すもの。当人の面前で為すはこれ諌言とお心得あそばしますよう……今は国都を血で汚すべき時に非ず。学士らと相図りて大桑の柱石(ちゅうせき)を固めるようお努めなさいませ」

「では具体的にどうしろというのだ?」

「今は軽挙盲動を避け、胞全様及び何尊凱どののご威光に対し、より正統な根拠を与えるが肝要と存じます」


 胞全らの担ぐ王可明を正式に皇帝にし、学者たちの重視する有職故実に則った上で改めて新帝の治世における淕家の立ち位置を決め、その権力行使に正当な根拠を持たせるべきだと淕豊は意見した。だが淕豊が全てを言い終えた直後、上段より彼の足元に投げ付けられた水差しが割れ、跳ね飛んだ陶器の欠片が淕豊の頬に一筋の朱色を成した。驚愕した淕豊に、胞全の小柄な体躯からは想像もできぬ程殺意に溢れた怒声が飛ぶ。

「では卿はわしに権威が無いと申すか? 淕家が帝室と対等ではないと言うか!?」

 現実問題としても、香南への遠征は淕家の強い意向を受けて始まっている上に、淕家に逆らった建宗は西玄まで追われた。それらの何れも皇帝の権威無しに行われたことだ。淕豊の真意は権力の奪取が完了した段階でなお淕家に批判的な勢力を懐柔し、帝室との協調の上で大桑国の意思統一を図ることにあったのだが、手に掴んだ権力に酔っていた今の淕胞全には、それはまさに想像の外であったのだ。


 しかも胞全は実妹たる淕皇太后の令旨を以て国父の称号を与えられている。国父とは、古代中原における最初の統一王朝となった真周の建国に大功あった宰相 董尹(とうい)に、その妻にして真周国初代皇帝 衙禍(えいか)より史上初めて与えられた称号で、それ以後の時代は皇帝を輔弼する最高の称号として永久欠番的な扱いを為されていた称号である。国父となった董尹が、その公正明大な性格ゆえに以後衙禍より度々譲位を勧められては固辞したという故事に倣えば、同じ国父の称号を得た淕胞全が、甥に当たる王可明より禅譲される形で新王朝の始祖となることもまた夢ではなかったであろう。


 結果として淕豊の言は容れられず、胞全は造反した遠縁に当面の謹慎を以て報いたが、今度は胞全に程近い系塁が黙ってはいなかった。むしろ胞全のごく近くに在って、淕家に準ずるというだけの理由で様々な特権と富貴を享受しているだけに、胞全に対する淕豊の態度を淕家全体に対する反抗と彼らは受け取ったのである。ある者は淕豊に対する純粋な反感から、またある者は棟梁たる胞全への接近を図って淕豊の叛意を胞全に訴え、それが幾つも重なっては胞全もさすがに訴えを看過するわけにはいかなくなった。


 かくして、淕豊は胞全に対する謀反の嫌疑をかけられ捕らわれることになったが、それは純粋な意味での粛清というより、むしろ淕豊の拘禁そのものを広く知らしめることで淕家内の綱紀一新を内外に知らしめるという意味合いの方が強かった。淕豊自身、牢に入れられたとは言ってもなお淕家の一員として相応の厚遇を受け、妻の()氏との自由な面会も許されたことも、この時の胞全の真意を物語っていると言えよう。ただし、今回の南征が成功に終わった後に淕豊個人の命運は決する筈であった。


 結果として、淕豊は学者たちを救うことが出来なかった。彼らを一族の女子供諸共殺すための裁判は僅か半時で終わった。罪状とそれに報いる斬首刑を告げられるや、総勢二三六名に及ぶ学者らとその一族は列を為して市場に引き据えられ、刑の執行に際し例外なく誰もが口に小石を詰められた。死ぬ間際まで国政……というより淕家に対する批判を許さぬという、淕胞全の強い意志をそれは代弁していた。「決斬首」の立札の下、斬首用の大刀を構えた刑吏により胴体より別たれた老若男女の首が無造作に積み上げられ、市場の真ん中で山を作るまで、おおよそ二時の時間が必要であった。

 あるいは、さらに数日を経ずして斬首の対象となる人間は増えることになるかもしれない――近来にない大量処刑の一部始終を目の当たりにした大封の民の間に懼れが生じ、それが恐怖となって大封とその全域を覆い始めるのに、もはや時間は掛からなかった。



 淕家軍の豫倉への集結が完了しない内に、すでに官軍側の軍事行動は始まっていた。西玄にいる建宗の意思では無く、表向きは大封にいる淕皇太后と王可明の意思であった。

 香南での軍事行動に際し、香南の北に近接する諸群から集められた官兵は寧原における勝利を経ても四万を越えてはおらず、むしろ彼らの指揮下に入るべき現地の兵は、大封より南下して来る淕家軍本隊の吸収するところとなった。大封からの横槍がなければ、現地の官軍を束ねる上校尉令 鄭塁欽の使うことのできる兵はとうに八万を越えていたかもしれない。これは正攻法に徹しても寧原の戦で奪回し損ねた慶邑はおろか、そのさらに奥の晋安ですら狙える兵力である……が、大封からの命令の結果として、それらの兵力は淕家の支配下にある豫倉に集結している。


 そのような状況下で、豫倉に何尊凱が到着した。この時点で豫倉に集結を果たした淕家の兵は二十万。表面上は増援とも言える大兵力の香南到達まで、叛徒の北上に備えて戦線を与る形になっていた鄭塁欽は尊凱の命により豫倉まで呼び出された。寧原における戦勝、その後の戦線の維持と叛徒の監視といった功績に対する恩賞の授与というのが、その名目であった。当の塁欽からしてもこれは願っても無い話ではあった。現在の兵符の所有者に対し、前線指揮官として意見を具申する必要を感じていたからである。


「――上校尉令 鄭塁欽、大将軍に拝謁致します!」

「……苦しゅうない。近う寄るのだ」

 恐縮しきった拝礼に、(みやび)で、かつ若い声が掛けられる。凡そ軍営に似合わぬ声であった。鄭塁欽が面を上げた先で、帯甲した童子に(かしづ)かれた兵部太監が、胡式の長椅子に寛いだ様に身を委ねていた――もっとも、この本営に通されるまでに塁欽と彼の幕僚たちは一生分の驚愕を使い果たしたかのような気分を味わわされている。

 豫倉は、淕家軍の香南侵攻に備えて設けられた、言わば俄か造りの補給拠点だが、倉の造営が間に合わずに積み上げられた兵糧は、塁欽の目に入っただけでも三十万の大軍を一年養うに必要な量を確保しているように思われた。倉庫に隣接する牧場に至っては地平線を埋め尽くさんばかりの敷地を有し、そこで養われている牛馬、羊の類に至っては五十万頭……否、七十万頭を下らないであろう。淕家の本拠地たる幇州の生産力だけで、三十万を超える大兵力を養うことなど不可能に近い。


「商人か……」と、塁欽は思わず呟いたものであった。

 つまりは何尊凱の上に立つ淕胞全直々に複数の大商人と結び、大商人はその配下の中小の商人を以て幇州の内外より軍事行動に必要な物資を集めてくる。物資の手配に従事することで淕家の覇権確立に貢献した商人には、後々破格の見返りが約束されているというわけであった。それは金銭であることもあれば戦後の事業を広げる上で必要な権限の拡大であり、あるいは便宜の付与であるのかもしれない。


 歩み寄り、跪いた鄭塁欽に、何尊凱は語り掛けた。

「上校尉令 鄭塁欽、今度(このたび)の叛徒鎮撫における卿の働き見事であった。褒美に金一千両を取らせ、二百戸の封土を与える」

「有難き幸せ 臣塁欽、感涙に咽びまする……!」

 心からの言葉では無い、あくまで臣下の礼に沿った答辞であった。そして塁欽は、自分が為すべきことを為す頃合いが訪れたことを自覚する。

「大将軍にお伺いしたき議これ有り。何卒お聞き届け下さいますよう」

「いかなる用件かな? 塁欽」

 煙管を操る口調が、砕け始めていた。漂ってきた濃い紫煙の匂いに、塁欽は低頭を維持しつつ不機嫌に眉をひくつかせた。大麻(おおあさ)か――単なる前線指揮官に過ぎない自分の言葉なぞ、最初から耳を傾ける積りなど無いのだと悟る。

「申し上げます。今次の香南鎮撫に際し、大将軍はいかなる経路を以て南征に赴かれるのでありましょうや?」

「控えよ塁欽! 大将軍の御前であるぞ」

「…………?」

 反射的に睨み付けた塁欽の眼光に圧倒され、法服姿の男が仰け反った。上座に在る何尊凱の威光を借りた脅しであることは明らかだ……と同時に、尊凱の傍に在る法服の一団を前に、塁欽は今更ながら疑念を覚えた――こいつらは、誰だ?

 長煙管を咥えた尊凱が彼らに手招きをし、法服姿の中から一人が進み出た。

「今次の南征に当たり、我ら正義ある官軍の取るべき道は二通り御座います。それは秋河を渡河した後、寧原より慶邑に至る道と、寧原の南東は遼陽より寧原に至る道で御座います――」

 それは塁欽も知っている……というより今回の香南征伐において作戦を立てる上での大前提である。こいつ、軍師か?……と思い当たり、思わず目を細めた塁欽の眼前で、法服の男は滑らかな口調で続けた。

「――我らが主君、何尊凱大将軍は、大兵の通過に適した遼陽より一気に全兵力三十万を通過させ、慶邑の近傍で迎撃に出るであろう叛徒を一気に圧殺する所存。兵の集中と時の短縮は兵理に叶い、香南に新朝廷の武威を示し、民を安んずる上でも道理に叶うものでございます」

「お待ちを」

 と、塁欽は軍師の言葉を止めた。再び何尊凱に向き直り、今度は塁欽が言う。

「叛徒は、迎撃に出るのでありましょうか?」

「……何が言いたい? 上校尉令?」

 大麻に濁った黄色い眼が、下座の武官を不機嫌に睨む。それには怯まず、塁欽は声を上げた。

「王郁軍の主力がこのまま慶邑及び晋安の近傍に留まり、我らとの決戦に応じるのか否か……ということにございます」

「では、卿ならばどう考える?」と聞いたのは軍師だ。尊凱は何も言わず、不機嫌な目付きをやや和らげ、塁欽の次の発言を待っていた。

「私が王郁軍の将であるならば、我が軍との決戦を避け、そのまま寧原を通過して北上し、秋河を渡って豫倉を衝きます」

「では晋安はどうする。主力が北上すれば本営ががら空きになるではないか?」

「本営は晋安など捨てて、南に引き退けばようござる。我らは三十万を超える大軍故に、動くだけではなくそこに在るだけで膨大な兵糧を費やします。結果として豫倉を衝かれ、補給を断たれた瞬間に我らは瓦解いたします。叛徒どもからすれば、官軍壊滅の暁には晋安など何時でも取り戻せましょう」


「成程……上校尉令の言にも一理ある」

 尊凱の軍師たちの間からどよめきの声が上がる。大半が驚嘆の声であった。何尊凱が手を上げ、どよめきが止む。尊凱は長椅子から身を乗り出し、塁欽に言った。

「安心せよ上校尉令、王郁軍は慶邑から北には動かぬよ」

「何と……?」塁欽は反射的に目を見張った。

「晋安に放った間者が、そう教えてくれているのだ」

「間者……でございますか?」

「左様。我らが何の準備も無くこの大征を為したと卿は思うてか?」

「いえ……」

「だが卿の言にも一理ある。敵の北上に備えて我が陣中より兵十万を割き、寧原方面に展開させよう」

「お聞き届け頂き、有難うございます大将軍」

 塁欽は尊凱を再拝した。敬意を表した挙動であった。

「……それと、卿の才幹を見込んで、いまひとつ頼まれてほしいのだが? 受けてくれるかな?」

「何なりと……」

「里楊関は知っておるか?」

「大将軍の直卒される本軍の前途にある要害で御座いますな……叛徒が築いたという」

 尊凱は頷いた。

「卿が思うに、攻めるのに必要な兵の数は?」

「五千……いや、七千程度が適当かと」

「では卿が率い、私の通過までに陥とせ。それが卿の任務である」

「上校尉令どの……!」

 傍らに控えていた副官 楊倫が色を為して囁いた。一瞥して彼を制し、再び向き直った上座で、何尊凱は冷厳に塁欽を見下ろしている。

「校尉、よいな?」

「塁欽、謹んでお受けいたします」

 強いる様な口調を前に、鄭塁欽は尊凱を再拝した。淕家の大将軍がこれ以上の直言に対し寛容な人間であるとは、もはや塁欽には思えなかった。と同時に、鄭塁欽はその手持ちの兵の過半を今この瞬間に奪われた形となった。



 魯春醍は慶邑の北、寧原に程近い軍陣に在る。

 ただし役職の方は将軍から主簿へと転じた。事実上の降格であったが、今の春醍としてはそれで充分であった。南下して来る五万の敵を同数の味方、それも同じ地理条件で迎撃する以上、春醍独特の用兵の妙を揮う機会は無いであろうし、その意志も無かったためだ。主将たる朱宇貫も、先立つ軍議では春醍にはさして意見は求めなかった。親交のあった王律を喪った彼を気遣ってのことではない。今次の会戦での武勲を、宇貫一人のものとするためだ。ただしそれが春醍には不快に思わなかった。身内に対する友誼を無駄に引き摺らないという点では、春醍よりも宇貫の方に人の将たる適性があるのかもしれない。


 春醍が執務を続ける天幕に兵が入り、春醍への来客を告げた。兵が名を告げるより早く、兵の背後から顔を覗かせた羅王儀の顔を前に、春醍は相好を崩して彼を招き入れる。

「袁家荘より里楊関に戻る途上、立ち寄ってござる」

「わざわざ私に会いに?」

 羅王儀は微笑み、書簡を一つ春醍に差し出した。それを受け取り、怪訝な顔を隠さずに春醍は聞いた。

「これは?」

「春醍どの、開けてみて」

「…………」

 紐を解き、巻物を開いた瞬間に香の匂いが春醍の鼻を擽った。書簡の内容は魯哀はじめ各将相協力し春醍の帰還を待っていること。旧赤蓮兵を耕作に従事させ、徐々に所領を広げていること。これらの件に関し春醍の指示を仰ぐこと。指示は、春醍の帰還を待っても構わないこと――書を書いた袁優華の花押と、帰還という最後の一節を目にした瞬間、春醍は寂寥感に囚われたものだ。

「優華どのは、ご壮健ですか」

「ええ……馬に乗って荘園を巡ったり、護身術を習ったりと最近は色々とやっておられます」

「何か……(せわ)しいな」

「そうですね……ご心中を捉えて離さない何かを振り払おうと悶えておられる様で……」

 そう言い、王儀は春醍に対し目を笑わせた。わざとらしく自分に向けられたそれを、春醍は戸惑いと共に受け流そうとする……にしても、袁隷のいない荘園を仕切る優華の、颯爽とした姿が目に浮かぶようであった。書を手に、春醍は沈思して口を開いた。

「返事は、暫く待ってもらっていいかな?」

 勿論と言い、王儀は不意に何かを思い出したように立ち上がった。

「そうだ、優華どのからひとつ、(あずか)りものがあるのですよ」

「え……?」

 天幕の口まで歩き、王儀は共に外へ出る様手招きした。狐に抓まれた様な感覚をそのままに外へ出た先、春醍は思わず息を呑み立ち止った。

「これは……!」

龍脚(りゅうきゃく)にござる」

 そう言い、王儀は微笑みかけた。王儀の馬に並んで繋がれた馬が一頭。脚先から肩に達する丈は王儀の馬と変わらず、だが蒼み掛かった毛並みの陰影から窺える筋肉の締りと厚みが、王儀の馬とは明らかに違った。青灰色の(たてがみ)は日光を受けて艶やかな光を放ち、それを支える首筋に至っては神代の麒麟とも龍とも比べて見ても遜色の無い精悍さを漂わせている。馬の首が廻り、枝垂れ掛かる騣の隙間から覗く空虚な瞳と、春醍の驚いた眼が重なった。瞳の放つ光が、春醍の知る馬のそれとは根底から違う――吸い込まれる様な、冷静に乗り手を観察する蒼い、怖い瞳だ。

「…………」

 鐙に脚を掛けるどころか(くつわ)を握ることすら躊躇われる程の、神々しいまでの異相を前に、春醍は足を竦ませた。王儀はと言えばそのまま歩を進めて馬の轡を取り、春醍のすぐ傍にまで蒼馬を引き据えて来た。

「春醍どの?……春醍どの」

「え?……ああ!」

 我に帰り、そこで改めて慌てる春醍に、王儀は手綱を握らせた。「乗ってみませんか?」

「おれが……乗る?」

「優華どのがあなたにと」

 王儀は微笑み掛け、春醍を置いて行くかのように彼の馬に飛び乗った。それを見、春醍は慌てて蒼馬の鐙に脚を掛けて跨る。人の騎乗を許しても、全く動じる気配を見せない蒼馬の様子に春醍は内心で驚愕した。恐る々々鐙で腹を軽く叩く――風に乗った様な感触――春醍は次の瞬間には正面に、遠ざかりゆく王儀の馬を見据えていた。何か見えない力に突き動かされるように掛け声を発し、間髪入れず疾走を促す――


「――――!」

 (はや)い!――鞍越しに伝わって来る、馬が地を蹴る感覚を超越した見えない力で野を駆けている自分に気付く。風の一部と化した様な、異様な感覚が怖くて、思わず握り締めた手綱に馬が反応する。全身に立ちはだかる風圧が烈しい。さらに疾さを増したのだと春醍は驚く――そのままに馬上の春醍は先行する王儀に並び、王儀は横合いから春醍に呼び掛けた。

「春醍どの! 名馬でしょう!?」

「え――!?」

 馬上――風を切る唸りが烈しくて春醍には聞こえない。そのまま春醍は王儀を追い抜き、遥か先まで引き離したところで春醍は馬を止めた。あっという間に十里程を駆けたのに、息切れなど兆候すら窺えなかった。追い掛けて来た王儀に至っては当人までもが息を弾ませている。

「春醍どの、如何ですか?」

「優華どのにお返ししよう」

「何故ですか?」

「おれには勿体無い。普通の軍馬でいい」

「優華どのは、母上から頂いた黄玉の(かんざし)を失ったのに?」

「…………?」

 何時しか、王儀の問いかけが真剣であることに春醍は気付く。と同時に、かの袁優華が収まりの悪い髪に宝玉の簪を挿していたことに思い当る。伝え聞くところによれば、その一粒で一国を(あがな)えると評されたほどに希少な宝玉であった筈だ。

 春醍を品定めするように見据えつつ、王儀は言う。

「優華どのはこの龍脚を手に入れるに当たり、袁家の家宝とも言える黄玉の簪を以て龍脚を購いました……勿論、実の娘同然に慈しんでくれたお方様に内緒の上で、です……それに優華どのは、あなたがこの様な贈物を好まないのは御承知のことでございましたよ」

「それなのに……この馬を持って来たのか?」

 春醍の声から、余裕が失われている。そこに王儀の新たな言葉が、機先を制するように重なった。

「勘違いせぬように。優華どのは、龍脚を春醍どのにお貸しする、と仰っておられます」

「貸す……?」

「そうです。貸すのです」

「…………」

 あまりのことに唖然とした春醍に、王儀はまた微笑み掛けた。

「貸すからには返さねばなりません。つまりは今度の戦が終われば、あなたは龍脚を返しに袁家荘に戻らねばならない、ということです」

「…………」

「如何です? できますか?」と、王儀は微笑んでいる。

「汚いよ……そんなこと」

 帰る積りだったのに――とは、何故か言えなかった……と同時に、死ぬことも春醍はできなくなった。


 平原の風が柔らかく、(たてがみ)を蒼く撫でつけている。




 まるで春醍を置き去りにするように、羅王儀は袁隷のいる里楊関に戻り、そして戦況もまた、春醍を置き去りにして動き始めた。


 豫倉方面より南下する官軍、慶邑の北より発しこれを迎撃する朱宇貫の軍五万――彼らは初春、初めて激突した時と同じく寧原に於いて激突し、勝敗はわずか二時で決した。

 北に向かい、元来た途を逃げる官軍――その背後を猛然と追う朱宇貫直卒の鉄騎の群。槍、弓、騎兵のいずれも連携を欠き、秩序を生む陣形の区割りすら定かではない軍団が、それらの充実した軍と衝突した時、結果は判り切っていた。三度の衝突の後に官軍を騙る淕家軍は潰れた豆腐のように崩壊し、最終的には朱宇貫自身の指揮による騎兵の中央突破が彼に勝ちを掴ませたのだ。むしろ敵が弱みを晒したが故に、機を見るに敏という朱宇貫の武人としての美点が大いに目立った所ではあった。


 こいつら、本当に官軍か?――という疑念は、なお馬上に在って大刀を揮う朱宇貫の胸中にも生まれていた。

 春に寧原でやりあった連中は強かった。あのとき、統制の取れ、粘り強い防戦を為し得る官兵を前に攻勢を続けていた諌軍の諸兵は自ずと戦意を失い、後退に転じようとしたところを側面に回り込んできた騎兵に衝かれた。今回の戦に際し隊列の中央を分厚く、列の端に行くほど兵の密度を薄く配したのは側面からの襲撃を警戒したのと同時に、いざ側面より騎兵に回り込まれても配置した兵によりその突進力を減殺する意図によるものだ。結果として敵の騎兵は統制の無い少数集団による正面突撃を繰り返した末に消耗し、その間に朱宇貫は分厚い中央を以て兵の密度に劣る敵の中央を削り、最終的に軍列に穴を開けたことで敵を潰走させるに至ったのであった。今回の戦において、その推移は最初の激突とは展開が真逆になった。勝つには勝ったが、前線に立つ宇貫からすれば釈然としないものが残った。


 諌軍の騎兵に追われ、北に逃走を図る官兵の群は、寧原を一望し得る丘陵からも臨むことができた。何より、敗兵の上げる土埃の逆立ち渦巻く様が、戦場の後方にあって始終を見届けた魯春醍の眼には強烈なまでの印象を与えたのであった。それはまさに地獄の光景だった。何時か訪れた、大封の外れに佇む寺社に飾られていた地獄絵図を、春醍は眼前の光景に重ねていた。

 士気こそは高い様に窺えたが、それを生かすべき敵将の指揮は拙劣で、あるいは将というものがいないのではないかと思われるくらいに各隊の間には連携が見受けられなかった。しかも――

 

 数が少ない――五万はいると聞いたが、実際に寧原に現れた敵軍は、どう見積もっても四万を超える数であるようには見えなかった。要するに敵は実際の兵力でも朱宇貫の率いる諌軍に劣ったのである。かと言って別働隊が遼陽方面から回り込み、宇貫軍の側背を衝くにしては、既知の五万という総兵力では別動に充てる兵数が少ない以前に時間が掛かり過ぎる……その上に、遼陽と慶邑の間には袁隷と羅王儀が仕切る里楊関がある。敵が回り込めば自ずと里楊関の守備軍三千とぶつかり、彼らが時間を稼いでいる間に宇貫軍、あるいは晋安から発した別動軍一万が対処する手筈であった。

 ……が、その別動軍は戦が終盤に達してもなお姿を見せない。もっとも、勝ちつつある今となっては、それは重要なことではない様に春醍には思われた。


「――報告!――報告!――里楊関に官軍襲来――!」

 伝令の小旗を抱えた騎馬が、声を張り上げつつ陣中を巡り、戦場に向かい駆ける。主戦場たる寧原が、自軍の勝利の内に終わり掛けた今となっては、伝令の声もそれ程切迫した響きをもたらさなかった。

「――敵兵の数は!?」

「――凡そ七千!」

 問い掛けた宇貫の幹部と伝令の短い会話、その内容は里楊関に寄せて来た官軍の数が大した数では無く、むしろそれ故に春醍の脳裏の地平に曇天をもたらした。

「少な過ぎる……」

 思わず呟いた春醍の眼前、それまで前線に在って自ら大刀を揮い、散々敵陣を蹂躙してきた朱宇貫が騎馬の一群を伴い本陣に戻って来るのが見えた。鏡の様に磨き上げられた豪奢な鎧が血にどす黒く汚れ、さらに寄って来れば血生臭さすら漂って来る。鎧の所々には肉片と思しき赤黒い塊すら張り付いていた。春醍の前で馬の脚を遊ばせて配下に集合を促し、宇貫はしわがれた声を張り上げた。

「この勢いを駆り里楊関を援護する! 騎兵三千を以て寄せ手の後背より吶喊する! 後の者は此処に留まり、陣の再編及び負傷者の収容、慶邑までの後送にかかれ!」

「御意!」

 宇貫とその兵には、明らかな勢いがあった。里楊関の方向に向けて馬を翻す瞬間、佇む春醍と宇貫の眼が交差した。置いて行かれる同志を蔑む眼差しでも無ければ、その境遇を憐れむような眼でも無かった。ただし馬上の宇貫は、自分が魯春醍という名の同志をある意味追い抜こうとしていることを、明らかに自覚していたかもしれない。

「騎兵はおれに続け!」

 里楊関からの伝令を先導に、宇貫は一斉に騎馬を駆けさせた。怒涛の如き疾駆、彼らは恐らくは夕暮れには里楊関に達し、夜陰に乗じて官軍の蹂躙を図ることになるかもしれない。そして魯春醍はといえばごく近い将来に香南で死ぬまで、傍観者のままでいることになるのかもしれない――初めはその積りであったのに、今となってはそれが、春醍には怖くなった。


 寧原の戦で敗北した官軍は、その結果……否、過程に於いて多くの骸と同様に装備と軍馬を遺棄することとなった。まだ使用に耐えるこれらを回収し、自軍の所有とするのも朱宇貫軍の方針であった。追撃に突出したごく少数のはみ出し者をそのままに、装備と骸の回収に二時を費やした頃、俄かに東の方向――里楊関の方向――がざわめき始めた。勇躍里楊関に向かった筈の朱宇貫と彼の配下たる騎兵、その宇貫に伴われた一騎に、春醍は顔を曇らせた。

「袁隷……どの?」

「春醍」

 憔悴しきった袁隷と並び、馬を小走りに駆けさせていた宇貫が春醍を見下ろしていた。

「…………?」

「軍議をやる。お前も加われ」

「何があった?」

「里楊関が陥ちた」

「――――!?」

 それだけを言って朱宇貫は過ぎ、その後に一騎たりとも欠けていない彼の騎馬隊が続く。最初は困惑し、そして春醍は本営に向かい歩き始める。


 里楊関が官軍に攻められて陥ちただけでは無く、それ以上に深刻な報を里楊関より脱した袁隷は持ち合せていた。

「十万……いや、それ以上の官兵が秋河を渡り里楊関に迫っている」

 切欠は官軍の動向を探るべく秋河近辺にまで足を延ばした斥候隊であった。踏み入った先で彼らが見出したのは、秋河を南に亘り終えたばかりの官軍先鋒と、秋河を挟んだ対岸に在って集結を続ける後続軍の姿であった。それも尋常ではない数の大軍であった。結果としてその先鋒に、里楊関は攻められて陥ちた。


「王儀どの……羅王儀どのは?」

 春醍の問いに、袁隷は頭を振り応える。

「私の権限で降伏の許可を出しておいたが、王儀はあれでも謀反人の家の出だ。降伏したとしても助かるまい」

「……ここは兵を纏め、一気に豫倉を衝くしかないか」

 と、地図を睨みつつ宇貫は言った。だいいち五万と十万以上とでは、香南の何処で戦ったところで結果は見えている。先ずは豫倉を叩いて官軍の南下を止め、彼らが飢える時を待って攻勢に出るのが賢明であるのかもしれなかった。晋安の王郁らには、南への退避を勧めるべきであろう――


「――申し上げます。晋安より急使が参りました!」

 と告げる衛兵の声には、明らかな困惑が見られた。困惑の理由はすぐにわかった。輿車に乗った官服姿の男、さらにはその官服が素の風貌に対し全く様になっていないとあっては、陣幕に居合わせた誰もが急使の姿に唖然とせざるを得ないであろう――ただ春醍一人を除いて、ではあるが。

「煩さん……」

 低く叫んだ春醍の眼前、急使 騎煩生は相変わらず戦場には場違いな官服姿で上座の朱宇貫の前に進み出る。伸ばし始めた口髭はだいぶ濃くなっていたが、かといって未だ薄いと言わざるを得ず、よく見れば官服の足元が泥濘に烈しく汚れ、脚から上の見事な官人姿と醜悪なまでの対称を成していた。どうしたところで似合わない姿なのは糊塗しようも無く、座の各所からの失笑が、それが春醍個人の主観では無く客観的な見方であることを証明している。袁隷に至っては笑いを噛み殺しているのを隠そうともしていない。


 上座の朱宇貫を拝礼もせず、騎煩生は言った。

「……靖南大将軍 朱宇貫、控えよ。これより王郁様の命を伝える」

「は……?」

 露骨なまでに不快に顔を顰め、朱宇貫は急使を睨んだ。その朱宇貫を、騎煩生はまるで畜生でも見る様に感情の無い眼差しで遇していた……が、震える脚元は隠し様が無かった。要するに煩生は宇貫らに下座し、上意を受ける態度を示せと言っているのだが、宇貫らをしてそれを自ずと強制させ得る威厳にも、そして実績に於いても煩生は劣っていた。


「伝令よ……」と、宇貫は不機嫌な表情を崩さずに言った。「……こちとら時間が無いんだ。言いたいことがあるんならさっさと言え」

「…………」

 両目を見開き、だが焦点の定まらない眼をそのままに騎煩生は朱宇貫に正対する。自分よりも圧倒的な強者を前に、身に付けた官服の威厳と揺らぐ一個人としての彼の矜持の中で、騎煩生は明らかに苦悶していた。やがて意を決したように煩生は文書を開き、読み上げた。

「命を伝える。大将軍 朱宇貫の軍は、慶邑まで退き官兵の南侵を食い止めるべし。寧原以北への移動はこれを許さず」

「――――!!?」

 どよめく一同の中で、驚愕の余りどっと立ち上がったのは袁隷であった。思いも拠らぬ上意を真正面から聞く形となった朱宇貫に至っては、か細い眼を見開き、ついには鯰の様な大口までぽかんと開けている。


 袁隷が声を荒げた。

「何を言っている!? 我が方は敵より数で圧倒的な劣勢なるに、攻めずして香南など守れる筈がなかろうが!」

「晋安の廟議における決定事項にございます」

 一転し落ち付き払った口調で、騎煩生は言った。袁隷を拝礼する彼の眼が笑っているのに春醍は気付いた。

「宇貫どの、伝えましたよ」言うが早いが、騎煩生は踵を返し天幕の外へ向かう。しかし春醍の前まで歩いたところで彼の足は止まった。

「春醍」

「ん?」

「玄方先生は、お前を許すと仰っておられる。おれと一緒に晋安に来ないか?」

「…………」煩生から目を逸らし、春醍は俯いた。明らかな拒絶であった。

「そうか……心中に決めたか」

「心中? なんのことだ?」

「いや……こっちのことだよ」

 歩き掛け、また足を止める。

「玄方先生には、おまえが遅れると言っておくよ」

「…………」

 騎煩生が去り、沈鬱な空気の漂い始めた中で、改めて腹が立ってきた。それ故に不機嫌に黙り込んだ春醍を袁隷が覗き込むようにした。表情が、微かに泳ぎ始めていた。

「春醍どの? どうする?」

「…………」

 出すべき言葉が見つからず、朱宇貫を顧みる。その朱宇貫の不機嫌な細目が、既に春醍の方に向いていた。



 軍議からそれ程時が空かない内に袁隷は去った。勿論、袁家荘に……である。袁家荘から守備兵力を連れて合流するというのが彼の言であったが、彼が合流を果たすのは、晋安の命を愚直に守った朱宇貫が敗死した後のことになるだろう。そうすれば袁隷の挙兵が叛乱では無く、領地を守るための自律的な行動との申し開きも立つというものであった――羅王儀も、今まさに郭玄方が朱宇貫に対した様に、袁隷に切られたのだろう……などと春醍は思う。


 朱宇貫が放った斥候からの報告は、里楊関の周囲からは完全に兵の影が消えた一方で、そのさらに北側からは得体の知れない、だが巨大な質量を伴う気配が蠢いているのを暗示させた。秋河を渡った官軍の本隊が南下を続けているのだろうと思う。ここ数日で彼ら大軍は里楊関の面する回廊を通過し、慶邑の近傍にまで進出を果たすかもしれない。



 軍議から更に時が過ぎ、満天の闇と星空が陣野を覆っている。

 未だ晋安の命通りに慶邑へと退かない朱宇貫の陣中の外れ、そこで魯春醍は夜を明かす積りであった。寒気が烈しくなっていた。しかし火を絶やさぬよう努めれば凌げないことも無かった。分厚い毛布に全身を預け、星々の瞬きを漠然と眺める内、脳裏より一切の雑念が薄れる様に消えゆき、そのまま意識すら安寧に委ねんと春醍は試みている――というわけではなく、春醍の意識は何時の間にか、朱宇貫の軍を以て活路を啓く道を探り始めている。


「宇貫か……?」と、春醍が呟いたのは、焚火を挟んで春醍を窺う影の輪郭に、春醍の記憶に該当する者が朱宇貫一人しかいなかったためである。春醍の呼び掛けには応じず、小柄な熊を思わせる影は黙って焚火に枝をくべた。枝が()ぜる瞬間に炎が昇り、只黙って焚火に当たる朱宇貫の顔が燈色に照らし出される。


 壺の酒を呷り、朱宇貫は言った。

「お前……どうする?」

「どうするって、何を?」

「大封なり晋安なり、何処へでも好きな処に行けばいい……そう言っている」

 と言う宇貫の声には、諦観のようなものが感じられた。

「宇貫……おれは考えたんだが」

「…………?」

「このまま、慶邑まで敵を通そう」

「どういうことだ?」

 寝返りを打ち、星空を見遣りつつ春醍は言った。朱宇貫は腹案を黙って聞き、その間に彼がくべる枝が、炎を烈しく揺らした。話が進むにつれて枝の爆ぜる音が一層に高くなり、春醍が全てを語り終わった後には、何時しか戦が終わった後のような静寂が広がっている。

 宇貫は、苦笑気味に言った。

「成程……敵が集まり、本営を曝け出したところを狙うってわけか?」

「承知してくれるなら、宇貫には慶邑の外に在って、伏兵を与る人間の人選を頼みたい。もしくは……」

「もしくは……?」

「宇貫が直々に伏兵の指揮を執るというのはどうだ?」

「春醍、お前がやれよ」

 それは、春醍の献策に対する同意の表明であった。

「おれは……晋安に行かなきゃならない」

「――――!」

 宇貫が一瞬目を剥き、春醍は再び寝返りを打った。

「勘違いするな。玄方に這い蹲って帰順を乞うためじゃない。彼の真意を(ただ)しておきたいんだ……それが終わって生きていたら、おれは戦に勝って大封に帰る」

「……海狼はどうだ?」と、宇貫は言った。計画の実行役が……である。

「…………?」

「あいつなら、お前の考える戦を巧くやってのけるかもしれんぞ」

「……じゃあ、晋安に行くついでに頼んで来る」と言いつつも、内心では気乗りがしない。それを見透かしてか否か、宇貫は再び苦笑した。

「ああ、そうしろ。明日発てばいいさ。慶邑で合流だ」

 最後の枝を焚火に放り、宇貫は立ち上がった。まだ量のある酒壺を春醍の傍らに置いて踵を返す間際、彼は言った。

「春醍、董泉(とうせん)だ」

「董泉?」

「海狼は董泉にいる……あいつはこう言ってた。戦からはもう抜けた。春醍が腐抜けたからもうやめだ、と」

「抜けた?」

「だが、おまえが行ってあの女に這い(つくば)って頼めば、また交ぜろと言って来るかもな」

 そう言う宇貫の語尾が、嗤っている。




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