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霞草  作者: 椋原紺
3/12

 物心がついて初めて、背中越しにまで髪を伸ばしていた頃。真歩に日直の当番が回ってきた。授業の号令や教室に活けてある花の水やり、日誌の書留などが日直の主な仕事だった。日替わりで二人が指名されることになっていたのだが、この時の真歩の相棒が、横尾マリアだったのだ。

 マリアはすっかり学校に馴染み、最初から学校にいたような雰囲気を纏っていた。一方、真歩は男子に距離を置き、女子とも相変わらず群れない、油に浮いた水のような、ふわふわと浮ついた存在になっていた。

 日直の最初の仕事は、教室に活けてある花への水やりだった。それも担任の意向で、日直の二人はできるだけ一番早く教室につき、誰も見ていない間に仕事を終えることになっていた。おそらく、影で努力できる人間になりなさいという教えだったはずだが、真歩ら生徒達にとっては良い迷惑だった。

 眠い目を擦りながら、真歩は朝陽を浴びる学校に到着した。五月になっていたとはいえ、早朝はまだまだ肌寒い。赤い鼻をひくつかせながら、上履きに履き替えて教室へと向かった。生徒のいない廊下は、いつもとは異質に感じられた。自分の足音が淡々と廊下に反響し、コンクリートの壁や天井にしみこんで消えていく。異世界に迷い込んだ不思議な感じがして、真歩は胸が躍った。

 しかし、同じ日直の横尾マリアが少しでも頭を過ぎれば、その高揚感もまた足音と共に消えていった。一点の汚れもない、純粋無垢なマリアの笑顔が脳裏にちらつく度、彼女が今日学校を休んでいることを真歩は切に願った。





 頭の中では、真歩は幾度となくマリアを糾弾に晒してきたのだが、実際にはマリアを虐めるようなことはなかった。それどころか、話しかけることも顔を見ることさえもなかった。マリアへの罪悪感が、いつしか真歩の足枷となっていたのだ。

 最初は蔑むべき対象だった。自分が今、この中途半端な立ち位置にいるのはマリアのせいだと、真歩は疑いもなく決めつけた。しかし、心の中で恨み嫉みを積もらせていけばいくほどほど、砂時計がひっくり返されたみたく、真歩の心は一向に満たされないどころか、不快になっていく。

 それもそうだ。冷静に考えれば、マリアが真歩に対して直接何かを働きかけたわけではない。間接的で、もっと言えば無干渉かもしれない。そんな無実な存在に、心の中だけとはいえ、自分は理不尽な罵詈雑言を吐き連ねていたのだ。真歩の良心は、罪の意識を感じずには居られなかった。

 だが、かといって今更止めることは出来ない。もしマリアの事を肯定してしまえば、自分はどうなる。なんと惨めで哀れで、救いようのない人間なのだろう。押しつぶされそうになる自我を、すんでの所で繋ぎ止めるには、彼女を非難し続けることが唯一の手段だったのだ。

 どうしようもないジレンマを抱え、真歩はどんどんふさぎ込んでいった。もう誰とも関わらなければ、これ以上苦しむことはないのではないかと考えた。殊に、横尾マリアからは離れるよう努めていた。しかし、日直になったからには、そうも言っていられなくなったのだ。





 真歩は教室に入る前、マリアがいないことを願いつつ、引き戸を開けた。幸か不幸か――――教室はもぬけの殻だった。息を潜め、二三度教室を見回してから、やっと真歩は胸をなで下ろした。この間にさっさと水やりを済ませてしまおうと、真歩が作業に取りかかろうとした時、

「おっはよー!」

 背後から大きな声がした。同時に、両脇から誰かの腕が伸びてきてあっという間に抱きしめられ、羽交い締めのようなの体勢になった。真歩は思わず、きゃっ、と声を上げてしまった。

「真歩ちゃんって、そんな声も出るんですね~」

 呑気な調子で、背後にいる誰かが笑った。その笑い方が、真歩には心当たりがあった。首を逸らすと、真歩の思った通り、横尾マリアの顔があった。にぃと頬を緩ませ、前歯がちらりと見える姿は、悪戯好きの子供そのものだった。

「は、離してって!」

「嫌です。絶対離しませんよー」

 真歩はもう訳が分からなくなって、夢中でマリアから逃れようと藻掻いた。マリアもまた、腕に力を入れて抵抗する。熾烈な攻防の中、真歩がマリアの足に躓き、二人は拠り所を失って床に投げ出された。

「いった・・・・・・」

 気がつくと、真歩はマリアを下敷きにして倒れていた。「ご、ごめん。大丈夫だった」と、咄嗟に声を掛ける。しかし、マリアは何も反応しない。打ち所が悪かったのかと最悪な状況が頭を過ぎり、「ねぇ起きて! 死んだらダメだよ!」と、マリアの肩をぶんぶん揺らし、狼狽した。が、真歩の願いも虚しく、彼女は人形のように力なく項垂れていた。これは自分への罪なのだろうか。そう思えば、ポロポロと涙がこぼれ、色白なマリアの頬へとぽつぽつ降っていく。

「ごめん・・・・・・ごめんなさい・・・・・・私が、私のせいで」

 ひくひくっと喉の奥が震え、やがて真歩は洪水のように泣き出した。ちょっと驚かせてやるつもりだったマリアが既に起き上がり、予期せぬ事態にあたふたしている事に気づくのは、時間がかかった。

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