第十三集 「王律の死」
晋安城市の正門を潜るや、魯春醍は待ち構えていた番兵に忽ち捕らわれ、そして牢に送られた。その後は三日が寒さと諦観の内に過ぎた。
ただ、三日が過ぎる間、晋安は喧騒の極みに在ったことだけは確かだ。赤蓮軍を平らげて凱旋して来る朱宇貫の大軍と、歓呼してそれを迎える晋安の民――それらが相乗した結果として生みだされた賑やかさは、春醍の繋がれた地下牢にまで歌舞の音色となって達し、牢を守る兵すら未曾有の戦勝を前に浮かれているように感じられた。晋安が、王郁を主座に頂く独立国の首都となったかの様な活気であった。
その三日の中、春醍は張葉堅と内通していた石臨海が殺されたことを番兵から聞かされた。王律と春醍に先立つ形で、彼は王郁より死を賜ったのだ。もっとも、妻子を殺された心身の衝撃に堪えられず、彼の精神は刑場たる城市の市場に引き出され、わざわざ罪状を読み上げられた上で斬首されるその瞬間まで死んだも同然であった。臨海と同じく赤蓮教に内通していたと見られる幹部や兵、さらには晋安の戦の際に投降した赤蓮兵が千名名近く臨海に続いて斬られたという。
それは、言わば諌軍の凱旋を記念した祝祭のために用意された娯楽であった。口さがない番兵の口から漏れ聞こえてくる、市場と川原に高々と積み上げられたという彼らの首を思い、慄然とする春醍であった――同時に、南渡を廻る戦いの際、自軍に投降した赤蓮軍の兵を彼は思った。玄方らが彼らにまで手を延ばして来ないことを願うのみだ。
三日が過ぎた後、春醍は手を縛られた状態で牢から出された。戦に参加した諸将を晋安城に集め、彼らを対象とした論功行賞が行われるのだと春醍は察した。本殿の外まで引き出されたところで、春醍は暫し待たされる。それは大封にいた頃、騎煩生と連れたって売上税の減免を願い出に行った時の役所の待合場を春醍に思い出させた。しかしそこに、春醍に続いて引き据えられてきた王律の姿を見出したとき、春醍は思わずその場から立ち上がる。王律の頬には憔悴の痕が残っていたが、手荒な真似をされたとは思えず。顔の血色も良かった。
「王律どの!」
「春醍どの……すまぬ!」
深々と頭を下げた王律を、春醍は反射的に跪いて宥めるようにした。頭を上げた王律とそれを見上げる春醍の眼が合い、王律は春醍を慈しむように凝視する。
「私が至らぬばかりに、そなたには要らぬ災難を与えてしまった。そなたは私が全霊を賭して守ります故、そなたには大桑の行く末を恃みたい」
「王律どの、先ずは何よりも共に生きて晋安を出ることが肝要に御座います。我ら共に必死で訴えれば王郁や玄方も心を動かされましょう」
「春醍どの……!」
王律の円らな眼から幾粒の涙が零れるのを春醍は見た。春醍の肩を抱き、王律は春醍に立つよう促した。と同時に、晋安城の四隅を固める上楼から太鼓の音が響き始める。それが春醍たちに登城を促す悪鬼どもからの誘いであるのは、改めて口にすることではなかった。
「さあ行け」と、槍を翳し城兵がふたりに登城を強いる。石段を登った先で左右に瓦葺の屋根を広げる正殿を見上げる春醍の眼に、彼ですら自覚したことの無い特別な感情が籠り始める。
「…………」
己が身を憐れむ悲しみを、己が身を襲った不運に対する怒りに変え、春醍は石段を登り始めた。
城兵に伴われた王律と魯春醍、ふたりの反逆者が正殿の廟議の間に踏み入った瞬間、恐らくは華やかな論功行賞の場であったろうその空間は、水を打った様な静寂が津波のごとき勢いを以て拡がって行く。異端者に対する最初の制裁がそれであった。恩賞の陰には罰が付き従う。自分たちは組織としての諌軍に属する幹部たちの結束を高めんがための生贄のようなものだ――そのことを改めて自覚し、春醍は王郁のいる上座に向かい歩を進める。生贄に甘んじる気など、はなから無かった。
着飾った武官と文官の坐する間の両側、彼ら全員が例外なく着飾り、ふたりの咎人の進みでる様を見張るように凝視している。視線の槍に貫かれ、いまにも力尽きて倒れそうな錯覚にすら陥る。それ程の圧迫感を今の春醍は感じている。その廟議の間に踏み入るや、春醍は先ず武官の列の中に袁隷と羅王儀を見出した。ばつ悪そうに春醍から眼を逸らす、やはり派手目な鎧に身を包んだ袁隷の傍らで、ただ羅王儀ひとりが張りつめた眼差しを春醍の身とその行く末に注いでいる。彼は幸運であった。結果的に、南渡の戦の後に袁隷に従って軍を抜けたことが、結果的に賊将の隷下と言う汚名を甘受することなく済み、今の王儀の立ち位置に多少の盤石さをもたらしているとも言えた。
そして――
「――――!」
武官たちの居並ぶ区画から離れて壁に背を預け、突き放す様な眼差しを向ける海狼の姿を見出した時、春醍は初めて震えが背筋を伝って脳幹に達するのを感じた。恐らくは彼女はあの青龍偃月刀で敵を薙ぐ時、あのような眼をして薙ぐのであろうと春醍は思う。そうではなくとも彼女の眼は、同じ戦線に立った者に向けるべき眼では無かった。ただ……自分が彼女の期待に沿えなかったのも事実である。一瞥の後、海狼を無視するように春醍は王郁に向かい歩を進め、郭玄方と彼の手で功績を認められた諸将、そして今や王郁軍の主将となった朱宇貫の姿がよりはっきりと春醍に近付いた。
「…………!」
春醍より一歩前に出、王律が眼を剥いて玄方を睨みつける。さらに何か罵ろうとした彼を城兵が背後から抑え付けて座らせ、同時に春醍もその場に座るよう強いられた。同時に、春醍は自身をかくの如き状況に陥れた男の姿を王郁の傍らに改めて見出す。
「煩さん……!」
春醍が呟く様にその名を呼んだ男は、前に見た時よりもずっと飾り立てられた官服、それも朝廷の閣僚かと思わせる程に金銀の刺繍の施された官服に身を包み、しかも相変わらず様になってはいなかった。その煩生は引き据えられてきた春醍を正視できず、眼のやり場に困っている様子がありありと判る――騎煩生という青年が官服に相応しい人物たらんとした結果が、友を売るような仕儀になるとは……春醍は今でも訝っている。それは本当に、彼の心から望んだ生き方だったのだろうかと。
番兵の容赦ない腕がふたりの後頭部にほぼ同時に延び、床に叩き付ける様に低頭を強いた。
「衛晋大将軍朱宇貫の右将軍魯春醍、卿に叛意ありとの訴えこれあり。申し開きをせよ」
王郁がよく通る声で言った。威厳も何もない、浮付いた子供の様な声は相変わらずだ……低頭したまま、春醍は声を張り上げて応じる。
「叛意とは、何を指してのことで御座いましょうや?」
郭玄方が言った。
「王律と通じ、王郁どのを討ち諌軍の全権を握らんとの企てであるぞ。隠し立ては無用である」
「王律どのに叛意これ無く、わたくしもまた然りで御座います」
「諌軍の方針を批判し、朝廷との和議を唱えたのだ。これ叛意の兆しならずして何ぞや?」
「天下の義軍たる諌軍もまた雑多なる人の集まりなれば、その数だけ異なる思案を有するはごく自然の成り行きかと心得ます。王郁どのには何卒御寛恕の程を願い奉ります」
肚が据わったのか、自分でも驚くほどすらすらと言葉が出て来る。願わくば春先の殿試の際、この度胸が備わっていれば……などと今更のように春醍は考える。
「では魯春醍、卿は叛意無きを如何にして証明する?」
と郭玄方は聞いた。このような展開、玄方の試験官然とした態度からしてまさに殿試と同じだ。ただし人間の生き死にが掛かっているだけにやり直しの効く殿試よりも状況は遥かに切実であった。
「右将軍位を返上し、王律どのと共に晋安を離れます。王郁どのには、我らに追放をお命じ下さりませ!」
堂場が揺らがんばかりにどよめいた。春醍がいともあっけからんとして自らの地位を投げ出したのを、明らかに意外がっている風であった……もっとも、香南に居ながらにして得られる地位や権限などに、春醍は未だに価値を見出していない。そのようなもの、叛乱が終われば改めて罪を問われる材料になりかねないではないか?
手を上げて一同を黙らせ、玄方がさらに聞く。
「そこでまた兵を募り、晋安を攻めんと欲するか?」
「私は元の書生に戻り、大封に帰ります。その代わり約束して頂きたい」
「約束とな? 何を?」
「王律どの及び、彼の妻子に今後一切手を触れぬこと」
「ならぬ! 王律は天下の大罪人じゃ! 奴の首を斬り晋安の城門に晒す!」
王郁は上座から腰を上げ、春醍を指さして罵った。春醍も負けずに応じる。
「大罪ならばあなた方も犯しているではないか!」
「な……!?」
「淕家の国政壟断に与し、己が都合で帝を挿げ替えんとする企みの何処に大桑を靖んずる途があるというのか!? 納得のいく説明を賜りたい!」
「事実無根だ! 妄言を吐くな!」
「事実無根なら、何故官軍が討伐に来ない!?」
「――――!」
堂場が、一気に静まり返った。その瞬間、堰を切った様に春醍は言葉を吐き出した。
「官軍には香南の近傍だけでもなお五万から成る兵があり、官軍が我らを滅ぼそうと思えば滅ぼすことのできる機会はこれまでに幾らでもあった。然るに官軍が攻めて来ないのは、大封より帝の意向に基づかない何者かの意思が官軍の南下を足止めしているからだ! そうでなければ今頃我々は幽関のさらに南まで押し込められ、とっくに兵糧が尽きて瓦解していたところではありませんか! 我らが蜂起は天意に非ず! 大封にあなた方の同志……いや、飼い主がいるからだ!」
「おまえ……!」
春醍を睨む玄方の眼は、これ以上歪みようが無くなっている。
「郭玄方、あなたに問う。淕賊から何を約束された? 官位か? 富か?……あるいはその両方か!? 賊に国を売り渡すには余りに安い代価とは思いませぬか!? そしてこの場のあなた方に問う。あなた方は全員、玄方と同じく生きて浮き上がれるとお思いか? わたくしが淕家の棟梁ならば、そんなことはしない!」
「――――!?」
狼狽と戦慄、あるいは怒り――種類の違う眼光が一斉に自分ひとりに注がれるのを春醍は察する。だが不思議と怖いとも、気まずいとすらも思わなかった。
「あなた方の内幾人かには死んでもらうだろう。諌軍という名目こそあれ叛逆は叛逆だ。そして淕賊の庇護こそあれあなた方は表面上は朝廷に弓引く逆賊だ。七国史嬰用伝に曰く、義挙なりとも叛逆これ罪なり!……叛乱を義挙らしく終わらせるには、大逆の罪を一身に負い死んでもらう国士が必要だ。此処に居並ぶあなた方の内誰かは、その役を負うことになるだろう。それでもいいのか!?」
「この反逆者を殺せ! 今すぐに殺してしまえ!」
飛び上がるように立ち上がり声を荒げた者が数人、弾劾というには余りに下品な彼らの批判を、言いたいことを言い終えた春醍は叩き付けられる側に回る。彼らの向ける敵意を王律から逸らし、自分ひとりに向けさせることに春醍は成功した。逆に王律はこの件お首謀者と見做されていたにも関わらず、今や完全に蚊帳の外だ……と同時に、これまで自身が持ち合せることの無かった熱い感情が、身体の芯から春醍を昂ぶらせた――言い換えればそれは献身……否、義侠の心といったところだろうか?
「…………」
頬を紅潮させつつ、ただ馬鹿々々しいという思いのみを込め、春醍は改めて周囲を見回した。それまでの祝勝気分が一転、「殺せ」の一言が一気に満ち溢れる堂場で、王郁は椅子からずり落ちんばかりに狼狽し、騎煩生に至っては顔を蒼白にして俯いたまま動かない。一方で朱宇貫に至っては場の混迷からは超然として腕を組み、にやにや笑いながら春醍を見つめている。そこに、駄目押しの更なる弁舌を弄する必要を春醍は感じる。
「王郁一人の首を取るのに王律如きの手は借りぬ。わたくし一人で十分だ! いっそのことわたくしを殺――!?」
「おい」
「え?――」
足――鞭のように撓ったそれは、春醍の頬を矢の様に打ち抜き、堂場の床に弾き飛ばした。その後には怒涛の如き蹴りの応酬が雷雨の如く春醍に降り掛かった。蹴り上げ、踏みつけ、あるいは頭を引き摺り上げて膝蹴り――まるで作業でもするかのように海狼という女は無表情にそれを続け、暴力の嵐が一過した後には、襤褸雑巾のように床に打ち捨てられた春醍の身体が残された。
「…………」
足元で呻吟する春醍を見下ろし、海狼は言った。
「こいつの下らねえご高説……反吐が出る」
そして再び蹴り上げ、踏みつけた。常人では抵抗すらできない程繰り出される蹴りは早く、そして重かった。堂場に響く鈍い音が、そのことを何よりも明快に表現していた。肉体を抉る響きは同時にその場の男共を委縮させ、一気に沈黙の崖へと追いやってしまう。
「この不忠者! 不孝者! 不悌者!……お前が此処に座っているだけで王郁様のお眼汚しだ! 死ね! 死ね! 死んでしまえ!」
声を荒げる海狼を、走り寄った影が背後から圧し止めた。
「海狼やめろ!……気は確かか!?」
「離せ乞食坊主。あたしゃ素面だ!」
倒れたまま動かない春醍になおも足を振り下ろす海狼を、朱宇貫が組み付く様にして引き離す。屈強な男に組み付かれつつも、海狼の勢いはなおも止まらなかった。
「王郁様! この海狼に魯春醍の処刑をお命じ下さい。この大悪人、魯春醍の首を斬る役を勤めとう存じます!」
「…………!」
海狼の怒声を前に王郁は完全に椅子からずり落ち、もはや春醍の様子をまともに正視してはいなかった……というより彼個人の胆力ではそれすらまともに為し得る状態ではなかったのであろう。春醍の首を求めてなおも食い下がる海狼と、上座から逃げ出さんばかりに怯える王郁の間に郭玄方が立ち、上ずった声で言った。
「靖南大将軍朱宇貫、魯春醍の身柄を卿に預ける。追って沙汰あるまで春醍を拘禁すべし!」
「御意!」海狼から手を離し、宇貫は玄方を拝礼した。
「王律を反逆の罪によりその妻子共々斬首に処す。引立てい!」
つまりは、はじめから王律の運命は決まっていた。平然と言い放った玄方を睨みつけ、王律は倒れた春醍に歩み寄った。手ずから春醍の躯を抱き起こし、そして抱く手に力を込める。
「春醍どの……」
「王……律……どの?」
「そなたの厚意……この王律、来世まで忘れまいぞ」
「…………!」
慈父の様な眼差しを向ける王律の眼から、涙が零れ落ちていた。詫びようと口を開いた春醍の意識が、その瞬間に白濁し始め、春醍は意識の混沌から抜け出そうと足掻く――それは今となっては無駄な試みだった。
今や香南の首都となった晋安の郊外、丹寒寺という荒れ寺に靖南大将軍 朱宇貫の本営はある。
もっとも、今や王郁軍の過半を束ねる大将軍の本拠としての体裁は、王律の処刑が決まった時点ではかなりの割合で充実を見ていた。朱宇貫が此処を根城に定めるに至ったのは、晋安全域を窺える距離、それも攻めるに難い小高い丘陵の上に位置するという立地の他、住む者の無い荒れ寺故の縄張りのし易さにある。従って、蟄居を命ぜられた魯春醍が連行された時には、丹寒寺という場所より古刹としての往時を偲ばせる面影は殆ど消え去り、ひとつの山城としての厳めしい趣が一帯には漂い始めていた。
春醍は本営の片隅、四方一丈程度の庵を宛がわれた。その周囲を垣根に囲われたのだから、殆ど完全な軟禁で、それもごく短い間に春醍自身の死を以て終わるであろう。ただ垣根で仕切られただけの狭い庭に佇む一本の木のみが、春醍の眼を愉しませる唯一の事物であった。葉も実も落ち切ったか細い木……柿の木だと春醍は思った。そう言えば大封の実家にも柿の木があったっけ……今頃は父も兄も、甘い柿を堪能しているのだろうか?……いや、そのような平穏など、今や中原全土から消え失せてしまおうとしている。
半ば生きた骸の様に起居し、食を繋ぐ間、山城と化した古刹から終始鬨の声が聞こえてくる。練兵の声であった。あの夏、隊伍を組むのすらやっとの頼りなげな流民と農民の集まりは、季節が廻り、幾度もの戦役を経た今となっては陣容と兵器ともに調い、香南に覇を唱えるに足る精兵集団へと変貌してしまっている。力強い吶喊の声、古刹の戸板を震わす程の気迫――いずれもが頼もしく、恐ろしい。春醍はといえば一日を庵の軒下に坐り、微動だにせず自然と人間の立てる音にただ聞き耳を立て続けている。
「海狼か……」
背後から忍ぶ気配の動きが、止まった。鬼神が庵に踏み入ろうと一顧だに関知しない心境に、今の春醍はある。
「…………」
垣根を破り、庵に上がり込んだ気配が視線を注ぐ。どんな目で春醍のことを見ているのかまではわからないが、この場から逃がす積りで此処に来たわけではないことは、背後の気配が一向に春醍に話しかけようとしないことからもわかる。殺すつもりか?――たとえ背後の海狼がそのつもりでも、今の春醍にはどうでもいいことであった。庵の方向から吹き込んで来る隙間風が、甘い女の匂いを微かに運んできた。
「海狼……」
「…………」
「ありがとうな」
「…………!」
途端に、背後の気配から怒りの呻きが漏れる。それは苛立ちであった。王郁軍の幹部が参集したあの堂場において、あれ程烈しく王郁と郭玄方を批判した以上、春醍に面罵される側としてはその場での斬殺を以てでしか春醍に報いる途は無かったに違いない。でなければ面子を失うからだ――結果として海狼の蹴りは、彼らの体面を救ったのみならず春醍の生命をも救った。
「この馬鹿……!」
一言に心底からの憤怒を込め、海狼は言った。
「あんたを助けたわけじゃない。勘違いするな。だいいちあんたにはもう愛想が尽きた」
「愛想も何も、そういう間柄じゃない」
「王律は明日死ぬぞ。川原で冎刑だ」
「斬首じゃないのか……?」
春醍の顔から、完全に血の気が引いた。冎とは、「骨まで肉を削ぎ落す」という意味で、咎人は一寸刻みに肉を削がれ、甚だしい出血と痛みに苛まれながら死んでいく――冎刑の対象になる様な者は大抵が朝廷への反逆を企て、無用に民や父母兄弟を害した大罪人であり、どう見ても王律のような人物に為すべき刑ではなかった。
「あんたのせいじゃねえよ。自惚れるな」
「じゃあ何故?」
戸惑う春醍の傍らに、海狼はさり気無く坐る。
「あんたが抓み出された後もあいつらはやりあったのさ。阿春にも見せてやりたかったぜ……あのおっさん、ずっと肚が据わってた。言いたい事を我慢もせず、餓鬼みたいにぎゃーぎゃー喚くしか能の無いあんたよりはずっと、な」
「それでまた怒らせたのか……玄方を」
「…………」
海狼は鼻で笑った。それ以上を言う必要を、この女は認めなかった。放心状態の春醍を他所に、海狼は再び苛立ちを剥き出しにする。
「あんた……何故王律を担がなかった? 大軍で晋安に踏み込めば造作も無い事だったろうが」
「…………」
黙り込んだ春醍を前にして、海狼の口元が歪に曲がる。
「阿春……あんた、傍観者の積りでいたな?」
「――――!」
春醍は思わず眼を見開いた。片目は未だ海狼に蹴られた痕が残っていて、それが却って間抜けな表情に映る。それを正面から直視し、海狼はにこりともせずに続けた。
「何時までも傍観者の振りをして、時代に参加しようとしない!……万事他人事だから、この場で唯一の善人でいたいから!……その結果がこれだ。王律とやつの嫁と子供は間違いなく死ぬ。あんたが殺すんだ。あんたが王律を担いでいればあいつらはもっと長生きできたんだ。あんただって、なろうと思えば香南の王にだって――」
「――ああ、おれも死ぬよ……それだけのことをおれはしたんだ。おれに今から先を生きる資格は無いだろうさ」
「阿春」
「…………?」
拳――――眼前に飛び込んできたそれは春醍の頬を抜き、縁側から地面へと昏倒させた。頬を抑えて春醍が見上げた先、仁王立ちした海狼がただ冷厳に、彼女が殴り倒した男を見下ろしている。
「阿春、これだけは言っておく……明日此処を出て王律の死に様を見届けるんだ。でないとあたしがあんたを殺す」
「海狼……!」
「もうあたしの名を呼ぶな。臆病者」
突き放す様な言葉を前に不意に力が抜け、春醍はその場に完全に倒れた。海狼の足音と気配が遠ざかり、垣根の外に出る間際で止まる。
「言いたいことは言ったぞ。阿春……あたしはもう、あんたを助けない」
「…………」
再び遠ざかりゆく足音――それを、春醍は何時しか泣きながらに聞いていた。涙は嗚咽を呼び、そして泥に塗れながら春醍はその場に声を上げて呻吟する。
見渡す限りの草原に霜が降り、それは未だ上り始めた太陽の下で融け切ることなく、枝流の走る一帯を白銀色に飾っていた。
晋安から十数里を歩いたところに、その川原はあった。そこが王律と彼の家族にとっての終焉の地となる筈であった。
「…………」
朱宇貫の傍に控える魯春醍の眼前、最初に引き出されてきたのは王律自身であった。太い木の棒に手足を縛られ、一切の自由を奪われた王律は、恐らく中原に存在する最も酷い刑の執行を前にして、超然としているかのように見えた。しかしその彼ですら、川原の前に引き出されてきた妻と年端もいかない三人の子らを前にして、表情を強張らせた。春醍ですら、一番懇意にしていた王律の長女の、感情を失った顔を目の当たりにして胸を詰まらせたのだった。
「春醍……おまえも物好きだな」
朱宇貫が囁くように言う。元々、庵を出て王律の処刑を見届ける話を春醍に持ってきたのは宇貫であった。しかし宇貫は春醍が拒否すると思っていたようで、春醍が承諾の意を示すとその細い眼を見開き、「本当にいいのか?」と言いたげな表情を作ったものだ。それを春醍は「何度も言わせるな」と言わんばかりの真顔で見返し、宇貫は表面上は渋々、春醍を伴うことに決めた。
「逆賊王律の冎刑を執行する!」
兵に伴われた文官が声を張り上げて刑の開始を告げる。ただし文官に代わり王律の前に進み出たやはりもう一人の官服を目にした瞬間、春醍は眼を見開いて絶句した。
「煩さん……!」
騎煩生であった。携えていた文書を手に、彼は表面上は堂々とした歩調で縛られたままの王律の前に進み出る。彼が携えているのは、おそらくは王郁か郭玄方の手による執行命令書であろう……だが、言語に絶する極刑を前にしても、眼前の小心な男が怯まないのはどうしたことだろう?――巻物を広げ、騎煩生の擦れた声が川原一帯に響き渡る。
「――王郁様の名の下、逆賊に天誅を加える! 汝王律を冎刑に処す!」
簡単な命令を読み上げるや、煩生は控えていた刑吏に目配せした。虚勢を張っている様が春醍でもありありと判る。それも、金銭に汚い人間が張る様な良くない虚勢である……王律の眼前に彼の妻子が引き出され、処刑用の大刀を抱えた刑吏が付いた――子供たちの中には、生を諦められずに泣いている者もいる。
「おいおい……口を塞ぐのを忘れてるじゃねえか」
宇貫が呟くや否や、大刀が撓り同時に衝撃と共に血の花が咲く。川原まで朱に染めた鮮血の花――王律の妻子、春醍も親しく口を交わした事もある人々の、あまりにも呆気ない最期を、春醍は息を呑み見送った。あまりにも呆気なさ過ぎて、眼前での刑の執行が夢物語の様に思えた。
「…………?」
春醍たちより王律に近い位置に在って、処刑を見守るもう一人――豪奢な官服を纏った騎煩生の顔が、これ以上ない程蒼白になっていることに春醍は気付いた。それは彼が、この戦風渦巻く香南に在って、流血や戦そのものを一度として目の当たりにしていないことを表していた。頬と首筋が悪疫に冒された様に震えている。歯をガチガチ震わせる音すら、此処まで聞こえて来そうだった。何しろ春醍が知っている内で、騎煩生という男が見聞きしたあからさまな暴力とは言えば、大封の市場で時折執行される括首刑とあとは杖刑ぐらいなものだ。烈しい流血や肉体の損壊を伴うような種類のものでは決してなかった。だが……今彼が指揮を執っている刑は――
「ばか野郎……!」
呻く様に呟いた春醍の眼差しの先で、王律の顔から完全に感情が消えていた。人智を越えた何者かの采配により今此処から生還を果たしたとて、王律が刑場に引き出される以前の王律に戻ることはもう不可能であろう。彼は既に、彼の身の半分を喪ってしまったのだから――
それまで黙って、縛られた王律の眼前で肉切包丁を研いでいた男が、包丁を研ぐのを止めた。春醍は知らなかったが、それは冎刑用に誂えられた人肉用の肉切包丁だった。古来、それも大桑国が興る前に栄えた王朝に先立つ時代、中原に幾つもの国家が同時に興っては滅んだ時代、とある国に事の外冎刑を好んだ王がいて、彼は単に処刑の光景を愛でるだけでは飽き足らず、切り取った人肉を熱湯を満たした鍋に通し、薬味を掛けて食したという――中原には域外に誇るべき華やかな文化だけではなく、血生臭いという表現が追い付かぬ程どす黒い過去もまた、坩堝に滾る屑鉄の如くに鬱屈していることを、改めて痛感させられる光景であった。
「――――!」
弑虐に煌めく刃が半身を肌蹴た王律の胸板に当たり、春醍は歯を食いしばりそれを直視する。同時に王律のごく近くから音程の外れた声が上がる。騎煩生であった。奇声同然の悲鳴を上げて腰を抜かし、川原に向かって這い付くばる友……いや、かつての友。肉を斬られる痛みに抗い王律が上げた声が、さらに煩生の恐怖心を増幅したかのようであった。胸板の肉が削られ、そして再び無常な刃が王律の肉を削ぎにかかる――
「春醍どの! 魯春醍どの!」
「――――!」
切り刻まれながらも自分の名を呼んでいるのは、朱宇貫が驚いて春醍を顧みたことからも明らかであった。眼を見開いて王律を注視する春醍と、苦痛の継続を前に、平然として険しい眼光を送る王律の眼が克ち合い、それがさらに、刻まれながらに王律に言葉を紡がせる。
「――春醍どの、平和な世を作ってくだされ! 弱き者の虐げられることのない平和な世を!――」
直後に刃が深く王律の胴を抉り、痛みに耐えきれず王律は叫んだ。怒りの叫び――否、死地に在って、希望を見出した男の叫び。
「――それがしの死が不憫とお思いならば! 貴方の持てる力を尽くして我らの死に報いてくだされ! 春醍どの! 貴方ならそれが出来る!」
「お……王律どの……!」
落涙――太い一筋が春醍の片頬を伝い、同時に春醍の胸中から全ての恐れが体内から毒が抜ける様に消えた……言い方を変えれば、曇天に一筋の光が差し、心に晴天が広がるのを春醍は覚えた。直後に出血――王律の態度に苛立った刑吏が、包丁を王律の胴に雑に突き立てた結果、芯を通る脈を傷付けたのだ。鮮血は血の滝となって王律の脚と足元の草原を洗い、苛立った刑吏は刃を抜き下ろす――鮮血に混じり臓物の塊が王律の胴から粘液質の音を立てて毀れ、その後には完全に事切れて項垂れる王律の躯が残った。
「春醍……見ろよあいつを」
「…………?」
川原の一隅に陣取り、烈しく嘔吐する官服がひとり――王郁の命令を携えた執行官として王律の刑を見届けるべき男は、それを放棄して只管かつては朝食だった何かを川原に吐き出そうともがいている。それが春醍をして、彼の意識を現実へと引き戻した。遅れて込み上げてくる嘔吐感に、口を手で押さえて春醍は耐える――
「屑野郎が……!」宇貫の眼が、平静では無い。
「――申し上げまーす!」
騎馬の気配が迫って来た。宇貫の配下だった。騎馬の表情から何事かを察した宇貫が手を上げ、下馬を圧し止める。急停止に揺れる馬上に在って馬をあやしつつ、騎馬は宇貫に口を開いた。
「晋安より命令です! 靖南大将軍 朱宇貫は配下の兵全軍を伴い南下する官軍を迎え撃つべし! なお来襲が予想される官軍の総兵力は五万!」
「立ち戻って出兵する旨伝えろ」
平静に言い放って騎馬を返し、宇貫は春醍を顧みた。
「どう見る? 魯春醍」
「寧原の頃ならともかく……少ない。少な過ぎる」
「北からおれ達を攻めるとすれば、どれくらいの兵が適正かな?」
「十万……あるいはそれ以上だな」
「魯春醍……王律から生を譲られたな」宇貫がにやりと笑った。
「宇貫……?」
「おれの幕下に入り、おれを補佐しろ。丹寒寺には戻らずこのまま手勢を率いて北上する」
「あ、ああ……」
「何時までかは知らんが、多少死期が延びたのは事実だな」
からかう様に言い、宇貫は馬を巡らせた。鞭を入れて駆け出した宇貫の後ろを、春醍は慌てて追う様に駆ける。風を受けて馬を走らせる内、王律の言葉がより明瞭な響きを以て春醍に反芻を強いた。
「――平和な世、弱き者の虐げられること無き世――王律どの、あなたは……おれにそれを作れと言うのか?」
――それでも、未だに馬上の春醍を囚えているのはただひとつ、戸惑いであったが。




