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第十二集  「孤影 晋安へ」

 晋安の郭玄方は、魯春醍に騎煩生を遣わした。そして幽関の近くに在って赤蓮軍の追撃を主導する朱宇貫に、彼と軍を同じくする袁隷にも使者を送った。


 用件は、以後の王郁推戴への確約である。と同時に王郁の名を以て袁隷に香南の北限、里楊関の守備を命じた。関を中心とした半径七百里に及ぶ所領の加増が、今次の戦における彼の働きぶりに対する恩賞であり、袁隷をして里楊関守備の命を受けるにあたり強い動機となった。喩え武勲の立て場から引き離されたことを不満に思ったところで、それ程の所領加増への誘惑、あるいは人生で初めて得た武勲に対する恩賞への誘惑から、名誉欲の飢餓道に落ちた袁隷は逃れることが出来なかったであろう……もっとも、郭玄方が王郁を通じそのような命を発したのは、戦線を共にする間に朱宇貫と袁隷の両者が共謀し、王郁を擁する玄方の方針に反抗するのを恐れたためであるのだが。


 結果として、王郁推戴という玄方の方針を、袁隷は半ば無関心気味に受け入れ、朱宇貫は訝しげな顔を表に出しつつも最後には受けた。ただし朱宇貫には王郁……否、彼の背後にいる郭玄方の意図が実のところ手に取る様に判っていた。わざわざ使者まで走らせて確約の言質を取らせたのは、自分も含め配下の将が戦勝に乗じ、発言力を強めようとするのを牽制する意図があってのことだ……であれば使者を放った対象は複数、それも自ずと限られて来ることになる……と、宇貫は考えた。


「――問おう、玄方どのは使者を何人遣わしたのだ?」

 朱宇貫の野営地で本人に直に問われ、官服姿の使者は只管平伏し回答を固辞した。

「言い方を変えよう。おれの他に誰に使者を遣わした?」

「私如き匹夫の存ずる処に非ず」

 宇貫は(おもむろ)に立ち上がった。傍らの剣を引き抜き、切っ先を使者の喉元に向けつつにじり寄った。

「応えなければ、お前は首ひとつで晋安に帰ることになるぞ」

 顔色を完全に失い、使者は再び平伏した。

「袁隷どの……そして、魯春醍どのにて……!」

「春醍だと……?」

 呻く様に呟きつつも、刃は使者の襟首に向かう。

「玄方に伝えろ。王郁どのを戴き続けたいのであれば、相応の礼を以ておれの武功に報いるべきだろう、とな」

「ひ……!?」

 冷たい刃が使者のうなじに触れ、それは直後に焼鏝を充てられたかのような灼熱感を使者に生んだ。軽く切った首肌より血が滲み、使者は慌てて傷を確かめようと狼狽する。その使者を見下ろし、宇貫は言い放つ。

「玄方から回答を聞くまで、お前の首は預けといてやるよ」

 使者は、逃げる様に晋安に戻った。



 使者からの報告を受けた郭方玄にとって袁隷など顧慮するに足らず、宇貫の要求も想定内であったが、ただひとつ魯春醍の要求に対しては想定も承服も出来かねた。その際の苛立ちを自然、春醍との折衝を任じた騎煩生は正面より蒙ることとなった。戻った使者を引見した彼自身の執務室、そこで顕わになった師の怒気を前に、弟子格の煩生らとしては低頭してそれが過ぎ去るのを待つしかない。

「――煩生、そなたは何故に春醍を説得しなかった?」

「説得……でございますか先生?」

「そうだ、何故に王郁どのを頂くことの利を説かなかった?」

「…………」

 煩生は困惑し、平伏したまま郭玄方を窺った。王郁を推戴することで春醍がいかなる利を得ることになるのか煩生にはわからなかったし、玄方からも改めて教えられることは無かった。だからこそ彼は困惑した。

「……先生、春醍には如何なる利があるので御座いますか?」

「言われねば判らぬのか? 王郁どのを戴く我らと共にある限り、春醍は望む限りの富貴を手にすることが出来るではないか? ゆくゆくは朝廷の顕官となって王郁どの、ひいては新帝を輔弼(ほひつ)し奉るも夢ではない……家柄に於いても、朱宇貫の如き無頼の輩よりは遥かに信用がおけよう」

「…………?」

 顕官?――はっとして、煩生は顔を擡げた。その時初めて、彼は自身を見下ろす師の目付きに気付いた。弟子の行く末を気に掛ける師の、温かい眼差しでは無かった。むしろものにならぬ部下を蔑み、遠ざけんとするかのような冷たい眼……それに、騎煩生は心から怯えた。見捨てられ、切り捨てられるのではないかという恐れが突沸し、それが煩生という青年をして彼自身思いもよらぬ言葉を吐かせた。

「……魯春醍は、王律どのを担ぐ気ではありませぬか」

「何だと?」

「申し上げます!……魯春醍は王律どのと懇意にて、叛意を抱く恐れこれあり……!」

「叛意?……誰に?」

 言葉を吐き出すより先に、脂汗が頬から滴る。

「お、王郁どのにございます……!」

「それは、卿が魯春醍と話した上で得た私見であろうが?」

「ははぁ……仰せの通りでございます」

 煩生は頷いた。言葉を出そうにも喉が詰まり、それが出せなかった。自然、喉がからからに乾いていた。

「魯春醍を晋安に召喚せしめ、詰問するが宜しかろうと存じます」

「魯春醍を召喚とな……」

 気が進まぬ風であった。それまで煩生に注がれていた険しい眼が天井へ向かい、そして何時もの師が見せる、理知的な眼差しとなっている。その眼差しを前にして、煩生は内心で憤った。自身を単なる配下としてしか見ていない郭玄方に対してではなく、善きにつけ悪しきにつけ玄方にこうやって配慮される魯春醍に――

「これも大桑一千年の弥栄(いやさか)を願わんが故……臣煩生、構えて言上仕ります!」

 床に頭を擦りつける様にして、煩生はまた平伏した。その伏せて影に塗れた顔の中で、焦点を失った眼が揺らいでいる。

 眼は、煩生の前で歪み始めた未来を、空虚なまでに傍観し続けていた。



 追撃戦は、海浜に刻んだ絵が時を経るにつれて掻き消えていくように終わった。実に、晋安攻防戦が終わってから一月が過ぎた後のことである。その後には累々たる赤蓮教徒の骸の山と、荒廃した山野が残された。

 もっとも、ここ数年の香南には珍しく、袁家とそれに従う中小地主の所領だけは香南を荒れ狂った惨禍から無縁でいられた。追撃に参加しなかった一軍が、軍としての統制から離れた赤蓮軍の残党や王郁軍中のはみ出し者の不法な干渉から、彼らの領域を守ることに傾注していたからである。その一軍を統べる将の名は魯春醍と言った。見方を変えれば魯春醍は、戦略面で重要な戦を得る機会の無いこの間、ただ自軍の休養に専念したと言える。


 かと言って、戦禍と無縁でいられたという訳では無かった。袁家の領域に踏み入る夜盗と化した敵軍は、時として五十から百名前後という尋常ならざる規模と統率の下で行動し、春醍としても相応の兵力を以て応戦に当たる必要を強いられた。春醍自身、自分が先頭に立って彼らに対する積りであったが、諸将、特に魯哀に止められた。

「敵は寡勢なれば我らも少数の兵で結構、我らが指揮を執ります故、春醍どのにはこれを督戦して頂きたく存じます」

「つまりは、黙って見ていろと?」

 魯哀は黙って頷いた。魯哀、隗雲、呉楊が兵を率い侵入者の潮流跋扈に対処する。彼らは所領の境界に達したところでさらに自隊を三十から五十程度の小集団に別れて敵兵を追尾し、あるいは叩く……つまりは、魯哀たちは元より彼らの配下に在る中下級の指揮官、その更に配下の兵に経験を積ませることにこの出兵の意義はあった。正直、春醍には思いも寄らなかったことだ。

「兵は強くなりましょう。この袁家の地全てが格好の練兵場といったところです」

 と、隗雲は春醍に笑った。


 そのような中に、晋安からの使者が書簡を携えて来た。

 単独での晋安への登城と、その間の王律の身の安全の保証――これらを記した郭玄方直々の書状に目を通した時、春醍は彼自身の希望が潰えたことを悟った。書状は、彼が救おうとした王律が事実上人質に取られてしまったことを意味していた……とは言っても、この段階では春醍は、自分が友の讒言により王郁軍の中で極めて危うい位置に立たされてしまったということに気付こう筈も無かった。

 書状を渡された魯哀が文面を一読し顔色を失う。彼からすれば書状の意味が判らない――単に王律に自由を与えろと言っただけで、何故春醍ひとりを召喚するような仕儀になるのか?

「春醍どの……これは……!」

「……というわけだ。晋安に行って来るよ」

 と言いつつ、春醍は考えている……この際今の地位を(なげう)てば王律の自由も叶うかもしれない……と。この辺り、王郁軍内での栄達を目指す朱宇貫とは趣が異なる。

「いけません!」魯哀が色を為した。「殺されますよ」

「行って話をしないと判らないだろう?」

 隗雲が眉を険しくした。

「兄者、王律どのとの内通、釈明して許されるとでも?」

「……将軍を辞めると言えば、王律どのも、そしておれも許されるかもしれないな」

「兄者……そこまで……」と、隗雲は言葉を失っている。

「では私も行きます。春醍どのには護衛の一人ぐらいはいてもいい筈だ」

 魯哀が言い、呉楊が頷いた。眦を険しくして彼らを制し、春醍は言った。

「おれにこれ以上付き合うと、お前たちの首も飛ぶことになるぞ。将軍の位を返上するのも、お前たちに塁が及ぶのを防ぐためだ。わかってくれ」

「――――!」

 重々しい苦渋が陣屋の中を覆い始めた。魯哀は眼を瞑って歯を食いしばり、呉楊に至っては堪え切れずに滝の様な涙と鼻汁を流し始めている。ただひとり、黙って春醍を凝視し続ける隗雲に向き直り、春醍は言った。

「郭玄方どのに好かれるにしても嫌われるにしても、おれはいずれ晋安に行かねばならないと思っていたところだから……大丈夫、大丈夫だよ」

「兄者……おれは何も心配はしてないぞ。赤蓮教こそ片付いたが、何時官軍が攻めて来るかわからんこの時勢だ。だから晋安に籠ってる腐論の徒どもには兄者を簡単に亡き者になぞ出来やしないんだ。ただおれは、兄者とおれたちがどれだけの間離れ離れになるのか……それだけを知っておきたい」

 どうなんだ? と言いたげな顔を隗雲はした。

「わからない……ただ、おれはその間羅王儀どのに後事を託そうと思う。正確には羅王儀どのを通じて袁隷どのに、だけれども」

「それがいいな。袁隷は馬鹿だけど悪人じゃない。羅王儀の掣肘が効いている間は何とかなるだろうな」

 隗雲は笑った。だがその後真顔になり、春醍に聞いた。

「……兄者、本当に独りで行くのか?」

 春醍は、もう何も言わずに頷いた。



 花も葉も完全に落ち切った梅林の中を、春醍は歩いている。それまで梅の木に遮られていた冷風が、勢いを増して春醍の頬を撫で始める。林を抜けた先が袁家の母屋であった。

 春醍が袁家を訪れた時、袁優華は母屋の外れ、すっかり花の落ちた花畑の中に在って、独りで剪定を続けていた。あの宴以来、彼女は何処か他所余所しく接するようになった。それを責めることは、今の春醍には出来なかった。それだけ多くの、それも禍々しいものを春醍はこの地に持ちこんでしまっているのだから……


 春醍は、優華が剪定を終えるまで外で待った。


 その間、優華は花畑の外に立つ春醍には目もくれず、黙々と花の手入れを続けている。季節はすでに冬の領域に踏み入ってしまっている。空気の流れが冷たくなり、空の青も冷たく見えることに、春醍は天を仰ぎつつ今更のように気付く。優華が剪定の手を止め、花畑の中から黙って春醍の様子を窺っていることには、すぐには気付かなかった。ごく近い未来の苦境を思って嘆息し、何気なく花畑に目を転じたところで、春醍は改めて驚くといった次第である。

「魯春醍、袁優華様に拝謁致します」

「やけに他人行儀なのですね」

 と、優華は素っ気ない。が、春醍のもとに歩み寄って来るその様が、やけにもったいぶっている様に見えるのは気のせいだろうか?

「どうかなさって?」

「晋安に赴くことになりました」

「今度は何の称号を頂けるのかしらね」

「隗雲たちと兵は袁隷どのに託し、身一つで晋安に上ります」

 優華の眼が、険しくなった。

「春醍様おひとりで?」

「はい」

「…………」

 ふたりは共に言葉なく、花畑の中で対峙する。対峙の内に、これまで自分が抱え込んできた全てを優華に見透かされてしまいそうで、春醍にはそれが怖く、内心では身構えてしまう。

 優華は、言った。

「春醍様」

「…………?」

「……それで、本当にいいのですか?」

「何とかなります」

「何とかならなかったら?」

「それは……」

 堪らず、春醍は優華から眼を逸らす。

「春醍様おひとりの命ではないのですよ?」

「だからこそ、多くの命を救うために晋安に行きます」

「……では、わざわざ此処に来ることはなくてよ。ご自分の為すことが正しいと思うのならば黙って晋安にお行きなさい。あなたと私は……」

「…………?」

 優華の口が、躊躇った。

「……本来こうして話をすることも叶わない身分なのだから。もう……あなたとは会えないかもしれないから……だから来たんだ」

「春醍……様?」

 春醍はいま一度優華を拝礼した。その後はもう一度も優華を顧みることなく、春醍はそのまま歩いて袁家を出た。



 魯春醍が単騎晋安に向かい旅立った頃、晋安ではまた別の動きが始まっていた。当然、春醍の与り知らぬ処で――それまで郭玄方の意に従い、晋安の片隅で生を営んでいた王律が、王郁との面会を申し出たのである。庶民同然の暮らしに飽き、何がしかの一時金でも求める気か……と、軽い気持ちで郭玄方は王律の参内を許したものだが、王律が参内した途端、彼は苦渋と共にその認識を改めさせられることとなった。使い古された古式の礼服、しかし一流の宮廷人を思わせる完璧な礼法で王律は王郁の前に坐し、そしてひとつの要求――否、諫言を言上したのである。


「王郁どの、建宗陛下と和解なさいますよう。臣王律謹んで申し上げます」

「は……?」

 上座で酒器を手にしたまま、王郁は彼の系塁を唖然として見下ろした。上座には王郁ひとりだけではなく、凡そ叛乱軍の本営には不似合いな着飾った美女を傅かせている。それだけ叛乱軍の主隗たる王郁の私生活が爛れていることもあるが、何より同じ王家の人間に対し自らの権勢ぶりを誇るという悪趣味な趣向も、彼の態度には含まれていた。ただし下座の王律の毅然とした態度、そして直言が初めから王郁の歪んだ意図をぶち壊しにしてしまっている。

 王律は続けた。

「叛乱はむしろ人心を乱し、大桑の大本をも荒廃させんとしております。これ以上香南を占有し、国土を別つは忠義にもとり、後世永きにわたり汚名を残し遺恨を成すのみ。どうか王郁どのにはこれ以上の叛乱継続をご再考頂きたく参上した次第にございます」

「暫く……暫く王律どの!」

 傍らにいた郭玄方が、堪らず声を差し挟んだ。

「王律どのは、和議をお望みか?」

「いかにも」

「和議ならば、新帝ご即位の後に之を為しても決して遅くはござらぬ。今は香南に地盤を固め、朝廷が折れるのを待てば宜しかろう」

「それでは遅うござる」

 眉間を険しくして、王律は玄方に応じる。

「構えて申し上げます。今は一刻も早く建宗陛下と対面の上、国事を論じ、国を(やす)んずる途を探るが肝要かと……」

「差し出がましい口をきくな王律! 折れるべきは朝廷の方ではないか!」

 王郁は上座から身を乗り出し、酒器を投げ付けた。美酒の飛沫を飛ばしつつ銀製の盃が転がって跳ね、それは王律の眼前で止まる。

「王郁どのの上洛が困難であれば、それがしが和議の使者に立ち、大封に赴いてもようございます。そこで殺されても本望」

「まだ言うか! 晋安で大敗した分際で! 王家の系塁故にこうして生を繋ぐことが許されておるに、この上に朝廷に阿るが如き口を叩くか!」

「では晋安の恥を雪ぐ意味でそれがしの首を刎ね、西玄にお送りくださいませ! さすれば朝廷の怒りも解けましょうぞ!」

「西玄だと!?」

「さよう、西玄でござる。淕賊の支配する大封に非ず……!」

 王律は王郁ではなく、郭玄方を睨んだ。涙眼、だが射る様な視線を向けられた郭玄方は、憤然として王律を睨み返す。おそらくは「淕賊」という言葉が彼の隠し持つ打算、それに伴う感情を酷く掻き乱したのかもしれなかった。

「徳を失った建宗など恃むに足らず。何れ建宗の後を襲い大封に入る新帝こそ我らが和議の相手でござるぞ王律どの」

「門閥の傀儡に、徳と義があると仰せか!?」

 王律は眼を玄方に剥いた。玄方の実直な表情が完全に崩れ、今や目前に迫った野心の成就を前に、満面の笑みを隠そうとしなくなっていた。その時初めて、王律はこの場に自分に志を同じくする何者もいないことに気付く。

 王郁が声を震わせた。

「将軍魯春醍と謀りて我らが義挙を惑わし、新帝に仇為さんと謀ったそなたの罪は重い! 追って沙汰あるまで縛に付けい!」

「魯春醍どのだと……!?」

 王律は眼を見開き、上座の王郁を見返した。

「そうだ」と、郭玄方が声を挟んだ。

「魯春醍の武力を恃み、卿が本営を討たんとする訴えこれあり。魯春醍の取調べが為されるまで、此処からお帰しするわけにはいきませぬな」

「魯春醍どのは無関係だ! 私はあくまで私ひとりの存念にて和議を!――」

 狼狽した王律の背後に兵が回り、棍を以て強引に王律を抑え付けた。皇統に連なる者の遇し方とは言えない、性急な制圧。首根っこを押さえられ後ろ手に縛られる。王律の眼に、怒りと絶望が交互に光を刻んでいた。



 国都大封では、すでに淕家の私兵を主力とする大軍の入城が始まっていた。

 周辺諸州にて募兵された大軍、ただし募兵の主体は西玄に退いた朝廷ではない。諸州に所領を有する貴族、それも淕家の意を受けた貴族が先ず私兵を以て州府及び群府を占拠し、その武力を以て州の担当官を脅し、兵権を行使させたことにより始まった募兵である。従って、ごく短日時の内に五十万に及ぶ大軍が国都大封とその周辺に布陣することとなった。淕家に与する貴族の中には、収監中の咎人(とがにん)を軍務への従事と引き換えに解放し私兵に加えた者が少なからずおり、それ故に彼らの軍規は厳正から程遠いものとなり果ててしまっている。そこに西玄に退いた建宗への軽侮の念も加わり、それらは国都内における数多の横暴狼藉となって具現化した。兵に法を守らせるべき指揮官ですらその過半が正規の軍務経験の無い貴族の子弟であり、その彼らからして率先して国都に軍馬を連ねて踏み入り、乱行に加担していたのだから話にならない。


 幇州太守 淕胞全は、軟禁先であった大封郊外における淕家の別業 (別荘)から、入城した淕家軍の兵により救出された。救出とはいっても、入城の前日まで別業の周囲を固めていた禁営の兵はとうに影も形も無く、困難な突入、あるいは人質となった胞全の死をも覚悟していた淕家軍は、半ば拍子抜けした様子で彼らの主の復権を援けることとなった。

義兄(あに)上、愚弟尊凱、救出にまかり越しましてございます。お待たせして申し訳ございません」

「賢弟、よく来た。近う寄るのだ」

 救出部隊の将にして淕胞全の義弟たる何尊凱は、別業における謁見の間において、彼の義兄にして淕家軍の総帥たる胞全に拝礼した。当の尊凱自身、全身に金色の甲冑を纏い、腰に装飾した大刀を帯びている。それは大封のみならず大桑国全域を流れる全ての時が、もはや兵事に費やされようとしていることを明らかに示した光景であった。帯甲した尊凱の肩を抱き笑い掛ける胞全の顔には、一片の憔悴の痕も見られなかった。


「玄方からは何か言って来ておるか?」

「一刻も早い軍勢の南下を望むと、ただそればかりの催促にて」

「では迎えに行ってやるとしようか……兵馬三十万ばかりでよかろう」

「義兄上、統帥は是非この尊凱めに」

 胞全は笑った。

「当然ではないか。卿は兵部太監なのだぞ? 卿が大桑を平らげずしてなんとするか? 我ら淕家の大桑を――」

 二人は並び、配下の列を引き連れて外に出る。馬車の準備が為されていた。本来皇族の、それも皇位に近い者しか乗ることを許されぬ六頭立ての馬車だ。淕胞全ひとりを天許城に送り届ける為に用意されたそれを、いまや大封の主となった男は髭を扱きつつ満足気に眺める。

「では、参るとするか。我らが天許城へと」

「はっ!……諸侯は兄上の入城を心待ちにしておりますぞ」


 大桑二四一年の初冬、反建宗の門閥貴族連合軍の盟主となった淕胞全は、淕皇太后の令旨を以て香南の王郁軍を討伐せしめるべく、いまや官軍となった私兵団の南進を下令する。その兵の総数三十万、大桑史上類を見ない大軍の統率は、兵部太監たる何尊凱ひとりの占めるところとなった。



 

 晋安、ひいてはさらに北の大封で起こっている事態を関知できぬまま、晋安へ向かう孤影がある。


 暦の上ではすでに冬に入口に差し掛かっていたが、香南を撫でる風は躯の髄を震わす程の寒気を揮えないまま、それでも見渡す限りの山野から潤いを削って行くのだった。庶服の上に長衣を重ねれば、馬上であっても幾分か凌げる程に香南の気候は温く起伏に乏しい。それが馬を進める春醍には有難く思われた。同時に、この香南の地に足を踏み入れて既に一年近くが経とうとしていることに、今更のように驚きを感じる。

 周囲は、不思議なほど静まり返っていた。しかも道を進み始めてからというものの、人ひとりの影すら春醍は彼の前途に現れていない。道の途上、家屋を見出すことすらあってもその傍にはやはり、人影ひとつとして見出せないままに春醍は馬を進め、そして歩く。とっくに通い慣れた道であった。あるいは、春醍の人生で最後に歩く道になるかもしれない。


 どう申し開きをしたものか――馬上で思いを巡らせる春醍の頬を撫でる空気の質が変わり、それが自身に迫る複数の気配となったとき、春醍は内心で身構えた。前方の上り、その向かい側から道を越え、春醍に迫る騎馬の一群……彼らが掲げる旗の字に、春醍は険しくなりかけた愁眉を開く。

「朱――?」

 蹄を蹴立てて騎馬の一群が春醍の前途を塞ぐように迫り、そして止まった。

「魯春醍どのでござるか?」

「いかにも。宇貫の配下か?」

 騎馬の長らしき男が、春醍を拝礼する。

「わが主朱宇貫より命ぜられております。春醍どのを見つけ次第、宇貫様の元にお連れするようにと」

「…………」

 不思議と、朱宇貫が怖いとは思わなかった。今はただ、何故かその名の響きが懐かしい。

 


 朱宇貫の陣は、晋安から僅か一日の距離に在った。宇貫の本陣まで導かれる途上、その場に漂う異臭に春醍は思わず顔を顰めた。兵に取り巻かれて歩きつつその源を探る内、春醍は血塗れの袋が陣屋の一角に山積みされているのを見る。それも尋常ではない大きさと数であった。赤蓮兵の首級か?……と思ったが、その実際は春醍の予想をより残酷な形で裏切った。春醍の眼前で飢えた野犬が数匹、破れかけの袋に噛みつき、そして食い破る――

「耳……!」

 春醍は思わず歩を止めた。耳だけでは無かった。破れた袋から零れ落ちた人間の耳と鼻、まだ血糊も生々しいそれらに犬どもは嬉々として喰らい付き、不埒な闖入者に気付いた兵が棒を振り上げて追い払いに掛かる。今度は空を舞う鴉の群が一斉に袋に取り付き、怒声を上げる兵を他所に血塗れの袋を突き始める……袋を守る番兵からすれば、不快な上に切りが無いこと甚だしい。

「――首とは違って持ち運びに不自由しないからな。それに数え方によってはより多くの恩賞に化ける」

「――――!」

 本陣の方向から投げ掛けられた声を、春醍は絶句と共に顧みる。帯甲した朱宇貫。装飾された鎧には、だいぶ使い込まれた痕が見えた。


 朱宇貫は、春醍を自身の幕屋に招じ入れ、さらには――春醍からすれば驚いたことに――茶を勧めた。

「魯春醍、これからどうする積りだ?……とはもう聞くまでもないだろうがな」

「晋安に行き、王律どのをお救いする」

 (なまず)のそれを思わせる大きな口が、熱い茶を椀ごと飲み込まんとするかのように(すす)る。

「春醍……俺は王郁を担ぐ。今からでも遅くは無い。王律には運が無かったんだ。乗り替えろ」

「運も何も……王律どのもおれも、結局は巻き込まれただけだ。おれには同じ境遇の者として王律どのを助ける使命がある」

「お前がどうあがこうが、王律はもう救えないぞ」

「おれの首を賭してでも救う……!」

 不快な沈黙に苛立ちが重なり、それは重い吐息となって春醍の耳を苛む。

「春醍……お前、軍を抜けて大封に帰れ。こんなことで躓いていては、これから先幾ら命があっても足りない」

「いずれ大封には帰る。だがそうする前におれにはやるべきことがあるんだ」

「聞き分けろ魯春醍! おまえは乱を起こす器で無ければ、乱の中で生きることのできる器でもない! おれには判った。その上でもうやめろと言っている」

「何故、そんなことを言う?」

「知れたことだ。お前には恩義があるからな。おれは悪人だが、掛けられた恩に報いられるときは報いたい。それだけのことだ」

「宇貫……」

「春醍、どうしても王律を切れないと言うか? おれと共に王郁を担ぎ、郭玄方を排除すれば結局は同じことだぞ。王律……あいつには、運が無かったんだ。諦めろ」

「あんたは……」

 春醍は言葉を失った。眼前のこの男は、郭玄方を排除すると臆面も無く言った。春醍は迷う……王律を生かすためにはやはり、郭玄方を討つべきなのだろうか?

「お前も知ってるんだろ? 玄方と淕家は通じていることを……」

「ああ……」

「その上で玄方のやつが何をやりたいのか俺にとってはどうでもいい。俺はただ、一介の成り上がり者として昇れる処まで昇りたいだけさ」

 宇貫の息が荒くなっている。自身の考えを気宇壮大と思い、それ故に大言を吐く彼自身に酔っている様な節が春醍には見えた。

「……まあ、どっちにしてもお前は死ぬのだろうな……」

 と言い、宇貫はわざとらしく春醍に目を剥いた。

「春醍、ここから出て行け」

「…………?」

「先に晋安に行って待ってるがいいさ。俺が来るまでは生きていられるだろう」

 春醍は頷き、腰を上げた。幕屋を出るや宇貫は配下を呼び、騎馬の手配を命じる。

「死出の旅の(はなむけ)だ。騎馬を十騎付けてやる」

「じゃあ今此処でおれを殺せばいいじゃないか……!」

「勘違いするな魯春醍。慶邑を守り、数にして三倍以上の赤蓮軍を破った程の名将を、むざむざと道端の(むくろ)にさせるような無思慮な男と、俺が世人に(そし)られぬためだ。死ぬなら晋安で、玄方直々の手に掛かって死ね」

「玄方……彼がそうすると言うのか?」

 宇貫はにやりと笑った。

「有体に言えば、やつは屑だ。それも俺達の想像を超えた……晋安への途上でお前に闇討ちを掛ける様な蛮行ぐらい、造作も無いだろうな。それと……」

「…………?」

「こればかりは言うまいか迷ったがこの際だ。教えとく……お前さんと王律が通じていると玄方に密告したのは、どうやら騎煩生らしいぜ?」

「――――!」

 宇貫は驚き悲しむ春醍の姿を予感したのかもしれないが、春醍はもう驚かなかった。ただ『そうか……』とのみ、彼は心の中で言った。本当に王律を生かしたいのならば、やはり非道の誹りを受けても春醍は大軍を以て晋安に踏み入るべきだったのかもしれない……だが、全てはもう過ぎたことだ。



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