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霞草  作者: 椋原紺
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 腫れぼったい目を触りながら、真歩はマリアの事が気に掛かっていた。教壇に立つ先生の声が耳を通らず、鉛筆を握ることさえも忘れていた。ただぼんやりと、斜め前方に座る、横尾マリアの背中を見つめていた。

 真歩が泣き止んで平静を取り戻した頃には、他の生徒達が教室に入り始めていた。花瓶の水は既に取り替えられており、マリアの仕業だと勘づいた。彼女を探すと、もうクラスメイトの誰かに捕まっていて、忙しそうにお喋りして笑い合っていた。それを見ると、真歩は安心だか恥ずかしいのだか、はっきりしない感覚に襲われた。以降まともに話すこともなく、日直の仕事はマリアに任せっきりだった。

「真歩ちゃん」

 突飛な声がして、心臓が止まるかと真歩は焦った。気がつけば、陽が既に傾いており、教室中が暖色に染まっていた。顔を上げると、横尾マリアが黒板を背にぽつりと立っている他、教室には誰も見当たらない。どうやら、既に放課後らしい。

「他の人は?」

「もう授業終わっちゃったよ」

「ああ。そっか・・・・・・」

 会話が途切れ、沈黙が二人を包む。何か言わないといけない。そう思い悩むのだが、妙案は浮かんできそうにもなかった。膝に目をやり、真歩はなんとなく帰る準備をしている(正確にはしていないのだが)と、マリアが足音をたてて近寄ってくるのが分かった。その度、強い風がびゅうびゅう心の中で吹き荒れるのを悟られないよう、じっと息を飲んだ。

「今朝はその・・・・・・ごめんなさい」

 体内に稲妻が駆け巡ったような、真歩はそんな気分になった。驚いてマリアを見ると、彼女はいつになく気難しそうな顔をしている。口をへの字に曲げ、ちらちらと真歩の様子を窺っているのだ。当人は反射的に、手をパタパタと振って遠慮がちに綴った。

「私の方こそ・・・・・・号令とか、日誌とか、全部任せっきりになっちゃって」

「うん・・・・・・そうだね」

 マリアはぎこちなくそう答えようとした。が、言葉が口を離れるとすぐ、ぶんぶん首を振った。

「いや、そうじゃなくて!」

 苛立った声を上げ、いきなり真歩の肩に手を乗せた。ぐっと力を入れて捕まれたせいか、真歩はたじろぐ暇もなく、マリアの視線に釘付けとなった。気を抜けば、青い瞳の奥深くに頭のてっぺんから足先までずるずる吸い込まれていく気がした。

「マリア、あなたのことが嫌いです」

 真歩は口をぽかんと開けたきり、何も言えなかった。マリアは絶え間なく、しどろもどろになりながら続けた。

「嫌い・・・・・・と言うと、何か間違っているような気もするけど。でも、好きじゃないです。だって、まともに目を合わせてくれないし、話してもくれませんし。他のみんなは私を好きになってくれたのに、真歩ちゃんだけ私を受け入れてもらえてないみたいで・・・・・・ずっと、気になってました。今朝のあれは、真歩ちゃんへのちょっとした仕返しです・・・・・・ごめんなさい」

 低く頭を下げるマリアを、真歩は半ば放心状態で見つめていた。彼女が何を言っているのか、少し掴み損ねていた。「それって、どういう事」と尋ねようとするのを一切遮断する勢いで、マリアは頭を上げたかと思うと、一気に真歩との距離を詰めた。

「で、でも、真歩ちゃんが悪いんですよ!」

 真歩は何も言えず佇んだ。胸の奥で何かが、きゅう、と苦しそうに鳴いているのを聞いた気がした。マリアの顔は涙で溢れかえっていて、くしゃくしゃになっていたからだ。

「本当は、マリア、怖かったんです。マリアは、避けられてるんじゃないかって。嫌われてるんじゃないかって。ずっと不安で・・・・・・どうなんですか。私のこと、嫌いなんでしょ」

 マリアはこう言ったきり、大声で泣き始めた。生徒の気配もしない廊下にも、彼女の声が何重にも響き渡った。

 真歩は困惑した。横尾マリアの本来の姿――――飛び抜けて明るく、にこにこと笑顔を振りまいている――――あの姿を知っていたから、余計に堪えた。悲壮感を漂わせて号泣するマリアは、脆くて弱々しく儚い。真歩の目には、まるで別人であるように、そればかりか、今朝の自分自身を見ているようにも映ったのだ。

 すると同時に、今までのマリアへ抱いていた重苦しい罪の足枷が、かちっと音を立てて外れた気がした。マリアもまた、状況は違えど、自分に対して漠然とした悩みを抱き、胸に溜め込んでいたのだ。体が粛然と軽くなった、ある種の解放感に包まれた。

「じゃあ、私と約束してくれる」

 自然と口から言葉が漏れていた。マリアはしゃっくりをするみたく、数度喉を震わせ、声を絞り出した。

「何を・・・・・・ですか?」

「私はあなたを嫌いにならない。だから、あなたも私を嫌いにならないで」

 マリアは鼻をひくつかせたかと思うと、喘ぐように笑った。「何それ。かっこつけみたい」

 とめどなく流れる涙を拭きながら、真歩に微笑みかけた。

「わかった。約束しよう、真歩」

 今でも真歩は不思議に思うことがある。なぜ、マリアとあのような約束をしたのだろうかと。

 一つに、罪の輪廻から抜け出した解放感から来たものだと推測できた。世界の見え方ががらりと変わったみたいに、散々避けてきた彼女の希望を叶えようとした。だとするとまた、昨今までの罪滅ぼしという意味合いも出てくる。

 もう一つに、自分がマリアを嫌っている疑惑を晴らしたかったのだとも考えられた。先刻の通り、真歩はマリアの事が嫌いではなかった。無論、多少なりとも悪意が潜んでいたかもしれない。が、最終的には憎みきれず、もがき苦しんだのだ。その上、あらぬ疑いを掛けられるとなると、二重の苦しみだった。約束をすることで、口先ではなく誠実に証明したかったのだ。

 ただ、一方的では味気ない。子供だったからなのか、自分だけが悪いとなるのは、真歩としては許せなかった。だから、対価としてマリアも私を嫌いにならないでと頼んだのだ。 

 しかし、真歩はどれとも釈然としなかった。そんな堅苦しい事ではなく、簡単なことなのではないかと、漠然と、しかし得体の知れない確信を持っていた。

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