第八集 「淕軍上洛」
その大きな鳥は雲の切れ間を目指して旋回を続け、やがて速さを失ったところで降下を始めた。
太陽の下、地上を嘗める鳥の影は大きい。翼を広げたその大きさは、影が地を過ぎる様を一瞥しただけでも肥育しきった牛にも匹敵した。中原では先ず見られぬ、巨大な鳥であった。
翼を広げたままの滑空――そこから旋回に入り、降下により生じた速さを徐々に殺していく鳥。睥睨する大地の一面を占め、碁盤の目状に区画された人間の世界が、翼を翻す足許から遥か下に広がる。さらに高度を落とせば、そこに息衝く人間たちの営みすら容易に窺えるのかもしれなかった。
鳥瞰――城市の外、一面に耕地と平原の広がる世界の一点に、西の方、人間が集結を始めているのが見えた。何よりも多量の土埃が風に乗って空に昇り、彼らの所在を上空からも雄弁なまでに伝えてくれていた。尋常な数では無かった。人間たちは矩形の陣を作り、列を為して城市を目指す。その動きはむしろ目指すというより囲むと言った方が近いのかもしれなかった。
軍――人間の世界では、この集まりをそう呼ぶ。そして軍は、大封と言う名の城市の外に、尚もその数を増し続けていた。
「――丞相閣下に申し上げます! 大封の西に大規模な軍勢が集結中にございます!」
血相を欠き丞相府に飛び込んできた官人の報告を受けた時、丞相 李鶴元は平穏な執務の最中に在った……否、急報がもたらされるまで平穏な執務を装っていたというべきだろうか。恐らくは不吉な急報に接してもなお転じなかった彼の顔色で、その内心の平静なることは十分に説明し得るであろう。官人をして宮城守備の最先任者たる禁営校尉令に守備兵の召集と配置を命じ、李鶴元自身はといえば足早に彼の執務室から隣り合う明極殿へと赴いた。明極殿の奥、皇帝建宗の執務室へと――
「――陛下、鶴元にございます」
「苦しゅうない」
宮廷の住人に相応しい雅さは無いが、誠実さの伝わる響きのある声が鶴元に応じる。皇帝の部屋に入り拝礼した鶴元の眼前で、皇帝建宗は裁可を求める書類にずっと目を通し続けていた。大桑を支える政治機構の運営に関わる裁可こそ、今は鶴元の助言の下で決めているが、そうするまでも無い軽度の決断は彼自身が下している。帝位に就いて間もないというのに、それを為し得るだけの資質が若い彼には既に備わり始めていた。それは丞相たる鶴元も認めているところだ。皇帝と臣下の在り方として理想的な、求められたときにのみ助言を行うという段階にまで移行するのは、それ程遠い未来のことではない様に鶴元には思われた。ただし今は――
「大封の周辺に、大軍が展開していると報告が御座いました」
「大軍……西か?」
「御明察にございます」
皇帝は、眼を通していた木簡を畳んだ。
「……間も無く軍の所有者が参内して来よう。朝議の間に通すがよい」
「陛下、なりませぬ。臣鶴元が応対いたしまする」
「先生、あなたを信用していないわけではない。皇帝として、予に刃を向ける者の言い分を聞いておきたいのだ」
「構えて申し上げます。謁見の機会はこの先幾らでもございましょう。まずは臣鶴元をして、先方の意図を探らしめるが肝要と心得まする」
侍従が進み出、低頭した。
「幇州太守 淕胞全どの、陛下への謁見を求めて参内しておられます」
「……陛下、宜しいですな?」
建宗と丞相は互いに顔を見合わせた。鶴元は常に無い眼力で建宗を睨み、建宗は若さ故彼に気圧される。
幇州太守 淕胞全。名門貴族淕家の当主であり、国都大封の西方 幇州のほぼ全土を統べる領主である。高祖 王世民による大桑建国以前より、幇州を根拠地とする有力な氏族であった淕氏は、高祖の中原統一を固有の財力、武力を背景に支え、その初期から皇帝の藩屏たる有力貴族の一翼を占めるまでに至っていた。二百四十年に及ぶ大桑国の歴史上、丞相だけでも二七名、皇后に至っては現在の淕皇太后を含め七名が淕家の系塁から出ているという点を上げるだけでも、彼らの権勢の程を図ることが出来るだろう。
「太った狐」――朝廷のとある顕官は、若き日の淕胞全を評してそう語っている。それでも実のところ胞全の外見を言い表すには不十分で、元来細身の人間を上から圧縮し、その背丈を縮めたような短躯と言えば、胞全の体躯についてもっと正確に言い表すことが出来たかもしれない――参内を果たした淕胞全の先導を務めた刑部尚書代行 魯林正にとって、胞全を一瞥した末に得た感触はそのようなものであった。それ以外には、素直にいち官人の背後に付き従う淕胞全の足取りが、当年六十に達しようかという実年齢を思わせぬほど軽く、それが魯林正にとっては逆に怪訝の念を抱かされるものであった……という点ぐらいであろうか。
天許城内に渡された幾つもの橋、門を潜り、政務の中枢たる明極殿に通じる石段の麓に達した時、林正は足を止め、胞全を顧みて再拝した。
「胞全どの、お腰のものをお預かり願えますかな」
「あ……?」
一瞬、聞き間違えたような素振りを見せ、胞全はその細い目を林正に見開いた。貴族に相応しい、育ちの良さを思わせぬほどの粗暴さに満ちた眼差し、それでいて口元は穏やかな笑顔を浮かべている――これだけの挙作でも、典型的な上級官人たる林正には凡そ理解不能な人種として彼は映った。言い換えれば、魯林正と言う人物のこれまでの人生において、彼のような粗野な印象を与える人物との接点は僅かなものでしかなかったのである。
むしろ林正以上に胞全の反応に行動を促されたのは、天許城への通用門を潜って以来ずっと彼に付き従ってきた随員であったかもしれない。彼らの場合、城外に在って貴人の護衛に当たる普通の兵士との違いは、彼らが単に帯甲していないだけで、むしろそれだけに主人と自身の身を守らんとする彼らの反応は苛烈であった。一斉に鞘から引き抜かれた剣が、鋼の共鳴を発しつつ林正と言う名の官人に向けられる。平時ならば城外にあってもあり得ざる事であった。
「正気の沙汰とは思えぬ……!」
「大桑の弥栄を祈らんが故にわしは此処に赴き、陛下に上奏申し上げねばならぬ。而してこのような場でむざむざと我が命を喪いとうない。それは卿とて同じであろうが?」
上級官たる矜持と、門閥貴族の筆頭としてのそれが、行き先を目前にして相克する。後者の発するどす黒い覇気に圧され、徐々に後ずさる魯林正を前に、淕胞全はほくそ笑む。貴人として相応しい柔和さの全く無い、刃のような笑みであった。手に負えない相手という直観は、それが本能に訴えかけるものであるだけに、林正を内心で委縮させつつあった――
「――正殿の御前で御座いますぞ太守。お控えなされい!」
階段の最上から投げ付けられた声は烈しく、しかし一片の威厳も損なってはいなかった。淕胞全は声の発した先を見上げ、そこで再びにやりと笑う。
「鶴元……国政を意の侭にする賊め。この胞全、天誅を下しに来たぞ」
「貴殿とは、何時かゆっくりと話を持ちたいと思っておったところである。この鶴元、念願叶い天に感謝しておりますぞ」
「言うたな賊が……!」
淕胞全は笑った。供の者に剣を収めるよう目配せし、あの軽妙な歩調で石段を登り始める。うろたえる林正など眼中に無いことは、その挙動が物語っていた。その林正を見遣り、鶴元は彼を憐れむように眼を細める。
「林正、ご苦労であった……付いて来られよ胞全どの。お腰のものはそのままでよい」
「相国……!」
完全に置き去りにされたことを自覚し、林正は声を上げた。狼狽に歪んだ眼差しの先で、一群の男たちの姿が石段の向こうに消えていく。
眼前の李鶴元という老人が、自身を容易に皇帝に引き合わせぬことぐらい、淕胞全には鶴元と克ち合った時点で容易に想像がついた。だからこそ彼は配下に帯剣させ、折あれば鶴元を討ち速やかに宮城を占拠せんと企図したものであったが、それは当の鶴元の導くまま足を踏み入れた丞相府、廟議の間において忽ち破綻を来たすこととなった。
丞相の指定席たる廟議の上座、そこを占める鶴元。彼の傍らに在って帯剣し、闖入者を見据える書生服の少年がひとり。肌は浅黒く、それ故に黒い柳眉と鋭い眼元がくっきりと浮かび上がり闖入者を威圧する……否、ただの少年と片付けるには相応しからぬ威厳と気迫の持ち主――彼を目の当たりにして、胞全は当初の方針の転換を容易に決めた。
勧められもしない内に、胞全は廟議の末席にドスンと腰を下ろし、苦笑交じりに上席を睨みつける。成程……老人め、何の布石も打っていないという訳では無かったか――苦渋では無く、むしろ軽い感嘆の念すら口元に籠め、胞全は鶴元に笑い掛けた。末席に座ることで鶴元から距離を取ったのは、胞全が明らかに鶴元の傍に控える若者に、芯からの寒心を覚えたからでもある。迂闊に踏み込めば、鶴元の意思表示ひとつで胞全は従士による制止も間に合わず一刀の下に殺される。それだけ、曹瞬という名のあの若者の武名は高い。
「太守……」と、傍で囁く従士の声が震えているのは、明らかにその点を懸念してのことであった。
「もうよい。控えろ」
苛立ちに任せて粗い息を吐き、胞全は若者を見遣った。
「卿が曹瞬か? 身分卑しき武官を庇い立てせなんだば、いま少し男振りが上がったであろうにのう。惜しいことだ」
明らかな嫌みであった。より詳しく言えば、かつて曹瞬が北限軍の非道を批判した彼の友人を弁護し、それが先帝仁宗の勘気に触れたが故に宮刑という理不尽な方法で報われたという事実を、胞全はこの場で蒸し返してみせたのである。しかし、そのような嫌みに対しても当の曹瞬は鷲の様な眼をやや険しくして見せただけで、剣の柄に手を充てたまま平然と佇んでいた。
鶴元が言った。
「宮刑を受けし身であれ曹瞬は士でござるぞ。曹瞬の前に在っては卿の引連れし匹夫の群などひと薙ぎの下に斃されましょう」
「ケッ……!」
毒付き、唾を廟議の床に吐いて見せる。威圧の積りであったが、これを虚勢と見る者もこの場には少なからずいたかもしれない。
「胞全どの、卿に問いたき議これ在り」
「先ずはこちらから聞かせろ。何故帝では無く卿がしゃしゃり出て来るのだ?」
「如何なる上奏であれ、帝の上聞に達するには先ずそれがしを通してからでないと困り申す」
「心ある貴族は卿をこう呼んでおるぞ。君側の奸とな」
「この大封に、その君側の奸とやらはそれがし一人のみでようござろう。それがしと卿らでは幾らなんでも多過ぎる」
「何だと……!」
胞全は眼を剥き、鶴元は鷲の様な眼差しで平然とそれを受け止める。この老人を前に一切の脅しが通じないことを、闖入者たちはこの場で改めて思い知らされた形であった。
「……で、何を問いたいのだ?」
「香南の叛乱軍鎮撫について。征討軍の進撃が止められておる」
「勅のことかな?」
「左様……」と応じる鶴元の眼には、明らかな怒りが光っている。
「……叛徒の鎮撫は郷兵のみで十分に成る。香南の兵も加え中原諸州にて召集なった兵、禁営も加えれば官軍の優位は盤石となろう。であるのに徒に勅を下し、統帥を混乱させるとは如何なる了見によるものであるのか?」
「我ら淕家は兎も角、多くの貴族は恐れておる。建宗陛下が叛徒の鎮撫に投じた兵を大封に転じ、貴族の誅戮を図るのではないかと」
「太守は面妖なことを仰る」
呆れた素振りを隠さない鶴元を、胞全は舐める様に睨んだ。
「少なくとも、大封にはそのような噂が流れておりまするぞ。建宗陛下は主だった貴族の後ろ盾無きが故に、我らに厳しく臨むであろう……と。皇太后陛下もご心痛であらせられます」
「大封の近傍に兵を集めたは、それ故か?」
胞全は頭を振った。
「いやいや、ともに叛徒を鎮撫し、大桑の弥栄を祈らんがためでござる」
「勅令を以て卿らの兵にも叛徒の追討命令を出せ、と?」
「同時に大封への入城もお認め頂きたく……」
「忠誠を示すために兵を集めたはよいが、勅令で解散を命ぜられては同じことではないか?」
「その時は、ご退位を上奏申し上げるまでのこと」
「――――!」
剣の柄を握った曹瞬が、眼を剥いて進み出る。それを、丞相は手を上げて制した。
「曹瞬……よい」
胞全は怯えなかった。むしろ新たな発言を許されたと受け取ったのか、胞全の言葉は続いた。
「問題は乱そのものより乱が起こる大本であろう。その大本を除けば、全ては天意に沿うのではないかな?」
「何と……?」
鶴元の眼元が、より険しさを増した。
「我ら門閥貴族としては、真意としてはこの際建宗陛下のご退位を求めたい。言いにくいことではあるがな」
「…………」
やはりそれか……眼から怒りを消し、鶴元は門閥貴族の領袖を凝視する。怒る気にもなれなかった。叛乱の存在自体を建宗の失政へと転化し、その上で建宗体制打倒の足掛かりとする……淕家はそこまでして皇帝の座が欲しいのか、といった類の呆れを丞相は抱いていた。
「ほう……では皇帝たるに相応しいお方を新たに立てねばなりませぬな。王家の系塁は香南から北限に至るまで中原の各地に数多散っておりましょう。新帝の擁立には骨が折れることと存ずる」
「惚けるな! 老害めが!」
卓の脚を蹴り付け、胞全は声を荒げた。
「新帝は、王可明様に決しておろうが。それこそが天意であるぞ」
「然らば問わん。王可明様ご即位の暁には、如何にして香南の叛乱を収めるのか?」
鶴元の問いに、胞全は我が意を得たりとばかりに言った。
「私兵を南へ進め、叛徒を賊滅せん。あるいは……」
息を付き、胞全は続ける。
「叛乱軍の指導者は、王家の系塁と聞き申した。先ずはその指導者を大封に招じ入れ、叛徒の言い分を聞くのが肝要と存ずる。これは一時凌ぎの方策に非ず。進んで民の声を求め、大桑国の中興ひいては千年の盤石を築かんがための布石なり」
よく喋る……半ば感心し、半ば呆れるのと同時に、鶴元は香南を席巻している叛乱というものの正体を察した様に感じた。
鶴元は言った。
「……では同時に、叛徒の背後に在って彼らの跳梁跋扈を志操しておる者の素性も探る必要がありましょうな。帝位の委譲について議するのはそれからでも遅くは無いのではありませぬかな?」
「背後?……さて面妖なことを言われる。皇族も参加している以上、彼らもまた純真なる憂国の情から起ったのは必定」
「では建宗陛下のご退位など必要無い。臣鶴元、陛下の御前にて叛徒の領袖の真意を問い、それに天理あらば自刎し己が不明を陛下と民に詫びましょうぞ」
「埒が明かぬわ!」
胞全は席を蹴った。
「誰が何と言おうが我らは兵を入れますぞ鶴元どの。これは淕家だけではなく大桑国全体の問題でござる」
「申し上げまぁーす!」
禁営校尉が顔を蒼白にして廟議の間に駆け込んでくる。肩で息をしつつ鶴元の許に跪き、校尉は告げた。
「国都西門より大軍が入城を始めております!」
「――――!?」
憤怒に満ちた老人の眼が、末席を占める淕胞全を睨む。常人では到底正視し得ぬ眼光を前にしても、胞全はなお平然としてそれを睥睨していた。
兵の入城が始まっていた。
大封の西門三つを使い、兵の列は通りを闊歩する。何処から湧いて来たのか判らない軍隊、その行進を大封の住人は大通りの端に押し退けられたまま、狐に抓まれた様な表情と共に眺める。兵の列は途切れることなく続き、軍旗を掲げた騎馬の一群が見え始めるにつれ、純粋な興味の上に無関心をも取り込んだ傍観は、忽ち事態の不穏なるを察したが故のどよめきとなった――旗に縫い込まれた「淕」の一字を前にして。
「淕……?」
「淕って……淕家のことか?」
「官軍じゃない……!?」
「私兵だ!……淕家の軍だ!」
それは大桑国の建国以来、あり得ざる事であった。官兵ですら勅許無く大封の城内に武装して入ることは許されず、その勅許は建国以来一度として出された験しも無い。誰の目にも明らかな私兵の入城は大封に住まう民を動揺させ、中にはその場で恐慌を来たした者すらいる。ひとりの恐慌はその周辺の人々に伝播し、恐慌が大封に満ちる唯一の感情となるのに、一日の時間も必要とはしなかった――都が、戦場になるのではないかと。
天許城の一角――それも、城内で最も奥まった立地に在る後宮では、趣の異なる混乱が始まっていた。宮廷の中にあって外部と閉ざされた空間であるが故に、むしろ軍の入城は誇大に伝えられ、結果として後宮に残る人々に抗い難い恐怖を伝播させることとなったのである。
身を呈して守るべき皇后もいなければ、貴妃愛妾すらいないとあっては、女官と宦官の統制が崩れるのは容易であった。後宮の住人は己が身を守ることを全てにおいて優先し、そこに、禁営に属する一隊が貴族の私兵に同調し天許城の門を開けたという出所の知れぬ一報が拍車を掛ける形となった。ただしそれは事実であった。淕家の懐柔の手は、禁裏に仕える百官の内、欲に眼の眩んだ少なからぬ数の人間の心を、とうに掴んでいたわけである。
「――丞相を始め、主だった閣僚は皆殺された」
「――宝物庫に無頼の輩が押し入り、火を付けている」
「――皇帝陛下が自刎された!」
不穏な噂は、所在投げに後宮を歩く寧深にも聞こえ始めていた。噂が広がるのと機を同じくするように慌ただしく回廊を奔り、寧深と行き交い、あるいは追い越していく女官と宦官……日頃の後宮を支配する仕来りを無視するかのような無作法の蔓延する中で、明らかに宝物や装飾品を詰めた袋や箱を抱えている者も見受けられた。
彼女の場合、進んで後宮から逃れようと努めたわけでもなく、混乱に乗じて金品の奪取に及ぼうとしたわけでもない。私兵の大封入城が伝わるまで後宮の創設以来続く日課に従い、庭の手入れ作業に加わっていた寧深が乱の始まりに際して最初に為した事は、混乱が過ぎ去るまで身を潜める場所を確保することと、彼女の為し得る限りにおいて同年の女官をそこまで誘導することであった。
何より女官や宦官の離反が、ことが起こる前から始まっていた。朝廷と淕家をはじめとする門閥貴族との間に不穏な噂が広まり始めるや、無断で後宮を抜け出していく者、あるいは抜け出したまま戻って来ない者が現れ始めていたのである。それがいとも容易く行われるという点だけでも、新帝の立場がいかに弱いかを察せられるというものであった。
「…………?」
もはや完全に人影の消えた回廊の隅、そこに達したところで寧深は自分を注視する気配に気付いた。雑具を収める為の、隙間のように頼りなげに設けられた戸がひとつ、僅かに開かれたその隙間から自分を窺う視線に寧深は気付き、戸に手を掛けた。外に立ちはだかる形となった寧深に怯え、互いに抱き合い眼を逸らす女子が三人――――寧深よりも年下で、後宮に入って間もない女官見習いだ。余りの状況の急変を前に驚き、泣き出す少女たちを寧深は宥め、新しい隠れ場所へと連れて行く。その道すがら宮殿の陰に隠れた寧深は、後宮には踏み入れない筈の男の一団が剣を手に回廊を走るのを目にし、その時初めて心からの驚愕を覚えた。
「うそ……!」
少女たちに先に行くよう促す。彼らが此方に向かって来たら、身を呈してそれを妨げる積りであった。と同時に寧深は心の中で郷里の父母、大封の孫貴妃に別れを告げた。もう自分は、後宮から生きて出ることは無いかもしれない――覚悟をも交えて乱入者を窺う寧深の眼差しの先で、男共は剣を見せびらかすように振りつつ右往左往し、同時に毒付く声を寧深は聞く。
「建宗は何処だ!?」
「此処まで逃げている筈なのですが……」
建宗?……皇帝陛下を探している?――驚愕が困惑に転じ、寧深は視線を巡らせた。男共の占有する回廊の下、その陰の中に在る庶服姿の人影と、寧深の眼が合った。
「――――!」
「…………!?」
建宗だと察した。と同時に寧深は手を伸ばして石を掴み、それを燈籠に向かって投げた。生じた音が男たちの気を惹き、彼らは足早に寧深の視界の外から消えた。寧深の目論見通りだった。回廊の下に向かい寧深は手招きをする。駆け出してくる庶服の青年の顔は、明らかに建宗のそれであった。
「有難い。助かった」
「どうして此処に……」
建宗と寧深、ふたりは互いを凝視した。平時の謁見であれば十歩の距離にすら近付くことの無い筈の皇帝の、それも変わり果てた姿に寧深は眼を丸くしている。一方の建宗は困惑しつつ黙って寧深を見守り、それが寧深に今の彼女が為すべきことを自覚させた。
「こっちへ!」
「…………!?」
寧深が思わず伸ばした手が建宗の手を掴む。もはや誰もいない離宮まで走った時、背後に慌ただしさを寧深は覚えた。追手だと察し、建宗を宮内に誘う。ふたりは最も奥まった書庫に駆け込み、寧深はそこに経櫃を見出した。咄嗟の閃きが、寧深をして経櫃に溢れる書物の山に身を隠すよう建宗に促した。建宗の入った経櫃のみ蓋をせず、寧深は書庫の入口にあって追手の気配を窺う……初めに秩序の無い、荒々しい足音が聞こえ、次には鼻息の荒い男共の気配を書庫の至近にまで運んできた。寧深は書棚の陰に潜み、入口に向かい息を殺す。
「ここだ……ここにいるぞ」
男たちの一歩一歩が板張りの床を軋ませる。寧深が眼を凝らすその先で、帯剣した男たちが書庫を押し倒し、経櫃の蓋を開けて中身を乱雑に弄り始めた。その中で寧深の眼はただひとつ、蓋を開けたままの経櫃に注がれる……寧深の背後に歩み寄って来た影が、太い刀身を寧深の横顔に突き出した。
「…………!」
「女官か……」
男たちの視線が一度に寧深の方向に集中する。息を呑みつつも、寧深は刀を突き出した男に顔を上げ、柳眉を険しくした。
「ここは後宮ですよ」
「そんなことは関係ない。お前、皇帝を見なかったか?」
「わたしは女官、気安く陛下の顔を見られる身分ではないわ」
「もう一度言う。建宗は何処だ?」
「知りません……何も」
「隠しだてすると為にならんぞ」
突き出されたままの剣先が翻り、刀身の発する光が寧深の肌を照らす。そこに、経櫃を漁っていた男が声を上げた。
「駄目だ! 此処にはいない」
剣を向けた男が顎をしゃくった。荒らした書庫をそのままに足早に去っていく一団。蓋を開けたままにしておいた経櫃に手を付けた者はいなかった。男たちの気配が遠ざかるのを見計らい、寧深は唯一手つかずの経櫃を弄る。
「早く、ここから出て!」
「何故だ?」
有無も言わさず、寧深は建宗の襟を掴んだ。半ば無理矢理に立たせた建宗の身を、荒らされた別の経櫃に押し込める様にして隠す。
「動いては駄目」
寧深は建宗に囁くように強い、同時に一度遠ざかった気配が津波の迫る様に戻り、寧深に剣を向けた男が荒々しく踏み入って来た。先刻まで建宗が入っていた経櫃を庇う様にして立ち、寧深は男をきっと睨む。
「なんですか……?」
「その経櫃は、未だ調べて無かったな」
「退け」と、頑丈そうな顎をしゃくり男は寧深に下がるよう促した。寧深は眉を怒らせて男を睨む。業を煮やした男の手が寧深の襟に伸び、片腕の力だけで寧深を床に弾き飛ばした。
「やめて下さい!」
伏したまま叫ぶ寧深の前で、太い腕が経櫃の中身を弄る。弄る内に男の顔から表情が消え、次には明らかな不機嫌に席を譲っていた。舌打ち――寧深を一瞥し、男は配下に書庫を出るよう促した。男たちの気配と殺気が遠ざかり、完全に消えてしまうまで、寧深は倒れたまま動けなかった。
「…………?」
半身を擡げ、周囲の静寂を確かめるように見回す。辺りに自分たち以外の気配を感じられなくなったことに安堵しつつ、寧深は経櫃に歩み寄り、その前に座り込んだ。
「陛下? もう大丈夫でございますよ?」
「…………」
経櫃に詰め込まれた書物の山が崩れ、建宗の頭がせり出す様に出て寧深と正対する。拍子抜けした様な青年の顔を、寧深もまた安堵の表情で受け止める。両者の距離が近いことに気付き、臣下として慌てて距離を取ろうとした寧深を、建宗は止めた。
「そなたは……一体どのような魔法を使ったのだ?」
「魔法では御座いません!」反射的に平伏しつつ、寧深は応える。
クスリと笑う声を寧深は聞いた。櫃を脱する物音が聞こえ、次には皇帝の気配が寧深の間近にまで近付いて来て腰を下ろした。
「そなた……面を上げよ」
「…………」
頭を上げられなかった。危機を脱したという脱力の次に訪れた緊張のあまり、躯が思う通りにならないのを寧深は今更のように感じる。しかし掛けられた声が穏やかで、温かいのが寧深には判った。
「頼む。顔を見せてくれぬか?」
「…………」
皇帝の頼みに、震える躯を強いて押す様に頭を擡げる。動いた視線の先で寧深は驚き、声にならない声で叫んだ――慈母のように優しい建宗の眼差しを間近にして。
「そなた、名は何と申す?」
「ね……寧深にございます」
「寧深、礼を言うぞ。とは言っても今の予ではそなたには何もしてやれぬが……」
「陛下は、これからどうなさるお積りで御座いますか?」
皇帝の表情に、躊躇いが宿るのを寧深は見た。畏まったままの寧深の前で、皇帝は悄然と口を開いた。
「暫くこの後宮に潜み、丞相の助けを待つ積りだ」
断言ではあっても、皇帝の言葉には躊躇いがあった。定まらない未来に対する躊躇いだと、寧深は感じた。その瞬間、大粒の涙が寧深の目許から溢れて落ち、それが建宗を戸惑わせた。
「ああ……そなたには怖い思いをさせてしまったな……すまぬ」
建宗は庶服の懐から手拭いを寧深に差し出した。思わぬ厚意に戸惑い、かつ感極まった寧深は、今度は声を上げて泣き出してしまう。建宗はもう何も言わず、泣きじゃくる寧深に手拭いを握らせた――彼女の手を、抱く様に握り締めて。
丞相 李鶴元は、淕胞全の随員に取り巻かれ天許城の外に通じる門に向かい歩いていた。このまま歩けば彼は天許城の外に出、当面は彼の邸に押し込められたまま参内することはないであろう。そこに参内の命が下れば、恐らくはその時が彼の人生にとって最後の参内となる筈であった。その時玉座に在って、鶴元の参内と処刑を命じる者はといえば――
「――残念だ。誠に残念だよ鶴元どの」
と、鶴元の隣を歩きつつ淕胞全が言った。宮廷抗争の敗者の常として、本来ならば鶴元の後ろに手が回り、身体の自由を奪われているところを、まるで二人並んで散歩でもしている様に城外へと歩いているのは、胞全の敗者に対する慈悲というよりも彼個人の尊大な性格の為せる業であろう。
「鶴元どの、言うても詮無いことと存ずるが、新帝陛下にお仕えする積りは無いのかな? 皇太后陛下にはわしが取次いでもよいが……」
「王可明どのは皇帝の器に非ず」
「…………!」
即座に、しかもはっきりと言われ、胞全は鋭い目を見開き傍らの鶴元を睨んだ。眼前の老人を縛り、罪人宜しく引き据えなかったことを、胞全は心から後悔した。
「……それは、建宗陛下も同様であろう。香南の乱を収めることも叶わず、我ら貴族との融和も御計りになられぬ……愚鈍、不明との後世の誹りは免れませぬぞ?」
「君側に在って皇室を軽んじ、社謖を私せんとする方々の発するべきお言葉とは思えませぬな」
「いちいち癇に障る物言い……この場で首を刎ねてもよいのだぞ」
眼前に天許城の正門が迫っていた。明極殿とほぼ直線で繋がる、ただ塊偉さのみ印象に残る正門。大桑初期にはこの門の上階より国事犯を突き落すという、いわば処刑台のような役割をも果たしていたというが、淕家が政権を握った暁には、それもまた復活を遂げるかもしれない……門に向かい歩く内、それまで開かれたままであった門扉が前触れも無く動き出し、鶴元と胞全の前途を閉ざし始めた。
「――――!?」
動揺を隠せない胞全と彼の随身らを他所に、鶴元は平然として門の上楼を見上げている。門扉が完全に閉じるのと同時に城壁から身を乗り出し、胞全に向かい一斉に矢を番える禁営の兵が多数――彼らは皆、城内の同調者により武装解除されたのではなかったのか!?……愕然をない交ぜにした胞全の疑念は、上楼の陰から現れた曹瞬の姿によりいとも容易く氷解した。
「逆賊淕胞全、降伏しろ!」
「…………!」
少年の様に若く、だが凛とした声で曹瞬は告げた。同時に、四方から現れた禁営の兵が胞全らを取り囲み、彼らに向かい長槍を突き出した。彼らが内通者を排除した上で胞全らの行く先を予め想定し、待ち伏せていたことはこの瞬間に明らかなものとなる。
「鶴元どのにおかれては、かねてより事あるを察し手を打っていたようだ。ぬかったわ……!」
言うが早いが自ら剣を引き抜き、胞全は鶴元の喉元に剣を充てた。
「鶴元どの、我らを城の外に出すよう、曹瞬に命じてもらえまいか」
「それは出来ませぬな。問題はもはや卿が城を出て逆賊になるか、それともこの場でわしを殺し、曹瞬に誅されて逆賊になるかの二つのみであるぞ」
「…………」
対峙――――変心を示さぬ鶴元を睨む胞全の顔から急激に余裕が消え、胞全は舌打ちした。彼が配下に目配せして剣を捨てさせるのを見計らい、曹瞬は上楼から地上に掛け降りる。拘束を解かれて進み出た鶴元の前で息を弾ませたまま、曹瞬は上目遣いに言った。
「丞相、明極殿は許より後宮に闖入したる賊は全て討ち果たしました」
「陛下は……?」
「無事の由にございます」
「そうか……巧くお引き退きあそばされたようだな」
「何でも女官がひとり、手引き申し上げたそうですが」
「女官……?」
「先帝崩御のみきり、後宮に残された者のひとりです」
鶴元は納得したように頷いた。
「ふむ……そろそろ彼女らの去就も決めねばなるまいな。これから起こることに、関わりの無い多くを巻き込むわけにはいかぬ」
「はっ……」
話を交わす彼らの眼前を、禁営の兵に手を縛られた胞全が通る。なお平静なその顔――虚勢であったとしても、天許城に踏み入った当初と同じ傲然とした態度はなお変わらなかった。
曹瞬が聞いた。
「今一度お伺いいたしますが、胞全は誅さぬのですか?」
「今の我らには戦える一兵もない。だが胞全ひとりの命は天許城を守るに足る一軍に匹敵しよう」
「御意のままに」
鶴元の真意は、明らかな人質であった。貴族軍の領袖たる胞全ひとりを質として時を稼ぎ、その間建宗を守るための術全てを注ぐ。残余の兵に城の防備を命じ、ふたりは明極殿に向かい元来た道を歩き始めた。外から漂ってきていた戦火の匂いが、いつの間にか完全に消え失せていた。
朝方より国都の全域に渦巻いていた闘志、あるいは殺気が、太陽が中天を過ぎるのを境として潮が退く様に遠ざかるのを感じる。馬上、それも混乱の源たる天許城に程近い、上級官人の居住区にあってもそうと感じられるのだから、刑部尚書主筆たる魯会信には混迷の極に達した大桑の政道を、その蚊帳の外に置かれながらにして実感することが出来た。
刑部尚書を代行していた父 魯林正は、息子たる彼とともに登朝を果たしたその日、明極殿に赴いたまま結局は戻らなかった。その間、武装した者多数が庁舎内に踏み入り、一切の職務停止を告げた。勅命によるものでなければ国政の最高責任者である丞相の命によるものではない。以後は半ば待機状態のまま、会信は彼よりずっと年上の部下と共に時を費やした。皇帝の坐する明極殿を舞台に変事が起こり、それが進行し続けているのは明らかであった。
庁舎に乱入した男たちが占拠を成し遂げてから四時も経たぬうちに禁営の兵に制圧され、変事が丞相 李鶴元の下で収拾されたことが周知されても、居合わせた官人たちの胸中は晴れなかった。これから先、同じようなことが大封を舞台に幾度起きるか判らない。ややもすれば、大封に身を置いている限り自身の生命すら危うくなるかもしれない。
もっとも、変事の兆候は建宗皇帝が即位し、淕家との関係が危ぶまれ始めた頃から起こっていた。それまで冗官に甘んじていた者も含め少なからぬ数の官人が官を辞し、彼らの故郷に戻って行ったのだ。単に帰郷するまでなら未だしも、淕家に仕官を求める者が多いとあっては、大桑建国以来皇帝と貴族、そして官人層の三者により構築されてきた均衡に、修復し様の無い罅が入り始めていることを察した者は、当事者たちの中にも決して少なくは無かったのであった。彼らは明らかに、ことをあるを予期し身の安全の保障を図ったのである。
馬が官人の居住区と庶民の居住区とを結ぶ大路に差し掛かった時、魯会信は国都の外に向かい退いていく軍勢を目にする機会を得た。開かれた国都の門に向かい整然と歩いていく淕家の私兵たち。変事直後の風聞によれば、私兵を束ねる立場にある淕胞全が配下を引き連れて天許城の制圧を図ったところ、李鶴元率いる禁営に妨げられ、淕胞全も逆徒として囚われの身になったという。束ねる者を失った私兵たちは質に囚われた淕胞全の命じるがまま、国都の外へと叩き出されたかたちとなった。当主が囚われの身であり続ける限り、淕家の軍は一歩たりとも大封に踏み込むことが叶わなくなったわけだが、淕家も危ない橋を渡り終えた以上、そのような対峙が何時までも長続きするわけがない。遠からず大封は混乱の極に襲われることになるだろう。
「一体どうなるんだろうなぁ……」
大路の両端に固まる群衆のように、恐れに満ちた眼差しを遠ざかりゆく軍勢に注ぎつつ馬丁が言った。会信には聞かなかった。会信と話をしたくなかったというより、彼に聞いてみたところで返答なぞしてもらえないことを、馬丁は彼自身の経験から知っていたのである。身分低き者、学の拙い者とは、命令をするとき以外決して口を交わすことが無い――それが、彼の他魯家に仕える者の知る魯会信であった。
往来に一切の障害が見えないことを確かめ、馬は再び歩き始める。目指す先は会信の邸では無く、彼の父 魯林正の邸……つまりは会信の実家であった。
「会信、父上に拝謁いたします」
会信が拝礼した先で、彼の父 魯林正は居間に在って横臥したまま息子の拝礼を迎えた。この日一日の内にあっという間に蓄積した心身への負担が、初老をとうに超えた彼をして休養を必要とさせたためである。そして彼が出仕することあたわぬ数日の内に、古からの国都大封の運命は決するであろう。
「会信か……よう帰って来た」
横臥しつつ、林正は息子に傍に座るように勧めた。二十代半ばを過ぎたばかりという若年に似合わない白髪混じりの頭に、端正な顔の持ち主たる息子。だが端正とは言っても、他者から見ればその顔立ちには整っているという以外には用いるべき表現が見つからなかった。言い換えれば彼は美男子だが、その容貌には個性が乏しかったのだ。それが魯会信という人物の特徴であった。
勧められるがままに座り、会信はそこでまた拝礼する。
「先立つ報せ無き不躾なる来訪、お許しくださいませ」
「よい……父はお前のことが心配であったのだ。下種共の蛮行に晒されでもしなかったかと」
そこまで言って、魯林正は息子に眼を細めた。それは明らかに息子を思う父親の目であった。
「実は父上に諮りたき議があり、参りました」
「聞こうか……」
「魯家のこれからのことについてで御座います」
「ん……?」
そこまで話が進んだところで、息子の眼差しが厳しさを増していることに、父は改めて気付いた。横臥から身を起こし、林正は下座の会信に改めて向き直る。
「会信、話せ。苦しゅうないぞ」
「建宗陛下は、西玄への遷都をお決めあそばしました」
「なんと……!」
驚愕するというよりもむしろ淡々として林正は言う。予期せぬことというよりもその逆であった。権力基盤の脆弱な現体制下では大いにあり得ることだ。
「近い内に臣下にも西玄への移住を命ずる勅が下りましょう。建宗陛下が引き退いた後の大封は……」
「再び淕家の軍が進駐してくるということか……」
「おそらくは、新帝を擁し奉りつつ……」
「新帝」という単語を強調しつつ会信は言った。この場合の「新帝」が誰か、ここでは改めて述べるまでも無いことだ。
「それで会信、そなたはどうすると?」
「構えて申し上げます……私は建宗陛下に従い、西玄に赴きます。父上は大封に留まり、新帝にお仕えなさいませ」
「会信……!」
声を荒げつつも、林正は息子の真意を理解した。口を開こうとした父を、息子は手を上げて制する。
「父上は学者として建宗陛下と新帝、いずれの陣営にも知己が御座います。新帝の陣営に馳せ参じたとしても粗略に遇されることはありますまい。私は父上の名代として西玄に参ります。新帝の陣営が勝利を得た暁には、私を引き立ててくださりませ。さすればいずれの陣営が勝っても魯家は残ります」
「そなたの言うことは正しい」
林正は言ったが、それでも語尾の端に躊躇いが籠るのを隠すことはできなかった。それがまた林正に新たな言葉を紡がせる。
「春醍がおればのう……」
「あれはもう魯家の人間ではございません」
静かだが、はっきりとした断定口調で会信は言った。それが再び林正を驚かせる。座から腰を浮かせ、会信は父に詰め寄るように言った。
「父上……宜しいですね?」
「…………」
顔を寄せて来た息子を前に、父は困惑を隠せないでいた。しかし決断に要する時間が決して潤沢では無いことも、父は知っていた。
大桑二四一年の晩秋。領袖たる淕胞全を捕らわれた淕家軍の先鋒は大封から一時退き、期を同じくして新帝建宗は大封の南東は西玄への遷都を丞相 李鶴元に命じる。命じられた側の意思によるものとはいえ、それが自身を守る何よりの策であることを、当の建宗が既に誰よりも思い知らされていた。同時に李鶴元は勅命を以て晋安近傍の群より兵を集め、これと並行して兵を乞うための使者を送る。
それは、北限軍に向けた使者であった。




