第一夜
さて、娘の沙理弥を布団の中でじっとさせておく為、あるいは情操教育の一環として、沙良はあまり慣れているわけでもないけれども、うろ覚えか即興で何か物語を話して聞かせることになりました。
「そういえば、沙理弥にはアラビアン・ナイトって話したことあったかしら?」
沙良がふと思いついて訊いてみる。先程見た本棚に、その系統の絵本は並んでいないのだ。
その辺りがカバーされていなければ、うろ覚えでもある程度の物語を聞かせる事ができるだろう。
「アラビアン・ナイト? って、どんな話なの?」
改めて尋ねられて沙良はふと考えてみた。そう言われてみるとどう答えたものだろう?
「んーと、千夜一夜物語って言ってアラブのお話なんだけども」
「……石油で一攫千金を目指す話?」
「誰だ、あんたにそんな事吹き込んでるのは」
最近特に沙理弥の語彙が増えてきたのを母親としてうれしく思っているのだが、たまに妙な言葉もどこからか仕入れてくるようになった。
大体はテレビからか同じクラスの友達からそういった言葉や知識を手に入れてくるようだが、自分の頃のことも考えればそれは自然な事だろうと思う。
ただ、あまり人前で使うべきでない言葉を意味が分からないまま使うような事は、なんとか親としても止めたかった。
その場で一時的に恥ずかしく思うのは親だけれども、数年たってから思い出して自分の無知さ加減が恥ずかしくて身をよじるような思いをするのは本人だ。まぁ、そういう経験は誰にでもあるものなのだけれども。
我が子に関してのそういう事ならば、できれば避けさせてやりたい様な、微笑ましく見守ってやりたいような、複雑な親心があったりもした。
「んー、前にパパが、なんかけーきのいい話ないんかーって電話で話してた時に、言ってた。アラブとかなんとか」
沙良の脳裏に『娘の教育の為の、悟史関西気質矯正計画』がにわかに浮かんだが、さすがに実行出来たとしても、悟史がキレイさっぱりなくなってしまいそうなので諦めた。
「えーと、千夜一夜って言うのは千と一夜、つまり千一夜って言う意味の言葉で……。つまり、千日間夜の間にお話しするって言う物語なの」
調べる事ができれば詳細な意味も教えてやれたのだが、とっさに出るのはうろ覚えな言葉だけだった。
「え? そんなに時間の掛かるお話なの? もっと短く言ったらどんなストーリー?」
言われて、沙良は頭の中ですばやく思い出せる範囲で、そのあらすじの削れる部分を取り払ってみた。
「……毎晩女の人を殺す王様を、止めようとした女性の話?」
とんだサスペンスと化していた。
「昨今の凶悪事件の原因て、やっぱ想像以上に親の影響だね……」
「ん? 何か言った?」
あまりに刺激的なあらすじを話したので、沙理弥にダメだしを受けてしまった。
どうしたものか考えている内に、娘の漏らした一言を聞き逃したようだった。
「えっ、うーうん、なんでも。それよりママ、そのお話ってもしかして船乗りのシンドバットがいたり、ランプの精霊が出てきて魂と引き換えに何でも願いをかなえてくれる契約を結んだり、『ひらけゴマ』ってパスがばれてしまって口座のお金を全て引き落とされたりするお話?」
「なんだか少し違う気もするんだけど、大体そういう話かしら。やっぱり聞いたことある?」
布団の中で沙理弥が頷いた。
考えてみれば幼稚園でも絵本は読んでいたはずなのだ。
家に無くとも、その辺りの有名なところはもう知っていて当然の話だった。
結局振り出しに戻ってしまい、何の話をしたものか考える事になった。
そうこうするうちに時計の針はもう九時四十分を回りつつある。
ふと、沙良の頭の中に「実は私がこうして話してるから沙理弥は寝れないんじゃないか」という見も蓋も無い真理が思い浮かんだ。
だがそこはそれ、眠れないと言う娘を一人暗闇に置いておくのが忍びない、という建前もあるが、なにより母親の立場としてここで「あら、もう寝ちゃったの?」とか言って微笑みながら掛け布団を掛け直したりしてみたいではないか。
目的と手段が見失われる中で、無常にも玄関のチャイムが鳴らされる。
この時間に鳴らされたチャイムであれば、ほぼ間違いなく夫の悟史が帰ってきたことを示す。
事実上のタイムアップとなってしまった。
沙良は何に対してか良く分からない敗北感を感じながらゆっくりと立ち上がると、
「明日……、そう明日の夜こそは、あなたを私の物語で眠らせてあげるわ。それまで、せいぜい良い夢を見ることね」
なんだか芝居掛かった台詞を吐きながら、沙理弥が布団から出していた手を掛け布団の中に入れるよう促した。
「うん、お休み、ママ」
なんかいいノリで部屋を出て行く沙良を見送りながら、明日の午前中の授業は夜に備えて寝ておけるな、と計画を立ててみる娘でした。
ここまで読んで頂いて有難うございます。
恐らく前の話に目を通されてこの話を読まれているかと思います。
よろしければまた、次の機会にもこんな馬鹿な話にお付き合い下されば、何気に励みとなりますのでよろしくお願い致します。